各々の企みと決意。
休日の街は、学園とは別の温度でざわめいていた。
石畳に陽が差して、露店の布地が風にはためく。焼き菓子の甘い匂いと、どこかから流れてくる弦楽器の音。笑い声。走る子どもの靴音。——人の気配が折り重なるほどあるのに、霧島カレンは不思議と孤独だった。
(整理しないと。……私の気持ちを、任務を、全部)
歩幅は自然と小さくなる。胸の奥では、会議室の冷たい声が反芻され続けていた。
——解任。役立たず。
——後任は桐生ミア。
——どんな手を使っても、天坂ユウを排除せよ。
(言ったら、私は処刑。言わなくても、彼は狙われる。……どうすれば)
石のベンチに腰をおろし、コップの珈琲に唇をつけた。熱は指に正直で、心だけが冷えていく。空を一度見上げて、視線を落としたとき——
「……カレン?」
聞き慣れた声。顔を上げると、影になった逆光の向こうに、天坂ユウが立っていた。休日らしくラフな格好で、手には小さな紙袋。彼の目が驚きと、次にふっと緩む。
「偶然だな。街にも来るんだ」
「……ええ。たまには。あなたは?」
「部品、受け取りに。壊れたルーンランプ、直せるか試したくて」
「ふーん、真面目なのね」
カレンは口角だけを上げ、紙コップを持ち直した。いつも通りの温度で、いつも通りの言葉。——そう装えていると、思いたかった。
「座っても?」
「好きにしなさい」
ユウは隣に腰を下ろし、紙袋を足元に置いた。通りを行き交う人の流れが、二人の前で途切れ途切れに分かれていく。しばらくは何も言わず、その波を見る空白が続いた。
「……最近、なんかあった?」ユウが先に口を開く。
「どうして」
「なんとなく。顔に書いてる」
(見てる。……やっぱり、見てくれてる)
「監視局って、休日も呼び出されるの?」
「機密」
短く弾いた言葉は、思った以上に固く響いた。ユウが黙る。空気がひと筋、張る。
「悪い」彼は目線を落とし、苦笑した。「詮索、じゃない。……ただ、心配だから」
「……心配?」
「うん。今日のカレン、どこか遠い。話しかけても、半歩うしろに下がるみたいな感じがする」
半歩。
(そんなに、分かりやすいの、私……)
「遠くなんて——」言いかけて、喉奥で止まった。
——言えない。ミアが監視局だなんて。ユウの命に“排除”の判決が下りているだなんて。口にした瞬間、私は標的になる。彼の“敵”の札が、私にも下がる。
代わりに、彼女は紙コップを両手で包み、熱を確かめるようにした。指先が微かに震えているのを、自分だけが知る。
「……ねえ、ユウ」
「ん?」
「あなたから見て、私は——どう映ってる?」
ユウの睫毛がわずかに揺れた。
すぐに言葉は返ってこない。彼は真面目に考えるときの癖で、視線を斜め下に落とし、息を整える。
「頼りになる。……正直、何度も助けられた。」
「……それは、監視局として?」
「人として」
胸が熱くなる。危ない。涙腺が動く音が聞こえそうで、カレンは睫毛を伏せる。
「でも」ユウは続けた。「最初のほうは、手を伸ばすと一歩引かれる感じがあった。俺が気にしすぎかもしれないけど……合宿の最終日くらいからはカレンと分かり合えてた気がするけど」
「……そう」
「嫌なら、無理に話さなくていい。俺が聞けないこと、あるんだろうなって分かってるから」
(分かってるのに、そう言ってくれるの。ずるい人)
「……ずるいわ、あなた」
「え?」
「何でもない」
カレンは立ち上がろうとして、座面に手をついたまま止まった。いま言わなければ——いま告げなければ、彼は知らずに笑って、知らずに標的の真ん中を歩いていく。
(言えば、私は終わる。言わなければ、彼が終わる。……どっちも、嫌)
目の端に、ピンク色のハーフツインが人波の向こうを横切る幻想がちらついた。実在ではない。心が見せる幻影。けれど、冷たい会議室の声は現実だ。
——桐生ミアに一任する。
——どんな手段を用いても、排除せよ。
「……桐生ミアって、最近よく話すの?」
自然に出たつもりの名前に、自分で驚く。ユウは少し首をかしげた。
「クラスメイトとしては。距離は——近いけど、まあ」
「そう。……距離ね」
