それぞれの日常
昨日の古代遺跡の暴走から一晩あけて。
哭王を倒したあと、セルシアが現れて、遺跡の暴走は教団の仕業だったこと、ユウの真言の覚醒のためだったことを知らさせた後、外で待っていてくれた、シオリとナナと合流して
ナナを一応、医務室に送ったあと、それぞれ部屋に戻って就寝についた。
まぶたを開けると、見慣れた天井が視界に入った。
だが、胸の奥はまだざわついている。
昨夜の光景が、鮮明に、そして何度も脳裏によみがえる。
——あの時。
霧島をかばって、哭王の精神支配を受け入れた瞬間。
世界の輪郭が消え、自分という存在が薄れていく。
人としての「俺」が、透明な水に溶けるみたいに、境目を失っていった。
耳ではない場所で、世界の鼓動を聞いた。
目ではない感覚で、世界の色彩を感じた。
息を吸うたび、自分と世界の境界が完全に溶け、ただ一つの「何か」になっていく。
あれが——世界。
(……すごかった。怖いくらい、鮮明で……)
心臓が早鐘を打つ。
あの時、言葉が勝手に口からこぼれた。意識してなかったのに。
でも——確かに、自分の意思でもあった。
枕元で拳を握りしめる。
力を使えたことへの興奮と、得体の知れない恐怖が入り混じって、胸が苦しい。
何度も頭の中であの光景を繰り返すたび、喉の奥が熱くなる。
もし次にあの感覚を呼び起こせたら、俺は——。
そんな思考を断ち切るように、廊下から職員の声が響いた。
「本日は自由行動となります。生徒は合宿所内で待機してください」
どうやら、昨夜の遺跡暴走の調査を行うためらしい。
ユウは深く息を吐いた。
自由行動。外には出られないが……部屋にいれば、またあの感覚を試せるかもしれない。
胸の奥に、小さな火が灯ったような気がした。
カレンの脳裏に、昨夜の光景が焼き付いて離れない。
(……あの時、私、確かに見た)
哭王の精神支配を一瞬で解除し、あの得体の知れない哭王を一瞬で消し去ってしまった。
それは、監視局の古い記録でしか読んだことのない、“真言”の発動だった。
「……私が哭王を止めていれば……」
小さく呟き、唇を噛む。
監視局の記録官としての自分は、ユウを監視し、場合によっては——排除の判断が下されれば、その実行をサポートする立場だ。
世界を混乱に陥れる存在は、たとえ本人にその気がなくても許されない。
それが監視局の使命。
でも——昨夜、カレンは見てしまった。
力を使うことができないのに私を庇って、それこそ命がけで守ってくれた。
その姿は、排除対象なんかじゃなく、誰よりも“勇敢”だった。
(……排除なんて、できるわけない)
心の中でそう思った瞬間、胸が苦しくなった。
立場と感情がせめぎ合い、息が詰まる。
監視官としての自分が、今までで一番頼りなく感じられた。
窓の外で、鳥の鳴き声が響いた。
カレンは深く息を吐き、顔を上げる。
(……私が迷ってる場合じゃない。もし監視局が動くなら——私が……)
今日、1日どんな予定を立てるか考えながら、ユウがベッドに腰掛けていると、
コン、コンと軽いノックの音がした。
「……ユウくん、いる?」
扉の向こうから聞こえたのはシオリの声。少し元気がない。
「どうした?」
扉を開けると、そこには珍しく視線を落としたままのシオリが立っていた。
「……ナナちゃん、医務室で寝てるの。意識は戻ってるし、回復も順調だって言われたけど……」
そこで一度、彼女は唇を噛む。
「……あたしのせいで怪我させちゃった。足手まといで……本当にごめん」
「シオリ、それは違う」
ユウは即座に否定した。
「誰のせいでもない。あの状況じゃ、誰だって危なかった」
「でも……」とシオリは小さく首を振る。
