アクシデントといつもの朝
今朝も早朝ランニングのためにアラームをセットしてあったのだけれど、昨日の夜はつい、寝床でどうでもいい情報をスマホで延々見続けてしまって…眠い…。今日はさぼるかどうするか…。結構寒いし、明日にしようか…。
と布団の中でほぼ行かない、という意志の弱さを発揮する結論に傾きかけていた時、誰かが部屋を訪ねてきた。こんな時刻に?
パジャマのままでドアを開けると潤んだ瞳のラファエルがいる。ということは…
「おお、おはよう、ラファエル君。どうしたの?」
「先生…」
「大丈夫? どうした?」
「あの…。おねしょ…」
「ああ、そうか…。体調は平気かな?」
「はい…」
「そしたら後始末を手伝うよ」
「はい…。ごめんなさい…」
「ぼくに謝ることなんかないよ。行こうか」
「はい…」
「大丈夫? なんて…こんなことがあると元気も出ないだろうけど…」
「夢を見て悲しくなって…」
「夢? どんな夢?」
「冬休みになっても帰れなくて、家族に会えない夢…」
「おお、それは悲しいな…」
「……」
「でも大丈夫だよ。冬休みまではあともう少しだし、現実は、君も実家に帰る予定なんだよね?」
「はい…」
「君はよくがんばっているよ」
「先生…」
「うん?」
「ぼく…もう限界です…」
「ええと…冬休みまで、待てなさそう?」
「……」
「言って。それなら考えるから」
「いえ、やっぱり…大丈夫です…」
「つらいよね…。ええと…何でも言っていいんだからね。とりあえずベッドをどうにかしよう。話はそれから、ね」
「はい…」
前回の経験があるので何となくするべきことの手順はわかっていて、だけど今回は最悪だった。ルームメイトが目を覚ましてしまったから。
「先生? どうしたんですか? 何でここにいるんですか?」
「ああ、マティアス君。まだ早いからそのまま寝ていてよ。ちょっと通りかかってね」
「なんで? ラファエル、どうしたんですか?」
「ねえ、お願いだから、何も言わないで、黙っていてくれる? 今この瞬間も、この先もずっと」
「どういうことですか?」
「まだ眠いでしょう? 黙って寝ていて。それで、ここでぼくを見たことを今後誰にも言ってはいけないよ」
「え? 何が…」
「あ、別に悪いことをしているわけではない。でも…察してくれるとありがたい」
「ラファエル、ベッドを汚したんですか?」
「あ、もう…。何も言わないでって」
「わかりました」
「それで、他の人にも彼本人にも、今後何も言わないでほしいんだけど」
「わかりました」
「さあ、目をつぶって。眠れなくてもいいから、黙っていてくれる? ぼくは用が済んだらすぐに出ていくからね」
ラファエルがここにきてもう、号泣の手前くらいに結構な感じで泣くから焦る。音を立てると寝ている他の子も起きてしまう。
「ラファエル君、そんなに泣くなよ。大丈夫だから」
慰めて涙が止まるのを待つけれど、止まらない。ひとまずどうにか後始末をして寝部屋を出る。
「わかった。ちょっと…行こう…。こっち、おいで」
彼の背中を押して一旦別室に連れて行って二人きりで向かい合う。
「ラファエル君…」
「先生、ごめんなさい…。どうしよう…。また…馬鹿にされる…」
心配になるのはもちろんそうだろう。こんなことを他の人に知られたら、ぼくが彼だったら寮を逃走してしまうかもしれない。寝具を濡らしてしまうことよりも、他の人に知られて見下されたり馬鹿にされることのほうがつらい。
「ぼく…こんなこと…するつもりなかったのに…」
「そうだよね。わかるよ…」
「もう嫌です…」
「ラファエル君…。誰かに何か言われたらぼくのことを話していいよ。もしそのことを馬鹿にされたら、ぼくなんか…君達が卒業するくらいの年齢になっても失敗していたんだから。君をからかう人がいるとしたら、その人に、それならぼくに同じことを言いに来るように、と言ってくれる?」
「先生…。ありがとうございます…。だけどぼく、もう…」
「うん?」
「ぼくもう…。ここを辞めたいです…」
「え? それは…おねしょが原因? それで寮生活をするのはつらいから?」
