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ピンク色の転入生。

挿絵(By みてみん)

チャイムが鳴る少し前。窓の外はやわらかな光。ユウは席に着き、ノートの端に小さく式を書きつけては消していた。胸の奥は不思議と穏やかだ。真言を使った夜から続く、透明な静けさがまだ残っている。


「ユウくん、今日の小テスト、出るとこ一緒に確認しよ?」

 シオリがノートを抱えて、いつもの調子で腰掛ける。笑うだけで空気が明るくなる、そんな子だ。

「いいよ。たぶん、基礎の転写ルーンが中心だと思う」

「だよね。えへへ、助かる」


 前方の扉が開き、担任が入ってきた。手には書類の束。教室がすっと静まる。


「授業の前に紹介だ。今日からこのクラスに転入生が入る。入ってきなさい」


 扉の向こうから、春みたいな色がふわりと現れた。

 ピンク色の髪、肩の下で揺れるハーフツイン。リボンは小さめで、顔立ちは愛嬌のある可憐さ。制服はきっちり着ているのに、どこか柔らかい空気がまとっている。


挿絵(By みてみん)


桐生きりゅうミアです。えっと、地図を見るのが壊滅的で……でも人に道を聞くのは得意です。はやく皆さんと仲良くなれたら嬉しいです。よろしくお願いします!」


 笑顔と一緒に、教室の緊張がふっと解ける。

「かわいい」「きれいな髪……」「ハーフツイン尊い」――ささやきがそこかしこで弾けた。


「席は――天坂の斜め前、空いてるな。桐生はそこへ」

 担任の指示に、シオリが小さく「わぁ」と声を漏らす。ユウは「斜め前……」と目線を上げた。


 ミアはこくんと頷き、軽い足取りで席へ向かう。その途中で、くるりと身体を傾け――


「ユウくん、おぼえてる? 昨日は職員棟まで案内してくれてありがとう」

 にっこり、まっすぐ。

 周囲の視線が、びりっと電流みたいにユウに集まった。


「え、あ……うん。無事に手続きできたなら良かった」

「うん、完璧! ね、後で校内の見所、もうちょっと教えてくれる?」

「え、ええと……時間があれば」

「やった。時間、作るね」


 そのやり取りを、三方向から異なる温度で見ている。


 シオリ。ぱぁっと花が咲いたみたいに笑って、素直に手を振る。

「ミアちゃん、よろしくね! 分からないことあったら何でも聞いて!」


 ナナ。ペン先が紙を小さくえぐる。

(馴れ馴れしい……。初日から距離が近すぎるのよ)

 目は笑わない。けれど口角だけが形だけ上がった。


 カレン。視線をノートに落として、心だけが斜め前に吸い寄せられる。

(……あんな感じの子がタイプなのかな?)

 胸の奥に、きゅっと小さな痛み。

(私は記録官。冷静に――)と唱えるほど、ユウの横顔が気になって仕方ない。


 転写の仕組み、構文、歴史。黒板の上を、白いチョークの粉が細雪のように舞う。

 ミアは最初こそきょろきょろと教室を見回していたが、ノートを開くと筆圧の軽い字で、すらすらと要点を拾っていった。新入生にありがちなもたつきがない。


(……飲み込みが早い)とユウは思う。

(でも、質問の仕方は完全に“慣れてない子”のそれだ。計算、なのか? いや――)

 そんな勘は、自分の性格に似合わないと苦笑いで追い払う。


 休み時間。

「ユウくん、転写の“例外”ってどれくらい試験に出るの?」

 とミア。

「前例が少ないからこそ、短答で一問だけ……たぶん」

「なるほど……頼もしい」

 椅子を半歩分だけ近づけるミア。机の縁が触れ合うぎりぎりの距離。


「ミアちゃん、ここの図解はこうだよ」

 すかさずシオリが割り込み、横からノートを開いて見せる。

「うん、シオリちゃんの字、かわいい。見やすい」

「えへへ、よく言われる」

 二人の空気は自然に仲良くなる方向へ転がっていく。ミアは女子とも距離を縮めるのが早い。


 そこに、カレンがふっと影を落とす。

「その“例外”は条項の追加で定義が変わるわ。過去問ベースで安直に当てにすると外す。――覚えておいて損はないわ」

 言い方は刺がある。だが内容は正しい。


「霧島先輩、ありがとうございます」

 ミアは素直に頭を下げた。

「先輩?……」カレンのまつ毛がわずかに揺れる。「私は同学年よ」

「あっ、ごめんなさい! 大人っぽいから……つい」

 教室の空気が、ほんの少しだけ軋んだ。


 後ろのほうで、ナナは小さく息を吐く。

(この子も天坂くんが目的なのかしら。……敵を作らないような柔らかさがあるわ。…)