「ね、ユウくん。一緒にお見舞い行ってくれない?」
ユウは短くうなずき、二人で並んで医務室へ向かう。
途中、廊下の窓から差し込む昼の光が、重い空気を少し和らげた。
「ナナちゃん、怒ってないかな……」
「七瀬がそんなことで怒るわけない」
「ほら、ナナちゃんプライド高いから “私が守られるなんてあり得ない”とか言いそう」
ユウは苦笑する。
「……確かに言いそうだな」
木の扉をそっと開けると、白いシーツに包まれたナナがベッドにもたれ、こちらを見た。
「……どうしたのかしら、わざわざ二人で?」
声は少し弱々しいが、その口調にはいつもの気高さが混ざっている。
「無事でよかった」
ユウがそう言うと、ナナは一瞬だけ視線を逸らした。
「べ、別に……心配されるほどじゃないわ」
しかし、わずかに口元が緩んだのをユウは見逃さなかった。
シオリはナナの枕元に腰を下ろし、持ってきた果物の盛り合わせを机に置く。
「これ、差し入れ。甘いの食べたら元気出るでしょ?」
「……ありがと。あなたにしては気が利くじゃない」
「うわ、それ褒めてる?」
ナナはふっと笑い、肩をすくめた。
「またみんなで湖でも行こうよ。次は、ちゃんと平和な日にね」
シオリの言葉に、ナナは返事をしなかったが、わずかに目を細めた。
その横顔を見ながら、ユウは心の奥底で昨夜の戦いを思い出していた——あの感覚、あの力。
それは、まだ言葉にできない不思議な余韻を残していた。
シオリとユウが医務室から出ようと扉に手をかけた、そのとき——。
「……天坂くん」
かすれた声が背中を引き止めた。
振り返ると、ベッドに横たわるナナがこちらを見つめていた。
シオリが「じゃあ、あたし先に出てるね」と空気を読んで部屋を出る。
静まり返った医務室に、二人だけが残った。
「昨日のこと……助けてくれて、ありがとう」
ナナの言葉は淡々としているが、ほんのわずかに瞳が揺れている。
「七瀬とシオリを助けたのは霧島だよ」
「……それでもっ、ありがとうは言っておくわ」
ナナは小さく息を吐き、視線を天井に向けた。
「私は、ずっと“守られる”側にはならないって思ってた。なのに……」
その声がわずかに震える。
「でも、あの時は——悔しかった。情けなかった。……それでも、」
ユウは一瞬、言葉を探した。
「七瀬らしくないな」
少し間が空いてから
「……二度と聞けないと思いなさい」
そう言いながら、ナナはほんの少しだけ笑った。
「だから、もう負けない。絶対に」
その言葉には、再び彼女らしい強気が戻っていた。
ユウは小さく笑ってうなずくと、医務室を後にした。
廊下の先には、シオリが壁にもたれて待っていた。
「……長かったねっ」
「ちょっと話してただけだ」
「ふーん?」
シオリは意味ありげに微笑むと、二人で合宿所の廊下を歩き出した。
夜更けの合宿所は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
窓の外には、湖面に映る月がゆらめき、遠くで虫の声が微かに響く。
シオリはベッドで静かに寝息を立てている。
——コン、コン。
控えめなノック音が、静寂を破った。
ユウがドアを開けると、そこにはカレンが立っていた。
昼間とは違う、落ち着いた部屋着姿。
その表情は、どこか決意を秘めている。
「……少し、話せる?」
低く、抑えた声。
ユウは頷き、カレンを中に招き入れた。
ベッドの端に腰を下ろしたカレンは、しばらく何も言わず、指先をいじっていた。
やがて、意を決したように口を開く。
「監視局——《ヴェイル》って、聞いたことある?」
「確か霧島が」
ユウは首を傾ける。
「そうよ。私が所属している組織。……正確には、“記録官”という立場」
