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殺人鬼の日常  作者: 小石 汐
おまつり
5/30

日常、時々、異常

 翌日。

 来るんじゃなかった――冬夜は後悔しながら、大きくため息をついた。原因は目の前の少女にある。

「ほら、南雲くん、こっちこっち!」

 少女は冬夜に手を振っていた。そんな手を振るような距離ではないし、目立つから止めろ、と叫びたいものの、叫ぶという行為の方が更に目を引くため、冬夜は言葉を飲み込んだ。最近、言いたいことが言えていないような気がする――代わりに小さく呟いた。

 冬夜は不機嫌そうに眉をひそめながらも、ようやく少女に追いついた。文句の一つぐらいは言ってやろうか、と口を開こうとしたところで、先手を打たれた。

「ここでいいよ、ありがとね」

 少女は微笑んだ。冬夜は指示通り、運んできたダンボールを置いた。

 一日の授業を終えて、逃げるように教室を後にした冬夜だったが、それを見透かしたように少女が先回りしていたのだ。そのまま冬夜は強制連行され、荷物運びまで手伝わされるハメとなった。

 無視か強引に振り切っても良かった。ただ、どこまでも追ってきそうな少女の気迫に負けたと言うべきか、冬夜は静かに息を吐いて諦めたのであった。

「もう、これ以上は手伝わない」

「うん、もういいよ。本当にありがとね、助かった」

 少女の笑みは止まない。冬夜はそれを見て、何かしら嫌な予感を覚えた。何か裏があることを確信し、その場を去ろうとした時には遅かった。少女にがっちりと腕を掴まれ、冬夜の頬が引きつった。

「何もしなくていいからさ、演劇の練習を見ていってよ」

 にこにこと笑みを絶やさない少女。それに無表情で冬夜は応じる。

「遠慮しとくぜ」

「遠慮なんていらないから」と少女は強引に冬夜を引きずってゆく。

 本気で抵抗しなかったとは言え、あの小さな身体のどこにこんな力があるのだろうか――冬夜は不思議でならなかった。演技を見ることもなく、人体の不思議についてぼんやりと考えてしまった。

「ねぇ、どうだった?」

 尋ねられたことを理解するも、ほとんど見ていなかった冬夜は曖昧に頷く。僅かに残る記憶を総動員しても、素晴らしいとは言えない出来だった。

 しかし高校生が文化祭で行う演劇にしてみれば、充分以上の熱意があった。素直に「凄いんじゃないか」と冬夜は零す。よくぞ、ここまでクラスメイトを引っ張ることができたものだ、と言う意味で。

「本当?」

 冬夜は黙って頷く。少女はしばらく冬夜の顔を覗き込んだ後、「そっか」と微笑んだ。

「今の言葉に嘘はなさそう」

「おい、待て。一体どういう判断したんだ」

 思わず冬夜は突っ込む。大体、この少女に対して一度たりとも嘘をついたことはない。ただ、そこに嘘をつきたくなかった、と人情味溢れるような温かさは無い。嘘をつく必要性や機会が無かっただけだ。必要があれば嘘をついただろう。それこそ、さらりと息でもするように。

 それに対し、少女は微笑みながら「分かるんだ」と言う。

「南雲くんの言葉が、演劇のクオリティに対する感想じゃないことぐらいは分かっちゃうんだ」

 少し苦い笑みを浮かべた少女は、冬夜だけに聞こえるよう小さくささやいた。冬夜は眉をひそめ、「何を根拠に」と尋ねる。しかし少女は「何となく」と答えるだけだった。

 やがて冬夜は興味を無くしたのか、無言で席を立った。クラスメイトから向けられる視線を、その背中で感じながらも教室を後にする。

 放課後の廊下はいつになく賑やかだった。どのクラスも文化祭の準備を進めているため、多くの生徒が残って作業を続けている。人の合間を縫うように進み、冬夜は昇降口を目指した。

