真言の覚醒。
3日目は自由時間になったユウ達は平和なランチを過ごした。
ランチの後、班は解散となり、それぞれ自由行動へと散っていった。
ナナとシオリは「湖の向こう側に散歩に行く」と言って並んで歩き出し、カレンは「周辺の魔力反応を確認する」と単独行動を選んだ。
ユウは……その場に残った。
湖面を渡る風が頬を撫でる。
(……昨日も、一昨日も……何もできなかった)
拳を握ると、爪が手のひらに食い込む。あの日の夢が頭をよぎる——父親らしき人物の声。
「心を澄ませ、世界に自分を透過させろ……」
「……やってみるか」
周囲に人影がないのを確認して、ユウはゆっくりと目を閉じた。
深く息を吸い込み、吐き出す。
意識を自分ではなく、風や水の音、草の匂いへと溶かすように広げる。
——が、数秒もたたずに集中が切れ、雑念が押し寄せた。
「クソ……」
悔しさと情けなさが混ざった声が漏れる。
再び挑戦。
何度も、何度も。
太陽はゆっくりと傾き始め、湖面は金色に染まり始めていた。
額から汗が流れ、呼吸は荒い。
それでもユウは、最後まで諦めずに目を閉じ続けた。
ほんの一瞬——世界の音が消えた気がした。
同時に胸の奥で、何かが微かに揺らめく。
けれど、それは掴む前に霧のように消えていった。
「……やっぱ、まだ遠いな」
呟きながら、ユウは湖を見やった。
その視線の奥には、焦りと、微かな決意が滲んでいた。
湖面を見つめながら目を閉じ、世界に溶け込む感覚を必死に探していたユウは、背後から足音が近づくのに気づいた。
振り返ると、赤く綺麗な髪が視界に揺れる。ナナだ。
「……何してるの?」
問いかけは何気なさを装っているが、声色の奥には興味と、少しの棘が混じっていた。
「ちょっと、練習」
ユウは短く答える。
「練習……ああ、昨日も一昨日も、結局何もできなかったやつね」
わざと軽く言うような口調。しかしその視線は真っ直ぐユウを射抜いてくる。
「そうだな。だから、少しでも前に進もうと思って」
ユウが再び目を閉じようとした瞬間、ナナがユウの手をにぎる。
「……見せてよ」
「は?」
「天坂くんの本当の姿がみたいの。」
わざと挑発するような笑みを浮かべるナナ。
ユウはため息をつきながらも、心の奥に小さな火が灯るのを感じた。
再び集中。湖の波音、鳥の声、木々のざわめき……
けれど、結果は同じ。光は掴めず、ただ静寂だけが残った。
「……やっぱり、まだ駄目か」
悔しげに吐き出すユウ。
するとナナはふっと微笑み、しゃがんで彼の視線と同じ高さになる。
「焦らなくていいわよ。……でも、いつか見せてね。本気のあんた」
その言葉には、からかいではない真剣さが滲んでいた。
「……約束する」
ユウは短く答え、2人の間に穏やかな沈黙が流れた。
やがてナナは立ち上がり、「そろそろ戻るわよ」と手を差し伸べる。
ユウはその手を掴み、湖畔を後にした。
食堂は合宿所に似合わず広く、中央の長テーブルには班ごとの席が用意されていた。
ユウとナナ、シオリは並んで腰を下ろし、各々皿を手に取っていく。
そこへ、少し遅れてカレンが現れた。髪は夕暮れ色の光を受け、濡れたように輝いている。
「遅かったじゃない」
ナナが呆れた声を出すと、カレンは淡々と答えた。
「遺跡の調査に出ていたのだが」
その一言で、場の空気が少しだけ変わる。
ユウも思わず箸を止めた。
「……何かあったのか?」
ユウの問いに、カレンは一拍置いてから低い声で続ける。
「古代遺跡のルーンに、微妙な“揺らぎ”があった。自然な変動じゃない。……誰かが意図的に干渉してる可能性が高い」
「意図的に……? 誰がそんなことを」
シオリが不安そうに眉をひそめる。
「まだ分からない。でも、このまま異常が進めば……遺跡と一緒に封印されている負のルーンが解放される可能性がある」
「負のルーン……って、ヤバいんじゃないの?」
ナナの声には、わずかな緊張が混じっていた。
カレンは静かに頷く。
「封印が破られれば、この一帯に拡散して、制御不能になる。そうなれば……」
言葉を濁したまま、カレンは視線を皿に落とした。
短い沈黙が流れる。
