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殺人鬼の日常  作者: 小石 汐
おでかけ
8/30

異形

 何かが起きていることだけは分かった。冬夜は激しい雨の中、コテージに帰りながら考えた。恐らく斉藤たちと捜索隊が帰ってこないのは、何かしらの関連があるだろう。それは当然だ、と冬夜は苛立って頭を掻いた。

 無視していた胸騒ぎが酷くなってくる。ほんの少し昔は簡単に感情を捨てることができたのに、最近になって感情がヘドロのように絡み付いてくるようになった。それを振り払うように冬夜は首を横に振った。

 傘をさしていても膝から下はぐっしょりと濡れ、靴は妙な重さを主張していた。

 一度コテージに戻って、そこで待機との指示が出た。この状況に加えて、容赦なく降り注ぐ雨のためか、外に人の気配はない。シャワーで身体を暖めてから、窓の外を覗いた。

「何があったんだろうね」

 クラスメイトが不安そうに呟いた。もう一人も落ち着きがなく、膝を小刻みに震わせていた。

「さあな」

 捜索隊との連絡すらつかなくなった、とは言わなかった。無駄に不安を煽っても仕方ないからだ。

 コテージ内に静寂が広がる。屋根や地面を叩く雨音だけが長々と続いた。

 しばらくすると雨音が弱まった。冬夜は窓際に寄って、外を眺めた。やはり人の気配は無かった。

 今なら抜け出ても咎められることはあるまい――冬夜は鞄から刃を抜き出して、こっそりとポケットに放り込む。上に黒いパーカーを羽織り、濡れた靴を履いた。

「どこか行くの?」

「隣のコテージの様子を見てくる」

 隣にはクラスメイトの四人がいるはずだ。実際はそれだけでなく、あちこちのコテージを回ってみるつもりだった。

 冬夜は木の扉を叩く。しばらくして返事があり、扉が開いた。

「南雲か、どうしたんだ?」

「……いや、何でもない」

 大丈夫か、と冬夜は胸を撫で下ろして、もう一つ隣のコテージに向かった。そこは二組の男子がいるはずだ。更に奥にコテージが並んでおり、三組、四組、と順番にコテージを使っている。そこで、ふと足が止まる。目の前にしたコテージに違和感があったのだ。

 コテージの内部は暗く、明かりがついていないようだった。冬夜は恐る恐る扉に近づき、ノブを引いた。鍵はかかっていない。そっと開けて中に忍び込むも、雨で濡れた靴がぐじゅりと鳴いた。

 一瞬にして緊張感が全身を満たす。誰かがいたら完全にバレていた――否、誰かがいる。

 冬夜は確信を持って、二本の刃を抜いた。フローリングに気を遣うこともなく、土足で踏み込む。壁に背を沿わせ、ゆっくりとコテージの中を見渡した。しかし先ほど感じた気配は無くなっていた。

 冬夜の頬を一筋の汗が流れた。それを拭わずに、冬夜は来た道をゆっくりと戻る。コテージの外に出て、更に奥のコテージに目をやった。同じように明かりは無く、暗い。

 まずい、と冬夜は駆けだした。先ほどの四人のクラスメイトがいるコテージに向かって。数秒でコテージの入り口にたどり着き、扉を開いた。その瞬間、明かりが消えた。

「うわ、何だ!?」

 明かりが消えたことと冬夜が突然入ってきたことで、コテージ内は軽いパニックに陥った。しかし、まだ無事だった、と冬夜は胸を撫で下ろす。

「何だ……南雲か」

「黙ってろ」

 冬夜は全力で飛び、扉から大きく距離を取った。何かが来ると直感が告げたのだ。冬夜の背筋を悪寒が這いずり回る。

 やがて扉がゆっくりと開き、蝶番が奇妙な声で鳴いた。

「誰だ」

 冬夜は刃を構えたまま言った。しかし返事はない。ただ、そこに誰かがいる気配だけは確かにあった。

「誰だって聞いてんだよ」

「おい、南雲。ちゃんと扉が閉まってなかっただけじゃ――」

「絶対に違うな。俺はドアノブが回るのを、この目で見た」

 冬夜は扉から目を離すことなく答えた。

 不意に気配が動いた。何かがコテージの側面を通り、裏へと回り込む。コテージの裏側はテラスになっており、大きな窓がある――つまり相手は侵入経路を変更したのだ。

 それを察知して、冬夜は窓際にいた二人を強引に引っ張った。それと同時に窓ガラスが派手な音を立てて砕けた。宙を舞うガラスの破片の輝きと一緒に、一陣の影が走る。赤い何かがコテージ内に侵入したのを、冬夜は見逃さなかった。