「ん?」
「いえ」カレンは小さく首を振った。「私が——変なのよ。少し、疲れてるだけ」
ユウは彼女の横顔を見つめた。石畳に落ちる影が二人分。重なりそうで、重ならない距離。
「カレン」
「なに」
「俺、力のこと……真言のこと、ゆっくりでいいから考えたい。誰かを傷つけるためには使わない。……それは、信じてほしい」
胸の奥の糸が、きゅっと鳴って切れかける。
(信じてる。誰よりも、信じてる。でも——私は局員で、命令は“排除”。)
「……信じるわ。だから、お願い」
「何を」
「——あなたは、あなたでいて。誰かのために、勝手に死なないで」
自分でも意図しなかった強い声音。ユウの目がわずかに見開かれる。
「死なないよ」彼は真っ直ぐに言った。「約束する」
約束。
約束が、いつも守られる世界なら良かったのに。カレンは喉の奥で笑って、立ち上がる。足元の影がユウの影から離れる。
「……ごめんなさい。行くわ」
「え、今から? 送って——」
「大丈夫。私は強いから」
笑って見せる。完璧な、局員の笑み。
だけど、背を向けた瞬間、肩の力が全部抜ける。足取りは少しだけ速く、少しだけ不安定になる。
「カレン」
振り返らない。振り返ったら、言ってしまう。
——彼女は監視局。
——彼女は、あなたを殺すために来た。
(言えない。言ったら、私は終わる。終わらせたくない。……でも、このままでも、彼が)
。人の群れが一斉に動き出す。人波に紛れて、カレンは歩いた。
耳の奥で自分の鼓動がうるさい。肺が狭い。喉が痛い。膝が笑う。街の匂いが何も分からない。
(迷って、迷って、迷って——それでもいつか、)
角を曲がる直前、ほんの瞬間だけ振り返る。ユウはまだベンチに座って、彼女が去った空白を見つめていた。遠い。手を伸ばせば届く距離なのに、世界が一枚、挟まっているように。
(ねえ、ユウ。あなたから見て、私はどう映ってる? 監視局?
カレンは目を閉じ、深く息を吸ってから、歩を速めた。
(必ず、私が選ぶ。あなたじゃない誰かに選ばれるんじゃなくて、私が)
ポケットの中で、監視局の認証札が冷たく光った。
その冷たさを握りしめたまま、カレンは雑踏の中へ消えていった。
カレンと別れたあと、ベンチに座ったユウは、まだ胸の奥に引っかかる感覚を抱えていた。
カレンの表情に浮かんだ影。それを見てしまったからこそ、どうにも落ち着かない。
そんな時だった。
「……何よ、あれは」
鋭い声に振り向くと、七瀬ナナが立っていた。
腕を組み、頬を少し膨らませている。強気な態度の奥に、どこか嫉妬混じりの視線が光っていた。
「ナナ……」
「らしくないわね、あの子。無表情で氷みたいに冷たいくせに、さっきは妙に感情が出てたじゃない。……あんた、気づいてたんでしょ?」
ユウは軽く息をつき、苦笑する。
「偶然、見てたのか?」
「たまたまよ! ……通りかかっただけ」
ぷいっと顔を背けながら、彼女は当然のようにユウの隣に腰を下ろした。
「ねえ、ユウ」
「なんだ」
「……このままでいいと思ってるの?」
唐突な問い。ユウは一瞬考え込む。
「このままって、どういう意味だ?」
「そのままよ。ルーンレスのまま、監視局に目をつけられて……でも、あなたはただのルーンレスじゃない。いつまでも隠し通せるとは思わないわ」
ナナの声がわずかに震える。演習場で目にした光景が、まだ胸に残っているのだろう。
「……」
ユウが言葉を探すより早く、ナナは身を乗り出し、覗き込む。
「だから、もし居場所を失ったら……七瀬家に来なさい」
「七瀬家に?」
「そう! あんたを守れるのは、もう私しかいないの!」
その真剣さに、ユウは思わず息をのむ。
だが、直後にナナはわざとそっけなく言い直す。
「べ、別に特別に思ってるわけじゃないんだから! ……ただ、あんたが勝手に倒れられたら、困るのよ。計画が狂うもの!」
「計画って……心配してくれてるんだろ?」
「っ!? ち、違うわよっ!」
ナナの肩がびくりと跳ね、顔が真っ赤に染まる。
「そ、そんなことあるわけないでしょ! だいたい誰があんたなんか……!」
