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殺人鬼の日常  作者: 小石 汐
ころすということ
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ころすということ

先に一言。この話の序盤で殺人について、もろもろ書いていますが、私自身が殺人を肯定しているわけではありません。むしろ、自棄になったとしても、私は誰にも迷惑かけずに、ひっそりと死にたい。何もできない人は、何もせずに世界から退場すればいいのです。あ、私事ですので。

 人は殺してはいけないと誰もが当然のように言う。しかし冬夜はここに問題を提起しないわけにはいかなかった。何故なら今までに彼を納得させるような理由、裏づけを述べた者は皆無だったからだ。

 冬夜が手をかけた、とある教師は言った――「他人にやられて不愉快なことをするな」と。その言葉を聞いた冬夜は、怪訝そうに眉をひそめた後に彼を殺した。考えが無かったわけではない。むしろ熟慮したと言っても良かっただろう。しかし、どれほど考えたところで、冬夜は自らに命の危険が迫ることを不愉快だとは思えなかったのだ。退屈に過ぎ去ってゆく日常の中で自らの命を狙われるスリル感は、冬夜にとってむしろ好むところだった。

 また、とある男を殺した時、すぐ傍にいた女がこんなことを言った――「誰かが悲しむから」と。その通りだと思う。人が死ねば、その周囲の誰かが悲しむだろう。しかし、それを頭で理解していても、冬夜の行為が止まることは無かった。所詮は他人事だったのだ。

 また、とある男は言った――「法律で決まっているんだから」と。ただ、それは人を殺してはならない理由になっていないと冬夜は真顔で返した。法律を遵守することは自らの身をも守ることに繋がる。それだけのことなのだ。法律を守る義務はどこにもなく、守らなければ相応の刑罰を受けてもらうとペナルティーを明確にしているだけのことなのだ。もちろん、その刑罰――ペナルティーを明確にすることで、法律は抑止力を有する。しかし何度も言うが、やはり人を殺してはならない理由にはならない。法律の加護を必要としなければ、それを守る必要性は無いのだ。

「守られたい者だけ守っていればいい」と冬夜はナイフの刃を男に突き立てた。身勝手なのは重々承知で人を殺し続けた。

 自らが死ぬことに恐怖は無かった。しかし飢餓や疲労による苦しみを味わうことは不本意だったのだ。食を満たすために、また身体を休める宿を得るために人を襲い、殺し続けた。

 とは言え、ベッドでゆっくり休むことは無かった。いざと言うときに、すぐ動き出せるようフローリングに腰を下ろして両膝を抱えるようにして眠ることが多かった。

 そのように何度も殺人を重ねてきた冬夜であったが、ようやく止まることができた。訪れる休息に満足感を抱きながら、意識を手放した――はずだった。

 目に痛みを覚え、冬夜は顔をしかめる。僅かに瞼を開くと刺激が強まった。それが光による刺激で痛みは眩しさであることを、まどろんだ意識の中で認識する。温かな布団から手を抜いて顔の前にかざす。光を遮ると眩しさは和らぎ、白い天井が現れた。

 未だ覚醒しない意識の中でも疑問符が浮かび始め、それはやがて確信となる。冬夜は目をかっと開くと、布団を蹴飛ばして素早く身を起こした。周囲を見渡すも人の姿は無い。簡素な部屋だった。ベッドの右手にタンスがあり、左手の机には大きなパソコンが一台あった。足の踏み場に困るほどの衣類が散乱し、小さな部屋の床一面を覆っていた。

 起き上がった姿勢のまま冬夜は硬直する。強く握り締めた手のひらに汗をかくほど、必死に思考を回していた。ただ冬夜は理解できない現状を目の当たりにしても取り乱すことは無かった。どことなく見覚えのある風景に、冬夜は落ち着きを取り戻す。服を踏まないように動くことは難しかったので、冬夜は遠慮なく踏みしめながら、奥にある扉へと音も無く近寄った。

 ノブに触れ、冬夜はしばらく考える。ノブに何か仕掛けがあるような重みは無い。そっと開いて出来た隙間から、外の様子を伺った。白い壁とフローリングがすっと奥に続いて、その先に階段がある。階段が螺旋状になっているのか、下のフロアまでは見通せない。ただ、ここが二階以上であることだけは確かだった。一軒家の廊下のような風景で、冬夜は落ち着き始めていた思考を再び回転させる。訝るように眉をひそめて腕を組んだ。