「――っらあ!」

 冬夜は、その影に蹴りを叩き込んだ。カウンター気味に入った蹴り足には、じんと痺れた。しかし即座に構え直す。カーテンの向こうで揺れる影は即座に立ってみせたのだ。

 瞬間的で完全に姿を視認することはできなかった。しかし確実に分かることが一つだけあった。

「お前だな」

 隣のコテージに漂う僅かな血の臭いで、何かが起きていることに気づいた。そして目の前にいる影が放つ強烈な死臭で確信する――こいつが犯人だ、と。

「な、何だよ、これえええ!」

 クラスメイトの一人が叫んで、扉から出ていった。不意にカーテンの影が消えた。

 しまった、と冬夜が気づいた時には遅かった。あの影は逃げた一人を狙いに行ったのだ。

「死にたくなかったら、ついてこい!」

 残る三人に叫んで、冬夜はコテージを出た。そして視界に飛び込んだ光景に絶句する。

 逃げた一人の首筋に噛みついるアレは何だ――背骨が凍ってしまったかのように固く冷たい。しかし脳髄は冷えず、思考は空回りを続ける。

 それは人の形をしているが、表面は血の色のように真っ赤で、てらてらと光っていた。クラスメイトの首筋を大きな口で捉え、その傍にぎょろりと動く両眼があった。白目と黒目があるも全体像が異形すぎて、冬夜は思わず「化け物か」と呟いた。

「俺が全力で食い止めるから、お前らは逃げろ」

 後ろの三人に言って、冬夜は地を蹴った。異形に飛びかかり、刃を振るう。しかし、それは空を切るだけだった。

 速い――冬夜は何とか振り返って、刃を交差させた。そこに異形の手が突っ込み、綺麗に裂けた。異形は叫ぶ。目の前で叫ばれた冬夜は思わず顔をしかめて、後ろに飛ぶ。その際に刃を両方とも振り抜き、肘あたりまで肉を削り取った。異形は更に吠えるも、既に距離を取った冬夜は何食わぬ顔で刃を構える。

