二試合目
購買で薺と別れ、冬夜は校舎の二階にある一年生の教室を目指した。一年の廊下では自然と冬夜に道を譲るように人が流れる。以前のように殺気を向けられることはなかった。退屈だ、と冬夜は小さくため息を漏らした。
ただ、今は佐伯のことが頭の大半を占めており、冬夜の失望感は一瞬にして消え去っていった。失望を上回る期待が冬夜の胸に湧き上がり続けた。
一年で唯一の黄緑腕章だ――薺の言葉を反芻し、冬夜はクラスを回ることにした。冬夜が教室を覗き込む度に、教室から悲鳴が上がる。黄緑の腕章が見つからなければ、それを無視して冬夜は次のクラスへと向かった。
一年生は四クラスあり、人数も二年生の倍だった。それでも探すことは、そう大変なことではない。三つ目のクラスで黄緑の腕章を見つけることができた。
冬夜は口の端をつり上げて、佐伯に歩み寄った。すると、佐伯が冬夜に気づき、目を剥いた。
「ひっ、は……!?」
佐伯は小さく悲鳴を漏らして、椅子から転げ落ちた。
その反応を見て、冬夜は足を止める。相手の反応は黄緑の腕章らしくなかった。完全に怯えて、後ずさってゆく佐伯の姿に冬夜は首を傾げた。
「な、何で君がここにいるんだよお!!」
佐伯は教室全体に響きわたる声で叫んだ。どこかで聞き覚えのある声に、冬夜は僅かに首を傾げた。
「俺も転校してきたんだが……どこかで会ってるよな?」
冬夜が一歩詰め寄ると、佐伯は尻餅をついたまま手足をばたつかせて逃げてゆく。血の臭いが酷かった。
「お前、まさか――」
冬夜は、ようやく思い出す。しかし外見があまりにも違うため、答えに自信が持てなかった。
「吸血鬼、か?」
佐伯は目に涙を溜ながら、僅かに頷いた。それと同時に冬夜は盛大にため息をつき、肩を落とした。
*
「あれから……色々あったんすよ」
吸血鬼――佐伯の表情は固い。しかし冬夜と再会した当初よりは落ち着きを取り戻していた。
「しかし、そんな外見だったのか、お前」
冬夜は佐伯の姿をまじまじと見つめていた。島で殺し合った時と違って、どこからどう見ても人の姿だ。ただ、以前と変わらないのは、身体にこびりついた臭いと声だけだった。
「いや、これは人の皮を貰ったんすよ。これのお陰で、直射日光もそこそこ耐えることができるようになったんす」
人の皮と聞いても冬夜の表情は一切変わらない。そんな冬夜の様子を見て、佐伯の頬が引きつった。
「それは腐らないのか?」
「大丈夫っす。血を循環さえて酸素や栄養素を運んで、細胞の死滅を防いでるんす」
低級な吸血鬼でも、こんぐらいはできるんです――佐伯は自嘲するように言った。
「低級って、もっと高級な吸血鬼もいるのか?」
「僕なんかと違って、真祖はもっと再生力も高いですし、血族を作ることができるんす」
「つまり、お前は血族を作れないのか?」
「作れたら、負けてなかったっす……いえ、嘘です、ごめんなさい、マジごめんなさい」
冬夜がにたりと笑うと、佐伯は震えながら謝罪の言葉を口にした。
「まぁ僕は、かなり劣化した吸血鬼なんす。人と中級吸血鬼の間にできたから、吸血鬼の血が薄いんす」
なるほど、と冬夜は頷きながらも、ほとんど耳に入っていなかった。佐伯は一度バラバラにしたので、あまり興味が湧かなかったのだ。僅かにため息を漏らしながら、今度は二年生の赤腕章か、既に気持ちを切り替えつつあった。
「だから、僕なんかと戦っても仕方ないっすよ」
佐伯は怯えた瞳で、冬夜の返事を待つ。既に興味を失っている冬夜は「そうだな」と返した。佐伯は安心したように、ため息をついた。
「そしたら、やっぱり赤腕章が相手になるのか……」
