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殺人鬼の日常  作者: 小石 汐
ふたたびがくえんにて
28/30

反逆

 男が一人、木々の合間を疾走する。口元は不気味に歪み、流れる汗を拭うこともなく、ただ一心不乱に進み続けた。腰元には一本の刀が差しており、それに片手を添えている。それでも走る速度は遅くない。足元は苔やら葉が一面を覆っており、平らですらない。そんな中を走り抜ける彼の体幹筋は素晴らしいものだった。

 やがて低めの白い壁が、彼の視界に現れる。彼の目的地であり、そこで走る速度を緩めた。近くの木に身を寄せて、観察する。見張りの人を立てている気配は無いが、いくらかの監視カメラが機能していた。校門は修繕されず、崩れたままであることから、人手が足りていないのだろうと男は予測する。

 行くなら今しかないと冷静な分析をしつつも、同時に肩を落とす。現状の学園に突入したところで、面白みの欠片も無いかもしれないと、男は明らかに失望していた。走っている最中には瞳に獰猛な光を宿していたが、今はそれすらも失っている。眠そうに眼を擦りながら、その場に腰を下ろした。

「どうするかねぇ……」

 周囲に誰もいない中、男は小さく呟く。とは言え、ここまで来たのだ。答えは、ほぼ決まったようなものだった。

 せっかくだし――そう呟いて、男は腰を上げた。考えている時間は数十秒にも満たないが、その間にあからさまな変化が生じる。失意の色に塗りつぶされた瞳に、再び獰猛な光が訪れていた。


*


 檻には毎日決まった時間に食事が運ばれてくる。冬夜たちは既に時間感覚を失っているため、それが本当に決まった時間なのかは分からなかった。しかし、確かに食事の時間は訪れる。そこを唯一のチャンスと定めて、冬夜は待ち続けた。

 明確な目的が定まってからの待つ時間と言うものは、まるで意思を持ったかのように変化する。まだかと焦る冬夜の心地を、まるで嘲笑うかのように時の流れは遅くなった。

 焦らされ、ただ精神だけが削られてゆく感覚に、冬夜は苛立ちを隠せなくなっていた。指や足が小刻みに震える。塗り固められた嘘が剥がれ、露になった冬夜の本心が早く、早くと急かす。それでも待つしかなかった。じっと堪える以外に何もできなかった。

 失敗は許されない。このチャンスを逃せば、また次のチャンスまで待てるような根気は残っていないだろう。殺意ではなく、溢れんほどの緊張感をまといながら、冬夜は不意に捉えた足音に唾液を飲み下した。

 別の檻から食事の配給を始めたのか、喧騒が湧き立った。そんな中で冬夜はひたすら足音のみを捉える。それが近寄ってくると、冬夜の心臓も早鐘を打ち始めた。

 出来る、絶対に出来るはずだ――冬夜は自らに言い聞かせた。ついに、この檻にも食事が運ばれてきた。檻の隙間から食事を差し出す看守を一瞥し、冬夜はゆっくりと立ち上がった。

 刹那、全ての動きが止まった。看守は目を見開いて、冬夜を見つめている。不意に動き出した冬夜に驚いたのだろう。しかし、それ以上の動きはない。食事の乗ったトレイを持ったままの姿勢で固まっている。冬夜はその隙に看守の腰元にぶら下がっている檻の鍵に手を伸ばした。看守の抵抗はない。あっさりと鍵を手に入れて、冬夜は檻の鍵を開いた。

 脱出成功――それと同時に世界が動き出す。目の前にいたはずの冬夜が消えていることに、看守は目を剥いた。しかし看守が声を出す前に、冬夜は後ろから右腕一本で首を絞め上げる。呻く看守に謝罪の言葉を呟きながら一瞬で捻り、頸部を破壊した。泡を吹き、絶命している看守を優しく横たえながら、冬夜はもう一度、「ごめん」と呟いた。

「な、南雲さん?」

 佐伯が驚愕に打ち震えた。先ほどまで檻の中にいた冬夜が、いつの間にか脱出を果たし、更に看守を殺しているという光景に戦慄したのだ。佐伯には何が起こったのか、まったく分からなかった。