  

 パンの紙袋を抱えたシオリが、ユウとミアを手招きする。

「一緒に食べようよ。今日の新作、メロンソーダ味クリームパン!」

「そんなのまであるのか……」とユウ。

「食べたことない! シェアしよ、ユウくん」

「いや、俺はいい――」

「三等分だよ?」シオリが当然のように割り込む。

 笑い合う美少女+一人。ベンチに座る距離は、午前よりさらに縮んでいた。


「ユウくん、午後の実技はどんな内容?」

 ミアが無邪気に身体を寄せる。

「今日は干渉制御の基礎。暴走させないようにルーンを弱める練習だ」

「ふむふむ……じゃあ、ユウくんの近くにいれば安心だね」

 シオリが笑いながら、さらりと、当たり前のように言う。

 ナナは視線を横へ外した。


(やっぱり――)

 中庭の縁から眺めていたカレンは、静かに結論だけを胸に落とす。

(だったら、私も――)


 干渉制御は、過去の“暴走”の記憶を刺激する科目だ。だからこそ練習台のルーンは子猫ほどに従順で安全なものを使う。

 ミアは最初こそおっかなびっくり触れていたが、三度目には指の置き方が“心得ている”形になっていた。


「……すごいわね。初日でここまでできる人、少ないのよ」

 ナナの素直な感嘆に、ミアは肩をすくめる。

「人に教わるのが上手いだけだよ。ね、先生が良いから」

 にこり、と目を細める。ナナは頬を掻いた。


 少し離れた区画では、カレンが黙々と制御を重ねていた。スパン、スパン、と均一な呼吸と共に、ルーンの光が“正しい”形に収束していく。

(負けない。絶対に)

 ミアが“可愛く”距離を詰めるなら、自分は“強さ”で勝つだけだ――そう心に決める。


◆放課後


「ユウくん、今日も案内してくれてありがとう。……ね、明日も少しだけ、いい?」

 ミアが靴を履き替えながら、さりげなく聞く。

「明日はちょっと用事で案内はできそうにないかもな」

「そっかー、用事じゃ仕方ないよね。じゃ、また明日」

 ひらりと手を振る仕草まで、絵になる。


「ミアちゃん、連絡帳の書き方わからなかったら送ってよ。私、教えるから!」

 シオリが当然のように隣に立つ。

「助かる~! シオリちゃん、神」

 二人の女子トークにユウは少し離れて相槌を打つ。距離感は柔らかい。だが――


 外の陽が傾く階段の陰で、ナナがじっとその様子を見ていた。

 視線は静かに、鋭く。

(天坂くんに近づいて何か目的があるのかしら)


 寮の部屋で机に向かうユウは、今日一日の小さな違和感を思い出す。

 ミアの笑顔、シオリの無邪気、ナナの沈黙、カレンの横顔。

 全部が日常の断面図のように並んでいるのに、どこか一枚、透明なフィルムが重なっている気がした。


(……考えすぎか)

 自分にそう言い聞かせ、ノートを閉じる。静かな夜。

 窓の外で、月が薄く笑っている。


 学園の図書館はひっそりと静まり返っていた。

 放課後に残る生徒は少なく、広い空間に響くのは本をめくる音と、時折遠くで鳴る時計の針の音だけ。


 ユウは一人、奥の本棚で古びた本を漁っていた。

 目的はただひとつ――「真言」。

 あのとき、自分の口からあふれた言葉によって哭王の精神支配を振り払ってその後、カレンが手も足も出なかった相手を一瞬で。その実感はまだ鮮明に残っている。だが、あの力が何なのか、詳しいことは誰も教えてはくれない。


(……俺は、本当に何をしたんだ?)


