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早朝の相談

 子どもたちのことをよく知りたくて、空き時間には時々一緒にサッカーをしたり、就寝前の自由時間に宿舎を訪ねて行って一緒にカードゲームをしたり、食事時以外の余暇も彼らの近くで過ごしてみる。みんな本当にかわいくて素直。

 彼らには四、五歳の年齢の開きがあって、学年によってもその雰囲気が違う。一年目の子のあどけなさもいいし、四年目ともなると下級生を優しく世話してくれるしすっかり大人びてしっかりした青年、という雰囲気になる。そしてそれをさらに包み込む青年部のみずみずしい紳士達。

 一人ひとりにそれぞれ個性があって、気が強い子もいれば全然しゃべらない大人しい子もいて、好きなものもそれぞれ違う。出身地も家庭環境もそれぞれ。兄弟で入寮している家庭もある。

 そしてその中で、実はいろいろあるらしい。誰と誰の仲が良い。逆も然り。気が合う者とそうでない者がいるのは当然。

 穏やかに見える彼らの中にもそういうものがあるんだな。

 ぼくだってそうか。彼らくらいの年齢の時にはやはり、気の合う友達とそうでない人がいて…。

 今だってそう。今の方がそう、か。同僚のアルベルトに毎日きつく当たられて参っている。ぼくが悪いのかもしれないけれど。向こうはぼくのやり方が上手くないので苛立っている。そして、ぼくの担当した部分の仕事のまずさが彼の仕事にも迷惑をかけてしまうことがあるから、それは、怒りも覚えるだろう。

 それもわかるのだけれど…いつしかその苛立ちは、ぼくの仕事に対してではなく、ぼく自身に対して向けられるものに変化しているようで、ぼくはそれがつらい…。

 でも、余暇にそんな余計なことを考えるのは止めよう。


 子どもたちとテレビでスポーツ観戦をしたり、カードゲームやテレビゲームで熱く戦ったりするのはぼくにとっても楽しい時間で、自分が担当していないアルベルトの隊の生徒とも仲良くなった。

 アルベルトはここに住んではいないから、少年達と絆を深めることに関してだけはぼくの方が深く、一歩前に出ている自負がある、なんて。いい歌声を作るのが仕事なのに、そちらは彼のお気に召す結果をまだ出せていないから、早くどうにかしなくては…。


 こうして子どもたちの近くで過ごすようにしても、一緒に遊べるのはどうしても積極的な子ばかりになってしまう。大人しい性格の子がぼくのことをどう思っているのか分からないけれど、ぼくが余暇に宿舎を訪ねても口数の少ない子はぼくに近付いて来てはくれないし、他の子と過ごしていると彼らと話をする時間がなかなか取れない。全員、一人ずつ、もっとよく知りたいのだけれど。


 ぼくは末子で家族や親戚の中ではいつも一番歳下だった。だから、自分よりも歳下で自分を慕ってくれる彼らのことが可愛くて仕方がない。どの子もかわいい弟のような気がしている。活発だろうが大人しかろうが、全員に親しみを感じているし、大切な仲間だと思っている。



 けれど、そんな少年達とぼくの交流はすぐに取り上げられた。

 職員会議で言われたのだ。ぼくが毎晩彼らの宿舎にいる。

 そのことの何がいけないのかよくわからなくて怪訝な顔をしてしまった。

 ぼくはただ、彼らのことをよく知りたくて、仲良くなりたいだけ、子ども達の様子を見ているだけだ、と答えたら、それは構わないけれどくれぐれも気を付けるように、と言われた。

 実はこの合唱団の長い歴史において、指導者が少年に手を出したという忌まわしい過去の事件がある。それが世間にも知られてこの団体の名を汚すことになった。だから行動にはくれぐれも気を付けるように。何かあったら、いや、事が起こる前に。その兆候があったら即刻解雇となる。

 わかりました、と答えたけれど、複雑な気分になった。

 そんなことができるはずないだろう。ぼくがそんなことをすると思われている? 心外過ぎる。ぼくはそんなに信用がないのか。それなら他の人はどうなのか。

 そんな不機嫌が顔に出ていたのだと思う。その後で、ぼくがそんなことをするはずがないことはわかっている、ただ念のために伝えておいただけだ、とフォローが入った。

 実はそれは入職前にも言われていて、全くそんな気はないし、そもそもそういう嗜好はないのでそんなことはしない。できるはずがない、と言ってある。にも関わらずまた言われた。