 しかし佐伯の呼びかけに、冬夜は応じない。自らの手を見て、ぶつぶつと何かを呟いている。

「……できた」

 はっきりと聞き取れた冬夜の言葉に、佐伯は思わず尋ねる。

「何がっすか?」

 ようやく冬夜は佐伯を見た。その瞳は今までに見たことのない色であったが、佐伯は不思議と落ち着いた。それほど深く敵意の無い色だったのだ。

「逃げるか、どうかはお前らに任せる」

 そう言って、冬夜は鍵を佐伯に向けて放り投げた。それを反射的に受け取ったが、一度脱走に失敗しているため、佐伯は困惑せざるをえない。また捕まるのなら、何度逃げても同じだと一瞬だけ考えてしまった。

「俺は行く」

 自らの居場所を今度こそ失わないようにするために。確固たる決意を胸に秘め、冬夜は檻に背を向けた。

 薄暗い廊下がずっと続き、同じように檻も並んでいた。湿気が酷く、陰鬱とした空気の中で、蛍光灯だけが低く鳴いていた。

 冬夜は、ゆったりとした足取りで出口を目指す。他の檻を一瞥することもなく、じっと行く先を見つめていた。

 しかし他の檻に閉じ込められた生徒たちは、冬夜の姿に目を剥く。同じように軟禁されていたはずの冬夜が、不意に現れたのだから当然だ。驚きのあまり声にもならず、悠々と過ぎ去ってゆく冬夜をただ見つめるばかりだった。

 ここから出して欲しい――そう誰もが願ったが、それを口にする者はいなかった。学園で見た時の触れれば斬られかねない危うさをはらんだ冬夜を、呼び止めることなどできなかったのだ。

 いくつもの檻の横を過ぎたところで、不意に冬夜は呼び止められる。檻の中を覗き込むと、壁に寄りかかったまま、微笑みを浮かべている緋人の姿があった。

「また行くのかい?」

 冬夜は頷く。それ以上の反応を示さなかったが、冬夜は足を止めて、緋人を見つめていた。

「お前なら、この檻から逃げ出すことなんて簡単だろ?」

 あの馬鹿げた力を行使すれば、この檻も一瞬にして形を変えるだろう。それにも関わらず、檻でじっとしている緋人のことが理解できなかったのだ。

「うん。でもまぁ色々とあるんだよ」

 緋人の言葉に、冬夜は眉をひそめる。人離れした力を持ち、かつ父親が学園の出資者であるにも関わらず、動くことを躊躇う理由が気になった。

「どうかしたのか?」

 冬夜が尋ねると、緋人は肩を竦めてみせる。

「僕用の毒がどれぐらい広まっているのか分からないけれど、下手に動くのは避けたいんだ」

「毒……母上のか?」

 そう、と緋人は頷いた。それは妥当な判断だろう。冬夜はそれ以上、質問を投げかけることはなかった。

「そうか、生き残れるといいな」

 冬夜は再び足を進める。その姿を見送る緋人は、大きく目を見開いた。冬夜の口から、そんな言葉が出てくるとは思いもしなかったのだ。

 いつしか檻の前から冬夜の姿は消えていた。緋人は息を吐き、壁に背中を預ける。どことなく、すっきりとした冬夜の顔を思い出して、「頑張れ」と呟いた。もちろん、それが冬夜の耳に届くはずがなかった。

 薄暗い道を進む冬夜は、檻を抜けたとは言え、勝機があるのだろうかと自問する。難しい、もしくは不可能と答える以外に無かった。やがて地上に続くであろう階段を前に、冬夜は僅かに足を止める。長く続く螺旋階段を見上げてみるが、出口は視認できなかった。

 それでも進むしかない、自らの居場所を守るために。

 階段を踏みしめ、ゆっくりと上ってゆく。幅の狭い階段で人が二人並んで進むと、少し窮屈になるだろう。階段は鉄でできており、踏みしめても微動だにしない。ただ、冬夜はできるかぎり足音を殺して進んだ。

 しばらく進むと、冬夜の耳が音を拾う。ぼんやりしていれば聞き逃すほどの些細な音だった。冬夜が顔を上げると、監視カメラがピントを合わせているのか、時折モーターの動くような音が僅かに漏れてくる。