 震える指先で背表紙をなぞる。

 「古代言語」「失われた詩歌」「世界樹と根源言語」……どの書名にも心を惹かれた。

 だがページを開けば、抽象的な伝承や神話の断片ばかりで、確信に触れる言葉は見つからない。


 ――そのとき。


「なぁに、そんなに熱心に調べ物?」


 耳元に、からかうような声が落ちてきた。

 ユウは肩をびくりと揺らし、振り返る。


「……桐生?」


 ピンクの髪をハーフツインに結った少女が、にっこりと覗き込んでいた。

 その距離は近く、ユウは思わず数歩下がる。


「おどかすなよ」

「ふふ、だって声かけても全然気づいてくれなかったんだもん。どんなに集中してたの?」

「それに、シオリは名前で呼んで私には呼んでくれないんだ」

可愛く頬を膨らましたミア。


 ミアは棚の横に立ち、ひらひらと指でページをめくる仕草を真似る。

 無邪気に見えるが、その瞳にはじっと相手を観察する光があった。


「別に……ただ、ちょっと気になることがあって」

「へぇ……“気になること”?」


 探るような声色に、ユウは胸がざわつく。

 本当は誰にも知られたくない。だが、彼女はまるで当然のように話を続ける。


「ねぇ、それ……“言葉”で何かを起こす力、でしょ?」


「――っ!」


 ユウの目が大きく開かれる。

 口を開きかけたが、言葉が出てこない。


 ミアはくすりと笑った。

「図書館で“古代言語”のコーナー漁ってる人なんて珍しいよ。しかもユウくんが? 勉強熱心って感じには見えないのにね」


「……ただの興味だ」

「ふぅん?」


 彼女は隣の机に腰を下ろすと、勝手に広げられていた本を手に取った。

 ぱらぱらとめくると、ある一節を声に出す。


「“失われし言葉の力、世界を貫き、秩序を揺るがす”……だって。かっこいいねぇ」


 その言葉に、ユウの胸が高鳴る。まるで自分の体験をなぞられたようで。


「顔が赤いよ?」

「ち、違う。ただの気のせいだ」

「ふふ、ユウくん、かわいいね」


 ミアは机に頬杖をつき、真っ直ぐユウを見上げる。

 その距離感に、ユウは落ち着かない。


「ユウくんってさ、秘密多そう。……でもね、あたしはそういうの嫌いじゃないよ」

「……お前、何が言いたいんだ」

「んー? 別に。ただ……一緒にいたら、その秘密、もっと見られる気がするなって」


 からかうようでいて、どこか真剣な声音。

 ユウは息をのんだ。


 本当は突き放すべきだ。彼女に近づかれれば、余計に巻き込んでしまう。

 だが、ミアの柔らかな笑みを前にすると、喉の奥に言葉がつかえてしまう。


 ――そんなユウの動揺を楽しむかのように、ミアはさらに身を乗り出した。


「ねぇ、。もしその力が本当に存在して……ユウくんが使えるならどうする?」


「……っ」


 心臓が跳ねる。

 彼女は無邪気に笑っているが、瞳はまるで核心を突いてくるように鋭い。


「……分からない。……俺は、ルーンレスだからな」


 ぽつりと漏れた本音。

 ミアはその答えを聞くと、目を細めて――小さく笑った。


「そっかー。でもクラスの子がゆってたよ?暴走したルーンを止めたとか。ほんとにルーンレスなのかな?」


 その言葉に、ユウは息を呑む。

 まるで甘い誘惑のようでいて、背筋に冷たいものが走った。


 夕陽が窓から差し込み、二人の影を長く伸ばす。

 図書館は静まり返っているのに、ユウの胸の鼓動だけがうるさく響いた。


(……ミア。お前は、一体……)


