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殺人鬼の日常  作者: 小石 汐
だっそう
26/30

刺客

書き溜めしている分が無くなりました。また書かなければ。

 一階のリビングの雑音に混じって笑い声が、冬夜の部屋まで届いていた。バラエティ番組でも見て、母と夕夏が楽しんでいるのだろう。しかし冬夜はそれらに一切の反応を示さなかった。答えの出ない疑問を放棄し、また別の疑問に取り組んでいる最中だった。

 何故、ここに帰ってきたのだろうか――冬夜は眠そうな眼で、カーテンの隙間から差し込む月明かりを見つめていた。今宵の月は一際明るい。冬夜の部屋において、月明かりだけが唯一の光源であったが、物の輪郭をはっきりと捉えられた。

 冬夜は、もっと深い闇の中で戦ったこともあった。逃亡生活に入って間もない頃、偶然、立ち寄った田舎町でのことだ。昼間は田園広がる、のどかな風景も、日が沈むと一変した。空は厚い雲が覆い、月明かりを遮断する。随分と遠いところに、街灯の心許ない明かりが浮かんでいるが、冬夜の周囲は濃い闇が広がっていた。遠くに山の輪郭が僅かに確認できるが、何の役にも立たない。

 地元の警官に追われていた冬夜は、田園に飛び込み、じっと息を潜めて赤いランプが過ぎ去るのを待つことしかできなかった。のろのろと走ってゆくパトカーから懐中電灯の明かりが躍る。冬夜の頭の上をスレスレで通っていく光に、冷や汗を流した。

 やがて過ぎていった赤いランプを見つめ、冬夜はゆっくりと立ち上がった。泥だらけになった自らの服を気にすることなく、土の道を駆け抜ける。足音は柔らかな地面に吸い込まれていった。

 狙いは後ろからの奇襲――闇の中で冬夜の双眸が光を宿す。パトカーの放つ明るい赤色だった。一定の距離を保ち、警官がパトカーから降りる瞬間をひたすら待つ。やがて、その瞬間が訪れ、冬夜は嬉々として襲い掛かった。

 回想から現実に戻り、冬夜は思う。あの頃は、ただ人を殺すこと――壊すことが嬉しく、楽しくて仕方が無かった。しかし今は違う。上村を殺した理由も分からなくなっていた。

 時間だけが無駄にあるため、さまざまな疑問が、冬夜の頭を過ぎってゆく。それらを、しばらく吟味してはみるものの、真面目に向かい合って答えを導き出すことはなかった。どうでもいい、と一蹴し、腕の中に顔を埋めた。

 やがて冬夜は顔を上げた。ベッドを軋ませながら立ち上がり、窓際に寄る。カーテンの隙間から外の気配を伺った。

 感動も変哲も無い、見慣れた地元の夜景を一通り眺めて、冬夜は小さくため息をついた。そっと窓際から離れると、冬夜は足音を立てずに部屋を出た。

 リビングから漏れる笑い声が一際大きくなるが、それを気にしている余裕は無かった。廊下を滑るように走り、玄関を抜ける。敵の戦力を鑑みるに、玄関の鍵を閉めると言う行為は気休めにもならないだろう。しかし無いよりはマシだろうと、冬夜は後手で鍵を閉めた。

 通りに出た冬夜は、前後をしきりに確認しながら駆けてゆく。行く先は等間隔に並ぶ電柱が照らしている。視界は良好で、街灯の下にいくらかの人影が動いた。

「これまた、随分と人数を集めたもんだ」

 抑揚の無い声で冬夜は呟く。これほど人を集めたとなると、後ろだけではなく、全方位からの奇襲に備えて、冬夜はナイフを抜いた。

 ただ、冬夜の瞳に光は無い。以前のように高揚が湧き上がってくることもなく、心は不思議なほどの静寂に包まれていた。面倒くさいとすら思え、憂鬱を吐き出すようにため息をついた。

 それでも冬夜は夜道を全力で駆け抜けた。それに伴い、大勢の気配が動き始める。それらは冬夜を追い詰めるように囲い込もうとするが、動き続ける陣形の隙間を縫うように冬夜は走り続けた。幾度と無くフェイントをかけて、陣形を崩すように誘導していたのだ。逃亡生活で大勢の追手や包囲網から逃れる術を自然と身につけていたため、冬夜は難なく目的地へと辿り着くことができた。

 冬夜が訪れたのは、自らが通っていた高校だった。元より逃げるつもりなどなく、また家から追っ手を離そうなんてことも考えていなかった。ただ邪魔が入りにくく、戦いやすい場所を求めた結果が学校だったのだ。

 地の利はこちらにある――冬夜は後ろを一瞥してから、再び前方を凝視する。夜闇にぼんやりと浮かぶ校門は、侵入者を拒むように閉じていた。

 校門をのんびりと開けている時間は無いだろう。自らの目線と同じぐらいの高さを持つ門を飛び越す覚悟を決め、冬夜は更に地面を強く蹴り、加速を望む。ポケットにナイフを避難させ、思い切りよく踏み切ると同時に、勢いを殺さないように門に手を着く。更に門の側面を蹴り、盛大な音を響かせながらも、冬夜の身体は学校の敷地内へと落ちていった。四肢で着地しながら前転し、落下の勢いをそのままに冬夜は再び走り出す。しばらくして門が開くような音が後ろからしたが、冬夜は振り返らなかった。