 無用心だったと少し後悔しながらも、冬夜は割り切った。脱走はバレただろう。冬夜は足音を消す努力を止めて、階段を駆け上り始めた。


*


 突然、鳴り響いた警報音は、会議室の一つにも届いた。岩永は顔をしかめ、真祖は小さくため息をつきながら口を開く。

「何だろうねぇ……嫌な予感しかしないよ」

「警報とは、そんなモンだろ。とりあえず行ってみようぜ」

 二人とは違って、人狼はどことなく嬉しそうだった。一番に席を立ち、会議室を後にする。

 岩永は険しい顔つきのままであったが、人狼の後に続いた。二人とも会議室を出て行くので、一人残された真祖も慌てて、二人の後を追った。


*


 警報は未だ鳴り続けているにも関わらず、冬夜の前に敵が現れることはなかった。上から人が駆けつけて来る気配も無い。

 冬夜はひたすら地上を目指した。その間も気を抜くことはない。常に上下左右に気を配り、五感を研ぎ澄ませていった。

 上り続けると階段は唐突に終わりを告げる。鉄の扉が一枚だけあり、それ以外に外に通じてそうなところは無かった。いきなり扉を開くことはせず、耳を当てて外の気配を探る。しんと静まっているが、気配を殺して待ち伏せされている可能性も否定できない。冬夜はしばし逡巡したが、迷っていても仕方が無いと割り切った。

 そっと扉を開けて、外の様子を垣間見た。すっと伸びる廊下に人の気配は無く、警報音だけが響き渡る。

 冬夜は扉を押しのけて、廊下へと出る。遮蔽物の無いところで無用心に首を振ってみるが、やはり待ち伏せは無かった。それでも油断することなく、冬夜は慎重に足を進める。地下から出てきたばかりで、自分の居場所すら分からなかったが、職員室を見つけたことにより、大体の位置を把握することができた。

 それにしても一番最初に辿り着く場所が職員室とは、随分とハードルが高いものだ――冬夜は思わず苦笑を漏らすが、足を止めることはなかった。そっと職員室の扉に寄って、耳を澄ます。やはりと言うべきか、ここも人の気配が無かった。そっと扉を開いて、中を覗く。がらんとした職員室は蛍光灯の明かりが点けっ放しになっているが、人はいない。どことなく暗いイメージがするのは、この部屋に窓が無いせいだろう。人工の光では並を拭いきれない闇が、部屋の隅にはびこっている。

 いつしか警報音が消え、しんと静まった中、冬夜は立ち尽くす。警報音で全ての教師が出払っていることは理解できるが、未だに自分が襲われていないことが、あまりにも不自然だった。

 そこで不意に浮かび上がってきた別の可能性に、冬夜は思いを馳せた瞬間だった。開けたままの扉から僅かに流れ込んできたのは銃撃の音だった。これで冬夜は確信する。あの警報は、冬夜が逃げ出したことに対して鳴ったのではないのだ。

 痛む左腕に右手を添え、冬夜は走る。銃撃の音は廊下を反響しているせいで、方角を掴みにくかった。それでも冬夜は進む。銃撃は絶え間なく続いている。それに誘われるように、武器を持っていないことも忘れて、冬夜は足を進めた。


*


 岩永は眉間にシワを寄せていた。その後ろに続く真祖と人狼は何も言えず、静寂を保った。

 三人が向かっているのは学園の正門だ。警報の後、岩永の携帯が鳴った。部下の一人が息を切らしながら告げたのは敵襲――外からの攻撃だった。

 そんな馬鹿なと、三人ともが同じ思いでいた。学園に牙を剥くような馬鹿がいるのだろうか。否、学園だけではない、政府――つまり国家そのものを敵に回すと言っても過言ではない。

 岩永は暗部に所属している身であるが故に、その怖さをよく知っている。敵に回すなんて、もってのほかだ。だから、学園から自分の息子が脱走したと聞いたときは耳を疑い、怒りを通り越して呆れ果てた。何て馬鹿なことをと呟き、岩永は頭を抱えた。

 幸い、息子を捕縛したのは岩永本人であり、命まで奪われる事態にはならなかった。その後、縄で締め上げ、牢にぶち込んだ。「しばらく頭を冷やせ」と息子に告げる声は、僅かに震えていた。

「なぁ、岩永よ」

 おもむろに口を開いたのは人狼の男だった。あまりにも落ち着いた口調は事態を理解していないのではないかと疑いたくなるほどで、岩永は眉間のシワを一層深く刻みながら振り返った。