「はい…」
「君の辞めたい気持ちの原因はおねしょとホームシック、どっちなのかな?」
「どっちも…」
一旦収まった涙がまた…。おねしょを他人に知られるのは、確かに…泣くほどつらいことだろうし、家族に会えない寂しさはぼくらでは埋めてあげることができない難問だし…。
さぼるつもりだったランニングを結局する羽目になり、彼の不始末を背負ってとりあえず実家に向かって走る。いつもの家にいつもの母。
家族に会いたいラファエルはずっと孤独な気持ちを抱えたまま寄宿舎でがんばっているのに、そんな彼が失敗するたびにぼくが自分の母に会う、というのも何だかおかしな話だな、思いながらまた、秘密の依頼をする。
実家の朝、食事の支度で湯気の匂いが立ち上っている。
「おはよう。お母さん」
「あら、マックス。また朝から」
「あのさ…。また、洗濯をお願いしたくて…」
「また、粗相をした子がいるの?」
「うん…。この前と同じ子だよ」
「それで、またあなたが?」
「うん…。なんか、かわいそうで…」
「かわいそうかもしれないけど、そうやって隠し続けるのはどうなのかしら」
「だって…」
「朝食、一緒にどう?」
「あ、そうだね…。そしたら、今日はお願いしようかな…。お父さんは?」
「まだ起きるのはもう少し後だからあなたは一人で食べていて」
母はぼく一人用の簡単な朝食を並べてくれる。寮の食事とは違う、ずっと馴染んできた母の用意する朝食。なんだか、ほっとする。
「お母さん、あのさ。ぼくがあんな歳までおねしょしていて、どう思っていた?」
「何、そんなこと急に。どうって…。だって、仕方なかったんでしょう?」
「それはね。したくてしていたわけじゃないから」
「いつまでそんなことが続くのかしら、とは思っていたけれど」
「そうだよね…」
「だけど、仕方なかったんでしょう?」
「そうなんだよね…」
「私は、そのせいであなたが進みたかったはずの合唱団本科に行けなかったのが残念だったと今でも思ってる」
「まあ…そのせいでって言うか…」
「そのせいでしょ?」
「まあ…そうだね…」
「おねしょがなければ本科に進んだんでしょ?」
「たぶんね」
「それとも、私がいないから寂しすぎてどちらにしてもだめだったのかしら」
「またそういうことを言うんだから…。おねしょがなければ、お母さんがいなくて寂しいことくらい、乗り越えられたかもしれない…」
「だけどね。おねしょなんか気にしないで寮に入ったら良かったのよ」
「そんなこと、できるわけないよ…」
「だって、あなたの生徒は実際、寮のベッドを濡らしたわけでしょう?」
「そうなんだよね…。でもその、彼はそれまでの履歴はなくて、寄宿生活をはじめてからそうなったわけだから。それで、そんなことがあるからつらそうでさ…」
「その子は、あなたね」
「ぼくも、そんな気がしてる…」
実家を出て寄宿舎に戻る道のり。走りながら考えていた。ラファエルのこと…。彼があんなに泣いていたのは粗相にショックを受けていたからではなく、ホームシックで寂しいからだったのかな、と。いや、もちろん、あの年齢でベッドを濡らしてしまうこと自体にも本人は相当ショックを受けているのだろうけれど。
ホームシックのせいで、それが精神的な原因となっておねしょのような症状が現れてしまうとして…元々本人は寂しくてつらいのに、さらに寝具を濡らしてしまう悩みまで…。単純に物理的に後のことが大変だし、その上周りに他の仲間がいるプレッシャー。
どうしたらいいのかな…。どうしてあげるのがいいのかな…。
体の大きさは大人に近付きつつあるのかもしれないけれど、何だかんだ言って彼らはまだ子どもなのだ。あり得ないほどくだらないことを言い合って笑っているし、家族が恋しくて泣いてしまう。つまらないことで喧嘩をするし、大人だったら考えられないほどに些細なことで悩んでいたりもする。
ここで彼らを預かる責任を負っているぼくらは、彼らの安全と健康を一番に考えないといけなくて、だけどそれが何人もいるものだから、一人一人の心の深いところまでを丁寧にケアすることができていない。
