デビュー戦
「なぐもーん!!」
どんどんと扉を叩く音が響きわたった。それを冬夜は無視して、寝返りを打つ。薄いカーテンを貫いて、部屋に差し込む日差しが眩しかった。
「ちょっとちょっと、もうすぐ授業始まるよー!?」
ふと扉に視線をやると、やはりと言うべきか鍵が開いていた。机を移動させておいてよかった、と冬夜は息を吐いた。
「ちょっと転校初日からサボりってのは、本当に洒落になんないってー! なぐもーん!」
その呼び方をやめろ、と冬夜は初めて応じた。不機嫌そうに扉の下まで近寄って、机の上に腰掛けた。
「授業に出なかったら、何かデメリットでもあんのかよ?」
「あるある、ちょーある! 生き残る確率が下がっちゃうよ!」
本当だろうか――冬夜は訝りながらも机をどけた。凄まじい勢いで薺が部屋に飛び込んでくる。そして冬夜の姿を見て、固まった。
「な……まだ着替えてすらいないの!?」
「いや、サボる気だったし」と当然のように冬夜は返す。
「それは洒落にならないって!」
薺の目は血走っていた。冬夜はやれやれと肩を竦めて、着替え始める。
「ぬぁ!? ちょ、着替えるんなら言ってよ!」
薺は耳まで真っ赤にして、凄まじい勢いで部屋を出ていった。こいつは本当に何がしたいんだ、と冬夜は首を傾げた。薺と初めて出会ったときの印象など、もはや欠片も残っていなかった。
そんな薺に引っ張られて、冬夜はとある教室の前まで連れてこられた。そこには、あの気だるげな教師がいた。
「先生っ、あとはお願いしますっ!」
そう言って、薺は廊下を駆けてゆく。「遅れるぅ!」と薺が叫ぶと同時に、チャイムが鳴った。
教師は薺の後姿を一瞥すると、何事も無かったかのように教室に入る。冬夜もその後を追った。
「――で、転入生の南雲 冬夜くんだ」
教師の紹介が終わり、冬夜は教室全体を見渡す。転入生を歓迎するような雰囲気ではなかった。目が血走り、殺意が教室を満たしている。なるほど、と冬夜は小さく息を吐いた。
「何か自己紹介でもする?」
教師はボールペンを指で回しながら冬夜に言った。冬夜は首を横に振った。
「そう。じゃ、あの空いてる席に座って」
教師がボールペンで指した先に腰掛けて、冬夜は頬杖をつく。前で教師が何か言っているのを聞き流し、ぼんやりと窓の外を見つめて過ごした。
クラスは二十人程度で、二年生は二クラスしか無かった。つまり、二年生は合計で五十人程度しかいないのだろう。多くても六十人だろうか、と冬夜は目処を付けた。
また、やたら空席が目立った。教室には三十近くの席がある。その内、空席は六席もあった。
それだけでなく、授業に出ているクラスメイトも異常に怪我が多かった。包帯、絆創膏、眼帯は当たり前のようで、酷いと骨折でもしているのかギブスをつけている人もいる。そういう学校なのだろうと推測していたため、冬夜はほくそ笑んだ。
ただ授業内容は、どこの学校とも変わらない普通のものだった。一時間目が半分過ぎたところで、冬夜は教室全体の観察を終えていた。暇になり、冬夜はこっそりと教室を抜け出すことを決意した。しかし、その気配は当然のようにバレた。あの気だるげな教師とは思えない俊敏な動きで、チョークが投げられる。それを靴の裏で受け止めて、冬夜は教室を抜け出した。冬夜の後を追ってくる気配は無かった。
やや失望しながら、冬夜は廊下を歩いてゆく。どこの教室も授業中なのか廊下は静かだった。
もう少し派手な生活を期待していたため、落胆も大きかった。退屈な日々が紛れるかもしれないと思って、この学園に飛び込んだのに、そこそこ退屈な日々が継続中だった。
階段を上り、屋上にやってきた。屋上と言えばサボリの定番とも言える。しかし大抵の学校は鍵がかけられて、自由に出入りできないようになっていた。しかし、この学園では鍵が無かった。