淡々とした説明の中にも、微かに迷いが滲んでいた。
「私の任務は……あなたを監視し、必要なら——排除すること」
ユウは目を細めたが、口を挟まず聞き続ける。
「でも……昨日、あなたが哭王を倒したとき——正直、息が詰まった。あれはただの偶然じゃない。あなたは、この世界にとって……たぶん、とても大きな存在になる」
「孤児院の時とは違って、自分の意思で言葉を…いや、真言を使ってしまった…」
カレンは一度視線を落とし、そして顔を上げる。
「……だからこそ、監視局はあなたを危険視するかもしれない。でも、私は——」
そこまで言って、言葉を切った。
代わりに、わずかに笑ってみせる。
「……あの時、なんで庇ってくれたの?」
「それは…」
ユウは言いかけて黙る。
カレンは視線を逸らさず、はっきりと言葉を続けた。
「もしあれが私に当たってたら、私は死んでいたと思う。ユウがいてくれて、本当に助かった」
その瞳は真っすぐで、作り物の強がりはない。
やがて彼女は小さく息を吐き、ユウの腕に自分の額を軽く預ける。
「……今夜は、それだけ伝えたかったの」
「それと…なまえ…カレンってよんでほしい…」
ユウは照れを隠しながら彼女を見つめ、静かに答えた。
「……カレン」
短い言葉に、カレンは少しだけ肩の力を抜いた。
月明かりが二人の影を壁に映し出し、部屋は再び静寂に包まれた。
翌朝の食堂。
全員が朝食を取り終えたころ、職員の一人――教導担当のハサン先生が立ち上がった。
「……昨夜の件で、古代遺跡周辺に危険が残っている可能性が高いと判断された。よって、今回の合宿は本日をもって終了とする」
低く落ち着いた声だが、その表情は硬い。
ざわめく生徒たち。
「見た?施設を防御ルーン囲んでなかった?」「遺跡って封鎖されるのかな……」
小声があちこちで交わされる中、ハサン先生は続ける。
「遺跡は施設の職員と学園の合同調査隊が引き続き調べる。生徒の皆は正午までに荷物をまとめ、バスに乗る準備をしてくれ」
その説明で場は静まり返った。
ユウは何も言わなかったが、胸の奥で昨夜の出来事と遺跡の異様さが蘇る。
隣の席のカレンは一瞬だけユウを見たが、すぐ視線を伏せた。
その表情には、安堵と別の感情――言いようのない迷いが混じっているようだった。
昼下がり、バスは合宿所を後にしてゆっくりと山道を下っていた。窓の外には、緑が流れていく。
⸻
窓にもたれ、昨夜の感覚を何度もなぞる。
──あの時、確かに自分の意思で真言を使った。
心の奥底から湧き上がる“言葉”は、何者かに教わったわけでもなく、自然と口から出た。
手を握りしめ、もう一度あの感覚を思い出そうとする。
(あれは偶然じゃない。俺は……もう一度、使えるはずだ)
ユウの横顔を横目で見ながら、心が重く沈んでいく。
──監視局に報告しなければならない。
合宿で起きた異常、哭王との戦闘、そして……ユウの覚醒。
(報告すれば、あの人たちはユウを排除しようとするかもしれない)
胸がきゅっと痛む。
昨夜、命がけで庇ってくれた彼の姿が脳裏に浮かぶ。
あの瞬間から、自分でも驚くほどユウの存在が大きくなっているのを感じていた。
けれど、それは立場的に許されない。
窓際の席で静かに息を吐く。
怪我はほとんど治ってきたけれど、心の痛みは別だ。
(もっと強ければ……シオリを危険にさらさずに済んだのに)
自分の未熟さが、悔しさとなって胸を締め付ける。
握った拳が震えた。
(次は絶対に……)
通路側の席で、うつむき加減に両手を握り合わせている。
──私が足を引っ張ったせいで、ナナちゃんが怪我をした。
遺跡の暴走を目の前で止められなかった自分が情けない。
