1. Break down ―降伏― 君はお嬢の下僕
::: 1 ::: break bounds...境界外に出る
目が見えている、という時点で彼にはそれが現実でないと分かっていた。何せ三ヶ月前から、きっぱり視力ゼロなのだ。だから何一つない真っ暗闇に光が現れても、ああこりゃ夢だわ――と醒めた思いで眺めているだけだった。
彼はやんごとなき事情でやけっぱちになっていた。ふと、その光があの世からの迎えならいいぞと思う。そして来るなら来い、ただし可愛いねーちゃんじゃなけりゃ当たるまでチェンジしてやる……などとバチ当たりなことを考える。
しかし本人には、バチ当たりなんて感覚はなかった。ろくろく人生を楽しむこともできやしなかった。最期くらいおいしい思いして何が悪い、と胸張って待ち構えている。光もそんな彼の胸中を見透かしたように、望むところだとばかりに真っ直ぐ向かってくる。
「よーしいい子だ、おいで」
彼はしゃべれることに気づいた。非現実世界とはなんと素晴らしいものなのか。彼の声帯は音を作り出すことができないのに、ここではそんな障害など軽くひとっとびだ。
光は近づくにつれ、数も色も増え始めた。彼はあの世からの迎え説を疑い始める。こんなきらびやかな大集団に迎えを頼めるほど、人徳を積んだ覚えも暇もなかった。
となるとあれは何なんだ――彼はまだ輪郭のはっきりしない光源に、じっと目を凝らしてみる。
「クリスマス・ツリー?」
しかし二等辺三角形ではなく、長方形をしている。
「ネオン?」
しかし野太いエンジン音が聞こえている。
「ヤンキートラック?」
しかしやたらとピンクが多い。
「バ……バス?」
四本指のネズミやアヒルが愛想と尻を振りまく某テーマパークのパレードも、これほどビカビカしちゃいない。だがラスベガスになら、こんな電飾もアリかもしれない。彼はテーマパークとラスベガスの違いは何かと考えてみて、下品さだと思い当たった。
ようやく謎の光の正体が全貌が見えてきた。ピンクとレモンイエローとハートで埋め尽くされた、観光バス。少女趣味というよりグロテスクという形容が当たっている。
「お迎えもサービス業の時代か? 俺の人生は、この安っぽい悪趣味なバスに相乗りで締めくくられるのがふさわしいってのか?」
それはあまりに非道というものではなかろうか。何しろ彼の人生、いいことなどひとつもなかったのだ。彼はどんどんと迫り来る巨大にして鮮やかな光の塊を、怒りとともににらみあげていた。
見上げていて、そして――轢かれた。
「あれー? 確かにこの辺なのにい。誰もいなーい」
素っ頓狂な少女の声がした。
「カイ。素直にザンゲするなら、あたしをイタズラ目的で連れ出したこと許してあげる」
「違います、イタズラなんてしてません! ほら、ちゃんとここで誰か救援信号を発信してます。さっきよりずっとレベル高いですよ」
まだまだ声変わりしそうにない、高くて細い少年の声もする。
「いないもんはいなーい」
「……アンタに踏まれてる」
ん? と驚いた風でもなくのんびり答えてようやく、十センチ――彼には十メートルにも見えたが――はあろうかというピンクのピンヒールがどいた。
「うわっ、ちっさ。豆粒みたい。踏まれてとーぜん」
「轢かれてもとーぜん、か?」
「んもう。いないってことにして、カイにお仕置きでウサギの着ぐるみかぶってもらおうと思ったのに。何でしゃべるのよう」
「着るだけならまだしも、お嬢様はそのあとワニを大解放する気ですよね?」
どうやらあの世には、誠意とか反省とか詫びという概念がないらしい。そのくせ着ぐるみはあるらしい、と彼は脱力系精神疲労の中で判断した。