「ち、ちょっと待ってよ!」

 少女の声に冬夜は眉をひそめながらも振り返った。本気で登校拒否を検討しよう――冬夜は肩を竦めながら口を開く。

「まだ何か?」

 明らかに不機嫌そうな冬夜を、少女は戸惑いと悲しみの色が混ざり合った瞳で見つめた。

「本当に文化祭、来ないの?」

「多分」

「なら来るかもしれないんだね?」

 多分の意味を分かって言っているなら大したもんだ――冬夜は皮肉ではなく、純粋に思う。

「前も訊いたけどさ、本当に楽しくないの?」

 冬夜は一瞬だけ考えて、静かにうなづく。そこに嘘は無いはずだ。その返事を聞いて、少女は悲しそうに目を伏せる。

「嘘じゃないんだね」

「むしろ何で楽しめるんだ? 何が楽しいんだ?」

 冬夜は純粋に尋ねる。嫌味ではなかった。むしろ、そこから得た答えで何か変わるかもしれないと思いつつも、期待外れの答えに身構えた。

 期待という行為にはリスクが伴う。期待すればするほど、それを裏切られた時の反動が大きくなる。だから冬夜は期待を打ち消すように、頭の芯を冷やし、少女の返事を待った。しかし彼女は困ったように俯いて腕を組んだ。

 やはり少女にとっても大した理由ではないのかもしれない――そう解釈した冬夜は諦めるように息を吐き、少女に背を向けようとしたところで少女が顔を上げた。

「何が楽しくないの?」

 質問に質問を返すなよ、と思いながらも冬夜は返答を考える。

「全体的に楽しくないから、何が楽しいのか、何で楽しめているのか尋ねたんだが」

「友達と喋るのも楽しいかな。あ、もちろん、勉強はあんまり楽しくないけど」

 少女は照れたように舌を覗かせた。

「私は体育も好きかなぁ。結構、嫌う人も多いけどさ、身体を動かせるって結構すっきりしない?」

 すっきりするものか、と冬夜は返しそうになったのを堪える。いつまで経ってもイメージ通りの動きに到達できない冬夜は、苛立ちを覚えるばかりだった。とは言え、トレーニングを開始して、まだ一週間と経っていない。結果が出ないのも当然だと冬夜は理解していた。

「そう言えば部活も辞めちゃったんだっけ?」

 冬夜は答えない。

「何で辞めたの?」

「別に、理由なんてない」

「嘘」

 あまりに早い少女の宣言に、冬夜は思わず顔を上げた。その表情に余裕は無く、苛立ちが浮かぶ。

「確かに嘘だ。それが何か? お前には関係の無い話だ」

「……うわぁ、開き直ったし」

 それでも少女は楽しそうに笑った。

 冬夜にはよく分からなかった。

「とりあえずさ、手伝えとは言わないよ。だから、毎日学校には来てほしいな。南雲くん、明日から学校来ないつもりだったでしょ?」

 私、しつこいもんね、と少女は苦笑を漏らす。冬夜は頷いてやりたかったが、寸前で堪えた。

「演劇の感想が欲しいの。私たちは皆、製作に携わってるから、外からの冷静な意見が欲しいんだ」

「で、放課後の自由な時間をどれぐらい束縛してくれるんだ? 結果、俺が何か得をするのか?」

 手伝うまい、と冬夜は早口でまくし立てた。少女は困ったように肩を竦める。

「さぁ、私には分からないよ。それは南雲くんが見つけるべきだと思う」

「俺が?」

 そう、と少女は柔らかに微笑む。

「楽しくないってのはね、きっと南雲くんの思い込み。それがきっと目を曇らせているんだよ。だから、その思い込みを無くすことが一番」

 色んな場面に自分を置いて、そこで楽しみを見出す努力をしてほしいの――少女はそう言って締めくくる。いつしか二人は下駄箱までやってきていた。

「じゃあね、南雲くん」

 また明日、と少女は小さく手を振る。冬夜は振り返ることもなく、「気が向いたらな」と返して、去っていった。

 自転車置き場までやってきて、視線が無くなった。そこで冬夜は一度だけ校舎の方を振り返る。表情は無かった。ただ、冬夜の口が僅かに動く。ここは俺の世界じゃない、と自分に言い聞かせるように何度も唱えてから、やがて校舎に背を向けて自転車に跨った。

