表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/43

責められる

 夜中。誰かがぼくの部屋を訪ねてくる。何事かと思いつつスマホの明かりを頼りにしてドアを開けるとそこにはぽろぽろ涙を流して裸足で立っているラファエル。

「先生…」

「おお…。どうした? ええと…」

「……」

「アクシデントかな?」

「はい…」

「そうか…」

「こんなことするつもりはないのに…」

「それはそうだよね。わかってる。大丈夫。泣くなって」

「……」

「手伝うよ。そしたら、行こうか」

「はい…」

 彼の背中を擦りながら寒くて静かな廊下を二人で歩く。

「もうあと少しで冬休みだね、ラファエル君」

「はい…」

「あともうちょっと頑張ったら実家に帰れるよ」

「はい…」

「君は、家族と連絡が取れるものを持っている?」

「スマホとかですか?」

「そう」

「みんなは持ってるけど…うちは親が、そういうものはここを卒業してからだって…」

「ああ、そうなんだ。それも一理ある、か…」

「悪いことがあるって言われています…。SNSとか、ゲームとか、課金とか…」

「そうか。まあ…たしかにね。君のことを、悪いものから守りたいんだね」

 スマホなんか、みんなが、自分が、普通に使っているからそういうものだと思っていた。けれど、彼の親は二人とも教師らしいし、何かしらの、そういうものを使わせないポリシーがあるのだろう。

 でも、もしそれがあることで彼の寂しさが和らぐのだとしたら。ちょっとしたメッセージでも送り合えたらまた違うのではないかな。

 なんてぼくがここで思ったところでどうすることもできないけれど。


 いつも通りにベッドメイクを手伝って洗濯物を預かる。

 ぼくが知っている限りだと三回目の失敗。またあるだろうか…。これが続くようならぼくの実家で洗濯をして証拠隠滅する、という手段はそろそろ…。

 ただもちろん、彼はこのことを他の人には知られたくなくて…。ぼくにだって本当は知られたくはないのだろう。けれど、放置できない不始末に困ってここに来る。さて、どうするべきか。



 なんて悩みも日々の仕事に埋もれさせつつクリスマスを待つアドベント期間のある日。子どもたちのことについての打ち合わせだと呼び出されて、間もなく冬休みだからそのことかな、と何も考えずに集合すると、深刻な顔をした錚々たるメンバーがぼくを待っていた。カペルマイスター、生活指導教師、学校教師、事務、理事、それに音楽監督。

 何事か…。


 ひとまず席に着くよう指示されて座ると理事が真面目な顔でしゃべり出す。


「ゲントナー君。この前、フロリアンを皆の前で侮辱したって?」

「え…。ああ…いえ、そんなつもりは…」

「彼の母親から苦情があってね」

「何ですか、苦情って…」

「息子が皆の前で辱められた、と。先方はかなりお怒りなんだ」

「……」

「なぜそんなことになった?」

「なぜって…」

「そういうことがあったのかどうか。そうならその状況を説明してもらえるかな」

「それは…」

 理事は怒りを隠し努めて優しく話しているつもりなのだろうけれど、それが隠しきれていない上に異様な威圧感がある。こんな人にあんなこと…。冷静に説明する自信がない…。この人達にどうやってあれを話せばいいのか…。

「ゲントナー君。君は大変情熱的な指導をしているそうで、それが事実なら素晴らしいことだ。だけどね、フロリアンは我々にとってとても大切な生徒なんだ」

「もちろん、わかっています。彼は素晴らしい歌手ですし、ぼくにとってもとてもかわいい、大切な生徒です」

「そうではない。君が言っているのは意味が違う」

「では、どういう意味でおっしゃっているのですか?」

「彼の親御さんはね、ここに多くの寄付をしてくださっているのだよ」

「え…。寄付、ですか?」

「彼の親御さんの御親戚にもそういう方がいてね。まあ、何と言うのかな。あの一族は昔からこの土地に住んでいてこの地域のいろんなことをしてきたわけだから。彼は、そういう家から来ている生徒なんだよ」

 言われてみればフロリアンの苗字はあの一族のものだ。そうか…。それに、あの少年の全体的にきれいにまとまった清潔で品の良い感じ。彼は名家の息子だったのか。

「ぼくはそんなこと…。知りませんでしたし、それを知ったからといって彼らの扱いを変えるようなことはしません。必要な子に必要な指導をするだけです」

「知らなかったというのは良くないな。誰かこの新人カペルマイスターにそういう大事な連絡事項を伝え忘れたのかな?」

 理事はこの部屋に集まった関係者を見回す。皆下を向いて自分に何かの矛先が来ないよう警戒している。

 全く、どうしたらそんな太り方ができるのだ、この中年。と、ぼくはそんな関係ないことを考えながら目の前にいる恰幅のいい理事の有り余る脂肪から目を逸らすことができない。