 手身近にあった窓ガラスを、ナイフの柄で叩き割り、鍵を開ける。流石にガラスを突き破る勇気は無く、その間にかなりの接近を許してしまった。後方を一瞥し、距離を確認しながら、冬夜は廊下を走り、階段を目指した。

 二階の廊下で、冬夜は足を止めて振り返る。盛大に足音を響かせながら迫る敵の数は、もはや把握しきれないほどになっていた。ここで迎え撃つ覚悟を決めて、ポケットに放り込んだナイフを取り出した。

 迫ってくるのは四つの影で、差し込む月明かりのせいで顔が僅かに見て取れた。四人とも若い女性で、冬夜と同年代だと思われる。相手が学園の生徒なら油断はならない。冬夜は後退しながら、飛び掛ってきた二人の攻撃を躱し、そのタイミングを見計らったかのように三人目が現れた。躱せないと判断した冬夜は、ナイフを向けて牽制するが、相手の動きは止まらない。玉砕覚悟と言わんばかりの勢いで、冬夜に迫ってくる。

 問題なく殺せるタイミングだ。しかし、冬夜は腕を反射的に引いていた。意に反する行動に、内心で「またか」と悪態をつきながら、冬夜は三人目の攻撃を柄で受け流す。

 やはり冬夜は女性を殺すことができなかった。たとえ相手から襲いかかってこようとも、脊髄反射のように冬夜の手は自然と止まってしまう。それから何度、攻撃を試してみても、全て無駄に終わった。

 完全に受けに回ってしまった冬夜は、彼女たちの攻撃に身を削られてゆくばかりだった。一人は包丁を振り回し、また別の女は文房具を手に襲い掛かってくる。その動きにヒステリックな要素はまったく感じられない。生気の無い瞳で淡々と急所を狙う彼女たちに、冬夜ですら冷や汗を流した。

 やはり学園の生徒か――そう決めかかっていた時だった。冬夜は素手で殴りかかってくる女の拳を受け流す。それと同時に足を払って体勢を崩すと、女は勢いを殺せず、そのままコンクリートの柱に激突した。嫌な音が閑散とした廊下に響き渡る。骨は折れたであろう、その音を聞いて、冬夜は「まずは一人」と呟いた。しかし冬夜が目を離す前に、彼女は振り返った。呻かず、顔色一つも変えずに、彼女は再び冬夜に迫ってくる。想定外の動きに、一瞬だけ冬夜の動きが止まる。包丁が腕を掠め、コンパスが頬を切り裂き、折れた腕が冬夜の胴を叩く。致命傷は何とか避けたものの、冬夜は痛みに呻きながら離脱した。

 そう、痛みが日常の冬夜ですら、刹那的には呻くのだ。しかし彼女は違う。それどころか折れた腕で冬夜に攻撃をしかけてきた。

「おいおい、ちょっと待て」

 距離を取った冬夜に容赦なく迫ってくる四人に加え、その後ろに現れた幾らかの影に向かって冬夜は言う。しかし彼女たちが、それを聞き入れることはなかった。容赦なく距離を詰められて、冬夜は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。

 とある疑念が、冬夜の中で生まれる。しかし、それを実証するには、どうしても冬夜から攻勢に出る必要があった。自然に止まってしまう自らの両腕を鑑みるに、リスクが高い。考える時間を欲し、冬夜は後退を続けた。

 お互い、特攻同士のぶつかり合いになるだろう――それを理解しながら、冬夜は腹を括る。後退を止めると、四人に向かって初めて踏み込んだ。襲い掛かる包丁やコンパスを踊るようにステップを踏み、身を捩りながら躱す。更に捩った反動を利用して、ナイフの柄をカウンター気味に叩き込んでゆく。打つ先は腹部などの安全な場所だ。殺せないならと狙いを変えてみたのが吉と出たらしく、今回は冬夜の攻撃も止まることはなかった。

 かなり重い一撃だったことは、冬夜の手首にかかった重みで分かった。しかし彼女たちの動きは止まらなかった。それは予測の範囲内で、冬夜は彼女たちの反撃をあっさりと躱す。再び後退を始めた冬夜は、大きな収穫に満足していた。

 まず一つは、彼女たちが何者かに操られている可能性があるということだ。いくら訓練した兵士であっても、攻撃を受ければ何かしらのレスポンスがあるはずだ。しかし彼女たちには、それが無い。痛覚などを遮断し、操られているからこそ、こうも無謀な攻撃ばかり行うのだ。

 もう一つは自らの欠点だ。何かしらの条件で殺せない相手がいることを、冬夜はようやく理解する。ただ、その条件が何なのかまでは自信が持てなかった。過去に殺せなかった稀有な例を思い返すと、女性というキーワードが思い浮かぶが、現状で決め付けるには決定打が足りない。条件に関する結論を保留にし、今は結果のみを反映する。目の前の四人に対して、殺すという手段は取れないと判断した。

「……やってられん」

 操られている彼女たちの相手を続けても仕方が無く、首謀を叩く必要があった。冬夜は彼女たちに対し、完全に背を向けて走り出した。一時撤退を選択したのだ。

 しかし、逃亡劇は一瞬にして幕を閉じる。行く手を阻むように現れた人影に、冬夜は急ブレーキをかけるが、後ろからも迫ってくる。狭い廊下で挟み撃ちにされ、冬夜は舌打ちを漏らす。