彼には起き上がる術がない。四肢はあるが機能していなかった。そもそも立ち上がる気力もなかった。そんな彼に、死にかけた虫を観察する子猫ような、あどけない視線が降り注ぐ。
「おめでとー。夢じゃなかったら、君はもう死んでるよん」
まるでひとごと。不注意をごまかそうとひきつり笑いしながら言われる方がよっぽどマシな、良かったなどと爪の先ほども思ってなさげな淡白さだ。
「……夢の中の登場人物に夢だって断言されんの、初めて」
「よく言われるー」
彼の中であの世からの迎えというものは、足許に雲をたなびかせ、後光を背負っているもののはずだった。穏やかにほほ笑んで、さぁいらっしゃいと両手広げて出迎えてくれるもののはずだった。
あれは迷信か。実際はこんな脳の足りないガキをよこすのか。人生の最期がこれでいいもんか、夢にしたってこいつはひどすぎる、と気力だけ起き上がらせる。
「チェンジ。乗られんのは楽でいいけど、あいにく踏まれる趣味はねーの」
ヒールの音が素直にバスへと去る。やれやれ、と一息ついた彼の耳へ、裏切るように能天気な少女の声が響いてきた。
「カイ、おしぼりパス。あ、割箸も」
「お嬢様、割箸って……あれでも一応人間なんですから。ボクがやります」
ぱたぱた軽い足音が彼に近づく。さっき、イタズラしようとしたとか少女に疑いをかけられてた少年だ。口調は優しげだがさりげなく『あれ』呼ばわりされていることに、彼は密かに憤慨する。
「チェンジで男に代わる気か。俺はショタじゃない。ホモでもない。そんな無体ありかっ」
「失礼しまーす」
「おい少年、ナニする気なの……お?」
一瞬ののち、使い古しの雑巾並にズダボロな彼の体は、どこだかの少年の指によっておしぼりに軟着陸した。
この時にもう、彼の運命は決まっていたのかもしれない。悲惨な現実から逃れて迷い込んだ世界でさらにめちゃくちゃな扱いを受ける、これまた哀愁な運命が。
::: 2 ::: break out...突然起こる
彼はおしぼりごとバスの最前席に降ろされた。ウェットティッシュらしきもので顔を拭かれる。轢かれて踏まれてボンヤリしていた視界に、ようやく人の姿が映り始めた。
「でかっ」
「カイ、天誅」
名を呼ばれた少年の指が、瞬時にぐりぐりと彼をひねり潰す。
「いや胸もだが、俺はえをごぼほいっへふぶぼ」
「お嬢様、目のことを言ったつもりだそうです」
「あっそう。それならそうと言えばいいのにい」
言う暇を与えなかったのは誰だと反論する力もなく、彼は再びボロモップのように横たわっていた。
「早く目覚めようよ俺……」
「で、何を困ってんの君は」
彼は、おやっと思いつつ顔を上げる。少女の声には一転して、優しさと親切心が溢れていたからだ。彼はようやくまともに少女と向き合った。
ピンクのスパンコールのピンヒールに突っ込まれた、驚くほど白い足。足首は折れそうに華奢なのに、ふくらはぎはやけに肉感的。転んだことがなさそうに滑らかな膝を経て、太腿は超ミニの紺のスカートに包まれている。
砂時計みたいにくびれた腰に、ベストの布地を張らせるほどの胸。細い首の上にはまだ十六か十七か、あどけなさと女らしさが同居する小さな顔が待ち受けていた。
落ちてきそうに大きな瞳、バービーみたいにちょっとだけ上向いた鼻。ライトブラウンの、これでもかとカールされたふわふわの髪にはリボンが踊る。
頭に行くべき栄養が、きれいさっぱりその他に振り分けられたかのようだ。少女の脳みそとざる豆腐のシワ数を思い浮かべ、彼はざる豆腐に軍配を上げた。
彼は胸と尻がぱつんぱつんに張った、濃紺のバスガイドの制服を眺め回した。
「デリヘルでコスプレして、いくら?」
「カイ」
またしても少年の指先が、内臓がはみ出そうな圧力を彼に加えた。
「少年……顔に似合わず容赦ないのね」