ユウは無意識に拳を握りしめていた。
自分はまだ何もできない――それが、妙に胸の奥をざわつかせた。
「とにかく、今は監視を続けるしかないわ。あなたたちも、妙な動きには注意して」
そう言い残し、カレンは食事に手をつけた。
夕食後、人の気配が減った廊下で、カレンが声をかけてきた。
「……ちょっと、外、行かない?」
「え? こんな時間に?」
「いいから」
短くそう言って、凛と歩き出す。
ユウは小さくため息をつきながら、その背中を追った。
湖畔に出ると、月明かりが水面を銀色に照らし、波が寄せては返す音だけが響いていた。
「……静かだな」
「だから、ここが好きなの。人の声も、街の音も届かない」
カレンは湖を見つめながら、両手を背中で組んだ。
「……力、使いたいって思ってる?」
不意に切り出された質問に、ユウは瞬きをする。
「なんで急に?」
「最近、ちょっと顔に出てたから」
「顔に?」
「焦り……かな。もしくは苛立ち」
ユウは言葉に詰まる。
「……使えるなら、もう誰も目の前で傷つくことはなくなるかもしれない。でも同時に……怖い」
「怖い?」
「間違ったら、自分自身でさえ呑み込まれてしまいそうな」
カレンは小さく息を吐き、湖面を見下ろす。
「……私も似たようなものよ。記録官として“見てるだけ”の立場。助けられる力があっても、手を出しちゃいけない。……何度も歯を食いしばったわ」
「そんなふうに思ってたんだな」
「意外?」
「ちょっとね。霧島って何でもそつなくこなしそうなイメージだったから」
カレンは苦笑を浮かべる。
「人から見える部分なんて、ほんの一部よ。私だって……もどかしいし、時々情けなくなる」
その横顔は普段よりも柔らかく、ユウは思わず見つめてしまう。
「……じゃあ、もし俺が困ってたらどうする?」
「守ってほしいって言えるの?」
「言えないかもな。でも……顔に出てるかもしれないな」
「ふふ、じゃあ察して動くのは私の役目ね」
二人の間に、少しだけ穏やかな空気が流れた。
「……なんか、意外とおしゃべりだな」
「外だからよ。学校の中だと、あれこれ耳があるでしょう?」
「なるほど、外だと本音が出やすい、と」
「そういうこと」
カレンがほんの少し、いたずらっぽく笑う。
そのまま歩きながら、二人は合宿所へ戻った。
廊下を進んでいると、突然ぱちんと明かりが落ちる。
「……停電?」
低い唸り声のような音とともに、壁際のルーンが淡く光を帯びる。空気がぴりりと張り詰め――すぐに光が収まり、明かりが戻った。
「……今の、偶然か?」
ユウが呟くと、カレンはわずかに眉を寄せた。
「……偶然じゃないかもしれない」
その表情には、月明かりよりも冷たい影が差していた。
扉を開けた瞬間、ユウは眉をひそめた。
「……あれ? 誰もいない」
「ほんとだ。いつもシオリがソファで寝っ転がってるのに」カレンが首をかしげる。
「ナナと一緒に温泉か? ……朝も無理矢理にシオリに連れて行かれてたみたいだしな。ま、あの2人ならどっちから誘っても不思議はないけどな」
「ふふ。たしかに。だけど、シオリが連れてったら平和だけど、ナナが連れてったら戦場になりそう」
「戦場は言い過ぎだろ……いや、そうでもないか」
二人で小さく笑いながら、廊下を抜けて自室へ向かう。
その少し前。
森の小道を抜けながら、ナナは足を止めて周囲の空気を感じ取る。
シオリはランタンの灯りを見つめながら、ため息をついた。
「……で、本当に行くの?」
「行くに決まってるじゃない。カレンが言ってた古代遺跡の異常……気になるでしょ?」
「気にはなるけど、夜の森だよ? お化けとか……」
「ちょっと待って!」
周囲全体を振動させるようなルーン波動をナナは見落とさなかった。
「……今、変な反応があった」
「ルーンの?」
「ええ。やっぱり遺跡がおかしい」
シオリは心配そうに見上げるが、ナナは迷いなく進む。
歩きながらも、ナナの口調は堂々としている。反対にシオリは、やや腰が引けているようだった。
「さきに、先生に報告した方がよくない?」
「確証もないのに騒ぐのは嫌なの。まずは自分の目で見てから」