(もっと……強くならないと)
でも、あの時ユウくんとカレンちゃんが来てくれたときの安心感は、今も鮮明に残っている。
思わず、少しだけ顔を上げてユウの背中を見つめた。
バスの中は穏やかなエンジン音とタイヤの音だけが響き、それぞれが黙って自分の想いと向き合っていた。
翌日 。
遺跡暴走の件で疲労と怪我を負った生徒も多く、学園は全生徒に休校を告げた。
それぞれが自室や医務室で静養する一日。だが、安らぎを許されない者もいた。
「──それで、報告の方を」
重々しい声が部屋に響く。
カレンは一度小さく息を吸い込み、努めて冷静に言葉を紡いだ。
「教団が仕掛けた罠により、古代遺跡を封印していたルーンに異常が発生し負のルーンが拡散し哭王と名乗る敵の出現を確認しました。」
「また教団の仕業か、もちろん狙いは…」
1人がつぶやく。
そして淡々と報告を続けるカレン。
「それと哭王との交戦時、天坂ユウが……通常のルーンでは説明できない力を発現しました」
「通常のルーンでは、だと?」
椅子に座る男の一人が、わざとらしく眼鏡を外してテーブルに置いた。
「はい。──“言葉”を発しました。」
その瞬間、部屋の空気が冷たく変わる。
「……真言か」
「詳細を聞こうか」別の人物がゆっくり身を乗り出す。「どのような状況で? どのような言葉を?」
カレンは一瞬、唇を噛んだ。脳裏に焼き付いているのは、あの瞬間──自分を庇い、哭王の支配を受け入れたユウの姿。
「……私を守るため、哭王の精神支配を受け入れました。その中で……何かに抗うように“響け”と口にして──哭王を、消し去りました」
重苦しい沈黙。
やがて一人が冷え切った声で言う。
「君は天坂ユウは完全に覚醒したと思うかね?」
「どうでしょうか。少なくとも孤児院の時と同様に強い感情によって発現した可能生が高いと思われますが。」
「霧島カレン。君は冷静な判断ができる人間だと思っていたが──どうにも、報告に私情が混じっているように聞こえる」
「私情……ですか」
「そうだ。君は、天坂ユウに特別な感情を抱いてはいないな?」
心臓が大きく跳ねる。
「……私は、監視局の人間です。職務に感情を混ぜることは──」
「“混ぜない”のではなく、“混じっていない”と答えてほしいのだが」
鋭い視線が突き刺さる。
カレンは目を伏せた。わずかに震える指先を隠すように、膝の上で組む。
「……彼は、ただの監視対象です」
「……そうか。ならばよい」
会議が終わり、カレンが退出した後。
残った上層部の一人が低く呟く。
「……どうやら“監視役”では済まぬようだな」
「始末するしかあるまい。学園に一人、適任を送り込め」
⸻
重厚な扉が閉ざされ、父の執務室は静まり返っていた。
壁一面の本棚と大理石の机。その奥に座る父の瞳は、鋭い刃のように冷ややかだった。
「……で? 合宿では、どこまで進んだ」
ナナは緊張で背筋を伸ばし、少し間を置いてから答える。
「天坂ユウとは……まだ、それほど距離を縮められてはいません。力の覚醒も、明確には……」
「……“まだ”?」
父はゆっくり椅子にもたれ、指で机を小さく叩いた。一定のリズムが、ナナの胸を不安に掻き立てる。
「お前の役目は何だ。言ってみろ」
「……彼を、一族の側に引き込むことです」
「そうだ。それが果たせていない。何をしていた?」
ナナは唇を噛み、視線を落とす。
「あの状況では……力を示すことも、信頼を築くことも容易ではなく……」
「言い訳か」
父の声は冷たく響いた。
「しかも、敵に敗北したと聞く。気を失っていたと。」
ナナの胸がずきりと痛む。悔しさと情けなさが入り混じり、思わず声を荒げそうになるのを必死に堪えた。