 廊下という細い空間は、複数の相手を迎え撃つのに最適な場所だ。長く続く廊下は、いざとなったら逃げ道にもなる。しかし現状のように、挟み撃ちにされる可能性も、もちろんあった。それを理解した上で、冬夜はこの場を戦場に選んだ。とは言え、刹那的に湧いた苛立ちは抑えきれる物ではなく、それが舌打ちとなって漏れたのだろう。

 両側から襲い掛かってくるのを確認する間もなく、冬夜は横に飛んだ。行く先は窓ガラスで、それを突き破れば外だ。しかし、ここは二階な上に、生身でガラスを突き破るリスクは計り知れない。冬夜は両腕を交差し、膝を折りたたんでガラスに突っ込んだ。握りこんだナイフの柄が、ガラスにヒビを入れる。直後、腕と膝がガラスに触れた。冬夜は出来るだけ身を縮めて、ガラスを突き破った。

 腕や足に鋭い痛みが走る。残ったガラスに引っ掛けたのだろう。それでも冬夜は目を瞑らなかった。腕の合間を細かいガラスが舞うが、顎を引いて目に入るのを防ぐだけで充分だった。その視線はじっと着地先を見つめ、痛む四肢を広げて着地の準備に入った。膝、肘を使って前転し、落下の勢いを殺す。下は土だったが、四肢が瞬間的に麻痺しそうなほどの衝撃が走った。それでも無理やり顔を上げ、ナイフを構えた。

 すぐに追ってはこまい――追手の姿を視認しながら、冬夜は思う。そのために二階を選んだのだ。逃げる際には低くないリスクが付き纏うものの、相手を置き去りにできると確信していたからだ。

 いつも上から悔しそうに睨み付ける警官の姿を思い出し、冬夜は口の端をつり上げた。今回の戦闘で見せる初めての笑みだった。しかし、それも次の瞬間には凍りつく。

 盛大にガラスを突き破る音が、いくつも響き渡る。彼女たちと一緒に粉々になったガラスが雨のように降り注ぎ、冬夜は慌ててその場を離れた。

 嫌な音があちらこちらで響き渡る。二階とは言え、着地に失敗したら骨ぐらいは簡単に折れてしまう。だから冬夜は、地面から目を離さなかったのだ。実際、冬夜と同じように窓ガラスを突き破ってきた彼女たちの足やら腕やらは、あらぬ方を向いていた。

 それでも上から降り注いでくる人影は止まらない。どさりと重量を感じさせる音が続き、冬夜は目を剥いた。

 一体何人いるのだと冬夜は戦慄する。もはや噴き出した汗を拭う余裕すら無かった。今更ながら冬夜は理解する――首謀は手駒の安否など気にしていないのだ、と。

 こうも玉砕覚悟で迫ってくる相手に対し、冬夜は活路を見出せなかった。今まで冬夜を追いかけ続けていた警察や緋人と違って、冬夜は自然と後ずさった。

 今度こそ逃げると心に決めて、冬夜は背後に迫る二人の男を斬り裂く。男たちは糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。迫る気配に対し、冬夜の身体が反射的に動いたのだ。先ほどは自然に止まった手が、今回は淀みなく人を殺したのを見て、冬夜はますます分からなくなった。

 とにかく殺せない相手の混じっているところは避けるべきだと、冬夜は校舎に背を向けて走り出した。向かう先には虚ろな目をした男たちが、大勢待ち構えている。自らの行動が先読みされているようで、冬夜は苛立った。不意に湧いたどす黒い感情に身を任せ、襲い掛かる男の群れを容赦なく斬り裂きながら進んでゆく。動きが雑になり、被弾も増えたが、それでも冬夜は包囲網を突破した。

 それでも冬夜の表情は険しい。自らの決定的な欠点を晒してしまったかのような後味の悪さが、脳裏にこびりついた。

「……クソ」

 冬夜は小さく呟いて駆け出した。しかし宛がない。手駒の扱いから鑑みるに、首謀者は事が公になることも厭わないだろう。下手をすれば、この町全体の人を使って、冬夜を追い詰めることも考えられた。

 自分一人に大袈裟だろう――ため息をつきながらも、冬夜はその可能性を否定できなかった。最悪の事態を想定して準備していれば、拍子抜けしても対応はできる。事態を甘く見て準備を怠った時は、すべてにおいて余裕が無くなってしまう。命を自ら絶つこともできない臆病な冬夜は最善を尽くす。その結果、死んでしまったのなら納得するつもりだった。

 学校を抜けて路地を駆け抜ける。時折、後ろを振り返りながら追っ手の有無を確かめると、やはり幾人かの影が街灯の下に浮かび上がった。あの人数を迎え撃つとなると難しい。冬夜は何度も角を曲がり、民家を抜け、追手が減ってゆくのを確認しながら逃げ続けた。

 決着をつけるには、首謀を潰さなければならないことは理解している。しかし現状では、首謀の尻尾すら掴めていない。いつまで経っても振り切れない追手を一瞥し、冬夜は三つの仮定を立てた。

 状況を見て戦っているか、または冬夜の行動パターンを完全に読んでいるか、そして最悪のケースが朱里のように未来を見通す能力を持つ者がいて、詰め将棋の名人のように玉を詰めに入っているか。

 最悪のパターンだったら諦めるしかないと割り切り、冬夜は前者二つを仮定に対策を練る。

 追手の皆殺しが一番最初に思い浮かんだが却下する。自分には殺せない相手がいることを考えると、難しいどころか不可能な選択肢だった。手駒を失った首謀を追い詰めるのは簡単であっても、そこに辿り着くことすらできない。

