合宿がはじまる。
合宿当日。朝の学園前――。
まだ涼しさの残る空気の中、生徒たちは次々と荷物を抱えて登校してくる。
制服の上に羽織ったジャケットがひらひらと風に揺れていた。
「……ふわぁ、ねむ……」
荷物を肩にかけながら、ユウは軽く欠伸をした。
前日はなんだかんだと準備や思考に追われ、あまり眠れなかった。
正門前には、すでに何人かの生徒が集合している。
教員らしき姿も見える中、見覚えのある栗色の髪がユウの視界に飛び込んだ。
「おっそーい、ユウくん!」
荷物を両手に抱えてぴょこぴょこと手を振る少女――シオリだった。
元気そうに笑いながら駆け寄ってくる。
「まだ40分前だぞ。……そんなに早く来たのか?」
「うんっ。合宿って聞いたらワクワクして眠れなくて、結局ほとんど徹夜で!」
「……大丈夫かよ、それ」
肩をすくめるユウに、シオリはふにゃっと笑う。
「でも、今日から1週間みんなでお泊まりだよ? それだけで元気100倍だよ~」
その言葉に思わず視線を外すユウ。
すると、背後から冷たい風が吹いた気がした。
「――ふぅん。朝から随分とご機嫌ね?」
ナナの声だった。
淡い紅色のコートを羽織り、いつもよりややきつめの表情。
視線はしっかりシオリに向けられていた。
「……おはよう、七瀬」
「ええ、おはよう。天坂くん。……そっちは、朝からテンション高いわね、、」
シオリは少し首を傾げた後、にっこり笑って言った。
「うん、だって今日から合宿だもん!」
「……子供ね」
ぴしゃりと言い放つナナ。
シオリはむしろ嬉しそうに笑うだけだった。
「ま、いいわ。移動中は同じ班の足並みを乱さないように。それくらいは守ってくれるわよね?」
「もちろん! ナナちゃんも楽しもうねっ!」
「……っ、誰が“楽しもう”なんて言ったのよ……」
そんなやりとりをしながらも、三人は自然とバスの方へ歩いていく。
そして、静かに歩いてきた一人の少女が、彼らの背後に現れた。
「準備は整ったようね」
銀髪のポニーテールに、整った制服姿――カレンだった。
その表情に変化はないが、視線は一瞬だけユウに向けられる。
「バス、もう出るわよ」
「あ、ああ」
無表情で歩き出すカレンを追って、ユウたちも列に並ぶ。
「なんか、これから冒険が始まりそうだよねー!」
そんなシオリの無邪気な声に、
ナナは「はぁ……」とため息をつきながら、それでも少しだけ微笑んだ。
バスの中は、生徒たちのざわめきと、時折笑い声が交じる和やかな空気に包まれていた。
ユウは窓際の席に座り、流れる景色をぼんやりと眺めていた。
「眠いなら、肩貸そっか?」
不意に隣から軽い調子の声がして、ユウは振り返る。
「……遠慮しとく」
そこに座っていたのは、もちろんシオリ。
明るい笑顔は相変わらずだが、ナナの視線をちらちら気にしている様子に、ユウは少しだけ苦笑した。
一方で、斜め前の席ではナナが膨れ顔で窓の外を見つめ、カレンは一番後ろの席で静かに目を閉じていた。
バスはやがて、山間の道へと入っていき――。
***
小一時間後、バスが停車したのは、森に囲まれた清涼な空気の中に佇む、広大な合宿施設だった。
「おぉ……!」
バスから降りた瞬間、思わず声を漏らすユウ。
目の前には、いくつもの棟に分かれた木造の建物と、広い演習場が広がっている。
「これ、すごいよね……! まるで冒険者の訓練施設みたい!」
隣でシオリが目を輝かせ、はしゃぐように周囲を見回す。
「子供みたいにはしゃがないで。恥ずかしいわ」
ナナが冷静にたしなめるも、その頬にはどこか高揚感が見て取れる。
カレンは少し離れた場所で、既に施設を警戒するように見回していた。
「――この場所、ルーンの反応が強い。おそらく、何か仕掛けがある」
ぼそっと呟かれたその言葉に、ユウだけが敏感に反応する。
(仕掛け? 演習で使う何か、か……?)