「……ナナちゃんって、こういうときすごく行動的だよね」
「褒めてる?」
「うん。ちょっとだけ」
やがて、遺跡の影が月明かりに浮かび上がった。
二人は慎重に中へ足を踏み入れる。
ルーンが刻まれた石壁が淡く光っている――だが、その光はどこか濁っていた。
「やっぱり……」ナナが近づき、指で刻印に触れる。
冷たい石から、脈打つような違和感が伝わってきた。
二人が中へ踏み込んだ瞬間――
轟音とともに空気が一変。ルーンの紋様が一斉に真紅に染まり、壁や床から光の鎖のようなものが走り出す。
「シオリ、下がって!」
ナナが防御のルーンを展開するも、押し寄せる力は前触れとは比べ物にならない。
石柱が裂け、空間が歪むような衝撃。
封じられていた負のルーンが、外へ飛び出そうとしている。
シオリは必死に補助のルーンを展開するが、光の圧力に汗がにじむ。
「これ、完全に……暴走してる!」
「誰かが仕組んだのよ……間違いない!」
ナナの瞳が怒りで燃える。
⸻
少し離れた高台。
暗紫色の髪を月明かりに輝かせ、セシリアが腕を組んで見下ろしていた。
「――ああ、美しい。
準備は整ったわ……あとは舞台が完成するのを待つだけ」
彼女の瞳は、暴れる遺跡を前に陶酔した光を帯びていた。
遺跡の奥、崩れかけた封印の前で、ナナは必死に両手を広げ、赤い炎のルーンを幾重にも重ねて押し返していた。
「……っ、この程度で私が……!」
だが、負のルーンから溢れる黒い波動は炎を突き破り、背後で支えるシオリごと弾き飛ばす。
二人の身体は石床を滑り、柱にぶつかって止まった。
次の瞬間、封印の亀裂から黒い靄が溢れ出し、それは人の形を取り始める。顔はないのに、そこに浮かぶのは強烈な怒りや憎しみの感情。
古代に封じられた人々の怨嗟が、形を得て襲いかかってくる。
黒い波動は遺跡を飛び出し、一直線に合宿所まで到達。建物全体が軋むように揺れ、空気が一変する。ロビーや廊下にいた生徒たちもざわめき出し、防御ルーンが自動で展開された。
自室で休んでいたユウも、異様な空気の変化に目を開く。
直後、廊下からカレンの早足の足音。
「……今の、遺跡の方向よね?」
「ああ、なんか嫌な感覚が……」
一階の玄関ロビーに向かうと、他の生徒たちも集まっていて、ざわめきが収まらない。
カレンが周囲を見回し、小声でユウに囁く。
「ナナとシオリがまだ、いないわ」
ユウは思い出す。夕食時、カレンが言っていた遺跡の異常。
ナナなら、確かめに行っていてもおかしくない。
「……もしかして、あの話を聞いて……」
言葉を途中で切り、カレンと視線を交わす。二人の考えは一致していた。
「行くわよ、天坂くん!」
「わかってる」
カレンは短く頷き、防御用のルーンを纏う。
外に出ると、すでに黒い靄が空の一部を覆い、風がざわついていた。遠く、遺跡の方向で光と影がせめぎ合っている。
二人は合宿所を飛び出し、全速力で遺跡へと駆け出した。
「離れるな!」
カレンが短く振り返って声を飛ばす。
彼女は先頭を駆け、迫りくる黒い靄の影――人型に変じた負の感情たちを次々と切り裂く。
彼女のルーンが輝くたび、影は断末魔のように揺らぎ、霧散していく。
ユウは一歩後ろを必死について行く。
(……速い。それに、迷いがない)
振り返る余裕もなく、ただカレンの背中を見失わないように走った。
その頃――。
遺跡の封印前には、倒れ込むナナと、その前に立つシオリの姿があった。
ナナは負の波動に弾き飛ばされた衝撃で、ぐったりと意識を失っている。
「……絶対、守るから」
シオリは震える手でブレスレットを握り込み、そこから展開された青白い光の壁がナナを包み込む。
だが、その防御は簡易型。長くは持たないことを、シオリ自身が一番理解していた。
――助けて。
心の中で、必死に誰かへ願う。光の壁の外側では、黒い感情の影が音もなく迫っていた。
「――くっ!」
シオリの目の前で、青白い光の壁が軋む。
ブレスレット型の簡易防御ルーンが、黒い影の連打に押し潰されそうになっていた。
背後では、ナナが小さくうめき声をあげるが、意識はまだ戻らない。
(もう、もたない……!)