声は小さくなり、最後は自分でも聞こえないほど。
ユウは堪えきれず吹き出した。
「やっぱり心配してるんじゃないか」
「~~っっ!!」
両手をばたつかせ、ユウの胸をぺしぺし叩く。
「なによ! 笑うな! からかってるでしょ! このっ……!」
「いやいや、ありがとな」
「……っ」
その一言に、ナナは言葉を失った。
「いい? ユウ、覚悟しなさい!」
「え?」
「近いうちに私が七瀬家に連れて行って、ぜーんぶ面倒見てあげるんだから!」
「面倒って……」
「そうよ! 食事も! 着る服も! 寝る部屋も! 何もかも用意してあげるの!」
そこからナナの勢いは止まらない。
「毎日、豪華な食事よ! フルコースだって出せるんだから! あんたなんか一週間で丸々太るわね!」
「太らせてどうするんだよ」
「黙りなさい! ……それに、部屋だって私の隣に用意するわ! ええ、執事やメイドも揃ってるから、毎日快適に暮らせるの!」
「いやいやいや! 隣って……」
「当然でしょ? 監視と保護を兼ねてるんだから!」
「絶対それ理由じゃないだろ」
「なっ!? ち、違うわよ! 何を勘違いしてるのよ!」
顔を真っ赤にしてわめき散らすナナ。
その姿に、ユウは肩を震わせて笑い続けるしかなかった。
「と、とにかく! 決定よ! あんたは七瀬家に来るの! これは命令なんだから!」
「……命令って」
「そうよ! あんたに拒否権なんてないの! わかった!?」
夕暮れの空に、ナナの声が響く。
ユウは笑いながら頭をかき、仕方なく頷いた。
「……わかったよ、ナナ。考えとく」
「考えるんじゃない! 決定なの!」
ぷいっと顔をそむけ、ナナは立ち上がる。
その背中はどこか安心したように見えた。
「覚えてなさいよ! あんたはもう私のものなんだから!」
「ものって……」
「うるさいっ!」
真っ赤な顔で叫びながら、ナナは走り去っていく。
残されたユウは、苦笑しながら夕空を見上げた。
「……ほんと、素直じゃないな」
広場に吹いた風が、どこか甘酸っぱい余韻を残していた。
朝のホームルームが終わり、ざわつく教室の中でユウは窓際の席に腰を落ち着けた。
まだ少し残る週末の余韻に意識を引き戻すかのように、隣のシオリが椅子をくるりとこちらに向けて声をかけてきた。
「ねえユウくん、休日は何してたの?」
「ん? 俺?」
「そう、ユウくんだよ。他に誰がいるのー?」
からかうような笑みを浮かべながら、シオリは机に肘をついて身を乗り出す。
ユウは少し考えてから、答えるように息を吐いた。
「特別なことはしてない。ただ、ちょっと考えごとをしてたくらいかな」
「考えごと?」
「……まあ、色々あったしな。頭の中を整理したかったんだ」
一瞬だけ、ユウの表情に影が差す。
それを見て、シオリは「ああ、合宿のことね」と察したように視線を伏せ、すぐに明るい声で切り替えた。
「私はねー、家でゴロゴロしながら本を読んでた!」
「相変わらずだな」
「いいでしょ、休みなんだし。……でも、なんかね、やっぱり退屈だったなぁ。ユウくんも呼べばよかったかも」
ふいに投げられたその言葉に、ユウはわずかに言葉を失った。
そんな彼の反応を楽しむように、シオリはにやりと笑ってから「次の休日は、どっか遊びに行こうよ」とさらりと言ってのける。
「え、俺も一緒に?」
「当たり前でしょ。ナナちゃんやカレンちゃんや、あの子も誘ったら楽しいと思うし」
「……まあ、みんなでなら」
どこか気恥ずかしそうに答えるユウを見て、シオリは「ふふっ」と満足げに笑った。
そんなやり取りの後、話題は自然と学校のことへと移り変わっていく。
――やがて、昼休みが近づき、そこにミアが加わる流れへと続いていった。
休み時間。
シオリが飲み物を差し出す。「これ、期間限定の柑橘ティー。半分あげるねー!」
「いいのか」
「うん。二人で飲んだ方が美味しいし」
「ずるいなぁ、シオリちゃん」ミアが頬を膨らませる。「じゃあ私はこのクッキー、ユウくんにあげる。手作り」
「手作り?」
「……に“見える”やつ。購買の新作を可愛く袋に入れただけ、てへ」
「正直で助かる」
