個人レッスン ラファエル
先日のおねしょの相談以来、ラファエルと話した方がいい、と思いながらもなかなか二人で話す機会がなくそのままにしてしまっていた。
彼は大人しいけれど歌声は美しくて安定している。隣国からわざわざこの学校に来ているだけのことはある。
今日はそんな彼のソロを指導。レッスン室にて二人きりでの練習。
「さて、ラファエル君。始めようか」
「はい。先生…。この前は、どうもありがとうございました…」
「この前っていうのは…」
「あの…おねしょしちゃって、ごめんなさい…」
「ああ…。そのことは…」
「先生が助けてくれたおかげで助かりました…」
「どういたしまして。なかなか二人で話ができなかったけど、ぼくは君のことを心配していたんだよ」
「ありがとう…。すみません…」
「その後は大丈夫? その、ベッドを濡らさずに済んでる?」
「はい…」
「それなら良かった。また何かあったらいつでも相談してね」
「はい…。ありがとうございます…。あの…」
「うん?」
「実はあの後、結局みんなに知られちゃったんです…」
「そうだったの?」
「起床時刻になって他の子にどうしてもう着替えてるんだって言われて…。ベッドも昨日と様子が違うことに気付かれて」
「あ、そうだったんだ…。誰か何か、君を嫌な気分にさせたりした?」
「……」
「何かあった?」
「みんなに、どうしておねしょしたんだって聞かれて…。一年上のフロリアンが…いつまでも言ってきていて…さっきも…」
つらいのだろう。彼の目に涙が…。
「おお、そうか…。それはつらいよね。そのこと、まだ言われてるんだ?」
「フロリアンはまだ毎日言ってきます…」
「それは良くないな」
「おねしょする前に戻りたい…」
「ん…。そうか…。ええと…ぼくが彼と話してみようか」
「……」
「知られてしまったっていうのは、全員?」
「はい…。向こうの隊の子も。ここにいる全員です…。あ、青年部は知らないと思いますけど…」
「そうか…」
「あの…先生には本当に迷惑を掛けてしまいました…。でも…」
「ぼくは迷惑だとは思っていないよ」
「でも…。ごめんなさい…」
「ぼくに謝らないで。君は悪くないと思うよ。今まではそんなことはなかったのだものね…」
「みんなが知っているのが恥ずかしくて…。フロリアンに毎日馬鹿にされるのがすごくつらいです…」
「そうか…。そうだよね。どうしたらいいかな…。ぼくがタイミングを見て彼と話をするよ。この前も言ったけど、ぼくなんか君より年上になっても失敗したことがあるんだよ。だから、ぼくは全面的に君の味方。どうするべきか考えるから」
「ありがとうございます…。でも、ぼく…もう…ここを辞めたいかも…。実家に帰りたいです…。家族に会いたいし…みんながぼくがおねしょしたって知っているここでは…」
「そう…」
「家族に会えなくて寂しいんです…」
「そう…。それは、そうだよね…」
「みんなは毎週週末に帰るけど…ぼくは家が遠いから長い休みになるまで帰れなくて…。本当は家族に会いたいし、家に帰りたい…」
「そっか…。こういう話をすると余計に寂しくなっちゃうかな?」
「……」
「だけど、冬休みまであと少しだよ。それまではがんばれそう?」
「はい…。でも先生…」
「うん?」
「もしがんばれないって言ったら、ぼく、帰れるんですか?」
「いや、その…。どうかな…」
「すみません…。大丈夫です」
「いや…。そういうことは…ぼくだけの判断では決められなくて…」
「いいです。大丈夫です」
「でも、君が限界だったら、考える?」
「いえ…」
「君達の心と体の健康を守るのがぼくらの一番大切な仕事。だから、もし限界を超えているのだったら言ってほしいし、調子が崩れる前にどうにかしてあげたい」
「先生がそう言ってくれたので、とりあえず大丈夫です」
「そう? 他の子は君がホームシックなのは知っているの?」
「テオとアレックスは知ってます」
「そうか。彼らと仲がいいの?」
「いつも話すのはその二人です」
「そうか。その二人は、ホームシックではないの?」
「だって、二人は週末ごとに帰っているので」
「そうか。週ごとに家族と会えるのと、季節ごとにしか会えないのは全然違うものね」
「はい…」
「ラファエル君」
「はい…」
「君は、どうしてこの学校に来たの?」
「親に勧められたからです」
「そうなんだ。君自身の意志は?」
「ぼくも歌うのが好きだし、みんなぼくの歌は上手いから入団したらいいと言うし」
「歌うのは好き?」
「好きです」
「楽器は何をしているのだっけ?」
「ヴァイオリンとピアノです」
「君の親は何をしている人?」
「教師です」
「そうなんだ」
「はい。二人とも教師です。地元の小学校と中学校」
「へえ、そうか。君は将来何になりたいの?」
「まだ…考え中です…」
「そうか。まだ決めてない?」
「はい…」
「親と同じ教師とか?」
「うん…。でも、その…。ぼくは音楽も好きで…。でも…将来のことはまだ…」
「そうか。まだ若いからね。そうだよね。夢はゆっくり、じっくり考えたらいいと思うよ。そしたら、レッスンしようか」
「先生…」
「うん?」
「先生でよかったです。先生がいてくれて、良かったなって、いつも思ってます」
「あ、そう? ありがとう。でもぼくなんか…」
「この前、おねしょしちゃった時…ぼくが恥ずかしくて泣いた時…先生は、自分のことを話してくれましたよね…。先生もおねしょしたって…。それを聞いてぼく、ちょっと、ほっとしました…」
「あ、それさ…。誰かにしゃべった?」
「言ってません。これからも、他の人には言いません」
「まあ、君を守るためならそんなこと…知られたって構わないけど…だけどどうだろう…。もしもみんながそれを知ったらぼくの指示なんか聞いてくれなくなると思う?」
「そんなことはないと思いますけど…」
「いつまでもおねしょしていて、ママから離れるのが寂しすぎたから寄宿学校に来られなかった。そんな先生、嫌だよね?」
さっきまで目に涙を浮かべていたのに今、目の前の少年はくすくす笑い出した。あ、笑った。それがまたかわいくて。それを見てふと、彼くらいの、この年齢の人間って不思議だな、と思った。まだ子どもで、だけど大人みたいな顔をして。
彼の透き通った肌に浮かぶそばかすと澄んだこげ茶色の瞳を見る。
澄ました顔をしていながら家族が恋しかったり、何かの拍子にベッドを濡らしてその失敗に泣いてしまったり。だけどそれを深刻に受け止める十分な賢さがあって、それでいて大人になったぼくらよりも些細なことに大きく悩めるみずみずしい繊細な心を持っている。
若いって、どんな芸術よりも美しいよな。