「……何を考えているんだ?」

 冬夜は扉に背を預けて呟く。それが率直な感想だった。もし冬夜が一命を取り留めたとしても、拘束や監視の必要があったはずだ。部屋の四隅を眺め、冬夜はため息をつく。監視カメラはどこにも無かった。

 しばらく考えた末に意識を失う前の記憶が蘇った。冬夜は服を捲り上げて腹部を見つめる。あるべき物が無いことから、一つの仮説が思い浮かんだ。

 銃で撃たれた二つの傷が無かったのだ。傷跡すら消えてしまうほど長い間、眠っていたのだろうか――自問自答した冬夜は、やがて首を横に振った。それほどの長い時間を寝たきりで過ごせば、今こうして起き上がることも大変だったに違いない。やや身体の重さは否定できないが、至って健常な自らを鑑みて、それは無いと否定できたのだ。

 少し遠くで人の気配がした。冬夜は腰を上げる。警戒態勢を取りながら、そっと耳を澄ませた。動き続ける気配は音を隠そうとする気配も無い。ぱたぱたと駆け回る音が断続的に聞こえた。

 扉に背を預けたまま、冬夜は部屋の中をゆっくり見回した。家具は最低限が並び、窓が二つあった。それぞれカーテンがかかっており、外の様子は分からない。ただ隙間から漏れる陽光は溢れんばかりだった。

 四肢の無事を確認すると、冬夜は逃げる算段を立てて行く。人の気配がするため、この扉から脱出を試みるのは最終手段になるだろう。二つの窓を交互に見やって、冬夜は思案する。そっとカーテンを開くと、容赦なく降り注ぐ陽光を遮るように冬夜は手をかざした。広がる風景は朝の穏やかな物だった。やはりと言うべきか、その風景にも見覚えがあった。ついに冬夜は確信を抱く。

「まさか、ここは――」と小さく冬夜は呟く。続きの言葉は誰に言うでもなく、朝の喧騒に飲まれていった。

「俺の、部屋?」


*


 何年も昔に逃げ出したところに冬夜は立っていた。何の冗談だと笑い飛ばそうと思っても、頬は自然と引きつる。

 あの女が自分をここに運んだのだろうか――それこそ余計なお世話だった。冬夜は険しい目つきで、窓の外に広がる懐かしい風景を見つめる。腹の底から湧き上がる熱が喉をせり上がってきた。

「殺してやる」と冬夜は呟く。明確な殺意を持つのは久しぶりだった。今までは成り行きで殺すことが多かっただけで、本来の目的は殺すことでは無かった。目的のために行動を取ると、結果的に人を殺すことになっていただけなのだ。

 冬夜は久しく湧いた感情に呑まれ、コントロールに手間取る。むしろコントロールする気も失い、衝動に身を委ねた。冬夜は反転すると人の気配のことも忘れ、乱雑に扉を開け放った。

 それと、ほぼ同時に廊下にあった一つの扉が開いた。顔を覗かせた少女が目を丸くして、冬夜を見つめる。冬夜もまた同じように硬直した。まるで氷水に飛び込んだかのように熱は一瞬にして消え去り、驚愕だけが残った。

「ど、どうしたの、兄ちゃん」

 脳内を埋め尽くす疑問符は、外に溢れ出しそうな勢いで増殖してゆく。圧迫された脳内容量は思考を進める余裕すら無かった。尋ねられていることを理解しながらも、冬夜は答えを導き出せずにいた。

「もしかして気分良くなった?」

 未だ驚愕に囚われたままの冬夜に対し、少女は微笑みかけた。瞳には期待の色がきざし、揺れる冬夜の瞳をじっと覗き込んだ。しかし冬夜はやはり答えることができなかった。目の前の光景を信じることができなかった。

 やがて少女は答えない冬夜の様子に肩を落とす。「もういいよ」と不貞腐れるように呟くと、冬夜に背を向けて階段を下っていった。その後姿を見送った冬夜は一人廊下で立ち尽くす。ようやく疑問符が少しずつ消えてゆき、思考の余裕が生まれた。そして結論は驚くほど、あっと言う間に導き出される。