 それにしても――冬夜は後ろを一瞥し、思わず苦笑を漏らす。女性に追われるなんて稀有かつ滑稽な体験をしている自分が信じられなかったのだ。ただ、彼女たちに追いつかれた後に待っているのは、ゲームや小説、漫画などで見られるような甘い展開などではない。殴られ蹴られ、最終的にはボロ雑巾のようになって殺されるか、学園に連れ戻されるのだろう。

「まいったな」と小さく零しながらも、冬夜は久々の逃亡劇に活力を取り戻しつつあった。追われている立場と言うのは、冬夜にとって心地よいスリル感を伴う。また、余裕の無い緊迫した戦闘が続き、雑念が消え去ったのも、一つの要因なのだろう。現状を純粋に楽しみつつあるのを示すように、冬夜の口の端がつり上がった。

 冬夜は無駄な思考を一旦停止する。痛覚で操られている人を止めることはできない。ならば完全に意識を断てば、もしくは脳から発される情報が正常に行き届かない状態にすれば、どうだろうか。

 簡単に言えば気絶と脳しんとうだが、冬夜は軽やかに却下した。自らハードルを上げて、どうすると自嘲せざるをえない。手加減しながら、あれほどの人数と戦うことは難しすぎたのだ。

 酸素不足が深刻になり、冬夜の全身が悲鳴を上げ始める。後ろを確認すると、追っ手の姿は数人にまで減っていた。分散して待ち伏せや挟み撃ちの可能性を考えたが、それを否定した。そうなると冬夜より早く移動しなければならないからだ。

 恐らく相手も、燃料や酸素が不足しているのだろう。いくら痛覚を無視しても、燃料が不足すれば動けなくなるものだ。気力で何とか出来るのは、最後の燃料を搾り出しているだけで、尽きてしまったわけではないのだ。そのため逃亡生活中も、食事や休息には気を遣ったものだと、冬夜は懐古した。

 しかし逃げるのか戦うのか早急に判断しなければ、体力が削られてゆくばかりだった。相手の勢力も完全には把握できていない。手駒がどれほどなのか分からない状態で、体力ばかり削られてゆく現状は辛かった。

 ジリ貧という言葉が冬夜の頭を過ぎる。それでも戦って見出せる活路が無い以上、冬夜は逃げ続けるしかなかった。


 そんな冬夜を見つめる影が二つあった。それぞれ少し離れた電柱の上から冬夜の後ろ姿を見つめている。一人は無表情、もう一人は楽しそうに顔を歪めている。

「呆気ないものだな」

 月の明かりに照らされ、青白い肌の男が呟くように言った。浮かべていた笑みを消して、落胆の色の濃いため息をつきながら、男は肩を竦めた。

 それに対し、もう一人の影――女は首を横に振る。

「彼は何をしでかすか分かりませんよ。ここで手駒を殺さなかったことですら、何か意図があるのかもしれません」

 女の言葉に、男の笑みが蘇った。

「まだまだ何かやってくれると期待していいのかね?」

「期待」と女は復唱して軽く笑いを漏らす。やがて女の瞳に鋭い光が宿った。その矛先は男に向けられる。

「いいえ、あなたぐらい殺してくれますよ、南雲くんなら」

 男は答えない。ただ笑みを保ったまま女の鋭い眼光に応じる。やがて女がため息をついて視線を逸らした。睨み合っていても仕方が無かったからだ。

「あ」

 不意に男が声を漏らした。女は訝るように眉をひそめながら尋ねる。

「どうかしました?」

「見失った」

「あなた、バカですか?」

 女は辛辣な言葉を浴びせながら、大袈裟にため息をついてみせる。それでも男の態度には余裕があった。

「まぁ何とかなるだろう」

「……こちらの手駒が傷ついただけじゃないですか。彼、体勢を整えてきますよ?」

「また補充すればいい」

 男の淡々とした言葉に、女は顔を歪める。それを気にすることなく男は続ける。

「まだ彼の家族には手を出していないしな。そろそろ使ってみようかと考えていたんだ。体勢を整える前に誘き出せばいい」

 男はゆっくりと膝を折ると、大きく飛んで闇の中に消えた。女もため息をついたが、それの後に続く。月をバックに二つの影が浮かんでは消えを繰り返した。


「……あれかな」

 民家の壁に身を寄せて、息を潜めていた冬夜は呟く。首謀は二人――その事実を確認しながら流れ続ける汗を拭った。既に息は整っているため、追う準備は万全だ。

 周囲に人影が無いことを確認してから、冬夜は駆けだした。影の消えていった方角を目指す。立場が逆転したことに気づかず、二人は夜の空を飛んでゆく。それを見失わないために、冬夜も強く地を蹴った。

 やがて冬夜は二人の思惑に気づく。この方角の先にあるのは冬夜の家だった。人質という言葉が冬夜の頭を過ぎる。守ろうとは思わない。ただ相手の思惑通りに事が運ぶのも面白くなかった。冬夜は最短のルートを頭に思い描き、自宅を目指した。


*


「え、あれ、兄ちゃん?」

 民家を抜け、ショートカットを繰り返していた冬夜は、不意に呼び止められた。足を止め、振り返ると、夕夏だけではなく上村の姿もあった。冬夜は僅かに舌打ちを漏らして二人の横を通り過ぎる。しかし上村に腕を掴まれた。