「え、南雲さん、赤腕章とやるんすか?」
佐伯は目を丸くした。いつしか震えも止まっていた。
「まずは橙とかにした方がいいと思うんすけど……余計なお世話っすかね?」
橙ね、と冬夜は呟いた。しかし橙で知っているのは、薺しかいない。また薺にでも訊いてみるか、と冬夜は気楽に考えていた。
「ところで佐伯、軽く一戦しねえか?」
教室がしんと静まった。佐伯は唖然として冬夜を見つめている。やがてスピーカーが告げる――冬夜から佐伯に対して試合の申し込みがあったことを。
「前みたいに壊しやしねえさ。試合だよ、試合。ここで実戦を積んでるんだろ?」
佐伯の表情は固いものの、瞳に戦意が宿るのを冬夜は見逃さなかった。赤腕章と戦うまでに暇つぶしができるかもしれない――冬夜の胸は期待で膨らんだ。
「……いや、断っとくっす。悪いっすけど、南雲さんの言葉は信じられねえっす」
期待した分、落胆も大きかった。しかし自分のやってきたことを考えると、当然のことだと自らを納得させた。何度も騙し、不意打ち、挙げ句の果てに解体ショーに近い仕打ちを与えたのだ。断られて当然だった。
「それに、この場を失いたくないんすよ、僕は。人でもなく、吸血鬼としても半端な自分が唯一、認められた場所ですから」
「そうか」
冬夜は小さくため息をついて、佐伯に背を向ける。最後の方は聞き流していた。次なる獲物を探して、冬夜はふらふらと廊下を歩き続ける。
突然、冬夜は横に飛んだ。先ほどまで冬夜がいた位置を、何かが駆ける。横を通りすぎた瞬間に橙が見て取れた。
やがて過ぎ去った何者かが振り返る。薺だった。顔を引きつらせて、冬夜に詰め寄ってくる。
「なーぐーもーん? 言ったよねぇ、まだ手を出すな、って」
薺は冬夜の胸倉を掴んだ。いつになく、ご立腹の様子だった。それでも冬夜は飄々と肩を竦める。
「俺の勝手だろ」
「紹介した、こっちの身にもなってほしいんだけどなぁ」
ぐいと薺が腕に力を込め、冬夜を引き寄せる。ぱっと見ると細身の薺に、これほどの力があるのか、と冬夜は純粋に驚いた。
「ちょっとお仕置きする必要あるかな、と思ってきたんだけど」
「へえ、あんたが相手してくれんのかい?」
しんと静まった廊下に、ノイズが響く。しかし、まだ試合の申し込みが成立していないのか、アナウンスが響きわたることはなかった。
「放送の準備はできてるみたいだぜ。俺から申し込もうか?」
薺は黙ったまま、冬夜を見つめている。やがて薺は小さく「好きにしろ」と呟いた。薺の瞳に冷たい光が宿り、冬夜は口の端をつり上げた。
「壊し合おうぜ」
「上等」
直後、アナウンスが試合の成立を告げた。薺は冬夜の胸倉から手を離し、距離を取った。そこで黒い手袋を装着する。対して、冬夜は丸腰だった。それでも冬夜は笑みを崩さない。
冬夜は試合開始までの三分がもどかしかった。しばらくして審判となる教師が現れる。フロアの指定と、いつも通り時間は無制限だった。
冬夜は時計を見やった。あと一分ぐらいだろうか。薺が腰を僅かに落として構える。冬夜は脱力したままだった。
教師の合図が響きわたる。しかし冬夜は飛び込まなかった。薺の指が僅かに動いたのを見逃さなかったのだ。宙に舞う細い糸が、窓から差し込む日光を受けて輝いていた。開始と同時に突っ込んでいれば、一瞬で捕まっていただろう。
「来ないの?」
薺は無表情で、僅かに指を動かす。冬夜はそれを無言で見つめていた。あの糸を、どうにかして止めたい――冬夜は静かに考える。
「重心が後ろに向いてるね。試合を申し込んでおいて、最初から逃げ腰?」