「走馬灯か」

 後頭部を掻きながら、ため息をつく。冬夜も階段を下りていった。

 走馬灯なら遠慮なく立ち振る舞おう――もはや足音に気を遣うこともなく、冬夜はリビングに向かった。「懐かしいな」と冬夜は玄関などを一瞥し、思わずため息を漏らす。それが安堵と呆れが混じったような息だった。

 冬夜はリビングへと続く扉を開く。その瞬間、時が止まったように感じた。母、父、そして妹の視線が冬夜に集まる。テレビから流れるニュースキャスターの声とフライパンに熱された何かが鳴いている。それ以外の音は無かった。

「おはよう」と母がぎこちなく言う。それにさらりと答えながら、冬夜は食器棚を開いた。

「朝ごはん、すぐに準備するから」

 母の言葉を聞き流しながら、冬夜はコップを一つ取り出して食器棚を閉めた。

「いいよ、別に」と冬夜は断る。何か言いたそうな母の横を通り過ぎて、キッチンに入った。そして蛇口を捻ってコップに水を注ぐ。それを一気に飲み干してから、冬夜は再び口を開いた。

「朝は食べられる気がしない」

 もう一杯水を飲み干すと、冬夜はコップを置いた。

「じゃあ、お昼、お弁当は?」

「弁当?」と冬夜は思わず聞き返した。その際、制服姿の妹の姿が視界に入り、納得する。冬夜がまだ学生だった頃の走馬灯なのだろう。

 それにしても今はいつなのだろうか――冬夜は内心で首を傾げながら、とりあえず弁当の申し出を断った。母は頷きながらも、悲しそうに目を伏せた。何も言わなかった父と妹も、どことなく暗い表情で黙々と朝食を口に運んだ。

 それにしても――良い匂いが鼻孔をくすぐり、冬夜は母の持つフライパンを覗き込んだ。焼けて焦げ目のついたウィンナーがぱちぱちと弾けた。

「それ、一つだけ貰っていい?」

 そう言って、冬夜はフライパンに手を伸ばした。許可を得る前にフライパンに乗ったウィンナーを手にし、口に運んだ。予想以上に熱かったが、噛み潰すと更に熱い肉汁が口内に広がった。それを苦労しながらも何とか飲み込むと、熱が喉を通って胃の中に広がる。喉元を過ぎても熱さが消えることはなかった。

 それで満足したのか、冬夜は母に背を向けてリビングを後にしようとする。

 この走馬灯、どうしてくれよう――そんなことを考えながら扉に手を伸ばした所で、冬夜は呼び止められた。低く重厚で少ししゃがれた声だった。冬夜は無言で振り返る。

「高校ぐらいは出ておけよ」

 父が渋い顔で言った。それに対し、冬夜は肩を竦めて応じる。

「出て、何か得するなら」

 父は何か言いたげに口を動かすが、冬夜は背を向けた。「待て」と父の声が聞こえたが、無視する。そのままリビングを後にすると、自室に戻って再びベッドに横たわった。まだ肌寒く、掛け布団の中に身を滑り込ませる。

 これから、どうするか――冷えた布団の中で瞼を閉じて、冬夜はゆっくりと思考を巡らす。


*


「……案外、暇だな」

 冬夜は布団から顔を出すと、白い天井を長めながら呟いた。

 やがて、ばたばたと廊下を走る音が僅かに聞こえてきた。直後「いってきます」と妹の夕夏ゆうかが玄関を出ていった。部屋を区切る扉と違って、玄関の重厚な扉を開け閉めすると家全体に音が響く。どこに行くにも誰かに知られてしまうのを嫌い、冬夜はいつしか玄関の扉を音も無く開け閉めすることが得意になっていた。それが後々の逃亡生活でも役に立ったのだから、人生で何が役に立つかなんて分からないものだ。

 それにしても退屈だ。あの頃の自分は一体何をしていたのだろうか。思い出そうとしても、その後に刻んだ記憶が斬新すぎて、日常の記憶など霞んでいた。とは言え、パソコンに向かっていたような気がする――冬夜は布団から抜け出て、パソコンを起動した。