「こんな時間に、どこ行ってるんだよ」

「うるさい」

 冬夜は上村の腕を振りほどき、背を向けた。しかし上村は諦めずに再び冬夜の行く手を阻む。

「別に夕夏と遊んでいたわけじゃないんだ、聞いてくれよ」

「だから言っただろ、そんなことは別にどうでもいいって。お前らが付き合ってようが何だろうが、もうどうでもいいんだ」

「だったら、何で――」

 上村を遮るように冬夜は手のひらを差し出した。そして静かに口を開く。

「逐一、お前に報告する義務があるのか?」

「無いけど、こんな時間に出歩くと危ないだろ」

「ああ、俺じゃなくて相手がな」

 冬夜はパーカーの内側からナイフを抜いて上村に突きつけた。夕夏が僅かに悲鳴を漏らし、上村も数歩下がって尻餅をついた。

「今はお前に構っている暇は無いんだ、どけ」

 冬夜は腰を抜かしている上村の横を通り過ぎる。しかし今度は夕夏が冬夜の前を立ちふさがった。

「どけ」

 苛立った冬夜は無表情のまま殺気を込める。

 相手が手段を選ばないことは手駒の扱いで、ある程度分かった。早く家に辿り着かなければ、手遅れになる――冬夜はナイフを手にしたまま地を蹴った。

「身内だからって、容赦されると思ったか?」

 冬夜はナイフの柄を夕夏のみぞおちに叩き込んだ。息が詰まった夕夏は、苦悶に満ち表情で崩れ落ちる。それを一瞥もせずに冬夜は足を進めた。

 しかし再び腕を掴まれて冬夜は振り返った。既に拳を振り上げている上村の姿が、視界一杯に映し出される。闇夜でも分かるほど上村は顔を紅潮させており、怒りに満ちた形相だった。冬夜は上村の拳を無表情で躱し、夕夏と同じようにみぞおちにナイフの柄を叩き込む。

 手加減したつもりはなかったが、上村は倒れなかった。顔を歪めて額から汗を流しながらも冬夜を睨み続けている。それに応じるように冬夜は僅かに微笑んで、上村の耳元に顔を寄せた。

「夕夏を頼む。お前なら幸せにしてくれると信じてる」

 ぽんと肩を叩いて冬夜は背を向ける。最後に見た上村の表情は驚愕に満ちていた。

「待てよ、何で……冬夜ぁ!」

 上村の声を無視して冬夜は駆け出す。その背中は闇の中に吸い込まれていった。


*


 時刻は二十一時を回っている。そんな時間にも関わらず、南雲家の門前に一人の女が立っていた。それは迷うことなく呼び鈴を鳴らす。駆けてくる音が聞こえて、玄関が放たれた。

「はい?」

 冬夜の母が尋ねると、女は笑みを浮かべる。

「あの初めまして。以前に電話させていただきました西浦ですけれど」

 母は思い出したように頷いて笑みを浮かべる。

「突然お邪魔してすみません。冬夜くんが帰ってきているとお伺いしたのですが――」

「ああ、ごめんなさい。冬夜、今いないみたいなの」

 あのバカはどこに行ったんだと母は眉をひそめて呟き、西浦は苦笑を漏らした。

 しかし、西浦の瞳は笑っていない。まるで獲物を見つめているかのような冷たい色が宿っていた。

「そうですか。なら――」

 西浦は最後まで言うことができなかった。こめかみに痛みを感じ、顔をしかめる。一体何が起きたのかと痛みに手を添えると異物があった。西浦がそれ抜くと、今度は目眩が襲いかかった。あまりに容赦の無い一撃は、脳にまで達していたらしい。しかし瞬時に回復し、西浦は闇の奥底を見つめた。