「襲撃者って――」

「ああ、お前らが取り逃がしたアイツだろうな」

 要らぬことを言った――岩永はあまりにも自然に出た言葉を少し悔いた。やはりと言うべきか、人狼の表情が無くなり、真祖もいつになく冷たい笑みを浮かべる。しかし、それに動じることなく、岩永は更に口を開く。

「すまん、今のは言い過ぎた」

 自らの非を認め、頭を下げる。二人はそれで溜飲を下げたのか、空気が弛んだ。

 人の身であり、彼らと同等の位置に立つことができた岩永――人外で圧倒的な戦力を有する二人が、彼に一目置いているのは、そういったところがあるからだろう。常に冷静であろうと努め、自らの非は素直に認める。判断は的確で、二人の窮地を何度も救ってきたのだ。

 人を越えられない岩永だったからこそ、別の要素で補うことができたのだろう。元より力を持つ真祖と人狼の二人では思いつくことすらままならないのだ。

「既に正門を突破された。ヤツは地雷原で唯一の安全地帯を一直線で進んできているらしい」

 最後に「化け物か」と吐き捨てた。後ろに続く二人の顔にも思わず苦笑が漏れる。

 そこで真祖の足が止まった。目が大きく見開かれ、微動だにしない。見てはいけない物を見てしまったかのような驚愕が、顔にありありと現れていた。

「おい、どうした?」

 足の止まった真祖に気づき、人狼が尋ねる。しかし真祖は答えることがない。ゆるゆると首を横に振るだけだった。

 校舎から、ゆらりと人影が現れる。三人との距離は随分とあるが、人狼や真祖の視力を持ってすれば、表情まで見て取れた。真祖が以前見たときとは別人のように見えた。絶望だけを身にまとい、殺戮を繰り広げていた彼の瞳に、強い光が宿っている。堂々と三人に近寄ってくるのは男だった。

 真祖と人狼の二人が足を止めていることに、岩永も気づいて振り返った。しかし彼の視力では揺れる人影を認識できるものの、誰なのかまでは分からなかった。ただ、それでも異常事態であることは理解できる。捕縛した生徒は、教員の補充が済むまで、牢獄で監視する予定だったのだ。

 なのに、彼は自由に歩き回っている。地下で何かあったのだろう。岩永は即座に判断し、対策を練る。

「なぁ、あれって南雲 冬夜じゃねえか?」

 人狼の言葉を聞き取りながら、岩永は頭をフル回転させる。

「南雲は俺が相手する。カミは地下牢を制圧、シンは侵入者の撃退に向かって」

 カミとシン――それぞれ人狼と真祖は頷き、その場を離れた。奥の影は一瞬だけ足を止めたが、再び進み始める。二人の距離は十メートルほどになった。そこで岩永はホルターケースから黒金を抜いた。両手にそれぞれ握り締めているのはハンドガンだ。銃口はぴたりと冬夜を捉えている。

 それを見て、冬夜はぴたりと足を止めた。

「分かっているみたいだな。それ以上、進めば撃つ」

 岩永は忠告する。冬夜は唇を噛み締めて、僅かに俯いた。

 こんなことを自分が言える立場なのだろうか――湧き上がる疑問を払拭できずに、冬夜は震えていた。今更、死ぬことが怖かった。やっと手に入れた居場所だけでなく、自らの命まで失ってしまう可能性が、純粋な恐怖をもたらす。

 今まで何と無謀な生き方をしてきたのだろうか。過去を振り返る度に、悪寒が冬夜の背筋を抜けてゆく。

 それでも今を越えなければならない。どうしても進む必要があった。あまりにも長い間、停滞し続けた冬夜が、その一歩を踏み出すのに、酷い労力を要した。

 冬夜が一歩踏み込んだ瞬間、足元を銃弾が跳ねた。

「最後の警告だ」

 岩永は冷ややかな視線を冬夜に送る。それに気圧された冬夜は、今まさに踏み出した一歩を戻したくなった。しかし今は停滞したくなかった。死を、そして圧倒的戦力を前にして、冬夜は引きつった笑みを漏らす。死に対する恐怖と、進めている自分への確信が混ざり合った笑みだった。

 ようやく見つけた自らの居場所――しかし、それを得るには、汚れすぎている。胸を張って、その場を得るために、冬夜は贖罪の道を選んだ。

 その一歩として、生徒の学園からの解放を目指す。彼らが解放を本当に願っているかなんて、冬夜には分からなかった。むしろ学園を居場所としていた佐伯や緋人からは、恨まれてしまうかもしれない。贖罪と言うものの、結局は自らを満足させるだけの行為なのは理解していた。