三人の小さな輪に、前の列からちらと視線が届く。カレンはページをめくりながら、耳だけをそっと向けている。
胸の奥で、“処分”という単語が黒い影になって張り付いて離れない。
次の授業の合間、ミアがふいにメモを滑らせてくる。
〈昼、一緒に食べよ〉
ユウが頷くと、隣からシオリが「ユウ、今日お弁当作りすぎたから、もし良かったら——」と目を輝かせる。
「うわ、かぶった」ミアが笑う。「どうしよ、三人で食べちゃう?」
「いいね!」シオリが即答。「カレンちゃんも来る?」
カレンは一拍遅れて顔を上げた。「……私は別に。食堂でいいわ」
「じゃあ食堂で合流!」シオリは返事を待たず、ユウの手首をとん、と軽く叩く。「行こ。席、取っちゃうね」
昼休み。
食堂は湯気と香りと笑い声で満ちていた。大きな窓から光が差し、皿の金属がきらりと光る。
シオリは四人分の席を確保して、手早く弁当箱を並べる。
「じゃーん! 今日は卵焼き、ちょっと甘め。あと照り焼きチキンと、きゅうりの浅漬け。ユウ、卵焼き好きだよね?」
「いつ言ったっけ、それ」
「顔に書いてあるもん」
ミアはトレーを置いて着席。「私は食堂の新作“とろ玉ハヤシ”。ユウくん、一口いる?」
「じゃあ……一口だけ」
「はい、あーん」
「いや、自分で」
「え〜、そこは“あーん”って……あっ、シオリちゃんが見てる、こわい」
「こわくないよ。羨ましいだけ」
「正直……!」
二人の軽口に、ユウが困ったように笑う。その笑い皺に、カレンが少し遅れて加わった。
「……空いている?」
「来た来た! こっち、カレンちゃーん」シオリが手招き。「卵焼き、分けるね」
「私はいいわ。ありがとう」
カレンは対面の席に座り、箸箱を静かに開ける。完璧に整えられた彩りの弁当。味が想像できるほど“正しさ”で満たされた詰め方。
「すご……」ミアが感嘆する。「プロの詰め方」
「自分で詰めただけ」
「作ったの?」
「作ったのは……半分」
「ユウくんは?」
「寮の購買。パン二つ」
「足りないよ!」シオリが即座にユウの皿へ卵焼きを移す。
「ちょ、いいのか」
「いいの」
「じゃあ私も」ミアがハヤシを匙でひとすくい。「はい」
「……ありがとう」
二人の“はい”が重なるたび、カレンの箸が止まる。
(距離が、近い……)
言葉に出す理由も権利もなく、ただ心の中で反芻する。迷いはまだ濃く、しかし昨日よりほんの少し、輪郭の柔らかい迷いになっていた。ユウの声と笑いがそこに混じるたび、黒い影に微量な光が差す。
「そういえばユウくん」ミアがさりげなく話題を差し替える。「最近、眠れてる?」
「眠れてる……けど、たまに変な夢を見る」
「どんな?」
「……世界に、自分ごと溶ける感じ。境界が薄くなって、声が遠くから響いてくる」
「へぇ」ミアの瞳がほんの刹那だけ深く沈む。「……怖くは?」
「怖い。けど、嫌じゃない」
「ふーん。じゃあ今日は、一緒に図書館で夢のルーン記事探そっか。夢は自分の潜在ルーンと深く関わりあるって聞いたことある」
「おれはルーンレスだけどな」
「ほんとかなーー?。……ね、霧島さん?」
突然振られ、カレンは少し遅れて頷いた。
「……」
「だよね。じゃ、採用」
ミアが勝手に決めると、シオリが「じゃあ私はカバー選び担当する。可愛いの探すから!」と乗ってくる。
ユウは苦笑い。「俺の、だよな?」
「“みんなの”だよ」シオリが即答。「みんなで守るユウの睡眠」
「なんだそのプロジェクト名」
「“プロジェクト・ユウの睡眠”」
「そのまんま……」
笑いが一巡して、ほんの一瞬、空白が落ちた。
その隙間に、ユウは思い切ってカレンを見た。
「カレン」
「なに」
「昨日……大丈夫だったか?」
「……?」
「なんとなく悩んでる感じだったから」
「……別に。いつも通りよ」
短く、固く。けれどその末尾には、聞き取れるか分からないほど微弱な“優しさ”が混ざっていた。
シオリが目を丸くして、すぐ笑う。「カレンちゃん、昨日ユウに会ったんだ?」
「偶然」
「へぇ〜、いいな。私も偶然会いたい」
「会えるんじゃないか、シオリなら」ユウが言うと、シオリは「えへへ」と照れ笑いし、ミアが「偶然は作るものでもあるけどね」とさらりと添える。
