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感情的になる

 ラファエルの話を聞いてからずっと気になっていた。彼の失敗をからかう子がいる、ということに。

 どうにかしてあげたい、けれど、どうすれば良いのかな。やり方を間違えると本人を余計に傷つけることになるかもしれない。などと密かに考えていた最中。今日もいつもの合唱のレッスン。


 ぼくの隊のメンバーがいつものようにレッスン部屋に集まってきてぼくは中央のピアノに着く。

 さて、そろそろ始めようかな、と子どもたちのざわめきを眺めていたところ、唐突にフロリアンがラファエルに向かって「寝小便。お前はまた寝小便をするんだろう」などと言い出した。

 ぼくがいるのに、他のメンバーが全員揃っているのにここでそんなことを言うなんて。そんなことに遭遇したから。瞬間、頭に血が上ってぼくの心の中で何かが急激に沸騰してしまった。

 言われた本人は元々大人しい性格だし事実だからなのか…凍りついたように黙って下を向くだけ。一言も発さない。それを見ていた最年長の少年が狡猾を装っていたフロリアンを注意する。

 こういうふうにメンバー同士で良い方向に軌道修正できるのがここの良いところだな。

 なんて、ぼくは眺めているだけでは済ませられなくなってしまった。ラファエルの気持ちを考えたら。あの多感な時期に他の子にそれを知られて、その上あんな口調でそれを言われたら。

 ぼくなんか、今だにそのことを言われると、母親にさえ言い返せない。それを…。

 どうにかしなくては、と思う前にもう、ぼくは今まで使ったこなかったような低く苛立った声を出していた。


「今聞こえたんだけど。フロリアン。君だね? 君は今、何て言った?」


 気が付いたら、何を話すのかも決めていないのに、ぼくの口は沸騰した脳内の言葉を勝手に声にし始める。


 おねしょなんか…。実は誰にだってあることだろう。偶然それが寮生活の中で起こってしまった。もし自分がそうだったら。そしてここでそれをそんなふうに言われたら。どんな気持ちになる? その程度の想像力もないのか。相手の気持をほんの少しでも考えることができたら、そんなことは言えないはずなのに。

 ぼくは君達くらいの年齢の時、まだおねしょが治っていなかった。彼をそういう口調でからかうのなら、同じことをぼくに言ってからにしろ。

 さあ、フロリアン。今ここでぼくに言ってみるがいい。好きなだけ言え。さっきラファエルに言ったことをぼくに向かって言ってみろ。

 君は今、仲間を馬鹿にしたな? それなら、ぼくは同じ分だけ反論する。君は楽譜を読むのが苦手だな。何年音楽をやってるんだ。この前はどうして本番であの曲のソロを間違えた? 歌詞を忘れた? なぜそういうことが起こったのか説明してみろ。


 フロリアンはぼくに睨まれて困惑し、黙ってぼくを見てから下を向く。

 ぼくがここで冷静さを失うのは本当にまずかったと思う。集団の中で一人、ぼくから責め続けられているフロリアンの目にはもう涙が浮かび、関係のない他の子も黙ってその場で座ったまま大人しく事態の行方をうかがっている。

 怒り口調で一通りまくし立てた後で冷静になった。ラファエルからそういうことがある、と聞かされた時から、それをどうにかしてあげたいし、そうするべきだと思っていた。けれど、メンバーを全員揃えた中でこの場をこんな雰囲気にしてしまって、これは良くなかったな、と反省。

 レッスン室はぼくの怒りのせいで最悪の静けさ。ここにいる全員が寸分の遊びもなく動かずにいる。

 だけどこんなこと。ぼくにとっては黙っていられないことだった。ぼくは、自分が侮辱された気分になっていたのかもしれないし、ラファエルに過去の自分を重ねていたのかもしれない。



 その日の夜にフロリアンを呼び出した。二人きりで話をする。気まずそうにぼくの前に現れた少年にとりあえず座るように指示をする。

 ぼくと目線を合わせず下を見て座る少年。この子だって、悪い子ではない。それなのに、ごめん。今日はぼくが取り乱したせいでかわいそうなことをしてしまって反省している。

 だから。きちんと話をして、ぼくからの謝罪も伝えたい。

「あのさ、時間を取らせてごめんね。フロリアン。今日…さっきはみんなの前で怒ってしまってごめん。悪かったと思ってる」

「ぼくが悪いので…」

「ラファエルとは仲直りできそう?」

「仲直りと言うか…別に喧嘩したわけじゃないし…」

「彼には何度もそういうことを言っていた?」

「たまに…」

「どうして?」

「よくわかりません…。面白かったから…」

「面白かったの?」

「ごめんなさい…。もう言いません…」

「あのさ、君の方が年上だし。これからはもうちょっと行動を考えられる?」

「はい…」

「ぼくも今日は感情的になってしまって悪かったのだけど、ああいうことってみんなの前で言われるとすごく傷付くんだよ。知られたくないこととか、触れてほしくないことってあるでしょう? 君は、おねしょとか、他のことでもいいけど、何か失敗して恥ずかしい気持ちになったこととか、ない?」