誰かを贔屓するつもりは全然ないけれど、ラファエルのことは気になる。
だけどぼくは彼の家族になってあげることはできなくて、何をどうしてあげれば一番良いのか分からずにいる。
朝食は実家で食べてきたけれど、子どもたちの様子を見ておいた方がいいかな、と食堂へ出ていくと、皆いつも通り。
いつもの食事風景の中、子どもたち一人一人を眺める。ラファエルもいる。彼も、ここでの様子はいつも通りで他の仲間と会話をしている。
一人でテーブルに着くとそこへ音楽監督シュリーマン先生がやって来る。
「おはよう、マックス君」
「ああ、シュリーマン先生。おはようございます」
「最近調子はどうかね」
「ええ、まあ…。ぼちぼち…」
「今朝は食欲がないのかい?」
「いえ、そういうわけではないのですが…」
「今週のミサは君の隊だったな?」
「はい。そちらはかなりいい形にできているつもりです」
「そうか。それはよかった」
「彼らは真面目ですよね。あの子たちが一生懸命取り組んでくれるおかげで…ミサは大丈夫だと思います。ここの音楽は素晴らしいです。彼らの歌声も、教会の音の響きも。先生は、ずっとここで子どもたちを見ていらしたんですよね?」
「もう、数え切れないほどの年数をね。いろいろ変わったよな。ほんの数年前まで誰もスマートフォンなんか携帯していなかったのに、今は皆それを持っていて、私でさえSNSをやっている。専ら見る専だけどね」
「いえ、先生ほどのお方がそれをできるのはお見事です」
「少年達をフォローして彼らの写真にいいねを押しに行くんだよ」
「恐れ入ります…」
「それで、私はこんな老人になっても、まだ、いつも周りにはあの年齢の子どもたちがいる」
「先生が教えてこられた子どもたち、どうでした?」
「どうって?」
「ここに来て、未経験だったカペルマイスターをさせていただいて…正直、ぼくにはまだうまくできないことが多くて悩んでいます。子どもたちは皆、それぞれ素晴らしい個性を持っていて皆違っているのに、一人一人を、どうやって見ていったらいいのかな、と思っていて…」
「マックス君」
「はい」
「一歩進んだな」
「何が、ですか…?」
「あともう一歩進んでほしい気もするけれど、焦らずいこう。難しいんだよ、君が今言ったことは」
「そうですよね…」
「私は何年も、何人もこの年齢の子どもたちを見続けてきたけれど、今の君の質問。その答えはいまだにわからない」
「先生でもわからないんですか?」
「何年やっても、全員、一人一人、皆違うんだから。個人個人もそれぞれ違うし、その年度のメンバー構成によって隊の個性が変わる。だから面白くて辞められないのだがね。君がそれに気が付いて良かったよ」
「先生ほどの方がそうおっしゃるのなら…。それは本当に難しいことなんですね…」
「それで、答えがわからないまま、こんな老いぼれだよ」
「いえいえ、そんなことは」
「私の後任を君に決めたのは私なんだよ」
「はい?」
「私が、君に決めたんだ」
「あの…」
「何人かの候補がいた。でも、私は君が良かったんだ。君は私にないものを持っていて、素晴らしい人間だと思ったから。似たような人が似たようなことをしたって仕方がない。君は思うままに、君らしさを出していったらいい」
「ありがとうございます…」
「実はね、誰を採用するのか話し合っていて、君を選ぶことに関しては反対する人もいたんだよ。君は少年合唱の指導に関しては未経験だったから」
「それはそうでしょうね…」
「でも、君は一生懸命だよな。子どもたちに負けないほど一生懸命だよ。何と言うのかな。感覚としては君は子どもに近い」
「ぼくが子どもみたいだということですか?」
「そう思う日もある。けれど、指導は適切にできているようだから構わないよ」
「ぼくは…あのような…集団の子どもを相手にするのが初めてで…。上手くできていなくて申し訳ないです…」
「いや、よくやっているよ。もう十分。君の指導に関しても、我々は少し待たないといけないのかもしれない。焦ることはない。君は今に、教え方も更に上手くなる」