放課後の演習場。赤く染まった空の下、広い空間は静けさに包まれていた。昼間の喧噪は消え、遠くから鳥の声が微かに響く。


その中央に、ナナは立っていた。制服の上から赤いコートを羽織り、両手にはルーンの淡い光。炎を宿す瞳がゆらめき、彼女の決意を物語っている。


「……来てくれたのね、天坂くん」


声は硬く張り詰めていた。


ユウは少し肩をすくめ、彼女を見やる。

「何の用だよ、こんな場所で」


「単刀直入に言うわ。あんたの“真言”を――見せてほしい」


その瞬間、空気が変わった。


ユウは眉をひそめる。

「……またか」


「合宿の時も使ったのは知ってるわ。直接は見られなかったけど。」


ナナの声は震えていた。焦燥と嫉妬と、どうしようもない羨望が混ざっている。


「私はまだ、あんたの力を“目で”見ていない。だから確かめたいのよ」


ユウは言葉を返さない。ただ静かに息を吐く。

真言――それは彼にとってまだ誇るべき力ではなく、制御の難しい“異質”だった。


「俺は……あんまり気が進まない」


「いつまで逃げるの?」

ナナの声に棘が混じる。

「私にはあとがないの。どれだけ必死に努力しても届かない、あんたは当たり前みたいに持ってる。羨ましくて……悔しくて……」


ナナは視線を落とし、炎の光を手のひらに灯す。


「私の家はね、七瀬の血を継ぐ者は“強さ”を証明しなければ生きる価値がない、そう言われて育ったわ。兄も姉も皆、優秀なルーン使い。私は小さいころから常に比べられた」


ユウの胸に、重たい言葉が落ちる。


「笑顔でいてくれたのは使用人くらい。家族は、私のルーンの力だけを見ていた。……だから私は、ずっと証明しなきゃいけなかったのよ。私は強いって」


彼女の瞳が揺れ、炎が大きくなる。


「でもどれだけ強くなっても、私じゃ七瀬家を救えない。あんたは違う。ルーンを持たなくても、あんな力を……“真言”を使える。」


ユウは答えられなかった。


「だから――見せなさいよ!」


挿絵(By みてみん)


叫びと同時に、ナナの掌から爆炎が迸った。轟音が響き、炎が弧を描いてユウを襲う。


灼熱の風圧に、ユウの制服が揺れる。


「くっ……!」


避けることはできる。だが――ユウは動けなかった。

(……これを避けたら、ナナは自分を責めるだろう)


彼女の必死さが痛いほど伝わってきて、ユウの心を縛った。


「仕方ないな」

低く呟き、胸の奥から声を紡ぐ。


「――真の言葉よ。響け」

 「炎無(えんむ)

瞬間、世界の色が変わった。


挿絵(By みてみん)


ユウの身体を淡い光が包み、髪が風に揺れる。瞳は青白く輝き、空気そのものが澄み渡る。演習場に吹く風が音を失い、ただ彼の存在だけが強く浮かび上がる。


炎が迫る――しかし、その全てがユウの周囲で霧のように掻き消えた。轟音も熱も、残滓さえ残さず。


「……っ!」

ナナは目を見開いた。


ユウの真言状態――彼女にとって初めて目にする姿。


「これが……真言……」

ナナの声はかすれていた。


ユウは肩で息をしながら彼女を見る。

「だから言っただろ。気が進まないって」


「どうして……こんなの……」

ナナの膝が震える。悔しさと嫉妬、そして圧倒的な差を突き付けられた無力感。


「ずっと認めたくなかった……私が……」


炎が消え、ただ赤い夕日だけが彼女を照らす。


ユウは歩み寄り、そっとナナの肩に触れた。

「ナナ、お前は十分強い。俺と比べる必要なんてない」


「でも……!」


ナナの叫びは、夕暮れに溶けていった。


沈黙が落ちる。

ユウの真言の光がゆっくりと消え、再びただの少年の姿に戻る。


「……ごめんなさい。」

ナナは小さく呟いた。


ユウは首を振る。

「謝ることはない。お前が抱えてるものも、分かるから」


その言葉に、ナナの胸が熱くなる。涙がこぼれそうになるのを必死でこらえ、背を向けた。


「……もっと強くなるわ。今度は、ちゃんとあんたの隣に立てるくらいに」


残されたユウは小さく息を吐き、夕焼けを見上げた。


「真言……俺も、まだよく分かってないんだよな」


彼の独白だけが、静かな演習場に響いた。


夜の帳が降り、学園の寮は静けさに包まれていた。

窓の外には月が浮かび、木々の影が柔らかく揺れている。


その一室。七瀬ナナは、机に突っ伏すようにして深く息を吐いた。

演習場での出来事が、頭から離れない。


「……あの力……」


閉じた瞼の裏に、ユウの姿が鮮明に浮かぶ。

青白い光に包まれ、すべての炎を掻き消したあの瞬間――彼が“真言”を発動した姿は、恐ろしくもあり、同時に神々しいほど美しかった。


「私の炎が……全部消えた」


ナナは自嘲気味に笑う。

あの時、自分は感情のままに力をぶつけた。家の重圧、嫉妬、悔しさ……すべてを炎に変えてユウに叩きつけた。


本来なら、相手はただの灰になるはずだった。

だが――ユウは違った。避けるでもなく、ただ“言葉”ひとつで全てを無に帰した。


その光景を見た瞬間、心のどこかで張り詰めていた糸が切れた。

(ああ……わかってはいたことよ。七瀬家は私よりあの力を)