「……」

「それをみんなの前で言われるって、どうにもならないほどにつらいんだよ」

「ぼくは今日、みんなの前で楽譜が読めないとか、ソロでミスをしたとか、言われてつらかったです…。自分でもわかっていたことを…ああやってみんながいるところで…」

「ごめん。それは謝る。そうだよね…。偉そうなことを言って、ぼくは結局、君と同じことをしていたのだものね。君の弱点は、それはそれで構わない。楽譜が読めない人の持つ音楽の強さをぼくは知っているから、それは短所ではなく長所の一つだし、本番で間違えることだってあるだろう。ぼくもある。それなのにあんなことを言ってしまって、本当に申し訳なかった。失敗したって別にいいんだよ。そういう経験は誰にでもどこにでも起こることだから。そんなことを今さらあの場で言ってしまったのは不覚だった。謝るよ」

「いえ…。ぼくが、悪いので…」

 彼はまだ、ずっと下を向いてぼくを見ない。品良く整えられた彼の艶のある髪を見ながら、この子もどこかの家で大事に育てられてここに来ているのだものな、と思う。

 ここにいる全員が誰かの一番大切な人で、そんな一番同士がここに集ってもまれて成長していく。

 そんな大事なご子息に何かを言うほどぼくは立派な人間でもないしここの職員の中では一番の若手で人生経験があるわけでもない。けれど、ぼくより未熟な少年達は時に傷付け合ってしまう。そこにはやはり、ほんの少しは手を貸すべきなのかもしれなくて、でも、どうすればいいのかなんて、昨日、今日来たようなぼくには全くわからない。ぼくは音楽の知識を持って、音楽を教えにここに来たつもりだったのに、今のこのことは、それに全く関係がない。学んだことがないことを、自分よりも年下の人間に話して何かを伝えようとしている。

 とにかく、さっきのように沸騰した感情だけで突っ走るのだけはだめだ。落ち着いてきちんと話せば…。

 いやだけどもう、ぼくが何かを言う前からこの子はすでに分かっているのかもしれない。それならもう、解放してあげたほうがいいのかな…。

 ひとまずぼくの思いと謝罪はちゃんと伝えておこう。

「あのさ、これから君はここでもそうだし他の場所でもいろんな経験をしていくと思うけど、そこにはいろんな人と関わる機会があるかもしれなくて、それぞれの場所でうまくやっていけるかどうかは、とても大切なんだよ。それは君自身の幸せにもつながっている。つらい人を、それ以上の窮地に追い込んではいけないし、たとえそれが事実や正義であっても、やり方は考えないといけない。だから、ぼくも…レッスン室でみんなの前で君をあんなふうに追い込んでしまったことは本当に申し訳なく思ってる。ぼくもやり方を間違えた。ごめん、本当に…」

「いえ…。ぼくも…ラファエル君と先生に悪いことをしました。ごめんなさい…」

「あのさ」

「はい」

「もう、その硬い表情はやめにしていいよ」

「……」

「さっきは怒ってしまったけれど…もう、終わりにしよう」

「……」

「フロリアン」

「はい…」

「君のせいでぼくは、隊全員に、ギムナジウム入る年齢になってもおねしょしていたことを話す羽目になってしまったんだけど」

「ぼくのせい?」

「いや、あれは…ぼくが自分で勝手に話したことだけど…ラファエルをあの場で救う方法があれ以外に思い浮かばなかったんだよね。彼ががかわいそうだと思ったから」

「ごめんなさい…」

「ぼくの名誉は失墜したなあ。ぼくがそんなだったってことを知って軽蔑する?」

「いえ…。しません…」

「今考えてもこんなに恥ずかしいことは他にないと思う。そんな年齢になってもおねしょしていたカペルマイスターの言うこと、これからも聞いてくれる?」

「聞きます…」

「そんな年齢までおねしょしていたぼくのこと、どう思う?」

「え…」

「君はおねしょしたことないのかな? もしもそうなら覚えておいて。おねしょって、そんなつもりはないのにそういうことになってしまうものなんだよ。誰だって、年齢問わず、そういうことが起こることって稀にあるものでね。わざとベッドを濡らそうなんて誰も思わないし、失敗に気が付くと戸惑うし悲しくて恥ずかしくて。それが起こってしまった時点で十分に傷ついているから、それをみんなの前でからかったりしないでほしいんだよね」

「はい…。わかりました」

「そのことでも他のことでも、もし自分だったらって、思い出してくれる?」

「はい…」

「そしたらさ、今日はもういいから。人には相性もあるし無理強いするつもりはないけれど、ぼくは自分の隊の子たちにはそれぞれ仲良くうまくやってもらいたいんだよね。好きになれない子と無理して一緒に過ごす必要はない。けれど、相手を好きになれないからといって見下したり馬鹿にしたりいじめたりはしないで。相手に何か、そういうウィークポイントがあってそれを突きたくなったとしても、それは口には出さず、助け合うのが紳士の嗜みだよ」

「わかりました。ぼくはラファエル君のことを嫌いなわけではないです。あんまり考えてなかったって言うか…。本当に…何も考えてなくて…。そういうことがあるって、めずらしいことだから…。面白いって…思っちゃって…。でも、ごめんなさい…。もう言いません」

「ありがとう。君の素直なところ、本当に素晴らしい。何か、上手くいかないことや腹が立つことがあったら言って。今度からはこういうことになる前に一緒に考えよう」


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