 その晩、冬夜が夜の街に出ることはなかった。自宅でトレーニングを済ませて、日付が変わる頃にはベッドで眠りに落ちた。


*


 次の日も結局、冬夜は学校に訪れた。この日は少女に捕まることなく、学校を抜け出すことに成功した。

 そして行ったり行かなかったりと本当に気分で一週間を過ごした。逃げることに失敗し、少女に捕まることもあった。その度に席に座らされ、クラスメイトのやる演劇を眺めることになった。

 そして文化祭の前日になる。もちろん冬夜は文化祭に顔を出すつもりはなかった。それを少女に伝えるために学校に訪れたのだが、やはりと言うべきか演劇の仕上げに付き合うハメになった。

 つくづく恐ろしい女だ――冬夜は頬杖をつきながら演劇を一通り眺めていた。劇的な変化はない。ただ熱意のようなものは以前にも増して感じられた。

「どう、かな?」

 全てが終わって少女が尋ねる。冬夜は「良くなった」と当たり障りのない返事をした。それ以外に何と言えばいいのだ、と冬夜は内心で呟く。

 クラスメイト全員にじっと見つめられて、感想を求められる側の心境も考えろ――冬夜が睨み付けると、少女は苦笑で応じた。

「じゃあ、帰っていいよな」

 冬夜は席を立ち、教室を後にする。何とも言えない気まずい雰囲気から逃げるかのように、冬夜は自然と早足になった。

「ちょっと待ってよ!」

 いつものように追いかけてくる少女に、冬夜は足を止めて振り返った。呆れたように息を吐き、少女が追いつくのを待つ。

「……ごめん、何も考えてなかった」

 少女は頬を赤く染めながら言った。

「あの場じゃ、良かったって言うしか無かったよね」

 気を遣わせてごめん、と少女は頭を下げた。

「別に」

 冬夜は感情のこもってない声で返し、再び足を進めた。それに気づいた少女は、慌てて冬夜に並ぶ。

「で、本当のところ、どうだった?」

「一週間で、あそこまで変わるんだな、と正直驚いている」

 冬夜は素直に感想を述べた。

「でしょでしょ! 感情のこもった演技ができてるでしょ」

 少女は嬉しそうに言った。しかし、そこで冬夜は首を傾げる。感情という言葉が妙に引っかかった。

「悪いが、それは分からなかった」

 真剣に演技をしているから、その熱意だけは分かった、と冬夜は続けて述べた。

「えー、感情、届いてないのかなぁ」

 少女は肩を落として、がっくりとうな垂れた。それを見て、冬夜は口を開く。

「いや、観客が悪かったんだろ。原因は恐らく俺にある」

 そうか、感情か――冬夜は内心で苦笑を漏らした。

「あ、何か良くないこと考えてる」

「……何故分かるんだ、お前」

「前も言ったけど、何となくなんだよ」

 それより、と少女は区切って眉をひそめる。

「お前って呼ぶのい加減やめてほしいなぁ」

 そう言われて、冬夜の目が僅かに泳ぐ。少女の頭から靴の先まで、さっと眺めた。

「まさか、と思うんだけどさ」

 少女は頬を引きつらせながら、続けて言う。

「もしかして私の名前、覚えてないの?」

 結局、外見から名前の情報を探し出すことはできなかった。冬夜は負けを認めるように、視線を逸らす。

「マジですかい……」

 少女はぱくぱくと口を動かすが、その後に続く言葉は無かった。

「ほとんど不登校だったからな」

 苦し紛れの言い訳をするも、ここまでに何度か学校を訪れている。その間に覚えるチャンスは、いくらでもあったはずだ。しかし冬夜は調べることもしなかった。その後ろめたさが、泳ぐ目に現れたのだろう。