「失礼しました。でも本当はボクだって、こんなことしたくないんです。恨むならお嬢様を恨んで下さいね」
十歳くらいで、ベストに半ズボン。合唱団からスカウトされそうな、ソフトで澄んだソプラノ。絶滅危惧種な丸眼鏡をかけた、線の細い優しげな顔。憂いながらも迷いなく制裁を代行する少年は子羊の皮をかぶった狼なのだと、彼は体の節々がきしむ音で思い知らされた。
恨めと言われた少女は頬をぷっとふくらませて仁王立ちしている。
「制服で欲情したりして、やらしー。短絡的オヤジ思考で断罪しました」
「ぱんつ見えそうにスカート短いバスガイドが、どこの世界にいる」
「夢の世界」
そうだこれは夢なんだ。あの世からの迎えだなんてありえない。きっと溜まってるからこんな夢を見るんだ。処理すべく襲っちまえ――と、彼は不埒なことを考える。が、今の彼は自由に動けない。情けなくてため息をつく彼に、少女は星がこぼれてきそうな鮮やかな笑顔を向けてきた。
「あたしは悩める子羊のナビゲーター。心の旅路のバスガイド。あなたの悩みを解決するお手伝いをしまーす」
「少年、この狂ったガイドを今すぐ病室に連れ帰ってくれ。制服じゃなくて拘束服にお着替えさせてあげてね」
「あー、信じてない」
現場レポーターには決して採用されないであろう無感情さで言い、少女は腰に手を当てる。
「いいもん、五割増しで請求するから。じゃ、君のお悩みはいけーん」
軽やかに髪をバウンドさせて、少女は彼の前に腰を落とした。
「君のそのナリじゃ、表層じゃ何も見えてないね。ってことは聴覚が探索ルートか」
カラーストーンが施されたパールピンクの爪先が、彼の耳にそっと押し当てられる。
「何を……」
「シンクロです。お嬢様は触れている相手の感覚器官と同調できるんです」
口を挟んだ少年の説明が理解できずに聞きなおそうとした時、彼はその意味を体感した。少年の声が二か所から聞こえ出したのだ。ひとつは今までと変わらず彼の右方向から、そしてもうひとつ加わったのは左方向から――まるで彼の向かい側にいる、少女の位置から聞いているかのように。
「こいつと聴覚を共有させられたってことか?」
「そうです。さらにお嬢様は、あなたの聴覚記憶も共有し再現できます」
「記憶を覗き見か? 冗談やめてよ、そんなの著しくプライバシーの侵害――」
抗議はすでに遅かった。彼の耳の奥に、激しいブレーキ音が蘇る。エアブレーキの抜ける音、汽笛のごとく重く低いクラクションはそれが大型トラックだと告げている。タイヤがねじり裂かれるような引きつったブレーキ音は、恐怖を食べたがる野獣のようにこちらへ突進してくる。
『きゃあ!』
『うわあっ!』
若い男女の叫び声は金属と金属が衝突しねじ曲げられる、おぞましく不快な大音響にかき消された。やがてサイレンが近づき、複数の慌しい足音や鋭い指示が飛び交う。
『男性は即死だ。女性を先に搬送しろ』
鳴り続けていたけたたましいサイレンがやむと、しばらくは静かながらも緊迫したやりとりが続いた。
『先生、レントゲンです』
『よし、すぐ緊急手術だ。腹部のエコーは』
『準備できてます』
『私がやる。……お、これは……』
輸血、メス、鉗子、吸引――延々と繰り返される作業が厳しい状況であることを物語っていた。十数時間後、ようやく大きなため息をついて歩き出した重い足音に、ばたばたと複数が駆け寄ってくる。
『先生、娘は……娘は助かったんですか』
『お母様ですね。落ち着いて聞いてください。……娘さんは、脳死状態です』
一拍の間、そして年配の女性の嗚咽があたりに響いた。それからゆっくりと低い声で、男が話しだす。
『娘は脳死になったら、臓器提供するドナー登録をしていたはずです……』
しかしきっぱりとした口調がそれを却下した。