 この件に関してこの歴史ある団体が神経質になっているのはわかるのだけれど。



 だからそれなら。こちらも面倒なことは望まない。それ以降ぼくは、必要以上に彼らに近付くのはやめた。就寝前の彼らに会いに行くことや、サッカーに混ぜてもらうことも、急に気持ちが冷めてしまって、ただ遠くから眺めるだけになった。

 そうして何日か過ごすと子どもたちから聞かれた。もう就寝前に一緒に遊んでもらえないのか、と。ゲームやカードであんなに盛り上がって楽しかった。先生もメンバーなのに。

 何と答えれば良いのかよくわからず、そのまま答えてしまう。先輩に注意されたから。君達と仲良くし過ぎるとぼくは信用を失うらしい、と。

 子どもたちにそんな話をしたくはなかったけれど、どうしたら良かったのか。



 平日の余暇を彼らと過ごさなくなって、何となく体を動かしたい欲求が募っていた。子どもたちのサッカーに混ぜてもらうのは丁度良い運動になっていたのだけれど、まあ、よく考えたら、カペルマイスターが毎日少年と一緒になって遊んでいる、というのもどうなのか、という気もするし。

 それでぼくは、しばらく休んでいた早朝のランニングを再開することにした。朝食前に近所を一走りして汗を流す。

 走ることは気晴らしになる。いつもそうだった。学生時代からたまに走ったりしていた。作曲に行き詰まると走る。将来の悩みに苛まれる時も走る。アルベルトの口調に傷付いて考えたくないのにそのことばかりを考えてしまう時も、走ったら気分が変わるかも。走るとなぜか頭がすっきりする。

 走り始めは頭の中に悶々と悩みが漂っているのにそのうち流れる景色と呼吸に意識が傾き思考は肉体に支配され、悩みがその時間は忘れ去られている。

 汗を流すと悩みの重さが多少和らいでいるような、そんな感覚。


 そんな早朝の新たな習慣を復活させて何日経った頃だったか。

 今朝も朝日を浴びに行こうと身支度をして部屋を出ようとしたところで誰かがドアを叩いたような気がした。こんな時刻にそんなことがあるはずは…。そう思ったけれど確かにその音が聞こえた。

 ドアを開けると団員の少年、ラファエルがいる。

「おお、おはよう、ラファエル君。どうした、こんな早朝に」

「先生…。あの…」

「どうしたの?」

「あの…どうしよう、と思って…」

「何が? 何かあった?」

「あの…」

 不安そうな様子。こんな早朝にぼくを訪ねてくるなんて一体どうしたのか。

「何か困ってる? 何でも言っていいよ」

「……」

「どうした? 言いにくいこと? 深刻?」

「……」

「どうしたの? 言えない? ええと、秘密のことなら黙っておくし…。聞いても怒らない、と約束しようか?」

「……」

「どうした? 何だろう…」

「あの…」

「うん。何でも聞くよ。例えば、おねしょしちゃった、とか?」

 あれ…そう? 軽い冗談で和ませようとしたつもりだったのだけど…彼はものすごく悲しそうに、めそめそ、しくしく泣き出す。

「そうなの?」

「はい…」

「本当に?」

「はい…。ごめんなさい…」

「いや、謝らなくていいよ。ええと…そうか…。そんなの…大丈夫だよ。そしたら…」

「あの…だから…。どうしたらいいのかなって思って…」

「そうだよね…。あ、これ…きれいなタオルだから…まだ使っていないから…。良かったらこれで涙、拭いてさ…」

「ありがとうございます…」

「どうするか、一緒に考えよう…」

「すみません…。先生、その格好は…」

「あ、これは…最近早朝に走っていて、今日も…今から行こうとしていたところで」

「そうなんですか…。邪魔してごめんなさい…」

「いや、そんなことはいいよ。それより君のこと…。どうしようか…」

「すみません…」

「ええと、こういう時は…生活指導の先生に言いに行くの?」

「あの…言わなきゃだめですか?」

「いや…。どうなのかな…。ぼくはそのあたりのことをよく知らなくて…」

「あの先生、怖いんです…」

「そうなの?」

「はい…」

「でも、わざとしたことではないし…。これはただのアクシデントだから…」

「だって…。ベッドが…」

「それは、大丈夫だよ…」

「汚しちゃってるから…怒られます…」

「平気だと思うよ。ぼくも一緒に言いに行ってあげるよ。行こう」

「行かなきゃだめですか…?」

「うーん…」

 知られたくない気持ちは誰よりもわかる。それなのに、それをわざわざぼくに言いに来た。どうするべきかな…。

「他の子はまだそのことを知らないの?」

「みんなまだ寝ているので…。気が付いていないと思います…」

「その、失敗しちゃった痕跡はどうなっている?」

「まだそのままです…。それを、どうしたらいいのかなって…」

「そうだよね…。わかった。それなら…とりあえず不始末を…できる限りのことをしてみようか」

「はい…」

「大丈夫。よく言いに来てくれたね。協力するから大丈夫。一緒にどうにかしよう」

 心細そうなこの少年はぼくの前でさらにしゃくり上げて泣き出す。かわいそうに…。

 そんなに泣くことない、と背中をさすって慰めるけれど、彼が泣いてしまう気持ちはわかる。まるで過去の自分を見ているようで…。あの頃自分が失敗した時の気持ちを思い出して胸が痛んだ。