冬夜は重い扉を押して、屋上に出る。そこで大きく伸びをした。日差しは厳しいものの、周囲が森林のためか、そこまで暑さを感じなかった。涼しげな風が吹き抜けて、冬夜は目を細めた。
見渡すと学校を中心に二つの塀があった。その間が地雷原になっていることを思い出しても、感情は湧いてこなかった。
冬夜の視界の端で不意に何かが動いた。。授業中で、あまりにも人の気配が無かったため、冬夜は完全に油断をしていた。まさか授業中の屋上に人がいるとは思いもしなかったのだ。
「ちょっとなぐもーん……何してるのかな?」
身構えている冬夜を迎えたのは薺だった。頬を引きつらせながらも、薺は冬夜を睨みつけていた。
「サボり」と冬夜は答えた。薺は勢いよく立ち上がって、冬夜の下まで駆け寄ってくる。
「いや、ちょ、本当にちゃんと授業受けてよ! 私の株が下がるじゃないの!」
薺が叫んだ。そして直後に失言に気づいたのか、慌てて口を押さえた。
「俺が授業に出ないと、あんたの株が下がるのか」
冬夜の口元は自然と弛んだ。薺は顔を青くして、震えだした。
「何で……こんなやつ、紹介したんだろ」
薺は、うつむいて小さく呟いた。それを無視して、冬夜は屋上に腰を下ろした。
「あんたこそ、こんなところで何やってんだよ」
「え、私は……えっと……その、あれだ、観察!」
何の、と冬夜は即座に尋ねる。薺は言葉に詰まりながら、空を指さした。
「……雲の?」
自信の無さそうな薺の声。
冬夜は何も言わなかった。静かに立ち上がって薺に背を向ける。冬夜は、そのまま屋上を後にした。
何か悲鳴のようなものが聞こえたが、それをかき消すようにチャイムが鳴った。哀れな方だ、と冬夜は肩を竦め、少しだけ同情した。
冬夜は階段を下り、教室へと向かう。ただ歩いているだけなのに、視線や殺意が向けられる。それが嬉しいような、うんざりするような、どちらとも言えない感情が冬夜の中で渦巻いた。
「南雲 冬夜、だな」
その時だった。いきなり名前を呼ばれて、冬夜は立ち止まる。振り返ると、男が血走った眼で冬夜を睨みつけていた。
向けられるのは殺意。しかし冬夜は微笑みで応じた。何か楽しいことになりそうな予感があった。
「お前に試合を挑む」
緑色の腕章をつけた男が言った。それと同時に校内アナウンスのスイッチが入る電子音が僅かに聞こえた。やがてスピーカーから、よく通る声が響き渡る。
「緑腕章の島橋 一之から、同じく緑腕章の南雲 冬夜に試合の申し込みがありました。南雲 冬夜の同意があれば、三分後に試合を開始します。本校舎三階近くにいる教員は審判に向かってください」
ぶつ、とアナウンスが切れた。何だ、これはと冬夜は首を傾げる。アナウンスが終わってから、急に人が増えだした。あっと言う間に周囲は黒い制服で満たされ、逃げるにも一手間かかりそうだ、と冬夜は周囲を見渡す。
「試合、ね」
冬夜は僅かに微笑みながら呟いた。やっとらしくなってきたじゃないか、と冬夜の中に高揚が渦巻く。
「いいぜ、やろうか」
冬夜の同意に、周囲の喧噪が増した。再び、アナウンスが流れ、試合が成立したことを告げる。ふと冬夜が顔を上げると、監視カメラがあった。これで見ているのだろうと、冬夜は推測する。
「どいて、どいて!」
喧噪に混じらない高い声が響きわたる。聞き覚えのある声で、冬夜は振り返った。人混みをかき分けて姿を現したのは薺だった。凄い形相で迫ってくる薺の姿に、冬夜は僅かに怯んだ。
「何やってんのよ、君はっ!!」
薺は冬夜の両肩を掴んで、前後に揺さぶった。しかし冬夜はだらしなく口元を弛めるばかりだった。
「分かってるの!? これから試合なのよ!?」
「倒せばいいんだろ?」
「分かってない! 資料に目を通してないでしょ!?」