 突然の出来事に母は言葉を失い、玄関のところで腰を抜かしていた。しかし西浦は気にせずに口を開く。

「いきなりナイフを投げつけるって流石に危ないと思うんだけれど。もし私じゃなかったら、どうするつもりだったの?」

 闇に向かってナイフを放り投げながら西浦は言った。闇の中から伸びてきた手が血の付いたナイフを掴む。

「さぁ? 相手が誰だろうと殺すつもりだったからな」

 それが殺人鬼だ――そう告げるながら、街灯の下に現れたのは、闇に溶け込むような黒い服装に身を包み、薄い笑みを浮かべたまま、血のついたナイフを弄る冬夜だった。

「何だ、嘘発見機か。よく死ななかったな」

「おかげさまで」

 西浦はやんわりと微笑むも、今までにない毒々しい笑みだった。

「人を辞めたのか?」

「別に辞めたかったわけじゃないんだけれどね」

「何か意味ありそうな言い方じゃないか」

「ついでだし積もる話とかも消化しちゃう?」

 殺気が消えて、西浦は曖昧な笑みを浮かべる。

「あの河川敷とかどうかしら?」

 西浦の提案に冬夜は答えない。この場を離れることに戸惑いがあったのだ。

「もう一人いただろ」

「あら、知ってるんだ」

 西浦は目を丸くする。その仕草もどこかワザとらしく、話で解決するにしても一苦労しそうだと冬夜は思う。

「大丈夫、南雲くんの返答次第で家族の安全は保証されるよ」

「いや、別に家族の安全とかは、どうでもいいんだけどな」

「言ってることが矛盾してるよ。だったら南雲くんがここを離れることに戸惑いを感じることもないじゃん?」

「否定はせんよ。ただ割り切れる範囲内ってことだ」

「割り切るねぇ……そう簡単にご両親を見捨てちゃダメだよ」

「人を辞めたヤツに正論を述べられても同意しかねるな」

 西浦の顔から表情が消えた。再び向けられる殺意に冬夜は肩を竦める。扱いやすい――冬夜は僅かに笑みを深くした。

 冬夜は、殺気を放つ西浦をじっと見つめているが、あまり時間をかけるわけにはいかなかった。今の間に手駒を動かされても困る。

 妥協するしかないと結論を出し、冬夜は小さく息を吐いた。

「分かった」

 冬夜は西浦に背を向けて歩き出す。向かう先は西浦の言ったとおりの河川敷だった。

 西浦は殺気を消し、冬夜の横に並んだ。夜道を並んで歩く二人の姿は、夜景の一つとして馴染んでゆく。

「新しい学校はどう?」

 西浦はどことなく嬉しそうに尋ねた。冬夜はそんな西浦を一瞥して応じる。

「思ったよりも退屈な所だった」

 西浦は相槌を打ちながら、続けて言う。

「南雲くんが退屈せずに済む世界なんてあるのかなぁ?」

 冬夜は答えられなかった。自らの望む世界とは一体どんなものなのだろうか。過ぎった疑問は簡単に答えられそうな気がしたが、浮かび上がった答えの候補はどこか違うような気がした。

「ねぇ、何で私たちが向けたクラスメイトを殺さなかったの?」

 冬夜の思考を遮るように、西浦は尋ねた。

「あれ、クラスメイトだったのか?」

「……気づいてなかったんだ」

 西浦は苦笑を漏らしながら続ける。

「何で殺さなかったの?」

「何となく理由は察してるんじゃねえのか?」

 西浦は肯定する。冬夜は顔色一つ変えず、夜空を見上げた。残暑厳しい熱帯夜のせいか、星はあまり鮮明に見えなかった。

「女性は殺せないんでしょ?」

「……みたいだ」

 俺も初めて気づいた――冬夜は付け加えた。

「ふうん、何で殺さないの?」

 急に西浦の声が近くなり、冬夜は身構える。息が触れ合うほど近い距離に西浦の顔があった。ただ、冬夜を覗き込む西浦の瞳に殺意は無い。冬夜は肩に入った力をゆっくりと抜いてゆく。

「さぁな、俺にも分からない。そういえば女は殺してなかったなって気づいたのも今日だからな」

「ふうん、ってことは男の人はどれぐらい殺してきたの?」

 冬夜は肩を竦めて応じる。西浦は首を傾げて、冬夜の顔を覗き込んだ。

「もしかして分からないの?」

「どっかの誰かが言ってたろ。百人斬りとか数を覚えている程度では甘いって」

「あー……うん、まぁ胸を張って言えることじゃないと思うんだけれど」

 街灯だけが心許なく躍る夜道を抜けて、二人は河川敷に下りた。西浦はベンチに腰掛けて、冬夜は両手にナイフを握り締めたまま、西浦の後姿を見つめていた。

「そんな警戒しなくてもいいと思うんだけれど。さっき言ったじゃん、まずは話で済ませられるかもって」

「どうせ学園に戻れとか、その程度の話だろ?」

 下らんと冬夜が吐き捨てると、西浦は表情を変えずに立ち上がった。

「そう、じゃあ決裂だね」

 改めて感じる西浦の殺気に冬夜の心は躍った。両手のナイフを構えて、西浦の動きに備える。

「勝ち目あるの? 私、女だけれど」

「さぁな、やってみないと分からないだろ。予想外の進化を遂げるかもしれない」

「女性を殺すことを進化って言えるのかなぁ?」

 冬夜の手にしたナイフが揺れる。肩の力を抜き、ゆったりとした構えを取りながらも、既に踵は浮いている。いつでも動き出せる状態だった。

 西浦もようやくベンチから立ち上がり、冬夜に向き直った。その瞳に宿るのは、今までに見たことのないほどの冷たい無彩色だった。向けられるのは殺意で、冬夜は笑みを零す。

 夜の静寂が二人を包み込む。重心をずらすだけで、すぐに砂利は鳴ってしまう。それは動きを示すことになりかねないと、二人は微動だにせず睨み合った。

 やがて砂利を踏む音が僅かに響く。それを合図に、西浦が地を蹴った。五メートルほどはあった間合いを一瞬と一歩で無にし、西浦は手を振るう。手刀は、冬夜の心臓を目掛けて一直線に進む。

 冬夜はそれを受け流す。思っていたよりも推進力があり、手刀は脇腹を掠めていった。服が破れ、背筋を冷たい物が駆け抜けてゆく。人を辞めた西浦は、油断ならない敵だった。

 連続して放たれる手刀は速さと重さ、共に凄まじいものだった。一発でも受ければ、肉を抉られ、骨をも砕き、臓物を握りつぶされるであろう。冬夜は受け流すことに集中してゆく。自らの手が止まる可能性を考慮すると、下手なタイミングで反撃を狙うのは自殺行為に等しい。冬夜はじっと耐える覚悟を決めた。

「どうしたの、反撃しないの?」

 刹那、西浦の攻撃のリズムが変わる。攻撃が来るであろうタイミングに、それが来なかったのだ。

 これは隙ではないと判断した冬夜は、思い切り後ろに飛んだ。冬夜の脛を僅かに掠めたのは、蹴りだった。

 躱せたにも関わらず、冬夜は露骨に顔を歪めた。足技を使われたことにより、心理的な圧迫があったのだ。手技だけでなく、足を使った上下のコンビネーションとなると、全てを躱すことは難しい。どうしても受ける必要性が出てくるのだ。元より受け切れる威力の攻撃ではない。受ければ腕、足が潰される可能性もあった。