「……遅ぇ」

 電源ボタンを押し、パスワードを打ち込む画面まで、しばらく待つ。そしてパスワードを打ち込んでから、更に待ってデスクトップの画面が現れた。ようやく起動したブラウザのお気に入りを漁る。

「ああ、そういえば――」

 冬夜は思い出す。ウェブ漫画や小説のリンク、またはオンライゲームのホームページなどが整理されずに並んでいた。漫画でも読み直そうとリンクをクリックする。しかしブラウザの動きは酷く遅い。三ページほど進んだところで、次のページを長々と読み込んでいるパソコンを強制終了した。

 再び暇になった冬夜はベッドに転がった。時計を見ると八時半になり、そろそろ授業が始まる頃だった。今から行ったところで遅刻は揺るがない。ただ如何せん、この暇が酷かった。今まで追われる立場だったのが一変し、急にゆとりある生活を与えられても馴染めなかったのだ。

 やがて冬夜は身を起こし、散らばった服を手に取った。随分と埋もれたところに制服があり、それを引っ張りだした。

 いつから学校に行っていないのだろうかと記憶を辿ってみるが、やはりと言うべきか思い出すことはできなかった。

 とにかく月日を特定しよう――冬夜は制服に袖を通すと部屋を後にした。リビングには母しかいなかった。父も仕事に出たのだろう。

「どうしたの?」

 テレビを見ていた母は冬夜の姿を見ると、柔らかく微笑みながら言った。しかし、その瞳の光が僅かに揺らいでいるのを冬夜は見逃さなかった。

「暇だから学校でも行こうかなと思って」

 冬夜の言葉に、母の表情は一気に明るくなった。

「でも、お昼はどうするの?」

「購買で何とかする」

「お金あるの?」

 そこで冬夜は首を傾げた。我ながら間抜けだったと思いながらも、確認しなければ分からない。それよりも走馬灯なのにお腹が空くのだろうか――考えるとおかしくなって、冬夜は笑みを漏らす。

「ある」と答えて、冬夜はリビングを後にする。自室に戻ると、何も入っていない薄い鞄に筆記用具だけ放り込んで、冬夜は家を出た。自転車に跨り、体重をかけるようにペダルを踏む。ある程度加速したところで、サドルに腰を落ち着けた。

 自転車を軽快に走らせていると、遠くにコンビニの看板が現れた。まだ学校に通っていた頃は、よくお世話になったコンビニだ。そこで自転車を止めて、冬夜は平然と店内に踏み込んだ。朝早くからコンビニにやってくる学生に向けられる視線は、不審者に向けられるそれと何ら変わらない。女性店員の訝るような視線に対し、冬夜は軽く睨み返す。「いらっしゃいませ」と店員は目を逸らしながら言った。

 店員を一瞥すると冬夜は本棚に向かった。週刊誌を手に取り、適当なページを開く。そこに記されている日付を見ても、ぱっと思い出せないために逆算するハメになった。しばらく考え続けると、今が高校二年の春であることが分かった。自分が学校に行かなくなり始めた頃だと冬夜は思い出す。

 これだけは忘れもしない。何を隠そう自らが殺人に走るきっかけが、この年に生まれるのだから。冬夜からすれば記念の年と言っても過言では無かった。この年に俺は人を初めて殺したんだなと思うと、感慨深いものがあった。

 手に取った雑誌を一通り読み終えると、それを元の場所に戻す。そして店員の冷たい視線を背中に感じながら、冬夜はコンビニを後にした。こんな時間に学生服で長居すれば、補導されかねないからだ。たとえ走馬灯であっても、警官のお世話になるのは気の進むことではなかった。

 自転車に跨り、今度こそ学校を目指した。冬の残滓を感じさせる冷たい風が冬夜の頬を撫でてゆく。まだ午前中だと言うのに排気ガスの臭みが混じり、あまり新鮮な朝の空気とは言い難かった。過ぎゆく景色は懐かしく、のんびりと自転車を漕ぐ冬夜は僅かに目を細めた。すぐ横の幹線道路を車が颯爽と駆け抜ける。渋滞のピークの時間は既に過ぎたようだ。