「作る偶然って、ただの……」
「うん、“運命”って言うの」
強引な語彙の上書きに、ユウは肩をすくめるしかない。
「それで、放課後の図書館は——」
ミアが当然のように話を進めようとした、その時だった。
「——なぁに? 放課後の図書館“は”?」
張りのある声が、横から滑り込む。
四人が振り向くと、綺麗な赤い髪をなびかせながら、七瀬ナナが、トレーを片手に立っていた。
眉は少しだけ吊り上がり、口角はきっちりと上がっている。笑顔の形を借りた、宣戦布告。
「席、空いてる?」
返事を待たずにナナは腰を下ろし、ユウの正面にトレーを置いた。
「ユウ。今日の午後、時間は?」
「えっと……」
「あるわよね。——はい、決定。購買で新作が出るって聞いたの。あなた、甘いの好きでしょ? 一緒に行くわよ」
「え、いや俺——」
「大丈夫。五分で済むから。ね?」
テンポは軽やか、押しは強い。シオリが目をぱちぱちさせ、ミアはにっこり笑いながらも瞳の奥をすっと細める。
「七瀬さん、こんにちは。今日もお綺麗で」
「当然でしょ」ナナは即答し、すぐユウへ視線を戻す。「で、放課後は——」
「図書館、行くってさっき……」ユウが困って言いかけると、ナナは肩をすくめた。
「じゃあ、その前に五分。私、待つの苦手なの。五分だけ貸しなさい」
「五分……」
ミアがさらりとフォローする。「うん、五分なら。私が、先に席取ってるね?」
「助かる」ユウが息をつくと、ナナは満足げに微笑んだ。
「決まり。——じゃ、食べ終わったら行くわよ」
立ち上がりかけたナナは、遅れて座ったカレンに一瞬だけ目を向ける。
「霧島カレン。相変わらず、静かね」
「あなたは相変わらず、賑やか」
「賑やかで結構。だって、静かにしてたら“奪われる”でしょ?」
挑発の棘を、笑顔で包む。
カレンは微笑みを返した。完璧に整った、感情のない微笑。
「——そうね。賑やかなのは、七瀬さんの役目だわ」
空気がひと呼吸、揺れた。
だがナナはそこで満足したらしく、テンポよく手を叩く。
「じゃ、ごちそうさま! ユウ、五分後ね」
「お、おう」
「遅れたら——減点」
「減点って何の」
「私の中の評価表」
「そんなもの持ってるのか……」
「あるに決まってるでしょ!」
言いたいことだけ言って、ナナはくるりと踵を返す。赤い耳飾りが光をはね、昼の食堂にきらりと線を残した。
残された三人と一人は、同時に息を吐く。
「……すごい人だね」シオリが笑う。
「そうだね」ミアは肩をすくめる。「でも、五分なら譲る。ね、ユウくん」
「助かる」
「その代わり、図書館は“長め”に」
「交渉上手」
「でしょ?」
カレンは箸を置き、薄く笑った。
——賑やかで、眩しい。手が伸ばせば触れられる距離なのに、指先が凍る。
(迷って、立ち止まって、それでも見ている。私は、今はそれでいい。……でも)
横顔のユウが笑った時、胸の奥に灯る小さな熱は、確かに昨日より温度を上げていた。
学園が終わる鐘が鳴る。
帰宅を始める生徒の中で、ユウは椅子を引き、苦笑とともに立ち上がった。
「……五分、行ってくる」
「いってらっしゃい」シオリが手を振る。
「走って戻ってきてね」ミアが目を細める。
カレンはただ、静かに頷いた。
ユウが去った教室に、残り香みたいな温かさが残る。
それぞれの迷いと、それぞれの決意と、言えない言葉たち。
光は明るく、けれど影は確かにそこにあった。
放課後の学園の中庭。木々の間を抜ける初夏の風が柔らかく吹き抜ける。そこは、休憩する生徒の姿もちらほら見える開放的な場所だったが、隅のベンチには一際目立つ存在が腰掛けていた。
七瀬ナナ。
鮮やかな赤みを帯びた髪を揺らし、腕を組んでそわそわと落ち着きなく足を組み替えている。
遠目からでも「待ち人に苛立っている」ことは一目瞭然だった。
そんな彼女の視線の先、のんびり歩いてくるのはユウだった。制服のポケットに片手を突っ込み、何気ない足取りで現れる。
「……遅い」
ナナはベンチから立ち上がるなり、開口一番に言い放った。
「いや、約束より三分前だけど」