歯を食いしばり、両手で防御を支えるシオリ。だが、限界は目前だった。
――バキン!
甲高い破裂音とともに、光の壁が砕け散る。
黒い影が一斉にシオリへ襲いかかる――その瞬間。
「――そこまでだッ!」
低く鋭い声が響くと同時に、紫の閃光が影の群れを切り裂いた。
カレンが遺跡の入口から飛び込み、疾風のような動きで影を薙ぎ払う。
次々と霧散していく黒い感情の影。
「シオリ、無事か!?」
後ろから駆け込んだユウが、シオリとナナの元へ膝をつく。
「……なんとか。でも、ナナちゃんが……」
息を荒げながらも、シオリは必死にナナを抱き締めていた。
カレンは最後の一体を切り伏せると、短く息をついた。
「ここはもう安全。でも、封印が……」
その視線の先、遺跡の奥では、まだ黒い瘴気がじわじわと漏れ出していた。
カレンが最後の影を斬り払うと、空間は一瞬だけ静けさを取り戻した。奥の裂け目からは、なお黒い靄が「呼吸」のように押し引きしている。
ユウは膝をつき、シオリと倒れたナナを確認する。
「……シオリ、怪我はないか?」
「大丈夫。ブレスレットの防御は切れたけど、今は落ち着いてる。ナナちゃんは……衝撃で気絶してるだけ。脈も呼吸も安定」
「よかった……」
カレンは裂け目に目を細めた。
「封印の“骨組み”が歪んでるわ。時間が経つほど、負のルーンが外へ出やすくなる。選択肢は二つ。――全員で撤退して応援を待つか、今のうちに核へ踏み込んで暫定の楔を打つか」
「撤退したら、その間に広がるかもしれない」
ユウが唾を飲み込む。
「ええ。だから行くしかない」カレンは即答した。
「シオリ、ここでナナを守って。侵入が来たら声を上げて」
「う、うん。任せて」
「天坂ユウは……」
「俺は行く。足は引っぱらない」
カレンは短く頷き、紫色のルーンを指先に走らせた。
「鏡環――展開。私が先頭を行く。あなたはまた後ろから着いてきて。行くわ」
探知系のルーンを展開したカレン。
二人は警戒しながら裂け目の奥へ踏み込んだ。
ひやりとした温度のない空気。石壁のルーンが一斉に反転し、真紅から墨のような黒へと裏返る。
その中心で、暗がりが凝り固まって“人の形”を結んだ。顔の輪郭はあるのに目鼻のない仮面のような顔。内側から灯るのは、怒り・嘆き・嫉み――古代の負が折り重なった、鈍い光。
「……なにか、言ってないか?」ユウが呟く。
『聞こえる』
それは音ではない。頭蓋の内側に直接、複数の声が重なって届く。男の声、女の声、泣き声、怒鳴り声。
『封をほどけば、喰える。喰えば楽に――』
「交渉の気はなさそうね」カレンが一歩、前に出る。
「ここは通さない。もう一度眠っててもらうか」
『我の名は哭王。貴様らも憎悪の渦に沈んでもらう』
「もう充分、負の嵐の中心にいる気分だよ、」
黒い腕が裂け目から伸び、鞭のようにしなる。
「反響結界!」
カレンの紫のルーンが輪環となって踊り、迫る一撃を斜めに弾く。はじかれた衝撃は壁へ逸れて石を砕いた。
「さすがだな、」
ユウが思わず漏らす。
「集中して。来るわ」
哭王の足元に黒い陣が咲く。影が“槍”の形を取り、矢継ぎ早に降り注ぐ。
カレンは紫色の鏡面の板を幾枚も浮かべ、槍の角度を反転、分割、鏡面に映し出された紫色の光で哭王の認識を妨害して、最短の手で軌道を殺していく。
『面白い。鏡の娘』
「鏡じゃない。それに私はもう大人よ」
カレンが懐へ踏み込み、輪環を束ねて“刃”の形に変える。
「鏡環・截!」
黒い躯体に白い切り口が走る――だが、すぐに閉じ、縫い合わさる。
哭王がこちらを見た“気配”を向けた。仮面に口はないのに、笑ったと分かる。
『ならば、静かに』
足元に、黒と紫の冠の紋――
「下がって、天坂ユ――」
カレンの忠告より早く、陣が花開く。
「支配紋――黙」
不気味な光が光輪となってカレンの頭上へ降る。意識に楔を打ち込むような、骨の内側から冷える暴力。
カレンの睫が一瞬震え――
「やめろッ!」