「行け!」

 冬夜は吠えた。それを合図に、三人は金縛りから解け、ようやく走り出した。遠ざかる足音を聞いて、冬夜はひとまず息を吐く――これで足手まといはいなくなった、と。

「何人、殺しやがった?」

 返事は無い。冬夜は顔色一つ変えずに質問を続ける。

「おい、言葉が通じねえのか?」

 言葉が通じないのならば、愚問でしかない。しかし念のために冬夜は尋ねてみた。それでも返事は無かった。

「はん、言語を解する知能もないってのか」

 冬夜は鼻で笑い、地を蹴った。もう殺し合うしかあるまい、との結論を導く。

「うるさい、日本語ぐらいは分かる」

 異形は流ちょうな日本語でようやく返した。冬夜は足を止める。安い挑発に乗ってくるもんだ、と冬夜は少しおかしくなって吹き出した。

「……何がおかしい」

「いや、別に」と冬夜は返した。しかし冬夜の振るう刃は、ことごとく空を切った。それでも冬夜は動きをやめない。

「……その程度で、僕に勝つつもりなのかい?」

 異形は冬夜の刃を躱しながら、呆れ気味に言う。

「ん、まだまだペース上げれるけど?」

 対し、冬夜は軽やかに地を踏む。先ほどより更に速いテンポを刻んでいった。

「ほう、人の子にしては、やるじゃないか」

「まだ余裕か。なら、もう少し」

 更に冬夜は続けざまに刃を振るった。楽しそうに刃を振るうも、時の経過と共に冬夜の表情から余裕が消えてゆく。

 やがて冬夜の両手が止まる。そして肩を上下させながら、冬夜は荒い息をついた。結局、一発も相手の身体に刃は届かなかった。

「……そこまでか」

 異形は残念そうに呟き、冬夜に迫った。その直線的な動きに合わせるように冬夜は刃を突き出す。異形は刃の寸前で止まり、冬夜の喉元に伸ばしていた手を引っ込めた。

「まだ、そんな反応ができるんだ」

「……チッ、今ので決めたかったんだが」

 先ほどまでの荒い息は嘘だったかのように整っている。実際、嘘だったのだろう。異形は、それを見抜いたのか、「狡いね」と漏らした。それに冬夜は無表情で頷く。

「化け物相手に余裕を見せられるほど、俺は強くないんでな」

 ぴくりと異形の肌が動いた。分かりやすいな、と冬夜は内心で微笑んだ。

「もっと自信を持てばいいのに。単体でそこまでの戦力を有する人の子と出会ったのは初めてだ」

「まるで自分は人じゃないみたいなセリフだな」

「人の子も言ったじゃないか、化け物と」

 自嘲するように異形は言った。それと同時に地を蹴る。今度は横に飛び、異形の姿は木々の中に消えていった。しかし気配が遠ざかることはない。異形はここで冬夜を殺す気なのだろう。

 かさり、と後ろの葉が揺れた。しかし冬夜は動かない。ぎし、と木の枝が軋む。その音に反応して、冬夜は地を蹴った。そのまま前転して、即座に身を起こす。それと同時に振り返って、再び刃を構えた。先ほど冬夜が構えていた場所に異形の姿があった。

「騙されないんだね」

 異形は肩を落としながら呟いた。恐らく一回目の葉擦れの音のことを言っているのだろう、と冬夜は理解した。

「どうせ、木の上から小石でも投げたんだろ?」

「うん、正解」と異形は頷いた。そこで冬夜は構えを解いた。

「なぁ、何故、俺らを襲うんだ?」

「ん、襲うことに理由が必要?」

 異形は自らの身体を見せつけるように、腕を広げてみせた。

「だから、人の子は皆、僕を化け物と呼んだんだ」

「そうか、残念だ」と言いつつ、冬夜は微笑んでいた。

「言ってることと表情が一致してないよ」

 異形の突っ込みに、冬夜は微笑みは苦笑に変わった。

「結局、俺も人の子じゃないってことさ」

 染み着いた技術は全て殺人へと向かう。人を殺す鬼だ、と冬夜は呟いた。

「殺人鬼ね」

 異形の反応は軽かった。特に気に留めている様子すらない。

「なら、同類か」

「……は?」

 異形の言葉に、冬夜は首を傾げる。

「僕は吸血鬼だ。血を吸えればいい。死体の血でも構わない。だから、君が人の子を殺し、僕はその死体から血を啜ればいい。鬼同士が殺し合う必要なんて無いんだよ」

 冬夜の考えていた結果とは、かなり違った方向で和解の話が進みつつある。話の通じる相手であることが分かり、冬夜は少し安心した。

 しかし異形の提案を飲むことは難しい。冬夜は逡巡もせずに、首を横に振った。

「悪いが、その提案には乗れないな」

「人を殺す鬼のくせに、人の子を守るつもりなの? 鬼のくせに、君は人の子を恨んでないの? 虐げられてこなかったの?」

 異形――吸血鬼の言葉が胸に突き刺さった。それは重く、心を縦に裂いてゆく。そして奥にあった本音が漏れだした。

「憎んでいる、妬んでいる、恨んでる」

 噛みしめた奥歯が、ぎしりと鳴った。何故こんなに力んでいるのだろう、と冬夜は雨で冷えた頭で考える。何かが冬夜の中でせめぎ合っていることに、ようやく気づいた。しかし何と何がせめぎ合っているのかまでは分からなかった。