冬夜は静かに頷く。薺は一瞬言葉を失って、頭を掻いた。
「この学園には色々とルールがあるの! ああ、もう、どうしよう。時間無いし……!」
薺は島橋を一瞬だけ見て、腕を組んだ。やがて屈強な体躯を持つ教師が現れて、冬夜と島橋の間に立った。先ほどのアナウンスで言っていた審判なのだろう。
「おい、結川。そろそろセコンドアウトの時間だぞ」
教師は無表情で薺に告げた。薺は険しい表情のまま口を開く。
「……ッ、とにかく、死ななければいいから。無理だと思ったら、すぐにギブアップして!」
「了解」と冬夜は頷いてみせる。その瞳には狂気が宿りつつあった。さぁお楽しみの時間だ、と胸に渦巻く高揚に身を委ねた。
「――試合を開始する。フィールドは、この階だけ。時間は無制限だ。存分にやり合え」
はじめ、と教師が言う。それと同時に島橋は何かをポケットから取り出した。バチバチと弾けるような音を立てる黒い何かを、冬夜はまじまじと見つめる。何度も見てきたことがあった――それはスタンガンだった。冬夜は肩を落とし、小さく息を吐いた。
「えっと、それで戦う気?」
冬夜は心底理解できないと言わんばかりに首を傾げ、尋ねた。しかし返事はない。
島橋が駆け出した。一直線で冬夜に向かってくる。それをギリギリまで引きつけて、冬夜はひらりと躱す。歓声は無く、不気味なほど静かな中、冬夜は晒し物になったかのような居心地の悪さを覚えた。
さっさと終わらせよう――冬夜はポケットに手を突っ込み、砕いたチョークの粉をまいた。教室を抜ける際に、教師から投げられたものだった。しかし粉も大した量はない。それで男は怯んだ。その隙に冬夜は拳を叩き込み、続けざまに蹴りを放った。
充分な手応えに冬夜は頷く。しかし島橋は倒れなかった。堪えて再びスタンガンを構える。ただ、冬夜は既に飛んでいた。島橋が余裕を取り戻す前に、跳び蹴りを胸に叩き込む。今度こそ島橋は倒れ、蹴られた勢いを殺せずに廊下を滑っていった。それでも島橋は立ち上がった。眉をつり上げて、凄まじい形相で冬夜を睨みつけた。
しかし、それだけ隙があったら、冬夜も余裕で体勢を整え直していた。胸ポケットに入れていたボールペンを両手に握り、静かに島橋を待ち受けている。島橋も無謀に突っ込むことを止め、じりじりと冬夜に迫った。
お互い、あと一歩で攻撃圏内に入る。そんな距離になって、冬夜の口は横に裂けた。心底嬉しそうに、冬夜の顔が歪む。島橋は、その笑顔に気圧されて、一歩後ろに下がった。それを冬夜は見逃さず、一気に踏み込む。
「う、うわあああ」
悲鳴にも似た声で島橋がスタンガンを振るう。しかし島橋の攻撃は腰が引けていて、キレが無かった。冬夜は身を捩り、それを難なく躱す。そして身を捩った反動を活かして、腕を振るった。手にしたボールペンが眼球を貫き、骨をも砕く。島橋は妙な声を上げて、前のめりに倒れた。顔を中心に血が広がってゆく。安全な距離まで離脱した冬夜は、静かに見下ろしていた。
スタンガンが手から零れ落ち、廊下を滑ってゆく。それをぼんやりと見つめる冬夜の瞳は、いつの間にか輝きを失っていた。
冬夜が島橋に背を向けると、悲鳴が上がった。ここですら退屈を紛らわせるには少し物足りないのかもしれない――冬夜は僅かに肩を落とした。
やがて教師が勝者を宣言する。それを聞いても、冬夜は興味無さそうに欠伸を漏らすだけだった。
「よくもまぁ、躊躇無く殺せたねぇ……」
いつの間にか隣にやってきた薺が、しゃがんで島橋の死体をつついていた。彼女は死体に慣れているのか、顔色一つ変えなかった。
「こういうことには慣れてるから」
「……何で君みたいなのが、普通に生活できていたのか、不思議でならないよ」
薺は冬夜を見上げて、苦笑を漏らした。