ユウは反射で肩をぶつけ、カレンを横へ弾き飛ばした。光輪は、そのままユウの頭上へ。
落ちる。
光輪がユウの頭上に落ちた瞬間、視界が白黒の粒子に分解されていく。
冷たい水底に引きずり込まれる感覚。
『――人よ。名を捨てろ。意志を置け。肉を残せ。』
哭王の声が、無数の重なり合う音で直接脳に響く。糸のような意識の触手が、脳の奥の奥へと侵入してくる。
だが、その触手が“何か”に触れた瞬間――微かなざわめきが空間を満たした。
音ではない。言葉でもない。けれど確かに、形を持ったなにか。
『……これは……』
哭王の侵入が、わずかに止まる。
触れた先には、黒でも白でもない、透き通った“空間”が広がっている。
それは押しても引いても動かない。形を変えず、溶けもせず、ただそこに在る――核のようなもの。
『人ではない……違う、これは……』
ほんの一瞬、哭王の声に迷いと警戒が混ざった。
触手が慎重になり、ゆっくりと周囲を探る。完全に支配するには、この核を覆い潰す方法を見つけなければならない。
その間に、ユウは“深く沈められながらも”奇妙な猶予を得ていた。
――その猶予こそが、彼が感覚を掴み、世界と溶けるきっかけになっていく。
音が消えた。
足場も、重さも、名前もない。
自分がどこからどこまでかを示す線が、すべて消しゴムで拭われたみたいになくなる。
(ここは――どこだ)
暗闇でも白でもない、輪郭のない場所。そこに糸が見えた。細くて、無数で、ほどけては絡まる。
一本一本の糸が“怒り”“嘆き”“渇き”の震えを帯びている。遺跡に溜まった負の感情――それが紐のように絡み、意識に巻き付こうとしているのだと分かる。
(巻かせない。飲まれない)
呼吸を――手放す。
鼓動を――手放す。
名前を――手放す。
昨日、夢の声が告げた言葉が、遅れて追いついてくる。
ーー心を澄ませ、世界に自分を透過させろ。
人ではなく、世界そのものになれ。
“自分”を薄くする。
耳は風になる。目は水面になる。皮膚は冷えた石になる。
湖の波紋が広がる速度、洞の滴りが床に落ちる間隔、石に刻まれたルーンの微細な欠け――全部が、同じ一つの呼吸になる。
糸の震えが、はっきり聞こえる。
絡みつく前に、どこで結び、どこで外れるか――触れずに“分かる”。
その“分かる”を、**言葉**にする。ただ、それだけ。
声は喉からじゃない。
世界の中央から、静かに、命令が降りる。
――拒絶せよ。
真言。
音も光もないのに、構造が“ガキン”と音を立てて反転した。
黒い糸束が一斉に逆巻き、“外側”へと押し出される。
楔が抜けるのではない。侵入自体の定義が取り消される。
絡みついていた“感情”は、自分ではない場所――封印の外へ、もちろんそこが正しいという顔で戻っていく。
ユウは膝をついた姿勢で、現実に戻っていた。
頭上の黒紫の光輪は砕け、細かなガラス片のような光が空中に散る。
カレンは目を見開いたまま息を呑み、思わずユウの肩を掴む。
「……いま、あなた……」
言葉が続かない。代わりに、喉の奥で小さく笑う気配だけが震えた。
哭王が、初めて“後ずさった”。
仮面に目がないのに、驚愕がはっきり分かる。
『言葉…… まだ残っていたのか』
ユウはゆっくり立ち上がる。
胸の奥に、さっきまでと違う静けさがある。
叫んでも怒っても出なかったものが、静まったら出てきた――ただ、それだけの実感。
「……大丈夫。俺は、まだ俺だ」
ユウが短く言うと、カレンはわずかに目を細め、頷いた。
「ええ。わかってる。――ありがとう。」
裂け目の奥で、哭王の気配が揺れる。
支配は退けた。だが封印は、まだ歪んだまま――。
哭王の精神支配を真言で弾き返した瞬間、ユウの中にあった何かが完全に目を覚ます。
それを感じ取った哭王は、目の奥に怯えと混乱を滲ませ、低く唸る。
「……お前……何者だ……?」
その声には、敵意よりも本能的な恐怖が勝っていた。
問いに答えようとしたユウの口が開きかける――その瞬間、哭王の瞳がわずかに揺らぐ。