 防戦一方の冬夜に対し、西浦は次々と急所に向けて手刀を放つ。頚動脈、心臓、腹部と一撃でも喰らってしまえば、即座に決着となる。冷や汗を拭う間もなく、冬夜は身を捩り、受け流し、命を長らえる作業に没頭した。

 どれもこれもが冬夜を死に追いやりかねない攻撃だった。頬を掠っただけで鋭い痛みが走り、血が流れる。ひたすら攻撃に徹する西浦を前に、冬夜の瞳の色が変わっていった。

「っあ……! な、何で!?」

 西浦は右目を手で押さえながら下がった。一瞬の隙を突いて、冬夜がナイフを突き立てたのだ。思わぬ反撃に、西浦は驚愕を滲ませる。しかし、それと同等以上に驚いていたのは冬夜だった。

 あまりにも自然に冬夜の身体は動いていた。心臓目掛けて飛んでくる手刀を、身を捩りながら躱し、その反動を利用しながら身体を回転させてナイフを突き立てたのだ。

 蝶のように舞い、蜂のように刺す――冬夜は舞踊のように華麗なステップで砂利を細かく刻む。一度、距離を取ろうとする西浦を、見る間に追い詰めて、更に両手のナイフを振るった。首、腕を裂きながらも、苦し紛れに放つ西浦の両腕をかい潜る。肩にナイフを突き立てて、関節部に滑り込ませ、梃子を利用してナイフの柄に力を込めると、骨が外れる感触が伝わった。

 刹那、悲鳴とも怒りによる咆哮とも取れる絶叫が、西浦の口から放たれる。間近で受けた冬夜は、顔をしかめて離脱した。

 西浦は冬夜を追わず、ただ荒い息を吐いている。対し、冬夜の息はほとんど乱れていない。脱力しながらもナイフを構えたまま、じっと西浦を見据える。

「……っ、何で、何で、何で!!」

 西浦は左目を血走らせて叫ぶ。それに答えることなく、冬夜はナイフの刃を揺らした。

 無抵抗で非力な女性ではない――ここまでの戦闘で、冬夜が抱いた感想だ。西浦なら自分を殺す可能性を秘めている。そんな彼女を見て、冬夜は純粋に戦いたくなった。結果、リミッターが外れ、攻撃を可能としたのだ。

「何で……薺や朱里って人は殺さなかったって言ってたのに……何で!」

「ん、何だかんだ言って、あいつは俺を本気で殺そうとしなかったからな」

 朱里は、ただ冬夜を止めようとしただけで、元より殺意は無かった。薺も同じで、冬夜を殺そうとまではしなかった。しかし二人と違って、西浦は明確な殺意を向けてしまった――それもまた、冬夜のリミッターを外してしまった一つの要因なのだろう。

「まぁハンデは無くなったし、気が済むまでやり合おうぜ」

 苦痛に顔を歪ませる西浦に向かって、冬夜は微笑む。その笑みに戦慄を覚え、西浦の背筋を悪寒が抜けていった。

 冬夜は両手のナイフを器用に回しながら、かつて自分に暖かく接してくれた相手を追い詰めんと歩を刻む。その気迫に圧されて西浦は一歩下がる。つうと冷たい汗が西浦の頬を流れた。


*


 どれほどの時間が経っただろうか。東の空が僅かに白んできた頃、冬夜は川辺をぼんやりと見つめていた。

 やがて思い出したように振り返る。そこには西浦が大の字になって横たわっていた。

「なぁ大丈夫なのか? もうすぐ日が昇るぜ」

 しかし西浦の反応はない。冬夜は小さくため息をついて、再び川面を見つめた。まだ薄暗い夜の色に染まり、波の動きが鈍く見えた。

「死んだのか?」

 白んでくる空を見つめながら冬夜は呟いた。それに応じるように僅かに声が聞こえた。冬夜は立ち上がると西浦の傍まで歩み寄った。四肢に欠損はない。流石は真祖の血族だと冬夜は感心する。

 ただ血を流しすぎたのか顔色は悪い。青ではなく透き通るように白い。そのまま存在が消えてしまいそうな儚さを感じ、冬夜はしばし見惚れた。

 人は儚い物に惹かれる。桜は美しさは見た目だけではない。散りゆく姿に内包された儚さがあってこそ、桜の持つ美は完成する――今の彼女にはそれがあった。その姿に死を連想するが、冬夜は美しいと感じてしまった。

 死の物語は卑怯だ。死が居座るだけで物語が美化されてしまう。たとえ殺されても感動的なシーンを演出して、死にゆく人の物語を展開することで、手を下した悪が遠ざかる――殺すと言うことは、どこまで行っても醜悪だと言うのに。冬夜はそれを知っていた。

 だから冬夜は死にゆく姿の美しさが許せなかった。自分が醜悪であること、許されるべきではないことを理解している。いつしかナイフの柄を握る手に力が入っていた。この美しさを壊すべきだと冬夜はそれを振りかざす。