『あと七ヶ月待ちましょう』
どうしてです、と男の声が問う。
『娘さんは妊娠なさっています。三ヶ月です』
続いていた嗚咽が止まった。
『臨月までは延命措置を施します。とはいえ、容態は不安定で全く予断を許しません。しかしあれだけの事故に遭いながら、流産しなかったのは奇跡です。母体と赤ん坊の生命力を信じましょう』
「――つまり」
少女の声で、彼は我に返った。彼がこの夢に落ちる直前に繰り広げられた、現実の悪夢の再生から。耳に触れていた少女の指先の感触はもうない。
いつの間にかぎゅっとまぶたを閉じていた彼が恐る恐る目を開けると、少女は今にも泣きそうな顔で彼を覗き込んでいた。
「つまり、君がその三ヶ月の赤ちゃんなんだ」
::: 3 ::: break the deadlock...行き詰まりを打開する
轢けて踏めておしぼりに載せられるほど小さい、自力で動けない、そんな妊娠三ヶ月の赤ん坊である彼の悩み。それはかの有名なハムレットと同じ――生きるべきか死ぬべきか、であった。
少女がしゃくりあげながら涙を流している。あまりにぼろぼろ泣かれて、彼は少女のざる豆腐な脳みそが高野豆腐に干されてしまうのではないかと思った。
「あー、別に泣かなくていい。どうせ生まれたって、両親揃って死んでるわけだし。俺も死んじゃった方が楽だわ」
少年がピンクのクリアケースに入ったティッシュを捧げ持つ。そこから何枚も引き抜いて目に当てると、少女はスンと鼻を鳴らした。
「おばか。そう割り切ってる人間は、救援信号なんて出さないよーだ」
「人間だって気づいてくれてたようで、どうも」
「ごまかさないで。君は生きたいの」
覗き込まれるとでかい目が本当に落ちてきそうで、しかもその目玉に潰されそうで、彼は頭上を警戒する。
「そういう陳腐な励ましが欲しくて、こんな夢を見てるとでも?」
「君さあ」
丸めたティッシュが放られると、ゴミ箱を抱えて待っていた少年が器用に受け止めた。
「ユングの集合的無意識って知ってる?」
突然の話題転換に面食らいながらも、彼はうなずく。
「あー、意識ってのは表面層では個人でも、その根っこはみんな繋がってるとかいうやつでしょ」
彼には、このお脳フヤケ少女が心理学者ユングの名を口にするのがあまりに意外で、罪にさえ思えた。占いやファッションのノリで心理学にハマったりもするのが、この年頃のガキのやることかもしれません――と、彼は少女の代わりにユングに許しを請う。
そんな彼の嘆きに気づきもしない様子で、少女は無邪気に笑った。
「そう。個人の表層意識は大木における一枚の葉っぱ。元は全部幹につながってる。その概念で考えれば分かるよね。個人的無意識である夢を経由して入り込む集合的無意識の世界は、みんなつながってるの」
彼は残念ながら、少女の言うことが正しいのを認めた。
ユングによれば、人間の無意識は階層構造になっている。浅い層が個人的無意識だ。これは個人の経験や知識が無自覚に蓄積された層である。
そして個人的無意識はより深い層、すなわち集合的無意識に根ざしている。ここには個人の範疇を超え、民族や人類に共通した心の働きそのものがある。世界各地の神話やおとぎ話に登場する、老賢人や英雄などの人格が共通していることでそれがうかがえる。
「そこは表層意識と違って、他人と自分を隔てるものは何もない。だからこうして、他人同士顔を合わせて話せるわけ」
少女は夢を個人的無意識から集合的無意識への門として捉え、それを経たより深い集合的無意識レベルで他人と自由にコミュニケートできるようになるのだ、と言いたいらしい。
ならばここは夢をくぐって入り込んだ集合的無意識の世界であり、現実だと言いたいのか、と彼は理解した。