 理事はもう一度ここにいる全員を見回す。

「それで、ゲントナー君。私達の大切な教え子フロリアンが皆の前で辱めを受けたのは、どういう必要があってのことなのかな?」

「それは…」

「まさか、説明できないことをしたわけではないだろうね」

「いえ、そういうことは…」

「説明しなさい」

 そんなの…。どう説明したら…。でも、話さないと許してもらえなさそうだし…。仕方が…ないのか…。

「あのですね…。まずフロリアンが他の子を侮辱したんです。だから、それをぼくが注意しました。ただ、それだけのことです。子どもにはよくある、ちょっとお行儀がよくないことと言うか…。あまり品のいいことではなかったので…」

「彼は誰を、どんな言葉で侮辱したのかな?」

「ええと…」

 それを、ここにいる人たちに言うのか…。

「言わないとだめですか?」

「だめだろう。大口の寄付をしてくださる親御さんがお怒りなんだ。彼の親に説明する必要がある。当然だ。場合によっては我々は謝罪しに行くんだよ」

「謝罪ならぼくが行きます」

「君には任せられない。万が一、君が対応を間違えて今後の寄付が止められたらどうする?」

「それは…ぼくにはわかりませんが…」

「だからね。君に出て来られると迷惑なんだよ。事の経緯をとにかく詳しく話しなさい」

「そんなの…。彼の親は彼本人から聞いたのではないでしょうか」

「そうだろう。だからこそ苦情が出ている。我々はその事実を知る必要がある。君はなぜそんなに話すことをためらうのか。君は何か隠しているな?」

「いえ…。ただ…何と言うのでしょう…。ちょっと…話しにくい話でありまして…」

「そのあたりは、こちらも全てをそのまま親御さんに話すわけではない。それはこちらでうまくやるから、とにかく事実を話すんだ」

「……」

「さあ、説明しなさい。これは業務命令だ」

「はい…。ええと…その…。レッスンが始まる前のタイミングで、ですね…。皆、支度をして席に着いた時、です。フロリアンがある少年に向かって侮辱するようなことを言ったんです」

「何て言った?」

「それは…」

「そこも聞かせてもらわないと。公表するわけではない。この話はここから漏れることはないから全て話すんだ」

「いや、大したことではないのかもしれなくて…。その…。彼は、寝小便、と言いました…」

「それで?」

「だから…。それで、そのことをぼくが注意しました…」

「それだけ?」

「はい…。その時のフロリアンは人を蔑むような口調だったし…。だから…そういうのは良くない、と…」

「ちなみに言われたのは誰なの?」

「ラファエルです」

「それだけなんだな? それで、どうして彼の親御さんはあんなにお怒りなのかな?」

「すみません…。ぼくの注意の仕方が…間違っていたのだと思います…」

「君はどういうふうに注意したんだね?」

「ええと…。ぼくは…本人の意思ではどうすることもできない夜尿を侮辱するのは違うと思ったので…。フロリアンに対して、もし自分がそんなことを言われたら、と…。相手の気持ちを考えるよう言いました…。人は誰でも失敗することがあります。夜尿に限らず、いろいろありますよね? ぼくはただ…ラファエルの気持ちを考えてほしかったんです。みんながいるところで名指しであんな口調でそんなことを言うのを黙って放ってはおけません。だからそれで…。ぼくはそこで冷静さを欠いてしまい…彼のウィークポイントである、楽譜を読むことが苦手な短所を挙げて…。あと…先日の本番、彼がソロで失敗したことを皆の前で怒りを交えた口調で彼に向かって言いました…」

「ちょっと待って」

 生活指導教師が声を出す。

「ラファエルが粗相をしたのは事実なの?」

「あ、それは…」

 また、もう…。どうする? どうしたら?

 どうやって話せばうまくまとまるのだろう…。多分もう、無理だな…。皆、怖い顔をしている…。ぼくに対しての苛立ちが感じられる。

「ラファエルは粗相をしたの? それともそれはフロリアンのでっち上げ? 私はそんなの聞いていない。そういうことがあったのなら私はそれを知っているべきなのに、私は何も聞いていない」

 生活指導の教師は、自分が知る限りではそういう事実はない、と発言する。

 ラファエルのために、知らないふりを続けるべきかどうか…。だけど…ここで暮らす子ども達は彼の粗相についてすでに知っているし…。フロリアンも、彼の親も知っているのだろう。知らないのは、ぼく以外のここにいる真面目腐った顔をしている大人だけ…。

 ラファエルが気の毒過ぎるけれど、この局面…。言わなければ…仕方がないのかもしれない。

「あの…。すみません…。彼の粗相は…事実です…」

「なぜ君がそう言える?」

「いや、その…。ぼくが…彼の失敗を取り繕ったからです…」

「なぜ君が? どうやって? 私はそんな報告受けていないのに」

 生活指導の教師は明らかにぼくに対して苛立っている。

「早朝に…彼がぼくのところに相談に来たので…。かわいそうになって…ぼくはそれを助けたつもりだったんです…」

「おねしょを隠すなんて、全く。幼児の思考だな」

「すみません…。そのことについては…報告するべきでした…」

 あの時はそんなに悪いことだとは思っていなかった。ただとにかく…彼の気持ちになったら…。

 口ごもりながらそう言うと、怒りを込めた口調でこちらは管理監督側なのだ、自覚を持て、と優しさが一ミリもない声で返された。

 言われると確かにそうかもしれない。それはそうなのだ。ぼくが判断を間違えたのだろう。自分の過去に引きずり込まれて冷静な判断ができなくなっていた。

 あの時のぼくは、管理監督者の立場ではなく、ただひたすら、失敗してしまって困惑する子どもの心でいた。

 あの時、羞恥と悲しみで動揺する涙に濡れた少年を前に、ぼくは過去の自分を重ねて、自分も冷静さを失っていた。

 わかってくださいと言っても、理解してほしいと懇願しても誰も納得してくれないことはわかっている。けれど、ある程度の年齢になっておねしょをしてしまったことに気が付くと、まず、ものすごく焦る。そして、恥ずかしくて誰にも知られたくない、そんな気分になる。