だがカレンはそれ以上、何も語らず先に歩いていってしまう。
「はーい、それじゃあ皆さん! 到着したばかりで悪いけど、班ごとに施設内を案内するよー!」
教官の号令で、生徒たちはそれぞれの班ごとに集まり始める。
ユウたち四人も軽く頷き合い、それぞれの荷物を手に、施設内へと歩き出すのだった。
陽が傾きはじめたころ、合宿所の広場に四つの班が整列する。
それぞれの顔には緊張と期待、あるいは面倒そうな表情が混じっていた。
ユウの班も、四人が並んでいた。
ナナは相変わらず堂々とした態度を崩さず、カレンは無表情のまま、シオリは周囲をきょろきょろと見回しながら落ち着きがない。そして、ユウはというと、若干居心地悪そうに立っていた。
教官が前に出て、板状のルーンを空中に浮かせて全体に拡声する。
「初日の課題は、裏山の“古代ルーン遺跡”の調査だ。班ごとに割り振られたルートを進み、簡易な結界ポイントを設置してこい。道中には訓練用の防衛ルーンも存在する。――油断するなよ」
「調査と戦闘の両方ってことでいいのかしら」
ナナがぽつりと呟いたが、それは指示を聞きながらも、自分たちの役割を即座に整理したということだ。
「まったく。到着早々こんな仕事とは」
カレンがため息をつくように言う。口調は淡々としているが、声色にわずかに張りがあった。
「がんばろー!遺跡とか、ちょっとワクワクするよね!」
シオリは目を輝かせながらぴょんと跳ねるように言う。
「ユウくん、何かあったら私の後ろに隠れてていいからね?」
「いや、俺が隠れるスペースないからな……」
班ごとの準備が整うと、教官の合図でそれぞれが裏山へ向けて出発した。
岩と木々が入り混じる獣道を進む4人。道の端には古代文字が刻まれた石碑や、部分的に崩れかけた遺跡の柱が見える。空気はひんやりと湿っていて、どこか神聖さすら漂っていた。
「このあたり……おかしいわね。さっきから空間が少し歪んでる」
ナナが立ち止まり、周囲を見渡す。ルーンを感知する力に長けた彼女が、すでに異常に気づいていた。
「幻影ルーン……だな。気づかせないように隠しているのか」
カレンもすぐに察知し、すっと構える。
「えっ!?どこどこ?」
シオリは左右を慌てて見渡すが、見えないものには手が出せない。
「ユウ、下がってて」
ナナが一歩前に出る。左手には煌めくような赤い槍のルーンが浮かび上がっていた。
「大丈夫、ちゃんと守るから」
それは、少しだけ照れたような、でも毅然とした声だった。
次の瞬間、木々の奥から突風のような気配――
幻影の魔物が姿を現し、奇襲をかけてきた。
「出たっ!」
「させない!」
ナナが赤槍を振るい、一撃で幻影の一体を吹き飛ばす。
「右からも来るわ」
カレンが指をすっと動かすと、紫がかった幾何学的なルーンが展開し、敵の動きを縛った。
「おお……二人とも、すごいな」
ユウは息を呑みながら見守る。自分にできることはない――そう思いつつも、目の前で繰り広げられる戦いに、何かが心の奥でざわついていた。
「いったっ!?シオリ、大丈夫か!?」
枝に引っかかったシオリが尻もちをつき、慌てて立ち上がろうとする。
「い、痛た……でも、だいじょ……あっ!」
足元に、幻影ルーンの罠が浮かび上がる。
「シオリ――!」
ユウの声が響く。
次の瞬間――
ナナが身を翻し、彼女の前に飛び込む。
「そこ、下がってッ!!」
一閃、赤のルーンが爆ぜ、幻影を打ち払う。
息を整える4人。静寂のなか、ナナが振り返る。
「ふう……間に合ったわね」
その顔には、わずかに誇らしげな笑み。
「ありがと、ナナちゃん……助かった」
「別に、当たり前でしょ。――あなた、もう少し注意しなさいよ」
プイッとそっぽを向くナナの顔は、ほんのり赤く染まっていた。
「……なかなか。いい連携ね、私たち」
カレンが小さく、微笑む。
遺跡の奥に進むと、苔むした円形の祭壇のような場所にたどり着いた。
中央には半ば埋もれた古代ルーンの石板があり、淡く光を放っている。
「……これね。設置ポイント」
カレンが腰のポーチから結界用の小型ルーン装置を取り出す。
「お、じゃあセットして終わりだな」
ユウが周囲を見回しながら言う。
「ちょっと待って、その前に記録」
ナナが掌に魔法陣を浮かべ、石板をスキャンする。
「この遺跡、相当古いわ……王国の建国より前かもしれない」