「……次は、必ず。必ず結果を出します」
「結果を、ね」
父は薄く笑い、書類を一枚めくった。
「次があるといいな」
その言葉は、鋭い刃のようにナナの心を突き刺した。
部屋を出るとき、ナナの爪は手のひらに食い込み、小さな赤い痕を残していた。
朝の校舎に足を踏み入れた瞬間、ユウは不思議な安堵を覚えていた。遺跡での出来事は夢のように現実感が薄い。だが胸の奥には、確かに“あの感覚”が残っている。真言を使った時の――世界が応えるような震え。その静謐が今も彼の呼吸を落ち着かせていた。
「ユウくん、おはよう!」
隣の席からシオリが笑顔で手を振る。少し疲れの色を残しながらも、彼女は普段通りを取り戻そうとしている。
「おはよう、シオリ。……なんか、普通に戻ったな」
「そうだね。みんな疲れてるけど……でも、こうして授業受けられるの、ちょっと安心するよ」
ユウは軽く頷き、教科書を開いた。その横顔を、後ろの席からカレンがじっと見つめていた。
ペンを持つ手は紙の上で止まっている。意識がどうしても彼へと向いてしまう。
(……あの時、哭王の支配から私を庇ってくれた。あの瞬間、確かに心が……揺れた)
監視局の記録官として、彼の存在を見極める役割を持っている。それなのに、今はただ彼の落ち着いた姿に目を奪われてしまっていた。
一方で、ナナは苛立ちを隠せなかった。授業中に教師が問題を出すと、鋭い声で即答する。
「答えは、ルーン干渉式の第三型です。こんなの基礎中の基礎でしょう?」
クラスに冷たい空気が流れる。周囲の生徒は小さくたじろぎ、誰も彼女に話しかけようとしない。
昼休み。ユウはシオリに誘われ、中庭のベンチでパンを分け合っていた。
「ユウくん、なんだか表情が明るいね」
「そうか? ……自分でもよく分からない。落ち着いてるんだ。合宿まではこんなことなかったんだけどな」
「それって、前に進めてるってことじゃないかな」
シオリが微笑み、ユウも少し照れたように視線を逸らす。
その光景を木陰から見つめるカレンの胸は複雑だった。
(彼が……笑ってる。あの穏やかさに惹かれてしまう自分がいる。私は監視局の人間なのに……)
放課後。ナナは演習場でひたすらにルーンを使い続けていた。汗に濡れた髪が頬に張り付き、目には焦りの色が滲む。
「……もっと、もっと強くならなきゃ」
その様子を見ていたシオリが心配して声をかけるが――
「放っておいて! 私は……弱いままじゃいられないの!」
その声は震え、悔しさと苛立ちが入り混じっていた。
夕方。人気の少ない廊下で、ナナはカレンを呼び止めた。
「……少し、話があるの」
「……七瀬さん?」
人気のない教室に二人きりで入る。カレンは静かに問いかけを待った。ナナの瞳は鋭く、けれどその奥には焦りが隠せない。
「あなた、監視局でしょ。……ユウをどうするつもり?」
「……」
唐突な問いに、カレンは一瞬言葉を失う。
「彼は……ただの監視対象。放っておけば、いずれ利用される。だから――」
「それは分かってるわ、でも、あなたの目は……監視対象を見る目じゃなかったようにみえるのだけど」
ナナは吐き捨てるように言った。
「……監視局は彼を排除するつもり?……あなたは本当にそれに従うつもり?」
カレンの胸に突き刺さる言葉。
「私は……記録官として任務を果たす。それが私の立場」
「まだそう言い張るの?そんな自信のない顔で言われても説得力ないわよ」
カレンは答えられなかった。胸の奥に芽生えた感情は、どうしても否定できない。
ナナは静かに吐息を漏らす。
「……ならいい。私が代わりに彼をもらうわ」
そう言い残し、背を向けて去っていった。残されたカレンは立ち尽くし、心の奥で自分の動揺を必死に押し殺していた。