「そいつは意識っつう精神世界の話であって、その仕組みと似たこういう空間が実在するってのとは違うんじゃ」
「空間がないなんて、ユングおじさんは言ってないもーん」
あるとも言ってないぞ、と彼は反論したくなる。
「で、本題いきましょうかー。その集合的無意識の一画を間借りして」
その世界を紹介するかのように、白く細い腕が大きなフロントガラスの向こうの果て無き闇へと伸ばされた。
「あたしは悩み事相談所ブレイク日本支店で、支店長してまーす」
夢なら早いとこ覚めちゃって――彼は頭を抱えたくなった。
いくら巨乳でもこんな騒々しい、十年前に脳がとろけて耳から流れ出てったことにも気づいてないような女なんぞ願い下げだ。起きろ俺、起きるんだ――と、彼は自分を叱咤する。
だが少女は辟易している彼の様子などお構いなしに、得意気にしゃべりだした。
「ほら、一晩寝たら考えがまとまったとか、昨日まで悩んでたのは何だったんだースッキリ! って経験あるでしょ。あれはこうして、ブレイカー……あ、相談員のことね。ブレイカーに夢の中で相談に乗ってもらって解決したから。君の手柄じゃないんでーす」
「ああそうなのすごいのねー」
「なのに朝になったら相談のことなんて覚えてないか、夢だったと思うかだなんて……ひどい話だったら。ねー」
「ねー」
あしらう彼の横で、少年が細い首をぴょこぴょこさせて少女に同意を表明している。その目が冷静なのを見て、彼はむしろ少年の腰巾着ぶりが健気にさえ感じられてきた。
「困った時特有の脳波を救援信号としてキャッチして、こうして駆けつけるわけ。で、悩みを聞いてあげて、解決したらお代を頂く。と、そういうシステム。先生の話、理解できましたかー」
彼は少女のアホが自分に空気感染しないことを、心底祈った。
「……金持ってません、三ヶ月のガキなもんで。逆立ちしたって――あ、腹ん中じゃ逆立ちか」
立ち去りたいのは山々だが、いかんせん彼には移動手段がない。個人的無意識へ戻る手立ても知らない。仕方なく肩をすくめてみせると、少女がグロスの光るピンクの唇を尖らせた。
「やーだ。精神世界でお金なんて何の価値もないのに。トータリー・ナッシング」
「んじゃ、ボランティア?」
少女はくるくるの髪を手で背中へと流しながら、にっこりと首を振った。
「無償の奉仕なんてありえなーい。内心、秘めた欲望とか自己満足とか死後の厚遇を期待するのが人間なのです」
「……アンタ、無邪気な顔してスレてんねー」
「君こそ、ろくに男の機能も出来てないのにオジサンくさいね」
ひょい、と彼の下半身を包んだおしぼりが、パールピンクのネイルにめくられた。
「セクハラだ」
「で、オジサンくさい赤ちゃん。あたしが報酬にもらうのはお金じゃなーい。寿命」
::: 4 ::: break the divine law...神の掟を破る
「寿命?」
「そう。大金持ちでも貧乏人でも、老若男女生きてる人間なら必ず支払えるもの、それが寿命。何日、何ヶ月、何年分かはあたしと君の交渉次第」
ビシ、とネイルが彼の鼻先に据えられる。手強い交渉相手であることを宣言しているようだった。
「寿命の取引なんて、倫理がよく許すな」
「倫理はともかく、神様に見つかる前に引越さなきゃね」
神様的には非合法組織らしい。彼はため息をついた。
「命を削ってまで相談するやつの気が知れないね」
「うふん」
満足そうに、勝ち誇ったように笑われて、彼はたじろいだ。その小さな小さな顎を、ネイルの先がくいくいといたぶる。
「命は大事って認識があるんだ。ほら、君は生きたいの」
「…………」
少女は手を引っ込めると、バレリーナみたいにくるんと爪先で一回転した。