 やがて景色の中に校舎が現れ、冬夜は無意識に息を吐く。周囲に人の気配は無い。自分以外に制服姿を見ない通学路と言うのも、これまた不思議な光景だった。自分だけが妙に目立っているのではないかと内心で冷や汗を流す。

 実際、目立っていることは違いないだろう――こんな時間に高校生が一人、のんびりと自転車を漕いでいるのだから。

 人気の無い校門をくぐると、ひっそりとした校内にからからと自転車の車輪の音が響く。

 再び学校に来る日が訪れるとは――冬夜は顔色一つ変えずに校舎を見上げる。それは異質なことに思えて、冬夜は苦い笑みを漏らした。

 自転車を適当に止めて、げた箱へと向かう。不意に流れ込んだのは澄んだ甘い香りだった。僅かに首を振ると、自転車置き場の奥に桜の木が並んでいた。風で揺られた桜は盛大に花びらを舞い散らす。既に満開は過ぎているのだろう。木々に詳しくない冬夜でも分かった。もう四月も後半に入るから、当然と言えば当然だ。寒さが続き、開花が遅れれば、また話は別だが。

 昇降口で靴を履き変え、訪れた廊下は静寂に包まれていた。足を止めて耳を澄ませば、人の気配はある。授業を進める教師の声だろうか。僅かな人の気配が静寂を神聖な物へと昇華させる。不自然で不気味な静寂とは違い、しんと身に沁みる心地よい静寂だった。曖昧な記憶に身を委ね、冬夜は足音を殺しながら廊下を進む。それは既に冬夜の癖になっていた。

 やがて訪れる教室の扉をしばしぼんやり見つめ、冬夜は手を伸ばす。僅かに音を立て、スライドしてゆく扉を見送って、出来る限り教室の内部を見ないように努めた。言うまでもない、教室を見渡せば、それこそ無数の視線がこちらに向けられていると言う事実と対面し、吐き気を覚えるはずだ。事実、既に向けられる視線を感じているだけで、冬夜の不快指数は限界寸前だった。やはり自分の居場所など、ここには無かったのだと改めて認識する結果となった。

 その視線から逃れるように自らの席を探す。しかし昇級してから、学校に顔を出した覚えのない冬夜は僅かに戸惑う。空席が二つあったのだ。一つだったら迷うこともなく、そちらに座れば良かった。

 まぁどちらでもいいか――冬夜は問題を丸ごと吐き捨てるように、盛大なため息をついた。とにかく席に着こうと足を進めたところで、冬夜は呼び止められた。それに応じるために首だけを僅かに回し、流し目で教師を捉える。

「遅刻届けは?」

 教師は冬夜に対して手を突き出したまま、険しい眼差しを放っていた。

「それに遅れてきたら、言うこともあるだろう?」

「最初からやり直して来い」と教師は言い、廊下を指差した。

 冬夜は教師から視線を逸らすと、小さく肩を竦め、息を吐いた。そんな冬夜の態度が気に食わなかったのか、教師の眉間に皺が寄る。「何だ、その態度は」と今にも言い出しそうな雰囲気に、冬夜は微笑む。

 これは走馬灯なのだ――冬夜は自らに言い聞かせると、肩にかけていた何も入っていない鞄をするりと床に落とした。僅かではあるものの、冬夜の身は軽くなった。一息吸い込んで、冬夜は床を蹴る。向かう先には教師。三歩で距離は無と化し、教卓に転がっていたボールペンを掴む。それを教師の首筋に向けて振るい、寸前で止めた。芯を出してやると、ペン先が首に触れて黒い点を残した。

 それだけで充分だった。教師は一歩も動けず、状況を把握してから、ようやく腰が抜けたように教卓の影に崩れ落ちた。手にしたペンを教卓にそっと置くと、冬夜は何も言わずに振り返った。クラスメイトの視線に一瞬気圧されながらも、自らの鞄を取るために足を踏み出す。

