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殺人鬼の日常  作者: 小石 汐
プロローグ
1/30

殺人鬼の最後

 立ち並ぶビルの屋上から見下ろした景色は、谷間を流れる小川のように車の列が緩やかに流れてゆく。立ち並ぶ街灯と車のライトで町は彩られ、夜闇は隅へと追いやられていた。思わず手で遮るほどの光溢れる町並みは、空に浮かぶ小さな光さえ奪ってしまった。もはや都心で星を見ることは叶わないことなのだろう。何かを得て、何かを手放す――人は文明の進化を手に入れると同時に、壮大な自然のもたらす感動を手放したのかもしれない。

 しかし光の溢れる場所があれば、闇に呑まれた場所もある。高いビルの合間を縫うようにして伸びる裏路地は、どこか荒んだ空気をはらんでいた。鼻を突く異臭は、路地に転がっている破けたビニール袋が原因だろう。湿気も酷く、細い路地には風が訪れることもない。停滞した空気は更なる腐敗を続けてゆく。大通りから差し込む僅かな光と喧騒のお陰で、辛うじて人が存在することを許されたかのような秩序の崩れつつある世界だった。真面目に生きてきた者――と言うものの、それに対する明確な定義など無いが、この場合はしっかりと勉学に励み、仕事を得て、大切な物、者を守ってゆこうと、人生におけるテンプレートと言っても過言ではない道を生きる者とする――ならば、踏み込むことを躊躇うだろう。保身のために当然とも言える判断だ。

 しかし、そこに一人の男が現れた。大通りの光を背中に受け、影は裏路地に伸びてゆくものの、その先端は闇に溶けてゆく。その動きは酷い鈍さで、足を引きずりながら一歩を踏み出した。ビルの壁に手を添え、更に奥へと進んでゆく。時折、水の滴るような音が路地に響くも、町を包む喧騒によってかき消された。

 男の名は南雲なぐも 冬夜とうやと言い、全国指名手配犯の中でもダントツの知名度を誇る。罪状は殺人――無差別に築いてきた屍の山は一体どれほどのものになったか、もはや本人ですら把握できていなかった。血の臭いが全身に染み付き、絶望を具現化したかのような黒く荒んだ混沌を瞳にきざす。進むたびに金属同士が擦れ合うような音が僅かに響いた。

 冬夜は振り返って後方を確認した。視認できる範囲に追手の気配は無い。僅かな喧騒が鼓膜を叩き、音で気配を察することは難しかった。まだ油断するわけにはいかない――冬夜は再び闇を見据え、足を進めた。

 捕まって退屈な時を過ごし、最終的に死刑にされるぐらいなら、今ここで自らの命を絶ったほうがマシだろう――日本の長すぎる裁判制度に不満を漏らしながら、冬夜は腰に差しているナイフに思いを馳せた。しかし、それが出来ていれば最初から苦労することはなかっただろう。冬夜は自嘲するような苦い笑みを浮かべた。

 奥に進むと光は薄れ、音も遠くなってゆく。そこで、ようやく水の滴るような音に気づき、冬夜は音源を探るように耳を澄ませた。音源は自らの足元だった。押さえている指の合間から流れ落ちてゆく赤い液体を見つめ、そっと息をつく。確かな痕跡を残してしまった。見つかるのも時間の問題だろう。冬夜は半分諦めながら、壁にもたれかかった。膝から力が抜けて、ずるずると壁で背を擦りながら崩れ落ちる。自らの腹部から溢れ出す赤い液体を目の前にかざし、じっとそれを見つめた。

 腹部には二つの穴があった。銃で撃たれたのだ。当初は焼けるような痛みが続いていたが、それも鈍くなり、痛む箇所も曖昧になって範囲を広げていった。止血しようと手で押さえて来たものの、一向に止まる気配は無い。冬夜は諦めて傷口から手を離した。

 刹那、薄暗い路地に小さな光が躍る。忙しなく揺れる光を見つめ、冬夜はついに来たかと身構える。しかし身体が動くことはなかった。血を失いすぎたのだ。光源は追手が持つ懐中電灯か何かだろう。何度も角を曲がった裏路地の奥に大通りの光が届くはずなど無かった。

 冬夜の頭を過ぎったのは『詰み』という言葉だった。将棋などでも言われるが、もう手の施しようのない事態を示す時に使われる。どう抗っても状況は好転しないと諦めた瞬間だった。