「遅いものは遅いの!」
堂々とした理不尽。ユウは思わず肩をすくめた。
それでもナナは勝ち誇ったようにふんと鼻を鳴らす。
「……それで? わざわざ呼び出した理由を教えてくれないか?」
「理由? そんなの……決まってるじゃない」
ナナの表情がふっと曇る。
組んでいた腕をほどき、視線をそらすように中庭の木陰へ目をやる。
「最近、妙に馴れ馴れしい子がいるでしょ。ピンク髪で、やたら人懐っこくて……あなたにやけに距離が近い」
「……ミアのことか?」
「そうよ! あの子!」
ナナの声が思わず一段高くなる。
周囲の生徒がちらりと振り返ったが、彼女は構わず言葉を続けた。
「あなた、本当に何も思わないの? あの子がどういう子なのか」
「どういう、って……ただの転入生だろ? クラスに馴染もうとしてるだけだ」
ユウの淡々とした返答に、ナナはぐっと言葉を詰まらせた。
その反応が、逆に彼女の焦燥を際立たせる。
「――っ、ほんとに鈍いわね、あなたは」
「……?」
ナナはぐっと一歩詰め寄り、じっとユウを見上げる。
その瞳には、焦りと苛立ちと……それ以上に、説明できない不安の色が宿っていた。
「私が言いたいのはね、気を許しすぎるなってことよ。あの子がどうとかじゃなくて……もし、あなたが知らないうちに傷つけられたりしたら……」
言葉がそこで途切れる。
ナナははっとして、慌てて顔を背けた。頬がかすかに赤く染まっている。
「……まあ、別に心配なんかしてないけど! ただ、その……見ててイラッとするのよ。あの子があなたに馴れ馴れしくするのが」
「……」
ユウはしばらく黙って彼女の横顔を見つめていた。
やがて、ふっと小さく笑う。
「お前は心配性だな」
「ち、違うって言ってるでしょ!」
ナナは慌てて声を上げる。
だが、内心では否定できない自分にさらに苛立ち、どうしようもなく唇を噛んだ。
そんな彼女を置いて、ユウはくるりと背を向け歩き出す。
「まあ……忠告は受け取っておくよ」
「ちょっ、ま、待ちなさい!」
ナナは慌てて後を追う。
「……本当に、桐生ミアには気をつけなさいよ。私の知らないところで……変なことになったら、許さないんだから」
「はいはい」
ユウの軽い返事に、ナナは更にむっとする。
けれど、心の奥底では――彼女の胸を締めつけているのは確かに心配だった。
(なんで私……こんなことで必死になってるのよ……)
小さくため息をつきながら、それでもナナはユウの背中にぴたりとついて歩き続けた。
彼を放っておくわけにはいかない。
それが彼女の、七瀬ナナとしての誇りであり――そして少女としての、どうしようもない本音でもあった。
放課後の図書館は、昼の喧噪が引いて、音の輪郭がくっきりする時間だった。
窓から傾いた光が活字の列に斜めの縞を落とし、革の背表紙が静かに呼吸しているように見える。紙が擦れる音、遠い咳払い、ペン先が走る細い響き――それらが層になって重なり、耳の奥でやわらかい波をつくっていた。
「ユウくーん、こっちこっち」
囁きより少しだけ明るい声に振り向くと、ミアが両手で丸く囲った顔だけを本棚の陰から覗かせ、いたずらっぽく笑っていた。
「席、とってあるよ。逃げないでね?」
「逃げないよ。ありがとな」
「いいのいいの。お礼は、あとでゆっくり聞くから」
「……なんの、だよ」
はぐらかす言い方に、ミアは唇の端を上げたまま、すっと踵を返す。ハーフツインのピンクがふわりと揺れて、ユウの視界の端に残光を残した。
ミアが確保してくれていたのは、窓際から少し離れた、柱に寄り添う二人掛けの机だった。卓上には既に数冊の本が積まれている。『術式言語学入門』『詠唱がもたらす共鳴と位相』『沈黙の術理史』――どれも、授業の参考書にしては古く、匂いが濃い。
「すごい選書だな」
「でしょ? “ユウくんが好きそうな本”って、司書さんに相談したの」
「俺の何を知ってるんだよ」
「んー……顔?」
「は?」
「ふふ。顔に“黙ってるけど考えてる”って書いてある」
軽口の応酬。笑いながらも、ミアはユウが持ってきた一冊――古びた論文集のコピーに視線を落とした。