 いつになく感情をコントロールできず、冬夜は胸が熱くなるのを感じていた。堪えきれぬ感情は地を蹴る足に伝わる。冬夜は考えもなしに、全力で突進した。

「……ッ」

 吸血鬼が息を飲んだ。その目がぎょろりと動く。その瞳には焦りの色が浮かんでいた。しかし、そんなことはどうでもいい――冬夜の頭の中は真っ白になった。

 腹の底から吠え、一瞬にして声が掠れた。冬夜は獣の如き敏捷性で何度も刃を振るい、吸血鬼を追いつめていく。

「残念、だよッ!」

 吸血鬼は両腕を振るい、冬夜も同じように刃を振るった。

 びちゃり、と水たまりに何かが落ちた。赤くてらてらとした表面の何かが転がってゆく。

「ぐぅ……クソ!」

 吸血鬼は再び木々の中に姿を消していった。気配はどんどん遠くなってゆく。それを追うこともなく、冬夜は雨の中に呆然と立ち尽くした。そして遠くなってゆく吸血鬼の気配の方に目をやりながら呟く。

「俺らって、一体何なんだろうな」

 やがて転がっていた吸血鬼の赤い腕は蒸発するように煙を吐き、消えてしまった。


*


「何があったのか、事実を教えてくれ」

 教師は青い顔のまま言った。

「あれは自分のことを吸血鬼と言いました」

 それが事実なのだ。しかし教師は拳を握り、肩を震わせている。額に浮かんだ青筋を見て、噴火寸前だな、と冬夜は思った。

「あのな、南雲。そんなのが本当にいたら、今の日本はヤバいことになっているぞ?」

「でしょうね」

 あれは殺さないと――冬夜は無表情で呟く。それを聞いて、教師は顔を引きつらせた。

「いい加減にしろ!」

 教師は力任せに机を叩き、食堂の喧噪が一瞬にして消え去った。背中に多数の視線を感じながら、冬夜はワザとらしく肩を竦めた。

「本当のことを話せ。三組は半分、二組は男子全員が消えてるんだ。もう冗談で済むような状態は、とっくに過ぎてるんだ」

「だから、冗談かどうかは、俺と一緒にいた三名に聞いてみろよ。確かに化け物がいたんだ」

 これ以上は何を言っても無駄だ、と冬夜は教師に背を向ける。教師に呼ばれても、冬夜は無視した。自分の席に腰を下ろして、一息吐く。

「信じてくれないだろ?」

 逃がした三名の内の一人が冬夜に向かって小さい声で話しかけた。

「そうだな」

 冬夜は気を悪くした様子もなく、眠そうな眼で宙を仰いだ。

「なぁ嘘発見機」

「名前で呼んで!」

 西浦は顔を真っ赤にさせて抗議の声を上げた。それを無視して、冬夜は西浦に視線をやる。じっと西浦を見つめたまま、冬夜は口を開く。

「吸血鬼はいた」

「……本当なんだね」

 西浦は目を丸くした。一組を中心に喧噪が広がってゆく。「うるさい」と教師の叱責が、食堂に響きわたった。

「ただ斬り落とした腕が、その場で再生するような最上級の化け物じゃないだけ、壊すのも楽だろ」

 少し嫌な記憶が冬夜の中で蘇る。臭い物には即座に蓋をした。

 ただ――と冬夜は続けて言う。

「一本、折れちまった」

 冬夜はポケットから刃を取り出すも、もはや刃と呼んでいいのか分からない代物になりはてていた。半分ほどで綺麗に折れており、武器としての役目を果たさないことだけは確かだった。

「結構、速いんだよな、あいつ。受け流しきれなかった」

 まるで友達のことを言うように、冬夜の口調は軽い。何かいい武器無いかな、と天井を見つめ、冬夜は言った。そんな冬夜の様子にクラスメイトは顔を引きつらせるばかりだった。