 結局、自分は何をしにきたのだろうか――鞄を拾い上げて、冬夜は教室を後にした。無言の圧力から解放された冬夜は、廊下の静寂の中で肩の力を抜く。やがて静寂を破るように、授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 爆発的に音が生まれ始める。椅子を引く音があちらこちらの教室から響き、やがて声が漏れてくる。誰もいなかった廊下に人が現れ、静寂は一瞬にして霧散していった。授業を終えた教師や馬鹿はしゃぎした男子生徒などを無表情で抜き去りながら、冬夜は下駄箱へと向かった。

「冬夜?」

 足早に立ち去ろうとしていた冬夜は不意に呼び止められた。僅かに舌打ちを漏らしながら振り返ると、「久しぶりだな」と人懐っこい笑みを浮かべる男の姿があった。柔和な顔立ちではあるが、パーツが整っているため女性受けの良さそうな印象を受ける。腹の底に湧く熱を感じ、冬夜はしばし俯く。再び顔を上げた時には熱も冷め、あらゆる物に興味が無いと言わんばかりの無表情と生気の無い瞳が男――冬夜の同級生である上村 祐介――を捉えた。

「何か?」

 冬夜が静かに尋ねると、上村は目を丸くし、やがて苦笑を漏らした。

「おいおい、用が無かったら話しちゃいけないのかよ? ……学校、来る気になったんだな?」

「気まぐれでな」

 飲み込んだ衝動は喉元を過ぎて落ち着いた。熱い物を飲み込んだ時とは違うのだなと、冬夜は小さく呟いた。

「ん、どうかした?」

「何でもない」と返して、冬夜は上村の横を通り過ぎる。

「お、おい、荷物持って、どこ行くんだよ?」

 逃げるように足を進める冬夜の後を上村は慌てて追った。そんな上村の行動があまりにも予想通りで、冬夜は口の端に笑みを漏らした。人の気も知らないで、ずけずけと踏み込んでくる彼をどれほど疎ましく思ったことか――いつしか笑みは苦いものへと変わっていった。

「帰る」

 冬夜は素っ気無く答えた。視線も行く先を見つめ、上村と目を合わそうともしない。

「何で帰るんだよ……せっかく来たのに」

「理由を知って、どうする?」

 お前には関係ない――そう最後に付け加えて、冬夜は上村を突き放しにかかった。

 しかし上村は諦めない。歩むペースがどんどん速くなってゆく冬夜に負けじと横に並ぶ。

「理由を知れば、何とかできるかもしれないだろ?」

「余計なお世話だ」と冬夜は鼻で笑ってみせ、小さく息を吐いた後に再び言葉を紡ぐ。

「お前が原因だよ、言うまでもないだろうが」

 その瞬間、上村は目を剥いた。やがて悲しそうに目を伏せながらも足を止めない。未だ冬夜の横に並んで、歩き続けた。

「やっぱり、怒ってるのか?」

 恐る恐ると言った様子で上村は口を開いた。

「そんな気がする」

 それに冬夜は応じる。返答が曖昧になったのは、確信が持てなかったからだ。もう遠い昔の記憶になる。今、覚えているのは圧倒的な殺意だけで、それが生まれた原因となる感情を思い出せなかった。ただ、その感情を生み出した原因だけは覚えていた。否、忘れることができなかったと言うべきか。

「別に気にすることはねえよ。お前は良いヤツだ、夕夏と付き合えばいいさ」

 どこかで言ったことのあるセリフを思い出して、冬夜はそれを棒読みした。やはり感情は湧いてこない。

 二人が付き合いだした当時、自分はどんな気持ちで、その言葉を吐いたのだろうか――冬夜は、それを思い出すことができなかった。

「だからさ、もう帰ってもいいか?」

 冬夜は上村を流し見ながら言った。眠そうにも見える生気の無い瞳に、上村は僅かに怯んだ。

「いや、そんな当然のように帰るって……良くねえと思うんだが」

 それに、と上村は続ける。

「部活、どうするんだ? 先生、もう怒りも呆れも通り越して心配してるぜ?」

 そう言えば、と冬夜は思い出す。学校に顔を出すことがなくなり、それと同時に部活も行かなくなった。結果的に、それは冬夜が初めて人を殺すまで続き、学校も部活も自然と戻れなくなった。

 つまり、この頃はまだ周囲が冬夜のことを諦める前だったのだろう。面倒くさいと思いながらも、現状に不思議な心地を覚えていた。走馬灯に出てくる相手に心配されてるのも、不思議な体験だった。