そう認めてしまえば、不思議なほど肩の力が抜けていった。


机の引き出しから、小さな銀細工のペンダントを取り出す。

それは七瀬家の紋章が刻まれた家宝のひとつ。ナナは指でなぞりながら、幼いころの記憶を呼び起こす。


「ナナ、お前は七瀬の娘なのだから、他の誰よりも強くあれ」

「恥をかかせるな。炎を操る力で、一族の名を示せ」


父と兄の冷たい眼差し。

どれだけ頑張っても「まだ足りない」と突き放される日々。


「……あの家で生き残るには、力が必要なのよ」

ナナはペンダントを握りしめる。


だが同時に、心の奥底で囁く声もあった。

やはり彼を一族に引き込めれば、私は……いや、一族は、さらに揺るぎない存在になる。


ベッドに身を沈め、天井を見上げる。

夕暮れの演習場で感じた圧倒的な力。その隣に立てるなら、自分はもう孤独ではないのかもしれない。


「……ユウ」

無意識に名前を呟く。


これまでは敵意も混じっていた。

でも今は違う。彼の力を目の当たりにしたことで、心に芽生えた感情は“恐れ”よりも“渇望”だった。


「私があんたを。……七瀬家に迎え入れてみせる」


それは単なる家のためだけの決意ではなかった。

彼の隣にいたい――その想いもまた、確かに存在していた。

「でも……ユウは嫌がるかもしれない」

彼の真言は、誇示するための力ではない。

むしろ自分の意思に反して振るわされることを恐れているようにも見えた。


ナナは唇を噛む。

(無理やり縛りつけるようなことをすれば、きっとユウは遠ざかる)


だが――七瀬の娘として生きる以上、選択肢は限られている。

彼の力を見逃すことはできない。


「だから……私が変わるしかないのよね」


一族の名誉を掲げるだけではなく、自分自身の感情も偽らずに。

そうしてこそ、彼を引き込むことができる。

ナナはベッドから起き上がり、鏡の前に立つ。

紅い瞳が、迷いを振り払うように輝いていた。


七瀬ナナ。

プライド高きお嬢様は、その夜ひとりきりで“運命を変える決心”をしたのだった。


──灰色の壁と冷たい蛍光灯が照らす廊下を、カレンはひとり歩いていた。

 監視局本部。学園の裏に隠された研究棟の最奥にある、この建物は何度来ても息苦しい。外の世界から切り離されたような無機質な静けさ。心臓の鼓動が、かえって騒音に感じられるほどだった。


 呼び出しを受けたのは今朝。理由は告げられていない。だが胸の奥に広がる嫌な予感は、日増しに濃くなっていた。

 ──ユウのことだ。

 あの合宿の夜、彼が何かを掴んだことは、カレンも薄々感じていた。けれど直接は問えなかった。問い詰めれば彼を追い詰めるような気がして。


 重々しい扉が目前に迫る。両開きの鉄製ドアは、牢獄の入り口のようだ。

「……行かなくちゃ」

 自分に言い聞かせ、ノブを押す。


 会議室は広い。長机の向こうに、数人の幹部たちが無言で並んでいた。全員が黒い服に身を包み、冷徹な眼光をこちらに注ぐ。

 その視線だけで、心臓が圧迫される。


「霧島カレン。座れ」


 短く告げられ、カレンは机の前に立ったまま小さく頭を下げた。

 腰を下ろす余裕はなかった。直立不動で、ただ彼らの言葉を待つ。


「単刀直入に言おう」

 最も年長と思われる男が口を開いた。

「天坂ユウが──真言を使用した」


「……っ」

 心臓が止まりかけた。

 今、なんと言った? 真言? いつ?


 動揺を隠そうとしたが、息が乱れ、視線が泳いだ。

「そ……そんなはず……」


「驚いた顔だな」別の幹部が鼻で笑う。「やはり気づいていなかったか。これでは監視役失格だ」


「……っ……!」

 胸に突き刺さる言葉。悔しさで唇が震えた。

 私は……監視は確かにしていたはず。けれど、真言を? 本当に?