「悩み事でウダウダしてたら一週間、一ヶ月なんて平気で無駄につぶれる。だったらここで何日か支払ったって、まだおつりが来るじゃなーい? それとも君の悩みは、その何日かに値しないくらい、つまんないものなのかなあ」
バスの通路を、ピンヒールがコツコツと行ったり来たりする。
「日本人男性の平均寿命は七十八歳、日数にしてのべ二万八千四百七十日。仮に支払いが七日だとしたら、それは平均的人生においてたったの四千六十七分の一」
「……よく暗記できました」
すらすら流れるような数字の羅列を、彼は検算する気にもならない。
「悩み事の内容によっては、四千六十七分の一くらい釣り合うと思うんだなあ」
「けど俺、すでに風前の灯なんだわ。寿命を一日でも支払ったら、今ここでポックリかもな」
「決ーめた。君はあたしの相談所で働きなさい。自分で寿命を稼いで、君自身に割り振ればオール・オッケー。カイ、契約書」
突き出された少女の手を、少年は困ったように見返している。
「お嬢様。一応、ブレイカーの採用規定は満十八歳からです」
「だから十八年と七ヶ月、ツケにしてあげるの。あたしの口座残高からなら余裕」
少年はハイと答えて、バスの後方へ去っていった。ばさばさと乾いた音を立てて書類をあさっている気配がする。少女はハートのチャームがじゃらじゃらついたペンを頬に当てて、にっこり彼に笑いかけてきた。
「オジサンくさい前世の知識が残ってるみたいだから、初心者レベルの相談くらい受けられるでしょ。人って生まれる瞬間の苦しさで前世の記憶を失くすって本当なんだなー。生まれる前の赤ちゃんなんてファースト・コンタクト」
彼はブレイク日本支社とかいうものへの就職準備がなされていることを知る。
「先生。本人の意見とか希望は無視されているのは気のせいでしょうか」
「つまり七ヶ月後の生まれる瞬間に、君は知識も経験も失ってただの赤ん坊に成り下がる。それまでに十八年と七ヶ月の寿命を稼ぎたまえ」
意見や希望だけでなく、抗議さえも無視された。
「十八になったらブレイカーとして正式採用してあげる。そこから日々、君の寿命を稼ぐのだ。んー、サバイバー」
「だから俺は」
彼が重ねて抗議する前に、少女は背を向けて低く呟いた。
「カイはね……あの子は心臓移植のドナーが現れるのを待ってる。ここで働かなかったら、一ヶ月前にとっくに寿命が尽きてた」
それでやたらと手足が細くてなよっちいのか、と彼は合点した。
「せっかくママに守ってもらった命のクセに。カイの前で、死んだ方が楽なんてもう一度言ってみなさい。あたしが君の命、今ここで踏みつぶしてやるから」
見るからに頭の足りなさそうな少女とは思えぬドスの効き方だった。ドスが効いてなくても、彼は言い返せなかった。
::: 5 ::: break in his life...人生の岐路
組んだ膝の上で書類をめくって、少女はあちこちに走り書きを加えている。スカートと腿の隙間はばっちり彼の目線上だ。特等席でいい眺めを満喫する彼の視界に、さりげなく少年が割り込む。
「そこ、邪魔」
「カイです。ギリシャ文字のχ」
カイはむっとした様子で、それでも健気に名乗った。
「日本人がギリシャ語を名づける世になったか。大和魂は絶滅したって、環境省に通達しといて」
「違います。お嬢様の付き人は、代々ギリシャ文字をあてがわれるんです」
「へぇ」
数字三桁のスパイ映画のスパイツール開発スタッフみたいだな、と冷やかす。
「κ(カッパ)とかξ(クサイ)なら笑いを取れるのに」
「ボクは笑いを取るために働いてるんじゃありません」
「はーい、できた。ここにサイン……は無理か、拇印」
少女が書類の一番後ろの空欄を差し出した。自分を救いの神だと信じているような笑顔が、彼には疫病神に見える。
「俺は契約内容を確かめるために紙をめくることもできなかったりする、か弱き小さな体ですが」