 でも、それでいい。足元には着弾した跡が残っている。それをしばらく見つめた後、冬夜はゆっくりと顔を上げた。

「できれば、話で解決したい」

 腐るほど停滞してきた。だから、冬夜はもう足を止めたくなかった。正しいかどうかなんて分からない。時間をかけて、ゆっくりと判断すれば、もっと良い選択を導き出せるかもしれない。しかし、それでは何も変わらない。結局、言い訳をずらずらと並べて、回避してしまうだろう。

 直感的に進み続ける――そう心に誓って、冬夜は頭を下げる。随分と久しぶりな行為であったが、その動きに迷いはない。願い出る立場であることを理解しているからこそ、その行動は自然と行われた。

「そのためだけに、わざわざ脱走してきたのか?」

 岩永の質問に、冬夜は一度顔を上げて頷く。訝るような岩永の視線が、冬夜を貫いた。

 実際、その通りだった。現状のコンディションで戦えるはずがない。武器も無く、そして左腕は骨に異常があるのか、断続的に酷い痛みを発している。だから、話での解決を望み、それを実現するために頭を下げたのだ。

 しかし、それが実現する可能性など無いに等しい。話の通じる相手だったら、母上が狂うこと自体が、そもそも無かっただろう。それを理解しているにも関わらず、冬夜は頭を下げ続けた。

 止まっているよりはマシだ――それは、ただの自己満足でしかない。それも理解した上での行動だった。

「それは――」

 険しい表情のまま岩永が口を開いた。もちろん答えはノーだ。しかし、その声は掻き消された。

「岩永っ! 避けろ!」

 余裕の無い声で、真祖が叫んだ。それを聞いて、岩永が反射的に身を屈めると、その上を銀の閃光が薙いだ。全身の毛穴が開き、冷たい汗が噴き出すのを感じながらも、岩永はそのまま前転して、襲撃者に向けて発砲した。

 しかし突如現れた影は、それをひらりと躱す。岩永は続けて発砲するが、襲撃者の身体を捉えることはなかった。

 あまりにも唐突に始まった戦闘に、冬夜は呆然と立ち尽くす。開いた口は閉じず、踊るように銃弾を躱す男の姿を目で追っていた。

 銃弾を躱しながらも真祖の追撃を防ぎ、反撃までする姿は圧倒的だった。冬夜はこの男を知っている。

「よおおう、随分と変なことになってるじゃねえかあああ?」

 真祖を退けた秀は、冬夜を一瞥しながら言った。狂喜を滲ませる瞳に射竦められて、冬夜の背筋を悪寒が抜けてゆく。初めて出会った時以上の戦慄が冬夜を襲ったのだ。

 秀は強くなっている。それは一目見るだけで分かった。真祖の血族である西浦と戦っただけでボロボロにされた冬夜では、岩永と真祖の二人を同時に相手できる自信は無かった。たとえ武器があったとしても、秀には勝てないかもしれない――通常ならば。

 冬夜は薄々ながら、自らに宿っている能力に気づきつつあった。

 しかし、秀があまりにも派手に動き回って戦うため、冬夜と岩永から離れてゆく。真祖もそれを追い、二人は校舎の影に姿を消してしまった。嵐のようにやってきて、すぐに去っていった二人を呆然と見つめていたが、冬夜は気を取り直して、岩永に目を向ける。そこで分かったのは、もはや話し合いで済ますことは無理だと言うことだった。向けられる銃口と視線、もはや話す余地など無いと言わんばかりの拒絶を示す構えだった。

「どうやって外と連絡を取った?」

 岩永は、冬夜と秀が連携して事を運んだと考えているらしい。しかし、これらは全て偶然の出来事であり、冬夜は即座に否定する。それでも岩永が信じることはなかった。

「分かった、後でゆっくりと話を聞こう」

 銃口が僅かに動き、狙いが変わる。狙われているのは足元だ。冬夜は横に飛んで、銃弾を躱すが、相手が標準を定め直す方が圧倒的に速い。続けざまに転がると、何とか追撃を被弾せずに済ますことができた。