 別の幹部が冷たい声で続ける。

「演習場での出来事だ。火焔の奔流を一瞬でかき消したと」


 脳裏に浮かぶ、ユウとナナの姿。

 ──まさか七瀬ナナが仕掛けたの? 彼はもう……あの力を自在に……?


「ならば」カレンは必死に声を絞り出した。「余計に、私が……私が彼のそばにいなければ……!」


「黙れ」

 冷徹な一喝が飛ぶ。

「いつから感情を持ち込んだのだ。お前は失格だ。天坂ユウが真言の使い手である以上、世界の脅威だ。我々は迅速に対処せねばならぬ」


 喉が詰まり、声が出ない。

 脅威? ユウが? そんなはずはない。

 今まで彼は、いつだって誰かを守るために、力を使っていた。私を……助けてくれたのに。


「……私は……彼を信じます」

 かすれた声で絞り出す。


 幹部たちが一斉に冷笑した。

「信じる? 監視局員が対象に情を抱くとは。滑稽だな」


 心臓が潰れそうだった。だがここで下を向けば、ユウまで否定してしまうことになる。必死に顔を上げ──


 その時。

「失礼します」


 扉が開いた。

 足音が静かに響く。現れたのは──


「……え……?」

 カレンの声が凍りつく。


 桐生ミア。

 明るく人懐っこい笑顔を見せ、学園でユウに馴れ馴れしく接していた、あの転入生。

 だが今の彼女の顔には、感情が一切ない。氷のように無表情で、冷徹に歩みを進めてくる。


「な……んで……桐生ミアが……?」


 幹部が当然のように言った。

「紹介しよう。桐生ミア。お前の後任だ」


「……後任……?」


「本日付で天坂ユウの監視任務を引き継ぎます。霧島カレン、あなたは邪魔です。」


 言葉が理解できなかった。

 解任? 後任? まさか……


「……冗談……でしょう……」


 だがミアが一歩前に出て、深々と頭を下げた。

「任務、拝命いたします。天坂ユウの排除──承知しました」


 その瞬間、カレンの膝が崩れ落ちそうになった。

「……っ……排除……? ユウを……? あなたが……?」


 信じられない。

 いつも屈託なく笑っていたミア。その笑顔の裏が……全部演技だったなんて。


「……あなたが……監視局……?」


 ミアは淡々と頷く。

「はい。私は最初から局員です。天坂ユウに近づいたのも、全ては任務のため」


「……っ……」

 世界がぐらりと揺れた。

 信じていたものが音を立てて崩れていく。


「お前の感情は不要だ」幹部が言い放つ。「世界を守るためには、手段を選ばぬことが必要だ。ミアにはその資質がある」


「……違う……」カレンは必死に声を振り絞る。「ユウはそんな存在じゃない! 彼は……ただの人間で……!」


「ただの人間が、真言を使えるものか」幹部が冷笑する。

「彼は人類の枠を外れた。ならば排除するしかない」


 胸が引き裂かれるようだった。

 それでも、声を張り上げずにはいられなかった。


「……ユウは……そんな人じゃない!!」


 だがその叫びは冷たい壁に吸い込まれ、返事はなかった。

 幹部たちの眼差しは冷え切ったまま、カレンなど存在しないかのように。


 隣に立つミアでさえ──いや、彼女こそが、最も冷徹だった。

 学園で見せた笑顔はもうどこにもない。そこにいるのはただ、任務のために全てを切り捨てる“局員”だった。

「それと最後に一つだけ。このことを天坂ユウに伝えること、その他の人間に口外することを禁ずる。」

「もしも、この条約を無視すれば、霧島カレン。貴様も排除対象に加わることになる。平穏な日々を送りたければ……分かっているな?」

何一つ表情を変えないまま、淡々とカレンに説明をする上層部。

「話は以上だ。」


 会議室を出た瞬間、足が震えた。

 壁にもたれ、必死に息を整える。

 ──ミアが……監視局……。

 ──ユウを排除……?


 頭の中で言葉が反響する。

 涙がにじむ。嗚咽が漏れそうになるのを、必死に押し殺した。


 私は……何を守ってきたんだろう。

 信じていたものは全部、幻だったの?


 けれど。

 胸の奥から小さな声が聞こえた。


 ──私には守ってもらった恩がある。


 その思いだけが、崩れ落ちそうな心を支えていた。


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