 やがて少女は不機嫌そうに眉をひそめた。

「西浦 かなみ! それが私の名前です、ちゃんと覚えてよね?」

「了解、西浦さんだな」

 冬夜は、あまり覚えるつもりもなかった。しかし、その名前はすとんと胸に落ちていった。何度も帰り際に捕まった印象が強すぎて、むしろ覚えないという行為の方が難しくなっていたのだ。

「ねぇ、私以外のクラスメイトの名前、覚えてる?」

 西浦の質問に、冬夜はワザとらしく肩を竦める。言うまでもないだろう、と言わんばかりだった。それに少女は再び肩を落とす。

「……もう五月だよ?」

「さっきも言ったが、四月の半分以上は休んでいただろうに」

 階段をゆっくりと下りながら、冬夜は言い返した。

「で、だ。一応、話を戻すぜ。感情云々ははっきり言おう。俺の欠陥だ」

「欠陥、って……もっと別の言い方無いかなぁ?」

 西浦は苦笑で応じるも、それ以上に相応しい言葉は無い。言い換えるなら――としばし考え、思い浮かんだ言葉をそのまま口にした。

「壊れた」

「え?」

「俺は恐らく壊れてるんだ」

 冬夜は、そんなことを無表情で言う。

 西浦はしばらくの間、きょとんとしていた。冬夜の言葉が理解できない様子で、僅かに首を傾けた。

 そんな彼女の反応を見て、冬夜は少し後悔する。自らの欠陥を晒して、何がしたいのだろうかと冬夜は自嘲するように鼻で笑った。

 感情――それらは冬夜にとって邪魔な物でしかなかった。感情があるせいで頭が腐りそうになるほど悩み、狂う以外の逃げ道が無くなったのだ。

 あれから冬夜は感情を殺し続けてきたのだろう。どれほど殺しても、傷つけても、踏みにじっても、蹴散らしても、冬夜の感情は揺れない。もはや感情の殺し屋と呼んでも間違い無いだろう。

 それは逃亡生活の中で、罪悪感に押しつぶされないように更に成長を続けた。いつしか、どんな状況であろうとも、無意識に感情を押し殺すことができるようになっていたのだ。

 だから冬夜自身もどのような感情が渦巻いているのかも知らずに、いつの間にか綺麗さっぱり処分されていた。

 決定的な欠陥を目の当たりにして、冬夜は静かに俯いた。顔に陰りがきざし、瞳が濁る。

 自分の世界は暗く、汚い路地裏でなかったか――自問自答を繰り返す。

 こちらは自分の世界ではないと割り切って、冬夜は止まっていた足を再び進めだした。

「なら直そうよ」

 踏み出そうとしたところで足を止め、冬夜は即座に振り返った。西浦の言葉は唐突で冬夜は理解できずに、思わず声を漏らす。

「は?」

「だからさ、壊れてるんなら直す努力しようよ」

「決定的だぜ?」

「粉々?」

 そこで冬夜は返答に困る。一体どう言えば西浦が納得するだろうか。冬夜は逡巡する。

「ん、大丈夫、絶対直るって」

 悩んでいる冬夜を余所に、西浦は微笑んだ。

 その根拠は一体どこから――と言いそうになるも、冬夜は言葉を飲み込んだ。その代わりに吹き出す。失笑と苦笑の混じったもので、冬夜はそれを噛み殺すことができなかった。

 それぐらい気楽に考えられたら、自分も狂うこともなかったのだろうか。その思いが胸に僅かな痛みをもたらした。

「な、何よ」

 少女の頬が朱色に染まってゆく。それを見て、冬夜は更に愉快な心地に陥った。

「お気楽でいいよな、って」

「考えすぎるより、マシでしょ」

 ポジティブがいいんだよ、と西浦は言うが、不機嫌そうに顔を背けてしまった。

「でも、まぁ――」

 西浦は真顔に戻り、冬夜を見つめて口を開く。

「笑えるんだったら、大丈夫だと思うよ」

 やんわりと西浦は微笑む。大丈夫――その言葉が冬夜の心の中に落ちていった。腹の底で何かが疼く。蓋をして無視してきた何かが騒ぎ出す。それが殺してきた感情なのかな、と冬夜は静かに考え、蓋を強く押し付けた。