 光が遠のき、自然と瞼が落ちてくる。抗わなければ、そのまま眠りにつけそうな心地だった。睡魔に誘われる先は死――それを理解した上で、冬夜は身を委ねた。もう二度と目が覚めないことを願いながら、目を閉じた。

 いつしか光だけではなく、臭いや音まで消えてゆく。やや赤みがかった闇の中に意識を溶かしていった。ゆっくりと船を漕ぎ始めた頃、再び光が躍る。向けられる光に眩しさを覚え、冬夜は顔をしかめた。出航した船をロープで無理やり引っ張り戻された気分だった。

 冬夜は薄く目を開き、光を遮るように手をかざす。

「生きてる?」

 女性の透き通った声だった。冬夜は何度か瞬きを繰り返して、不機嫌そうに口を開く。

「何とか」

「そう」と小さく頷き、女は光源を下ろした。

「殺さねえのか?」

 冬夜も手を下ろしながら尋ねた。曖昧になってゆく視界の中、女は首を横に振る。

「貴方には法の裁きを受けてもらう、罪を償ってもらう」

 冗談じゃない――冬夜は苦い笑みを零しながら呟いた。

「どうせ死刑だろ」

 投げやりに言う冬夜に対し、女はどこまでも冷静だった。どこか悲しげな色を瞳にきざし、冬夜を見下ろす。しかし、それすらも冬夜の視界には映らなかった。血を失いすぎた冬夜の視界は、もはや細やかな表情を読み取ることすら叶わない。

「そうとは限らない」

「無期(懲役)でも一緒だぜ? 暇で憤死する」

 女は露骨に顔を歪めた。しかし嫌悪感ではなく、どこまでも哀れむような色の瞳で冬夜を見つめる。

「それに人の死ってのは事態を沈静化する効果があるんだ。ここで俺が死ねば、遺族のやつらも少しは落ち着くし、何より死刑に携わる者たちが嫌な思いをせずに済むだろう?」

「何でも死んで済まそうとするのは納得がいきません」

「それはお前の思いだろう?」

 冬夜は自らの腰元に広がる真っ赤な湖を見つめながら言った。女はそれを肯定する。その頷き、瞳に迷いは無かった。

「大体、罪って何なんだ? 人が作った法律ってのは不自然だ。争うことこそが本来の姿で、それを苦手とする頭でっかちな文官、過去の偉人が保身するために作ったのが法やルールだ。そんな物に縛られる義務など無い」

「……よく分からない」

 か細い声だった。それでも分からないことをはっきりと告げる女は、冬夜にとって好印象だった。だからと言って、撃たれたことを相殺できやしないが。

「でも、それでも人を殺してはいけない」

 迷いの無い声だった。揺るがない意思を言葉に感じ、冬夜は小さく頷いた。これ以上のやり取りをしても無駄だと悟ったのであった。

「違うんだよ。さっきも言ったが、元来人は争うモンなんだ。それを不自然に生きるために敷いたのが――強いたのか法律だ。争って当然、殺し合うのが日常なはずなんだ」

 土台が捻じ曲がっている。その上に出来た歪な世界など壊れて当然だ――冬夜はそう締めくくる。最後は声が掠れ、首ががくりと落ちた。膝にかけていた腕も力なく落ちて、赤い湖を叩く。僅かに跳ねた血の温さを感じながら、冬夜は眠りにつくように瞼を下ろしていった。

「救急車を手配しているんですから……もう少しですから!」

 女は冬夜の両肩を掴み、前後に揺する。煩わしく思いながらも、抵抗する力が残っていない冬夜は成されるがままだった。背筋を抜けてゆく悪寒は死神の気配を連想させる。自らの首に冷たい輝きを放つ鋭利な鎌の刃を突きつけていると言われれば、それを信じただろう。意識の手綱を握ることすら億劫になり、冬夜は今すぐ殺せと死神に願い出たいぐらいだった。

 やがて音が遠ざかり、視界は漆黒の闇に溶けてゆく。痛覚どころか、全ての感覚が消失してゆく。肉体的にも精神的にも、全てが崩れてゆく瞬間だった。

 やっと休める――血の気を失い、白くなった冬夜の唇から零れた言葉だった。それを最後に、冬夜の意識は完全に闇の底に沈んでいった。

 居場所の無い世界に、さようならを告げた。

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