 終わらせる。全てを汚し、自らを許させるべきではないポジションに移すために。

「ねぇ……南雲くん」

 振り下ろしたナイフが西浦の胸の前で止まった。冬夜は僅かに眉をひそめる。早く終わらせるべきだと思いつつも、死に際に彼女の放つ言葉が何なのか気になってしまった。

「……強いよ、あの人は」

「そうか」

 あの人とは、彼女をこのような身体にした真祖のことだろう。 冬夜はナイフを止めたままの姿勢で口を開く。

「その身体に望んでなったわけないよな?」

「……当然だよ」

 西浦の声は震えていた。冬夜はまもなく顔を出すであろう太陽の方角を見つめ続けた。

「お前がそうなった原因は、俺にあるんだろうな」

 冬夜は無表情で告げた。そして戦闘中に刃が少し欠けたナイフを西浦の胸にそっと置いて、すぐ傍に腰を下ろした。

「まだ動けるなら俺を殺せばいい」

 冬夜は静かに目を瞑る。西浦の瞳が僅かに揺れる。震える手でナイフを掴み、最後の力を振り絞って身を起こした。

「贖罪のつもり?」

「俺にその言葉は似合わない、単に死にたいだけだ」

「それって贖罪だよ」

「馬鹿か、お前」

 冬夜は僅かに目を開けて肩を竦めた。唇まで色を失った西浦の顔が目の前にあった。

「罪の意識とかで死にたいって思ってるわけじゃないんだよ。元々、死にたいからこそ、俺は人を殺してきたんだ。法律の加護の下を離れ、誰かに殺してもらうためにな」

 西浦はしばらく目を伏せ、やがて口を開く。

「……身勝手だね」

「重々承知。自ら命を絶つ勇気なんて無かったからな、仕方なく人を殺し続けた」

 でも、と冬夜は続ける。

「何で死にたかったのか、もう思い出せないんだよな……まぁ生きても死んでも、どっちでもいいってのは、今も変わってない」

 だから、お前に選択肢をやった――冬夜は再び目を瞑った。

「……ずるいよね。逃げようとばっかりしてる」

「否定せんよ」

「絶対に殺してあげない」

 西浦はそう言って、自らの胸にナイフを突き立てた。

「あっ……うっ……」

 それでも西浦は死なない。真祖の血族となった西浦の生命力は緋人ほどとは行かずとも、地球上でトップクラスに入る。彼女はナイフを胸に突き刺し、口の端から血を流しながら言う。

「吸血鬼って……凄いね。本当になかなか死ねない」

 そう言って西浦は冬夜の唇を指でなぞった。すうと冬夜の目が開かれる。瞳に輝きはない。ただ深い黒色の瞳が西浦を射抜く。それに吸い込まれるように西浦の顔が冬夜に迫った。鼻と鼻が触れても冬夜は身じろぎすらしない。息がかかるほど近くても冬夜は静かに西浦を見つめていた。

 やがて冬夜が口を開く。

「そういえば答えを聞いてなかったな……何で生きようと思えたんだ?」

 西浦は一瞬きょとんとしながらも苦笑を漏らした。それに言葉で応じることなく、行動で示した。西浦の唇が冬夜の口を塞ぐ。それでも冬夜は動かない。脈拍すら上がらない。ただ目を瞑った西浦の顔をじっと見つめていた。西浦の血の味が口の中に広がっても、冬夜はやはり眉一つ動かさなかった。

 やがて西浦はゆっくりと目を開いた。そして顔を離す。

「……こういう時は目を瞑ってほしいな」

「以後、気をつける」

 冬夜はさらりと答える。西浦はどこまでも反応の薄い冬夜を見て、眉をひそめた。

「私にとって生きるってことは、こんな感じ」

「よく分からんな」

「好きな人がいて毎日ドキドキできて、それだけで私は生きてるのが楽しかったの……また一緒のクラスになれると思ったんだけどなぁ」

 口から血を流し、胸にナイフを刺し、瀕死になりながらも西浦は微笑んだ。冬夜が学園に戻ったら、西浦も死ぬことなく、学園に編入する手はずだったのだろう。それでも冬夜は顔色一つ変えなかった。

「案外、普通な答えなんだな」

「普通って……人が勇気を振り絞ったって言うのに」

 西浦は苦い笑みを漏らしながら、冬夜の胸を叩いた。しかし、その手に力は無い。そのまま西浦は冬夜に身を預けた。その際に胸に刺さったナイフが更に奥に潜り込む。痛みに顔をしかめながらも、西浦は小さく笑う。

「私のこと一生忘れられなくなってくれれば、勝ったも同然なんだけどなぁ……南雲くんはすぐに忘れちゃうんだろうなぁ」

 悔しいよ、と西浦は小さく零した。冬夜は答えない。ただ、じっと西浦の身体を支え続けた。

 まもなくして西浦は何も言わなくなった。呼吸だけを繰り返している。冬夜はそっと西浦の身体を横たえた。まもなく日が昇る。東の空は青く澄んだ色が広がっていた。

「さようなら、だな」

 陽光に晒された箇所から西浦の身体は消えてゆく。佐伯の時と違って、西浦は完全に消滅してゆく。それを見つめながら冬夜は小さく息を吐く。瞳は揺れない。心拍も変わらず、一定のリズムを刻み続けた。

 やがて西浦の身体が消え、胸に刺さっていたナイフが雑草の上に落ちた。冬夜はそれを拾う。

 刃の欠けたナイフに用はない。冬夜の手元には幸い三本のナイフがある。一本失ったところで問題は無いだろう――冬夜はそれを地面に突き立てると、振り返ることもなく河川敷を去った。

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