「……だったら、いいな」

 冬夜は西浦に背を向けて、階段を下りた。そのまま廊下を抜けて、下駄箱にたどり着く。

「それじゃ、また明日」

 西浦は、冬夜の返事を待たずに去っていった。そこで思い出す。

「……明日って、来るつもりないんだけどな」

 誰もいない昇降口で、冬夜の言葉だけが空回りする。やがて言葉は校舎から溢れる活気に呑まれ、かき消されてしまった。

 目的を果たせなかった冬夜は、何のために学校にやってきたのだろうと肩を落としながら、帰路についた。


*


 冬夜が家に着いたと同時に、玄関の扉が勢いよく開かれた。姿を現したのは夕夏だった。顔は青く、いつものように「学校は?」などと声をかけてこない。それほどに余裕の無い夕夏を見るのは久しかった。

「どうかしたのか?」

 思わず冬夜は尋ねた。穏やかに刺激しないように心がけたが、夕夏の焦りは消えない。

「祐介さんがっ……!」

 上村が、と冬夜も口ずさむ。

「入院したの!」

「は?」

 冬夜は訝しむように眉をひそめた。何故、と続けて尋ねる。

「複数の、人に襲われた、って」

 これから病院行ってくる、と夕夏は自転車に跨った。その後ろ姿に、冬夜は最後の質問を投げかける。

「どこの病院?」

「県病!」

 夕夏はそれ以上は何も言わずに、自転車を漕ぎ出した。冬夜は夕夏の後ろ姿を呆然と見送る。

 じわりと滲み出す胸騒ぎは、やがて無視できないほどの広がりを見せた。冬夜は自転車の向きを変えて、再び跨る。向かう先は言うまでもない――夕夏の言った県立病院だ。


*


「……お前まで来るとは思わなかったよ」

 病室のベッドに横たわる上村は、口の端を僅かに上げながら言った。その顔はミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされている。笑っているように見えるが、顔の大部分が隠れ、表情が読みとりにくかった。

 何があった、と冬夜が尋ねても、上村は首を横に振るばかりだった。

 上村の足は吊られている。分厚いギブスを見つめていると、冬夜は不意に吹き出した。

「ちょっと……何がおかしいのよ?」

 じろりと夕夏に睨まれて、冬夜は目を逸らした。本当に自分が手を下さなくても、いつか死んでくれるような気がした、なんて口が裂けても言うつもりはなかった。

 やがて病室に沈黙が訪れる。冬夜は静かに病室を後にした。上村の視線を、その背中でひしひしと感じた。

 病室から少し離れたロビーで空いている席に腰を下ろした。ブラウン管の分厚いテレビがニュースを流している。しかし高校生一人が集団暴行を受けて、入院したという情報は無かった。冬夜は背もたれに身を預けて、そっと息を吐いた。