 左腕の痛みも忘れ、冬夜は無理やり立ち上がる。銃口から目を離さないように、バックステップで距離を稼ぐ。

 そこで岩永は冬夜の意図に気づいたらしく、表情を一変させた。

「待て!」

 岩永が叫びながらトリガーを引き絞るが、遅かった。冬夜は校舎の中に飛び込んで、射線から逃れる。そのまま後ろを確認しながら、階段を駆け上った。

 ここなら遮蔽物がたくさんあるため、岩永も慎重にならざるをえないだろう。実際、すぐに追ってくることはなかった。銃を構えたまま、岩永は一歩ずつ進む。

 冬夜は岩永の様子を探ろうと、階段の上から僅かに顔を覗かせる。刹那、頬を銃弾が掠めて、冬夜は冷や汗を流しながら頭を引っ込めた。

「無駄な抵抗はやめておけ。素直に従えば、悪いようにはしない」

 これが最終警告だ――岩永は最後にそう付け加えた。つまり従わない場合は、容赦なく殺すと言っているのだ。

「お前ほど強ければ、学園でも生き残り、きっと仕事を選べる……卒業するまでの我慢じゃないか」

 一歩ずつ階段を上りながら、岩永が言った。冬夜はそれを聞いて、僅かに心が揺れる。この学園にいても、自らの居場所は作れるだろう。むしろ元の生活に戻った方が、居場所を作るのは難しいかもしれない。唯一、居場所を作ってくれた西浦は、もういないのだから。

 ならば、何故、自身は戦っているのだろうか――不意に肩から力が抜けた。極度の集中力で忘れていた左腕が痛む。この学園で居場所を――。

「作っていいのか?」

 理不尽なルールが敷かれ、人が傷つき、死んでゆく学園で、自らの求めた居場所を守り抜けるだろうか――否、守れるはずがない。自らの居場所を守るためにも、今ここを乗り越えなければならない。

 冬夜は反転し、一気に階段を下った。驚愕を滲ませながらも、岩永はトリガーを引く。二つの銃口が火を噴き、人を絶命に至らせる小さな鉛を放つ。

 見える――冬夜はそれを躱し、一気に距離を詰める。一瞬ではあるが、時の流れを意図的に遅くすることができた。

 冬夜は、自らの持つ能力が時に干渉する物だと、薄々気づいていた。今までの異変から推測し、決定的になったのは、薺を狙撃から救った時だった。緩やかに流れてくる弾丸を見て取れることも充分な異変ではあるが、その弾丸より速く動けることは不可能なはずだ。つまり、何かの能力が発動している――そう考えたのだ。

 鼻血、身体の痛みや意識の消失は、その反動だろう。しかし能力の発動条件だけが、よく分からないままだった。特に念じた覚えもなく、勝手に発動することから、あまりにも不安定な力だった。冬夜は出来るかぎり、この能力に頼らない戦い方をするつもりだった。

 今回は賭けに近かった。ここで能力が発動しなければ、銃弾が冬夜の頭蓋骨を叩き割り、死に至らしめていただろう。それでも冬夜は賭けるしかなかった、自らの希望を守るために。

 時の流れが元に戻る。一瞬にして距離を詰められた岩永は目を剥くが、舌打ちを漏らせるぐらいには余裕があった。冬夜の放った右腕を銃のグリップで受け止める。逆に冬夜の手が痛み、顔を歪めた。

 それでも相手に銃を撃たせる隙を与えまいと、更に前蹴りを放つが、やはり受け止められた。銃を扱う以上は接近戦を苦手としているに違いないと思ったが、そうでもないらしい。体術の心得があるのか、岩永は銃のグリップを使って反撃に出る。打撃戦に発展したことは予想外だったが、冬夜からすれば嬉しい誤算でもある。中距離をキープされて銃を乱射された方が、勝機を掴みにくかったからだ。

 冬夜は痛む左腕も駆使しながら、岩永の打撃を捌き続ける。打撃を捌くことに集中していたせいか、不意に銃口を向けられると、冬夜は慌てて顔を背ける。打撃と同時に銃撃も忘れないあたり、流石としか言いようがなかった。

 それでも冬夜は、岩永から離れることができなかった。ここで距離を取ったら、遮蔽物に身を隠す前に銃撃で終わらされてしまうだろう。冬夜は焦らされるように拳や蹴りを放つが、岩永にクリーンヒットすることはなかった。それどころか、グリップで受け止められて、手や足を痛めることさえあった。