 ぼくはあの時そのまま、少年の気持ちに染まって子ども側の対処をしてしまった。大人の対応ができなかった。

 とにかく人に知られないように。なかったことに。瞬間そう思ってそのまま行動してしまった。

 理事や生活指導教師の言う通りだ。それを隠してなかったことにしようとするなんて、幼児の思考。今はこの場でそれを猛省している。

 けれどあの時は結局、ぼくはどうしたってそういう行動しかできなかったのだと思う。どうしたって…自分の過去からは逃れられない。事がこのことに関しては特に…。


 この団体を運営するのは大変なこと。それは理解しているし、そのために大変な思いをしている理事にぼくは感謝をしているはずなのに、ぼくの軽率な行動がこんなことになるとは思っていなくて。本当に反省している。

 そう言って謝っているのに、いつまでも許されない。ぼくの謝罪の言葉や思いはこの場に全く通らず、さらに言われる。

「そもそもどうしてその程度でそんなに怒る必要があったのか」

 今さらそんなことを言われたって…。

 そもそもはぼく自身がその悩みを抱えていたから。だから動揺してしまった。侮辱されたラファエルに自分を重ね、彼の心の痛みが自分の痛みに感じられて…どうしても彼を守って救ってやりたかったから…。

 とは、さすがにこの場では言えない。だからその代わりに話せる限りの主張をした。


 だって、わかりませんか? あの年頃の子がそんな状況になってしまって、他の人にそんな情報を共有されたらどんな気がします? もしご自分だったらどうですか? ここでこういう、集団生活を送っている中でそんなことになって、仲間にそれが知られて、世話をする大人にもそれが知られたら、あなたはどんな気持ちになりますか? 秘密にしておきたいのは自然なことです。それを馬鹿にされるのはつらすぎることです。それを仲間に知られて侮辱されるなんて。ぼくは自分の大事な生徒がそんな境遇にいることは許せません。

 そう反論したらまたしたたかに怒りをぶつけられた。

 誰にも知られずこっそり子どもの世話をするのがどういうことなのかわかっているのか。しかもそれを誰にも言わずにいた、とは。


 折に触れて聞かされる忌まわしい過去の記憶。

 過去に大人から聞くに堪えない怖い思いをさせられた被害者の少年がいる。そんなことはもう二度と起きてはならない。我々はその件に関してものすごく神経質になっている。


 それも、言われれば分かる。たしかにぼくの行動には問題があったのかもしれない。でも、それなら今後は改めるし、何かあったら以降は必ず報告する。今後それは必ず。約束します。

 だけどどうして彼がぼくのところに来たのか。運営側はぼくのことを一方的に責めてくるけれど、そもそも夜間のそういうアクシデントを子どもが相談しづらい事情があるから彼はわざわざ離れた場所に部屋があるぼくのところまで来たのでは。

 実は子どもたちから聞いていた。生活指導教師が怖い。感じが悪い。無駄に叱られる。揚げ足を取られてまともに話ができない。話しかけても返事をしてくれない。頼み事なんかできない。

 彼らはそう言っていますよ。ご存知ないのでしょうか。

 ラファエルもぼくの部屋にやって来て粗相の報告をしてくれた時、ツェラー先生に怒られる、と怯えていました。だからわざわざぼくのところに来たのでしょう。そう言われたから、ぼくは目の前の生徒を守りたいと思ったのです。

 すると、それを生徒達から聞いていたのならなぜそれを職員側に、運営側に報告しないのか。

 結局また責められる。何を言ったって結局ぼくが一人で悪者なのだろう。



 その後冷静になってもう一度、一から、ぼくがしたこと、ラファエルについて心配していることを一つずつ話していった。もう、ここにいる全員が彼の粗相のことを知ってしまっているし…。

 ぼくは当然、ここにいる全員が彼がホームシックであることを知っているのだと思っていた。だけど、それさえほとんど知られていなかった。

 そこは本当に迂闊だった。ぼくの管理者としての自覚もたしかに、薄かったのだろう。やはりぼくが彼の粗相を隠蔽などせず最初の段階で彼を説得して他の人にも彼の状態を知ってもらうべきだった。


 運営側はこの話をまとめてフロリアンの親に説明と謝罪に行く、とのこと。ぼくも行く、と改めて申し出たけれど、ぼくが出て行くとまた話がややこしくなるから来るな、今後気を付けること、もうこの件については口を出すな、と言われた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