夜。部屋に戻ったカレンはベッドに座り込み、手を胸に当てる。
(……どうして私は、彼に……)
職務と感情の狭間で、彼女の心は揺れ続けていた。
翌朝の学園は、遺跡暴走の混乱が嘘のように、穏やかな時間が流れていた。
ユウは教室の窓際で風に揺れるカーテンを眺めながら、昨日よりもさらに心が澄み切っているのを感じていた。
(ただカレンの言っていた。監視局が俺のことを排除するかもしれない)
今の所、変わった様子はないが、、
考え込むユウに声をかけるのは、やはりシオリだ。
「ユウくん、ちょっと怖い顔してる。最近、顔が柔らかくなったのにーー」
「……そうか?ならシオリのおかげかもな」
「ほ、ほんとにっ?じゃあ、もっといっぱい話しかけるねっ」
無邪気に笑うシオリをみて、ユウも小さく微笑み返した。
一方、カレンはすこし離れた席からその様子を眺めていた。
(……彼は、何も知らない。ただ“真言”を口にして、私を守ってくれただけなのに。それなのに…………)
視線が自然と吸い寄せられ、ペンを握る手に力が入る。
(監視局に報告しなきゃいけない。でも、どうしても……)
そんな彼女の揺れる心を知る由もなく、ナナは机に肘をついて不機嫌そうに息を吐いた。
「……ふん、いつまで能天気でいられるのかしら」
声は小さくても刺のある調子で、近くの生徒たちが身を固くする。焦燥感が彼女の余裕を奪い、言葉や態度に棘が混じりはじめていた。
夕暮れの廊下。ユウが図書室へ向かおうと歩いていると、背後から元気な声が響いた。
「ごめんなさーい! ちょっと道を教えてもらってもいいですか?」
振り返ると、鮮やかなピンク色の髪をハーフツインに結んだ少女が、制服の裾を押さえながら駆け寄ってきた。長い睫毛の下で、大きな瞳がぱちぱち瞬いている。
「ここって職員棟に行くにはどう進めばいいんでしょう? 転入の手続きがあるんですけど、迷っちゃって……」
ユウは一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「職員棟なら、この先だ。俺も近くまで行くし、案内するよ」
「ほんと!? 助かる~! ありがとうっ」
少女はぱっと顔を輝かせ、距離を詰めてユウの横を歩き始める。
「えっと……名前、教えてもらってもいい?」
「天坂ユウ」
「ユウくん、か。私は――」一瞬、言葉を探すように唇を噛んでから、にっこり笑った。
「桐生ミア! よろしくね!」
軽快な口調で差し出された手。ユウは少し驚きつつも握り返した。
「……こちらこそ」
並んで歩く二人の姿は、まるで旧知の友達のように自然だった。
「それにしても、ユウくんって優しいね。普通、初対面でここまでしてくれる?」
「ついでに送ってるだけだけどな」
「ふふっ、そういうとこ、いいなぁ」
ミアは肩を寄せながら笑みを浮かべる。その人懐っこさに、ユウはやや居心地の悪さを覚えるが、拒む理由もない。
「学園って、思ったより広いんだね。迷子になりそう」
「最初はな。すぐ慣れるよ」
「じゃあ、ユウくんが全部案内してよ。……だめ?」
無邪気な瞳で覗き込まれると、ユウは苦笑するしかなかった。
「……時間があればな」
「やった、約束だよ?」
やがて職員棟に到着すると、ミアはぱっと前にとびだして、振り返って微笑んだ。
「ありがと、ユウくん。おかげで遅刻しなくて済みそう」
「それならよかった」
「ふふ……また会おうね。絶対」
ひらりと手を振って、彼女は職員棟へ駆けていった。
残されたユウは首をかしげる。
(……なんだか、ずいぶん馴れ馴れしかったな。でも悪い子じゃなさそうだ)
その場を離れながらも、彼の心に妙な違和感だけが残っていた。