「おばか。ここは集合的無意識、肉体の存在しない世界なの。自分に都合のいい容姿を念じればいいだけ。実際君は赤ちゃんのくせに都合よく、目も見えてるし口もきけるし」
そう言われて念じてみるが、彼の姿は一向に変化を見せない。カイが大人びた仕草で肩をすくめた。
「無意識世界の造形を好きに作り上げて固定できるくらいの精神力をお持ちなのは、ボクの知る限りお嬢様だけです。だからこそこうして、バスや会社が存在できるんじゃありませんか」
「そお? しょーがないなあ、契約したらカッコイイ十八歳にしてあげる」
「契約内容を読んでくれなきゃやだ」
「子供じゃないんだから駄々こねなーい」
「それ以前の俺が子供じゃないんなら、この世に子供は存在しない」
少女は眉をしかめた。片手を腰に当て、いかにも嫌々そうな平坦な口調で読み上げ始める。
「契約書。一、君の睡眠中は個人的無意識を経由して、お嬢の経営するお悩み相談所……」
「……お嬢が名前なのか」
「それ以上突っ込んだら、お嬢様はまた制裁発動なさいますよ」
珍しくカイが密やかに進言する。
「……お悩み相談所、ブレイクに必ず出社すること」
「さっきから思ってたんだけど、何でブレイク?」
カイがまた耳打ちする。
「悩みから抜け出すとか、解決に向けて殻を破るとか、そんなイメージだそうです」
「失敗とか絶交とかって意味もあるって知っててつけたんならナイス」
二人のひそひそ話を無視して、お嬢が続ける。
「一、出社後は鏡に向かい、笑顔の練習をして業務に臨むこと。その笑顔で君の寿命が一日延びる」
「社則とスローガンが一緒くただ」
「一、お客様の前で飲食はしないこと。もちろんお客様を食べちゃうのも厳禁でーす」
「……カイ、朱肉」
最後まで聞く気力を無くし、彼は親指を朱肉に押し付けた。契約書の署名欄にべったりと拇印をおす。
「あーあ、やっちゃった」
ぼそりと呟くカイの視線の先。そこには、お嬢が手ずから足した走り書きの一か条があった。
『一、十八年七ヶ月のツケを支払うまで、君はお嬢の下僕』
::: 6 ::: break down...屈する
「下僕ってのは心理学か無意識界用語で雇用者、って意味だったり」
「しないよー。そのままの意味」
同情の眼差しをしつつも、カイはさっさと契約書をフォルダに収納してしまった。その口調がいきなりなれなれしくなったのは、下僕契約でカイより下の身分になったからなのか――彼はいきなり下僕たる自分の立場を思い知らされた。
「詐欺だ。人権侵害だ」
「君、名前がいるね。タイジでどうだ」
「話を聞け……」
「読みもせずに契約したタイジさんの負け。無意識の世界に人権も法律もないんだよ。あるのは契約だけ」
同情だったはずのカイの目は、すでに哀れみにすり替わっている。
「おまえまでタイジ言うな。っつうかタイジって何だ、まさか胎児?」
「ベイビーちゃんがいい?」
「……タイジで」
カイがにこにこしている。
「よかったー。タイジさん、子宮の中では寝てばっかりだよね? 昼間はボク目が覚めててここにはいないから、お嬢様さびしがってたんだよ」
「そんなことないもんねーだ。君の部屋は支店長秘書室。カイと一緒に使いなさい」
タイジがじっと見ていると、お嬢の頬はほんのり桜色になった。
「なあに、下僕。返事くらいしなさーい」
「……へえへえかしこまりました、ご主人様」
そして彼は十八歳の容姿を与えられた。脳死女性を母に持つ実質妊娠三ヶ月の赤ん坊にすぎないタイジは、七ヶ月間で返済しなければならない寿命の借金を背負い、少女の下僕をつとめることになる。
タイジ、現在三ヶ月。借金、十八年七ヶ月。彼はノルマを達成して、生まれてくることが出来るのか――。