「そんなに!? ロマンあるね〜!」
シオリは目を輝かせて近づこうとするが、ナナに手で制される。
「下手に触らないこと。……遺跡って、意外と危ないのよ」
結界装置を石板の隣に固定すると、青白い光が周囲に広がり、遺跡を守る半透明の膜が張られた。
「よし、任務完了」
カレンが短く告げる。
帰り道。
さっきまでの緊張感は少し和らぎ、4人の間に会話が増える。
「ナナちゃん、さっきの槍の動き、めっちゃかっこよかったよ!」
「べ、別に……あなたを助けたのは偶然よ」
「偶然にしては、すごく頼もしかったけどな」ユウが言うと、
「っ……調子に乗らないで」ナナはそっぽを向くが、耳がわずかに赤い。
「ツンデレも大変ね」
カレンの何気ない一言に、ナナがジロリと睨む。
「カレンさんも十分すごかったじゃん!あの紫のやつ、ビリビリきたもん」
シオリが笑いながら言うと、カレンは小さく肩をすくめた。
「それじゃあ、これから部屋割りを発表する」
ロビーに集められた生徒たちのざわめきが一瞬収まり、担当教官の低い声が響いた。
「今回の合宿は班ごとに同じ部屋を使用する。ただし、寝室は男女で分かれている。共有スペースは班単位で使うように」
「ってことは……リビングは一緒ってことよね」
カレンがぼそっと呟く。
その声音には淡々とした響きがあったが、わずかに視線がユウに向いているのを俺は見逃さなかった。
「ふ、ふーん……別にどうでもいいけど」
ナナは腕を組み、わざと視線を外す。
その耳の先がほんのり赤いのは、気のせいだろうか。
案内された部屋は、中央に広めのリビング、その奥に男女別の寝室が左右に配置された造りだった。
木製の家具に暖色のランプが灯り、外の森から吹き込む風がカーテンを揺らしている。
「わ〜! 意外と広い!」
シオリが勢いよくソファに飛び込む。
「おいおい、壊すなよ」
俺は苦笑しながら荷物を壁際に置く。
「大丈夫だってば〜。ほら、ユウくんも座って座って」
手招きされるが、なんとなく落ち着かず、俺は立ったまま室内を見渡した。
ナナは静かに室内を一周し、壁の装飾や窓の外を一通りチェックしてから、ゆっくり椅子に腰を下ろす。
「……まぁ、悪くないわね」
カレンは既に荷解きを始めていて、服をたたみながらこちらに目をやった。
「こういう共同生活は慣れてる?」
「寮生活は長いから、ある程度は。けど……こうやって同じ班で過ごすのは初めてだな」
「じゃあ、これからもっと仲良くなれるね!」
シオリが笑顔で言う。
「……まぁ、そういうことにしておくわ」
ナナが淡々と返すが、その声はほんの少しだけ柔らかかった。
「ねぇねぇ、このテーブルで夜はお菓子会とかできないかな?」
シオリがテーブルを指差す。
「合宿だぞ。遊びに来たわけじゃない」
俺がそう言うと、カレンが小さく笑った。
「意外ね。あなたはもっと不真面目なのかと思ってたわ。ね、天坂くん」
「……」
何も言い返せなかったユウ。
「ほら〜! ユウくんも賛成した!」
シオリが嬉しそうに拍手する。
「……ふん、別にいいけど。あたしは甘い物はそんなに食べないし」
そう言いながらも、ナナは視線を少し逸らして頬をかすかに膨らませた。
合宿所の食堂は、木の温もりと香ばしい匂いに包まれている。
「わぁ〜! 美味しそう!」
シオリが両手を合わせ、目を輝かせた。
テーブルには地元の食材を使ったシチューや焼き立てパンが並び、思わず腹が鳴りそうになる。
「ここのパン、焼き加減がいいな」
俺は一口かじり、思わず呟く。
「……天坂くん、パンなんて普段そんなに褒めないじゃない」
ナナがじっと見てくる。
「な、なんだよ」
「別に。あんたがそういう顔するの、ちょっと珍しいと思っただけ」
そう言いながらも、ナナは自分のパンを半分ちぎって、俺の皿に置いた。
「ほら、こっちも食べなさい」
「え、いいのか?」
「別にアンタのためじゃないし……焼き加減の違いを確認してほしいだけ」
「はいはい、ツンデレさん」
シオリが笑いながら横からパンを差し出す。
「じゃあ、私のも! ほら、同時に食べ比べてみて!」
「……これ、俺の皿がパンだらけになるやつじゃないか」
「あら、私のもあげようか」
カレンが涼しい顔でワイン色のジュースを口に運ぶ。
「全部食べないと、後で痛い目見るかも」
「……何の話だよ」
夕食後、班ごとに自由時間が与えられた。