「辞めるなら辞めるって伝えに行け、ってことか?」

 どうせ結果的に辞めるのだから、と冬夜は肩を竦めながら答えた。すると上村は大げさに首を横に振った。

「違う、何でそうなるんだよ。今までずっと一緒にやってきたのに」

 上村の声は怒気をはらんでいた。しかし怒られる筋合いは無い、と冬夜は更に突き放す。

「俺の自由だろうが」

「自由だけど、勿体無い。それに辞める理由は?」

 冬夜は「飽きた」と返す。上村は一瞬口を開いたまま固まった。やがて理解が追いついたのか、眉が釣りあがる。上村にとって部活は大切であることを知った上で、冬夜は挑発するように言い放った。

 来る――上村の変化を悟った冬夜は体を後ろに反らした。目の前を上村の拳が抜けてゆく。少し目測を誤ったのか、上村の拳は鼻先をかすめていった。そのまま冬夜の身体は後ろに倒れてゆく。その体勢を利用して、冬夜は右足を振り上げた。無防備な上村の首筋に冬夜の爪先が綺麗に吸い込まれた。そこで振り抜かず、当てた瞬間に足を引いた。振り抜いていない分、ダメージは軽いはずだ。上村は廊下に膝をつき、咳き込みながらも冬夜を睨み上げていた。

「良かったな」

 武器が――刃物があったら、確実に殺していたと冬夜は確信していた。

 休み時間だと言うのに、廊下は異常な静けさに包まれていた。いくつもの視線が冬夜と上村に注がれ、一挙一動ですら許されない心地に陥った。これまた随分と目立ったものだと冬夜は眉をひそめる。

 やがて、そこから逃げるように冬夜は上村に背を向け、下駄箱に向かって歩き出した。本来なら教師に呼び止められて怒られるぐらいの出来事なのに、誰一人として冬夜を止めることができなかった。しばらく顔を出さなかった冬夜の変貌に、誰もが声をかけることを躊躇ったのであった。


*


 帰り道。

 どこかで時間を潰すことも考えたが、こんな時間に制服で出歩いていては目立ってしまう。冬夜は寄り道もせずに家に帰ることにした。日が昇り、温い風を全身で感じながら、自転車を走らせた。

 家を出て、まもなくして帰ってきた冬夜を見て、母は顔を曇らせた。

「どうしたの」と母は冬夜に尋ねる。それに「面倒くさくなって帰ってきた」と冬夜は返した。案の定、母は肩を落とした。

 少し悪いことをしたような気がしたが、そんな小さな罪悪感を心に留めておけるほど、冬夜は繊細ではなかった。一瞬にして消え失せる罪悪感を当然のように見送った。

 着替えを済ませて冬夜はベッドに転がった。待たされる苛立ちを思い出すと、パソコンを起動する気にはなれなかった。眠ろうと目を瞑る。しかし、なかなか眠りにつけず、冬夜は身を起こした。

 無駄に長く、精密な走馬灯だ――冬夜は思わず皮肉を零す。空腹を訴えかける胃を僅かに恨みながら、冬夜は階段を下りた。インスタントの食品を探していると、母がリビングに顔を出した。

「お腹空いたの?」

 その通りだったので冬夜は頷く。すると母は「お昼ご飯にしようか」と台所にやってきて、冬夜に尋ねる。

「何がいい?」

 冬夜は「何でもいい」と返した。実際、空腹を満たすものなら何でも良かった。だから調理が簡単なインスタント食品を探していたのだ。結局、炒飯を作ることにしたようで、母は冷蔵庫から野菜を取り出していた。

 料理ができるまで、冬夜はぼんやりとテレビを眺めながら考える。ここまで走馬灯が長引くことなんてあるのだろうか。それを知るには走馬灯を経験した人に聞くしかない。しかし、そんな稀有な体験をした人は身近にいるはずもなく、すんなりと諦めた。

 ただ冬夜にとって走馬灯とは、人生のダイジェストを一瞬で眺めるようなイメージだった。しかし、これは違う。時の流れですら正確なのではないかと思うほど、精密な世界が存在した。記憶に無い箇所が、ぼんやりと霞んでいるわけでもなく、目を凝らせば全てを見てとれる。当時、絶対あんなところを見ていないと言い切れる箇所に目をやっても、そこに何があるのか、はっきりと見て取れるのだ。