タイトルは『言葉の律動と世界構造』。手書きの詠唱・古語の混じる雑多な論考を、ユウは付箋でびっしり縁取っている。
「……ねぇ、これ。授業に出てこないやつだよね」
「図書館にあったから」
「“あったから”で読むには、付箋の数が真剣すぎない?」
「癖だよ」
「ふうん?」
ミアは頬杖をつき、椅子の背に半分もたれ、ユウの横顔を覗き込む。
静かな図書館の空気の中で、彼女の声は不思議とよく通った。澄んだ鈴の音みたいに、遠くまで行ってから戻ってくる。ユウは無意識に耳の内側を押さえるようにして、ページへ視線を落とした。
「ユウくんは、どうして“言葉”にこだわるの?」
「……ただ、気になっただけだ」
「なにが?」
「なんとなく。ルーンに詳しくなれば、使えない俺でも補えるかもしれないし」
「おお、もっともらしい」
「もっともらしい、は余計だろ」
「でもね、それなら“文法”の本を借りるはずだよ。ユウくんが読んでるのは、“ルーンの生まれる前の話”ばかり。――それ、すごく特殊」
ミアの指先が、ユウの本の余白を軽くとん、と叩く。
その微かな音が、耳の奥で倍に膨らんで跳ね返った気がして、ユウは眉を寄せた。
「音、うるさかった? ごめん」
「いや……気のせい、だと思う」
「そっか。じゃあ、もっととんとんしてもいい?」
「よくない」
小さな笑いを交わし、数行分の沈黙。紙の香りが濃くなる。
ミアは片手で髪の先を弄びながら、わざと間を取ってから、また軽い調子で投げてくる。
「ねぇ、ユウくん。『言葉』ってさ、ただの記号だと思う?」
「“ただの”じゃない、か」
「うん。たとえば、“名前”って呼ぶだけで、その人の輪郭が確かになる。声にして届くことで、世界のほうが少しだけ寄ってくる――みたいな。……どう思う?」
ユウはページを閉じ、視線を上げた。
図書館の高い天井に切り取られた白が、少しだけ滲んで見える。
喉の奥に、合宿の夜に掴んだ感覚――「世界に自分を透過させる」――という言葉が浮かんだ。口に出せば、きっと何かが戻らなくなる。そんな予感が首筋を冷やす。
「……もしさ」
「うん」
「もし、“言葉”が、世界のほうに最初から刻まれている“溝”みたいなものだとしたら――どう思う」
「“溝”?」
「音を立てる前から在る、道筋。そこに声を通すと、世界が、……受け入れて、響く」
言ってしまった、と自分でも思う。
ほんの一瞬、ミアの瞳が深くなった。きらめきが、底に落ちる。
「――響く、んだ」
「比喩だよ、比喩」
「比喩でも、いまのユウくんの声、すごく綺麗だった」
「からかうな」
「からかってない。むしろ、もっと聞きたい。ね、もう少し教えて?」
ミアは椅子を引く音を最小限にして、すっとユウのほうへ身体を寄せた。
頬の距離が縮まり、視界の端にまつ毛の影がふわりと落ちる。
彼女は上着の袖をくい、と引いて、囁く。
「ね、ここだけの話にするから。ユウくんが“ほんとは何を探してるのか”、私にだけ」
「……誰だって、言えないことだってある」
「私には“言えないの”? ひどい」
「誰にも、だ」
「ふうん。じゃあ、“誰にも言えないこと”を、私だけは知っている――そんな関係、よくない?」
小悪魔の笑み。
ユウが目を泳がせるのを、ミアは見逃さない。机の下で軽く足先が触れる。くすぐったいような、落ち着かない感覚が足元から這い上がってくる。
「桐生、近い」
「近いよ。わざと」
「離れろ」
「やだ」
「……何がしたい」
「知りたい。ユウくんの“秘密”。――好きだから」
あまりにも自然に放られた「好き」は、冗談に逃げる間を与えてくれない。
ユウは喉を鳴らし、視線を窓の光へ逃がした。そのわずかな隙を、ミアは逃さない。
「ねぇ、耳貸して」
「……やめ――」
「しー。静かに。図書館なんだから」
人差し指がユウの唇にそっと触れた。冷たくも熱くもない、その“丁度よすぎる”温度に、背中を薄い電流が走る。
彼女は立ち上がると、机を回り込み、ユウの椅子と机の隙間に滑り込むように腰を落とした。肩と肩が触れ、髪が頬をなぞる。
「ほら、言って?」
「だから――」
「“世界が響く”って、どんな音?」