 勝てない――そんな思いが頭を過ぎるが、手を止めたら、その場で殺されるだろう。息を乱しながらも、冬夜は一心不乱に攻撃を続けた。

 冬夜はローキック織り交ぜながら、打撃を上下に散らし、リズムを変える。奇襲が成功するとしたら、最初だけだ。急激な変化に、岩永の受けが僅かに崩れる。その綻びを狙い澄まして、冬夜は更に打撃を重ねた。

 刹那、岩永が僅かに体勢を崩す。今しかないと冬夜は全力で右の拳を放った。

「――っらぁ!」

 渾身の一撃は、岩永の頬を掠める。そんな馬鹿な――冬夜が目を剥くと、岩永は僅かに微笑んだ。誘われたことを理解するが、渾身の一撃を放った冬夜の身体は言うことを聞かない。腹部と顎に銃のグリップを叩き込まれ、冬夜の視界が溶けた。

 痺れと冷たさだけが頬に残り、冬夜は身動きが取れなくなった。回復してきた視界から、自らが地面に這いつくばっていることを理解する。冬夜は唇を噛み締め、瞼を閉じた。勝てなかった。全てが終わってしまった。


*


 その頃、自由奔放に戦い続ける秀は、吸血鬼の真祖を置き去りにして、人狼と対峙していた。地下牢を目指している人狼を、秀が見つけ、そのまま襲い掛かったのだ。

 秀が刀を振るうと、銀の閃光が迸る。空間すら切断しかねないと思わせるほどの鋭さをはらんだ一撃は、ただ空を斬るだけだった。

 人狼は大きく飛び退き、秀の一撃を躱した。体勢を整えると、鋭い犬歯を剥き出しにして低く唸る。茶色い毛が全身を覆っている姿は、もはや人の物ではなかった。

 ただ、瞳に宿る知的な光は失われていない。それが秀にとって厄介だった。知性と引き替えに、身体能力を差し出したのが人だ。実際に知性を必要としない狩猟民族は、未だに素晴らしい身体能力を有している。ただ、彼らに新しい知識を与えると、身体能力が大幅に落ちるらしい。何かを得るためには、別の何かを差し出さなければならない、と言うことなのだろう。

 しかし秀が現在、相対しているのは、両方を兼ね備えた存在だった。人を遥かに凌ぐ身体能力に、知性が僅かに残っているため、厄介極まりない。

 辛い戦いにも関わらず、秀は笑みを絶やさなかった。人狼の繰り出す両腕を躱しながら、更に刀を振るう。少しでも回避に失敗すれば、刀ごと全身を砕かれるだろう。そのスリル感すら味わっているように見えた。

 人狼の攻撃を躱し、秀は刀を水平に薙いだ。しかし人狼は凄まじい反射速度を見せて、刀のリーチから脱出した。それを逃すまいと秀が追いかけるが、人狼が牽制の一撃を放つ。秀は身を捩って躱すが、紙一重となった。人狼の拳が秀の冷や汗を叩き、四散した。

「いいねぇ……最高だよおおお!」

 刀を握る手に力がこもる。踏む足で刻むリズムが更に加速した。秀も知性を持つ獣と言っても過言ではなかった。人離れした身体能力に加え、溢れ出す戦闘狂の圧力が、人狼に襲い掛かる

 刹那、人狼の瞳に浮かぶのは戸惑い――これは本当に人なのかと疑念が浮かんだ瞬間、僅かに動きが鈍った。その隙を逃すまいと秀は刀を振るう。刀身が揺れ、銀の線と化す。

 捉えた――秀は確信を抱く。しかし第三者の介入を受け、秀の刀の軌道が僅かに逸れた。秀は舌打ちを漏らしながら、大きく退いて距離を取る。

「……また、お前かよお」

 秀は興ざめしたように肩を落として、荒い息を吐く。人狼と並ぶように立っていたのは真祖だった。今回は丸腰ではなく、赤黒い刀身の両刃の剣を手にしていた。

「ふむ、何とか受けられるか」

 真祖は刀身をまじまじと見つめ、静かに呟く。やがて刃先を秀に向け、微笑んだ。鍔が長く、まるで紅の十字架のような剣だった。

「ブラッディクロスなんて、どうかな」

「そのままじゃねえかあ」

 秀の突っ込みに同意するように、人狼ですら僅かにうなづいた。それを気にする様子もなく、真祖は剣を構える。

 しかし厄介なことになった――秀は顔色一つ変えずに思う。この二人を相手取るとなると、一瞬でも気を抜けば畳みかけられるだろう。欲張って人狼にまで手を出したことに対して、少し後悔の念を抱くが、それも戦闘に対する高揚が飲み込んだしまった。