 過去の記憶から推測して、世界を作り上げているのだろうか――冬夜は僅かに俯いて、思考する。しかし、それが長引くことは無かった。それなら、それでいいと冬夜はさらりと割り切ってみせたのだ。

 やがて黄色い米の乗った皿が冬夜の前に現れた。良い匂いが鼻孔をくすぐり、冬夜は「いただきます」と小さく零して、スプーンで炒飯をすくった。

 熱い、そして美味しい。玉ねぎの風味が程よく残り、口内に広がる。精密な走馬灯で良かったと冬夜は炒飯を一気にかきこんだ。

 程良く胃袋を満たし、しばらくすると眠気がやってきた。ぼんやりとテレビを眺めるのも久しいことだったが、平日の昼間に興味を引くような番組は無かった。暇だと嘆いて、冬夜は席を立った。そのままリビングを後にして、自室へと向かう。散乱した服を構うことなく踏んで、ベッドに横たわった。

 現状に関する仮説は二つある。実際は三つあったのだが、それはあり得ない、と冬夜は一番最初に切り捨てた。

 まずは一つ目。現状は、この仮説を前提に行動を取っている。

 この世界は走馬灯だ。今頃、生死の境をさまよっている自身の身体を医者たちが必死にいじり回しているのだろう。それを思うと、ぞっとする。背筋を駆け抜けてゆく悪寒に、冬夜は僅かに身を震わせた。

 ただ、この世界は本当に走馬灯なのだろうか――その疑念はなかなか払拭しがたい。味覚、聴覚、触覚、視覚、嗅覚。それら全ての情報が生々しかった。走馬灯クオリティとは、そんなものなのかもしれない。今まで脳に蓄積された感覚の全てを動員して、走馬灯のクオリティを底上げしているのかもしれない。だとすると、人の脳は凄いものだ、と冬夜は素直に感心した。

 しかし、それでも一つだけ解消されない問題がある。この走馬灯仮説を根本から揺るがす問題――それは冬夜が自由に振る舞えていることだ。冬夜はここまで記憶と違った行動ばかりを取っている。走馬灯とは、そんなものなのだろうかと経験の無い冬夜は考えるも、やはり走馬灯で済ますには納得がいかなかった。

 だから行動方針を変えるべきだろうかと冬夜は思案する。もう一つの仮説に従って動けば、無難にはなる。しかし、それはそれで退屈になるだろうと冬夜は思わずため息をついた。

 二つ目。それは一度は死んだと思っていた世界は夢でした、と言う仮説だ。

 冬夜は人をたくさん殺してきたが、それは全部夢の中だったと言うことになる。こんな馬鹿な話があるか、と冬夜は思う。この仮説には決定的な欠陥があった。それを見つけるのも、そう苦労することは無かった。

 痛みだ――幾度と無く銃で撃たれ、刃物で切りつけられ、警棒で殴られて、冬夜は数々の痛みを経験してきた。あれらの説明は脳の自動再生では済ませられない。度を超す痛みには熱さを感じると知ったのは、あちらでの経験だ。つまり蓄積された感覚から、それを再現する力はないはずだと冬夜は推測する。

 それに夢とは痛みを感じないものだ。それだけは冬夜も断言できた。幾度と無く夢を見てきた中で、銃で撃たれることもあったし、刃物で突かれることもあった。しかし、そこに痛みはなかった。目覚めた際に少し気分が悪い程度だった。

 二つの考察を終えて、残った一つが異様な存在感を放っていた。あり得ないとは分かっている。笑い飛ばせるぐらい、ぶっ飛んだ仮説であることも理解している。しかし冬夜はそれを無視できなくなっていた。「ありえない」と冬夜は呟く。それは自らに言い聞かせるような響きもあり、その唇は更に続きを紡ぐ。

「……時が巻き戻った、だなんて」

 小さく呟くと、冬夜は目を閉じた。布団が温まり、眠気に抗いがたいものになっていた。それに身を委ね、冬夜は思考を停止させた。

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