「前から思ってたんだけどさ。何で、あんなに強いの?」

「確かに……何で、あんなのと戦えたんだ?」

 西浦と助けた男子の質問に、冬夜はしばらく考える。

「自然と身体が動くんだよな」

 嘘ではない。逃亡生活の中で磨き続けられた技術は、いつしか身体に染み込み、反射的に迎撃してしまうのだ。

「むぅ……嘘じゃない」

 西浦は納得がいかない様子で、しばらく考え込む。恐らく嘘のつきにくい質問を考えてるのだろう。やがて彼女は顔を上げた。

「どんな経験をしたら、そんなに強くなれるの?」

「警察に追い回されてたら、勝手に強くなるぜ」

 それも嘘ではない。冬夜の周りにいるクラスメイトは再び顔を引きつらせた。

 質問攻めも面倒くさくなってきたので、冬夜は「寝る」と宣言して瞼を下ろした。

 自分は鬼だ。たくさんの人を殺してきた。それは確かな事実だった。しかし今はどっちつかず――人と鬼の狭間を行ったり来たりと繰り返している。実際、人の子として生まれ、後に鬼を心に宿したのだろう。そして冬夜は自らの感情を殺し、人を殺す鬼となった。

 そんな自分が何故、人を守るために戦っているのだろうか――冬夜は自問する。文化祭の時も、そうだった。気の赴くままに人を壊し、結果的に殺してゆくのが自分ではなかったか。

 冬夜は分からなかった。湧いてきた感情は認知する前に消し去られる。過去の自分に対し、どんな感情を抱いているのか分からなかった。そして現状の自分に対しても、それは同じだった。

 やがて本物の眠気が訪れる。それに身を委ね、冬夜の意識は闇に底に沈んでいった。その場で思ったとおりに動けばいい――それだけが唯一の答えだった。


*


 ざわめく空気を斬り裂くように悲鳴が響き渡った。冬夜は一瞬で起き上がり、声の方角を探った。

「南雲くん、待って!」

 すぐ横に座っていた西浦が叫ぶ。しかし、それを振り切って、冬夜は駆けだした。食堂の扉を乱暴に開けて、廊下に出る。血の臭いが微かに鼻をついた。

 そう遠くはない――冬夜はポケットから刃を抜きながら、廊下を慎重に進んだ。

 助けを求める声はない。それは被害者が既に絶命している可能性を示した。

「おい、南雲、待たんか!」

 冬夜の後を追って、一人の教師がやってきた。冬夜は肩を掴まれるも、それを一瞬で振りほどいた。緊張のためか、一筋の汗が冬夜の額から流れ落ちた。

「死にたくなかったら離れてろ」

 冬夜は教師を睨みつけた。血走った眼に気圧されてか、教師の瞳に怯えが浮かんだ。

 血の臭いが酷くなる。冬夜は再び刃を構えて、ゆっくりと進んだ。後ろの教師がぐちぐちと文句を零しているのを「うるさい」と一蹴すると、更に叱責は酷くなった。

「うるせえって言ってるんだ。音が拾えない。もし、か細い声で助けを求めていたら、どうする? それすらも聞こえないだろうが」

 既に生きている可能性は低いものの、教師を黙らせるには良い理由だった。それ以降、教師は口をつぐんだ。

 しばらく廊下を進むと、角に差し掛かった。冬夜は壁に身を寄せて、気配を探る。水の滴る音が、遠くから聞こえてくる。それとは別に何かの足音が聞こえた。湿り気の酷い足音で、べちゃりべちゃりと不快な音だった。そこで冬夜は刃を構え直し、廊下の中央に躍り出た。

 予想通りの光景だった。赤くてらてらとした表皮の異形が、一人の少女の首に噛みついていた。少女の顔は青く、瞳に生気はない。やはり、と冬夜は小さく息を吐いた。

「……また君か」

 異形の吸血鬼も同じようにため息をついた。

「それは俺にも言わせてほしい」

 冬夜も大袈裟に肩を竦めてみせる。

「な、何だ、お前はあああ!」

 冬夜の後ろについてきていた教師が吠えた。そこに教師の威厳はない。異形に対する畏怖だけが滲み出ていた。

「もう少し待ってね。すぐ吸い終わるから」

 教師の言葉を無視して、吸血鬼はじゅるりと音を立てた。びくん、と少女の身体が跳ねる。そして僅かに漏れた声を、冬夜は確かに聞き取った――助けて、と。

「待てないね」

 たん、と冬夜は廊下を蹴る。一瞬で吸血鬼との距離を無にし、刃を振るう。吸血鬼は少女の首筋から離れ、天井に張り付いた。冬夜の刃は少女を傷つけることなく、ギリギリで止まった。