冬夜は黙殺する。否、もはや聞こえていなかった。過度な集中で、細い糸の動きを見つめ続けた。
先に動いたのは薺だった。一気に距離を詰めながら、両手を振るう。冬夜は後ろに引きながらも、身体を捩り、襲いかかる糸を躱した。
指に一本――十本の糸を見切ることは、実際のところ不可能だった。しかし指の動きで何本の糸が襲いかかっているのかは分かる。冬夜は半ば勘を頼って、身体を動かしていた。
今回は糸に捕まることはなかった。しかし、このままでは追いつめられることを冬夜は理解していた。薺の指が止まった瞬間、冬夜は教室に飛び込んだ。邪魔な机を蹴り倒しながらも、教室の奥へと直進する。筆記用具や教科書が足下に散らばり、それを踏んだ冬夜は僅かに足を滑らし、手を着いた。それでも倒れずに、そのまま教室の隅まで駆け抜けた。
それを追って、薺も教室に姿を現した。そして右手を振るう。それに合わせるように、冬夜は近くにあった椅子を後ろに放り投げた。薺の顔が引きつり、右腕を引く。そこで薺の足が止まり、二人は睨み合った。
部屋の隅に背を預け、冬夜は息を吐く。誰が見ても、薺が冬夜を追いつめているように見えた。しかし、冬夜は不気味な笑みを浮かべたままだった。
「もう逃げられないけど?」
訝りながらも、薺はじりじりと距離を詰めてゆく。冬夜は右手で椅子を引き寄せて、それを持ち上げる。冬夜は、それを全力で投げつけた。しかし、それは何も無い空間で阻まれる。それを見て、冬夜は全力で駆けた。恐らく、薺は椅子を受けるために、糸を張り巡らせたのだろう。つまり椅子を受けている中心に糸が集まっているはずだ――冬夜は、それを狙っていた。
冬夜は机を蹴り倒した際に、床に転がった鋏をポケットから抜く。そして宙に向かって刃を突き出した。僅かな抵抗があり、鋏は更に進んだ。
薺の両目が見開かれた。それに触れるか否かの距離で鋏は止まった。依然、冬夜は笑っている。薺の頬を冷たい汗が流れていった。
「引き分け、かな」
冬夜が呟くと、薺が意外そうに目を丸くした。薺の糸が冬夜の首にかかっているものの、ほんの一瞬だけ冬夜の突き出した鋏の方が速かったからだ。薺は恐る恐る尋ねる。
「……いいの?」
「まぁ面白かったし」
冬夜は首にかかっている糸を指で撫でながら、鋏を放り投げた。それを見て、薺はすとんと腰から落ちる。冬夜の首から糸が離れていった。
「あ、はは、腰が抜けちゃった」
薺は苦い笑みを漏らす。冬夜は手を差し伸べて、薺を引っ張り起こした。しかし未だ足に力が入らないのか、薺は冬夜に身を預ける形となった。
「おい、見てるだろ。相打ち、引き分けだ」
冬夜が監視カメラに向かって告げると、アナウンスが校内に響きわたった。
「ごめん、もう大丈夫」
冬夜の胸から離れた薺の頬は赤かった。
「殺されると思ったよ」
「……あんたにはお世話になってるからな」
とは言うものの、何故手が止まったのかは冬夜自身も分からなかった。殺すつもりで放った手は、あまりにも自然に止まったのだ。
ただ、こんなことは少なくなかった。冬夜自身が気づいていないだけで、彼は自らを殺せる可能性の少ない女性を手に掛けることがなかったのだ。それは、いつしか習慣となり、冬夜を殺せる可能性を持っている薺でも手が止まった。女性は殺さない――それが無意識ながらも、冬夜のルールになっていたのだ。
「まぁ次は壊すかもな」
それに気づいていない冬夜は、そんなことを言った。しかし薺は「二度とごめんだよ」と再戦を断った。
その直後、赤腕章同士――影本 真と風切 秀の試合も引き分けたとのアナウンスが流れた。