 そのまま、ぼんやりとニュースを眺め、夕夏を待つ。ニュースが終わり、次の番組が始まった頃、ようやく夕夏がロビーに姿を現した。どこか不機嫌そうで、冬夜は身構える。

「……兄ちゃんに用があるって」

 ぼそり、と夕夏は言った。

「分かった。すぐ済ませてくるから待ってろ」

「先、帰る」

 冬夜の横を過ぎ去ろうとする夕夏の肩を掴み、冬夜は再び同じ言葉を口にする。

「待ってろ」

「何――」

「何度も言わせるな」

 冬夜の語気が強まり、眼光が鋭くなる。それに気圧されて、夕夏は息を飲んだ。やがて夕夏は小さく頷いた。

「すぐ戻る」と残して冬夜は病室に向かう。スライド扉を開いた冬夜は僅かな笑みを浮かべたまま軽快に口を滑らせた。

「よう、色男」

 夕夏がいる時に言えなかった皮肉を吐きながら、冬夜は病室に踏み込んだ。上村の横までやってきて、彼の顔を覗き込む。

「夕夏を待たせてる。だから、さっさと教えろ、何があった?」

「お前にしちゃ賢明じゃないか」

 上村は目を細めた。

「お褒めの言葉は今度でいい。さっさと言え」

 冬夜は上村の右足をデコピンしながら言った。上村は顔色一つ変えない。むしろ冬夜の指が痛かった。

「お前に助けられた日、あったろ?」

「ああ……あいつらなのか?」

 そうだ、と上村は小さく頷く。

「まったく……小さいことをやるもんだな」

「今回は三人じゃない。もっとたくさん人がいた」

 そう、と冬夜は素っ気なく返す。しかし上村の瞳に浮かぶ焦りを見て、眉をひそめた。

「まだ何かあるのか?」

「あいつらは、お前の住所を知りたがってた」

「教えたのか?」

「馬鹿野郎、そんなことしねえよ。結果がこれだ」

 上村は腕を広げてみせる。どこかが痛んだのか、上村は小さく唸った。

「じっとしてろよ。馬鹿か、お前」

「それはいい……それよりも俺の学校はバレた。あいつらは念のために、学校に行くって言ってやがったんだ」

 ほう、と冬夜は返した後に小さく唸る。

「今日は、それらしきを見てないな」

「たぶん、明日、だと思う」

 上村の目は笑っていない。どこか苦々しげな色を浮かべていた。

「文化祭となると、外のヤツが自由に出入りできるからか?」

 冬夜が尋ねると、上村は「そうだ」と答えた。

「そこまで賢い連中かね?」

「だからと言って、無警戒で過ごすのも馬鹿らしいだろうが」

 上村の声が少し荒れた。そして激しく咳きこむ。その背中をさすることもなく、冬夜は冷たい瞳で上村を見下ろす。

「で、俺を呼んだ用件は?」

「……何かあった時、夕夏を守ってほしい」

「馬鹿か、お前」

 再び同じセリフを吐いて、冬夜は苦笑で返す。

「妹を守らない兄が、どこにいる?」

「そう……だな」

 上村の瞳に安堵の色が浮かぶ。そして眠いと小さく呟いた。

「寝ろ」

 ついでに死ね、と心の中で呟き、冬夜は病室を後にした。

 さて、どうしたものか――冬夜はロビーで待たせている夕夏の下に向かいながら考える。

 ベストの選択肢は、明日の文化祭に夕夏を参加させないことだった。つまり自宅謹慎が楽で確実だ。念のために冬夜も家で待機しながらサボれるという特典付きだが、ハードルが高い。高校に入って初めての文化祭を休めと言われて、夕夏が受け入れるような気がしなかった。こればかりは上村の力を借りても難しいのではないかと思えるほど、夕夏は文化祭を楽しみにしているのだ。

 案の定、ロビーで待っていた夕夏に尋ねてみるも、一蹴される。

「嫌だよ、行きたい。祐介さんと一緒できないは悲しいけど」

「その上村のお願いなんだが」

 冬夜が言うと、夕夏は少し悩んだ。

「……だったら、何で私に直接言わないわけ?」

 しまった、と冬夜は内心で舌打ちを漏らす。

 もはや最後の手段しかなかった。それを思うと、冬夜は憂鬱になった。

 二人は病院を出て、それぞれの自転車に跨った。

 行くつもりなんて無かったんだけどな、と冬夜は呟く。それは町の喧噪に呑まれていって、夕夏は気づかなかった。

 どうやら、今回の文化祭は参加しなければならないようだ――苦々しく顔を歪めながら、冬夜は肩を落とした。

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