 少女は支えを失い、倒れてゆく。冬夜は、それを左手だけで受け止めて、勢いを殺す。そして廊下に転がした。乱雑な動作だったが、そのまま倒れて頭を打つようなことはなかった。

 右手に握った刃は、ずっと吸血鬼の方に向いていた。

「……何だ、斬らないんだ」

 僕の時みたいに、と吸血鬼はつまらなさそうに言う。

「君は本当に鬼なの? ただの人の子にしか見えないんだけど」

「さぁな、俺もよく分からなくなってきたところだ」

 冬夜は思わず苦笑を漏らした。腕を斬り落とされても、冬夜を同類と呼べる吸血鬼の器は大きいのかもしれない。

 しばらく睨み合いが続くも、吸血鬼が落ちてくる気配はない。重力を軽やかに無視して、天井に張り付いたままだった。

「先生」と冬夜は振り返らないまま、後ろの気配を呼んだ。

「この子を頼む」

「そんな隙を与えると思う」

 異形の口が歪んだ。それを見ても冬夜は顔色一つ変えない。

「作るさ」

 言うと同時に、冬夜は唯一の武器である刃を吸血鬼に向かって投げた。それを吸血鬼は軽やかに躱し、刃は天井に突き刺さった。

「今のは危なかった。まさか投げてくるとは思わなかったよ」

 くるりと空中で一回転して、吸血鬼は着地した。

「何が危なかった、だ。余裕だろう」

 冬夜は既に踏み出していた。着地した吸血鬼に蹴りを放つ。それも躱されるも、その勢いを利用して、更に逆の足を振るう。少し型が崩れた後ろ回し蹴りだった。

 吸血鬼は片腕でそれを防ぐも、蹴りの勢いに押されて身体が後ろに流れた。しかし冬夜も無理な体勢から後ろ回し蹴りを放ったため、追撃を加えることができなかった。

 お互いの距離が開き、二人は体勢を立て直した。

「それじゃ、僕に勝てないよ」

 吸血鬼は笑う。しかし冬夜は無表情を保つ。

 じっと睨み合いが続く。どうしたものか、と冬夜は考える。先ほど隙を作ったのに教師が動いた気配は無かった。そして、まだ近いところに少女も倒れている。極めつけは武器がない、と来た。詰みに近い状況だった。

 それにも関わらず、冬夜は落ち着いていた。今度こそ、ちゃんと死ねるかな――その思いは冬夜の中に沈んでいき、不思議な安心感をもたらした。

 しかし吸血鬼は再び飛び上がって、蜘蛛のように天井に張り付いた。そのまま下りてこようとはしない。

 冬夜は首を傾げ、口を開く。

「丸腰なんだが?」

「君のことだ、何の考えもなしに武器を捨てたりしないだろう?」

 勘ぐりすぎだ、と返すも、吸血鬼は下りてこない。天井に張り付いたまま、ぎょろりと動く両眼で冬夜を捉えていた。

「いや、ここは引く。君の言葉は信用できないからね」

 信用ないな、と冬夜は苦笑を漏らす。しかし、それを無視して吸血鬼は遠ざかってゆく。気配が完全に消えたのを確認して、冬夜は息を吐いた。また死に損ねた、と小さく零した。

 すぐ後ろで倒れている少女を抱き起こす。青い顔をして、今にも死にそうに見えた。しかし、脈も呼吸もある。急いで治療すれば助かるかもしれない。しかし、この島で何ができるだろうか、と冬夜は考える。何よりも、まずは輸血が必要なはずだ。

「聞こえるか?」

 冬夜の呼びかけに少女は僅かに頷く。目を薄く開くと、血色を失った白い唇が僅かに動いた。

「――が」

 冬夜は耳を少女の口元に近づけると、聞いたことのない名前を告げた。

「一緒にいたのか?」

 少女は頷いた。

「殺されたのか?」

 再び頷く。少女の目尻には涙が浮かんでいた。

「分かった。でも、お前は助かる」

 らしくない――そう思いながらも冬夜は少女を励まし、抱き上げた。青い顔で尻餅をついている教師の姿が、冬夜の視界に入った。それを一瞥して、通り過ぎる。

 役立たずと口に出すことは無かった。

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