 三人は微動だにせず睨み合う。数的不利な秀は言わずもがな、人狼と真祖も一度は彼を取り逃がしているため、慎重にならざるを得なかった。

 秀は不意に目を大きく見開いた。視線は真祖や人狼ではなく、その後ろに注がれていた。その視線の先が気になり、真祖は思わず振り返る。そこには何も無く、フェイントだと気づくと慌てて剣を構え直した。しかし、秀が動いている気配は無い。そこで真祖はようやく異変に気づいた。もう一度、振り返ってみるが、やはりあるべき者がいない――そう人狼が忽然と姿を消していたのだ。

「気を利かせてくれたみたいだなあ」

 秀の口が横に裂ける。それに対し、真祖は困ったように頭を掻いた。やがて覚悟を決めたのか、息を吐いて紅の剣を構える。直後、二人が衝突し、鈍い音が響きわたった。


*


 人狼は後ろ向きに引きずられていた。口を塞ぐ手は凄まじい力で、人狼の全力でもってしても解けることはなかった。とは言え、人狼も全力で抵抗していたわけではない。衝撃に心身ともに揺すぶられていたのだ。自らの巨体をこうも軽々と引きずる存在が信じられなかった。

 やがて落ち着きを取り戻した人狼は、口を塞ぐ手を剥がすのではなく、指を折った。力は急激に緩み、その隙に人狼は身体を転がし、脱出する。

「痛いなぁ」

 あり得ない方向に曲がった指を見つめたまま、緋人が言った。やがて指を手のひらで握ると、骨を盛大に鳴らせながら向きを整える。

 自分が折ったときよりも酷い音ではないか――人狼は緋人を見つめたまま戦慄した。しかし、すぐに我を取り戻す。緋人に対しては凄まじいアドバンテージがあることを思い出したのだ。

 人狼は、ズボンのポケットに入った小瓶に思いを馳せた。これさえあれば緋人ですら恐るるに足らない。その動きに気づかれないように、身体を半身にしてポケットへと手を伸ばす。誤って瓶を割らないよう、細心の注意を払って小瓶を取り出した。

 勝った――そう確信した瞬間だった。人狼の手から小瓶が滑り落ちる。はっとして人狼は小瓶を両手で小瓶を受けるべく、手を差し出した。しかし、その手から離れてゆく。小瓶は真下に落下していなかった。

 何らかの干渉を受けていると人狼が気づいた時には遅かった。小瓶は急激に進路を変え、真横に跳ねる。そして緋人の元へと飛んでいった。それを手のひらで優しく受け止め、緋人は満足げに頷く。

 何が起きたのか理解できない人狼は呆然と、その光景を見つめていた。やがて驚愕が怒りに変換されたのか、犬歯を剥き出しにして唸る。

「何ヲシタ」

 長くなった口をもごもごと動かしながら、人狼は尋ねた。緋人はいつものように淡い笑みを浮かべたまま、人狼を見つめ返す。

「新しい力に目覚めたのかな?」

 やがて口を開いた緋人は、手をひらひらと振る。手の辺りが、僅かにきらめいた。

「ハンドパワー……!」

 緋人は、そんなことを言いながら、小瓶を遠くに投げ捨てる。小瓶は遠くで割れ、小さな破砕音が校舎の間で反響し、消えていった。

 人狼は、それを黙殺して地を蹴った。緋人に向けて拳を放つも、それは手のひらで受け止められる。人狼の拳を握り潰さん勢いで、人を超越した力が働く。人狼は逆の手で緋人の顔を殴りつけ、その隙に距離を取った。大きく陥没した緋人の頭が揺れ、そのまま受け身も取らずに倒れた。

 しかし、これで決着がついたとは思えない。軋む拳を撫でる人狼の頬を冷たい汗が流れていった。やはりと言うべきか、陥没した頭が嫌な音を立てながら元に戻り、緋人は身を起こして頭を振った。

「ふぅ、凄い力だね」

 素直に感想を述べて、緋人は立ち上がった。

 人狼と緋人――人外同士の力比べが始まる。

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