まるで、そこに映った“何か”を見てはいけないと悟ったかのように。
「……駄目だ、これは……こやつと……言葉をかわしては…」
一歩、二歩と後退し、闇の靄をまとって退こうとする哭王。
だがユウは、その様子を静かに見据え、確信を持って口を開いた。
ユウはゆっくりと息を吐き、視線をまっすぐ前へ向けた。
その瞳の奥には、迷いも恐れも、もはやなかった。
「……真の言葉よ。響け。」
その瞬間、空気が凍りつく。
遠くの物音も、風のざわめきも、すべて吸い込まれるように消えた。
静寂の中、ユウの足元から淡い蒼光がじわりと広がる。
光は渦を巻き、彼の輪郭をゆっくりとなぞり始める。
黒かった髪の根元から銀白が染み出し、夜明けの光が闇を押しのけるように全体へ広がっていく。
光を反射した髪先は、まるで透明な氷片のようにきらめいた。
瞳の色も変わった。
深い蒼が内側から輝きを増し、瞳孔の縁には鋭い光輪が走る。
表情は静かなまま、しかしその目には確かな闘志が宿っている。
制服にも変化が及ぶ。
濃紺のブレザーの金の縁取りが淡く発光し、胸元の紋章が脈動するように輝きを放つ。
袖口や襟元に隠されたルーン模様が淡く浮かび上がり、呼吸に合わせて光を脈打たせた。
そして——背後に、蒼い炎が翼のように広がった。
その炎は風に揺らめくことなく、まるで意思を持つかのように静かに漂い、周囲の空間を震わせる。
ただ立っているだけで、圧倒的な存在感が放たれていた。
ユウはもう、先ほどまでの彼ではない。
——真言の使い手としての姿が、そこにあった。
「――消えろ。」
その一言は、まるで世界そのものが応えるかのような響きを伴い、空気を震わせた。
次の瞬間、哭王の輪郭が霧のようにほどけ、声も姿も、存在そのものが消滅する。
耳に残るのは、風が吹き抜けるような一瞬の音だけ。
途端に、辺りを覆っていた負の波動が消え、遺跡も、合宿所も、世界が元の静けさを取り戻していく。
重苦しい空気が晴れ、倒れていたナナも意識が戻り始めた。
ユウが大きく息をつき、ふと視線を上げると――
遺跡の影から、ゆったりと歩み出る人影があった。
その声と同時に、奥の通路からヒールの軽やかな音が響く。
やがて、銀髪の少女――セルシアが姿を現した。
口元には、相変わらず人を試すような笑みが浮かんでいる。
「あなたもいたのね。カレン。」
セルシアの視線はまずカレンへ向かう。
「セルシア……。教団の差し金だな。」
カレンは体勢を立て直して、鋭い眼差しを向ける。
「また戦争を起こすつもりか。」
ユウはその言葉に目を見開く。
「戦争……?」
セルシアは軽く首を傾げると、今度はユウへ視線を移す。
「そうよ、ユウ。私たち教団は、世界を混乱に陥れる計画を進めている。
戦争はそのための手段。そして――あなたは、その中心になる。」
「俺を……利用する?」
ユウの声には困惑と怒りが混じっていた。
「ええ。あなたが持つ“真言”は、世界を一夜で塗り替えるほどの力になる。
我ら教団は世界をあるべき姿に戻す役目がある。
世界を変えるためには、それくらい派手じゃないとつまらないでしょう?」
セルシアは挑発するように微笑む。
「くだらない……」
カレンは一歩前に出てユウの前に立つ。
「ユウはお前たちの駒じゃない。そんなことはさせない」
「ふふ……本気で守るつもりなのね、カレン。」
セルシアは意味深に笑い、わざと二人を値踏みするように見つめた。
「まあ、今日は期待以上の成果だわ。次に会うときは――もっと面白い舞台を用意するわ。」
その言葉を残し、セルシアは霧のように姿を消した。
静寂が戻る中、ユウは低く呟く。
「……教団。戦争……俺を切り札にする……。どういうことなんだ。」
カレンは、真剣な眼差しでユウを見つめる。
「簡単に説明できることじゃない。でも覚えておいて。
あいつらに一度狙われたら、逃げ場はなくなる。だから……絶対に一人で動かないで。」