廊下を歩くと、温泉のような湯けむりの匂いが鼻をくすぐる。
「ねぇねぇ、今日のお風呂、混浴じゃないよね?」
シオリが首を傾げる。
「当たり前でしょ!」
ナナが即座に突っ込みを入れる。
「でもさ〜、女子風呂から男湯って見えたりしないかなぁ?」
「見えません!」
ナナの声が廊下に響く。
カレンはくすっと笑い、俺に目を向けた。
「……君、まさか覗くつもりじゃないでしょうね?」
「し、しないもんっ!」
湯気の向こうで、3人の声が響く。
木造の浴室はほんのり檜の香りが漂い、湯面がやわらかく揺れる。
「は〜、いいお湯……」
シオリが肩まで湯に浸かり、目を細める。
「……あんまりのぼせないようにしなさいよ」
ナナは髪をまとめ直しながら、ちらりとシオリを横目で見る。
「ねぇナナちゃん、さっきユウくんとパン分け合ってたけど〜……仲良しじゃん?」
「べ、別に! あれはたまたまよ!」
ナナは慌てて視線を逸らすが、耳まで赤い。
「もしかして2人はライバルなのか?」
カレンは長い髪を湯面に漂わせながら、少しだけ口元を緩めた。
湯気越しに、三者三様の表情がゆらりと揺れる――。
湯から上がった俺は、同じ班用の共同スペースでタオルを首にかけて座っていた。
ソファとローテーブルだけの小さな空間。
湯気で火照った身体に冷たい飲み物が染み渡る。
――と、その時。
「ただいま〜」
軽やかな声とともに、引き戸が開いた。
入ってきたのはシオリ。
髪をゆるくまとめたガウン姿で、まだ濡れた前髪から水滴が頬をつたう。
しかもガウンの紐がゆるく結ばれていて、鎖骨から胸元まで視界に入りそうになる。
「お、おい……! それ、もうちょっと……」
慌てて目を逸らす俺。
「え〜? 別に見られて困るもんじゃないし」
悪気ゼロの笑顔で、彼女は俺の隣にぽすっと腰を下ろした。
距離、近っ……!
「はいはい、あんたはもうちょっと警戒心を持ちなさい」
後ろからナナが現れ、シオリのガウンの紐をきゅっと締め直す。
……が、ナナも同じガウン姿で、湯上がりの頬がほんのりピンク色。
濡れた髪の先が肩にかかって揺れるたび、視線が勝手に吸い寄せられる。
「……何、見てるの?」
ナナがじとっと睨む。
「な、何も見てねぇ!」
思わず声が裏返る俺。
「……むっつり」
冷ややかに笑いながら、最後にカレンが入ってきた。
腰までの長い髪をタオルで軽く拭き、落ち着いた足取りで近づいてくる。
他の二人より露出は控えめだが、その分、大人っぽい仕草が妙に目を引く。
「……顔、赤いわよ、天坂ユウ」
意味ありげな視線を投げながら、カレンは俺の正面に腰を下ろした。
「う、うるさい……風呂上がりだからだ」
飲み物をもう一口飲み、ごまかす。
「ほら、もう夜だし、風邪ひく前に部屋戻ろうかしら?」
ナナが少し強引に促すが、シオリはにやにや笑いながら俺の腕を軽くつつく。
「せっかく四人一緒の部屋なんだし、もうちょっと話そ?」
――逃げ場がない。
熱いのは風呂上がりのせいなのか、それとも……。
「じゃ、また明日ね〜」
シオリが手をひらひら振りながら女子部屋へ引き上げ、
ナナとカレンもそれぞれ別の寝室へ向かっていった。
俺は男子部屋のベッドに腰を下ろし、
天井を見上げたまま深く息を吐く。
――今日の遺跡探索。
あのとき、もし俺に力があったら……。
足手まといになるどころか、みんなを守れたはずだ。
(何やってんだよ、俺……)
教団との戦いの時、あの一瞬だけ発動した“言葉”。
あれは偶然だったのか、必然だったのか。
どんな感覚で、どうやって引き出したのか――思い出そうとしても、
頭の中は靄がかかったように曖昧だ。
「……くそっ」
シーツを握りしめる。
焦りと苛立ちが胸を焼く。
俺だけが無力で、俺だけが何もできない。
あの時、先生や子供たちを守れたのは……間違いなく“あの力”のおかげだ。
(使えるようにならないと。絶対に)
そう心の中で繰り返すほど、
背中にあの日の光の感覚がかすかに蘇る気がした。
けれど、掴もうとすると、ふっと消えてしまう。
――使い方が分からない。
この手にあるはずの力が、まるで他人のものみたいに遠い。
「……明日は……何か掴んでやる」
小さく呟き、目を閉じた。
けれどその目の奥には、あの眩しい光と、
力を求める自分の強すぎる渇望が、いつまでも消えずに残っていた。