「……」
「お願い。ね?」
甘い囁き。
ユウは、一瞬だけ、目を閉じる。
息を整え、喉に残った言葉の棘を丸める。
――言えない。言ってはいけない。けれど、完全に偽れもしない。
「……風みたいな、……いや、違う。耳じゃない場所で聴く、音だ」
「耳じゃない場所……心?」
「心とも違う。世界の、境目の、……きしむ音」
「境目が、きしむ」
「……比喩だって言ってるだろ」
「ううん、比喩じゃないと思う。だっていま――」
ミアは目を伏せ、長い睫毛の陰で、ほとんど唇が触れる距離まで顔を寄せた。
その瞬間、ユウはわずかに椅子を引いて身を逃がそうとする。
けれど、彼女の手が先に胸元に触れ、軽く押し込む力がかかる。
「っ……桐生っ」
「大丈夫。すぐ終わるよ」
「何が」
「“確認”」
軽い音がした。机の脚が床をきしませ、ユウの背は机の縁に半分倒れる形になる。ミアは片膝で椅子を固定し、もう片方の手でユウの肩を押さえた。
図書館の静けさの中で、その小さな動きがやけに大きく響く。いや――響き“すぎる”。
舌の根に残っていた違和感が、形を持って立ち上がる。
ミアの指先が、机をとん、と叩く。
――とたんに、机上のペン立てがかすかに跳ね、ペン先がちり、と震えた。
もう一度、指先が机を弾く。
――今度は、近くの棚の数冊が同時に、ほんの一枚だけページをめくった。
音が、増幅している。拾い上げられ、束ねられ、返ってくる。
「!?、今のは」
「ねぇ、ユウくん。さっき言ってた“世界が響く”って、この感じ?」
「違う。……それは“お前の音”だ」
目が合う。
ミアの瞳の色が、一段、深く落ちた。
「――そっか。やっぱり、君は“聴ける”んだ」
「……何を」
「境目」
唇に浮かんでいた笑みが、そこまでだった。
すっと消える。温度が、落ちる。空気の密度が変わる。
ミアはユウの胸に置いていた手を離すと、今度はゆっくりと掌を上に向けた。
爪先から手首へ、薄い光の筋が浮かび上がる。五線譜のような、透明な弦のような光条が、皮膚のすぐ上を走り、彼女の掌の上で円環をつくる。
――音律ルーン。
ぱさっ。
何も触れていないのに、すぐ近くの本のページが一枚、勝手に破れた。いや、破れたのではない。断面が炎のように波打ち、一瞬で切り取られた。音が刃になって、紙を“撫でた”。
「ミア、やめ――」
「静かに」
囁きが落ちる。
その一音だけで、窓ガラスの端に細い亀裂が走り、机の角がかすかに欠けた。図書館の空気が、震えに縫い止められる。
ミアはゆっくりと顔を寄せ、ユウの耳元で、今度は演技ではない声を落とした。
冷えた刃のような、任務の声。
「――私は監視局の命令を受けている。どんな手を使っても、“真言”の使い手を排除しろ、って」
「監視局?ミアが?……俺は、まだ――」
「言い訳はいらない。たった今、自分で匂わせた。『世界が響く』って。……十分」
ぱん、と指先を弾く。
乾いた一音が、爆ぜた。
本棚の列が一斉に震え、背表紙の列が波打つ。机の上のペンが跳ねて床に散り、遠くの閲覧席のベルがかすかにチリンと鳴った――いや、鳴らされた。
空気がひっくり返り、静寂が“音の布”に縫い直されていく。ミアの周囲にだけ、目に見えない五線が浮かび、そこに小さなルーンの音符が次々と灯る。
「……今までありがとう、ユウくん」
その言い方は、甘さの残り香だけを正確に再現していた。だが目は、氷。
「ここで、終わりにする。――あなたは、世界の脅威だから」
掌の上に編まれた光の譜面が、きゅ、と音もなく締まる。
次の瞬間、彼女の指揮に合わせて空気そのものが刃に変わるだろうことを、ユウは直感で理解した。
図書館の天井が、ほんのわずかに低くなったように息苦しい。耳の奥に、まだ鳴っていない轟音の影が膨らんでいく。
ユウは喉を鳴らし、机の縁を指先で掴んだ。
心臓の鼓動が、音階のように高くなる。
ミアの瞳は、もう笑わない。人懐こい仮面は完全に消えて、任務だけが立っている。
「さよなら、ユウ」
ミアの唇が、最後の“指揮”の形を結ぶ。
――その一音が落ちる寸前、世界が、張り詰めた弦のようにきしんだ。