 ぼくは…彼くらいの年齢でも、それ以上になってからも…同じアクシデントに見舞われたことが数回ある。だから、どんな気持ちなのか手に取るように分かるし、あの頃のぼく以上に彼はつらいはず。だってここは集団生活の寮だし。

「ラファエル君。急ごう。誰にも気付かれないようにするのが今のぼくらのミッションだ」

「はい…」

「とりあえず泣き止める? ひとまず最優先の任務を遂行しようよ」

「はい…。先生…」

「うん?」

「昨日の夜、友達にソーダをもらったんです…」

「うん?」

「多分…それを飲んだから…」

「そっか。それが原因?」

「はい、多分…。それで…ぼくは夢の中では実家にいて…。すごくトイレに行きたかったから行ったのだけど…」

「ああ、なるほど…。そうか。わかったよ。夢を見たんだね。それで現実、ベッドが濡れているなんて驚くし、悲しいよね」

「はい…。こんなの…。恥ずかしい…」

「そうだよね。それはそうだと思う。気持ち、よくわかるよ。ね、泣かないで…。涙、止まらないかな?」


 なかなか泣き止んでくれない少年を前にぼくは考えていた。この子を救ってあげたくて、彼の悲しみを和らげたくて…。どうしようかな…。でも、そんなことはできない…。けれど、このままだと…。


 誰にも言うつもりはなかった。こんなこと、他人には一生話さずにいるつもりだったのだけど…。ここでこのカードを使うかどうするか…。ぼくの過去のこと…。

 もし言ったとして、この子は他の人に言わずにいられるかな…。

 でも、こんなことがあって傷付いたまま、このことを深い傷にしてしまうのはかわいそう。それなら…


「あのさ、ラファエル君」

「はい…」

「他の人には話さないでほしいのだけど…。いい? 約束してくれる?」

「はい…。何のこと…」

「あのね、ええと…」

 いざ話そうとすると、どんな話よりも話しづらい。相手は子どもでも、恥ずかしすぎて言葉が浮かばない。

 でも、今は彼の方が恥ずかしくてつらいだろう。彼を救うためなら…。


「あのさ…。ぼくは…実は…君より大きくなっても、おねしょが治っていなかったんだよ」

「え…? そうなんですか…」

 次から次へと溢れる涙をぼくが渡したタオルで拭い続けていた少年はぼくの告白に意外そうな顔をしてこちらを見る。

「うん。だから…。ぼくはここの附属小学校に通っていたのに本科には進まなかった。おねしょするのに寮には入れないと思ったから。将来は音楽の仕事をしたいと思っていたから、それなら本科に進むのがいいに決まっているのに、歌や音楽よりもまず、おねしょの心配ばかりして、ここに来ることを選べなかった。ギムナジウムにいる年齢になっても何度も失敗して、それ以降も…」

「そうなんですか…。先生が?」

「そう…。絶対に秘密ね。一生誰にも言わないつもりだったのに…君に話してしまった…」

「すみません…。あの、絶対話したりしません…。ありがとう…」

「まあ、そういうことだから、気にすることないって言いたかったんだけど…。そう言ったとしても気になるしつらいよね?」

「はい…。でも…ありがとう…。ちょっと…気が楽になりました…」

「ここでそんなことが起こるのは初めて、でしょ? ちょっとバランスが崩れたのかも。そしたらたまにはそういうこともあるのかもしれないよ」

「でも…ごめんなさい…。夜に飲み過ぎたのがいけなかったのだと思います…」

「まあ、そんな日もあるのかもしれないよね」

「今度から気を付けます…」

「大丈夫。君は何も悪くないから。とりあえず不始末を片付けよう。君の寝床を案内してくれる?」


 それで彼の寝部屋に連れて行ってもらってベッドを確認するとたしかにそこには、そこで失敗してしまった悲しい跡が描かれていた。

 こんなことは全然大したことないよ、と本人に声を掛けたのだけれど、地図になったシーツを見てぼくは動揺していた。まるで自分が失敗してしまったような気分になって、当時の羞恥がよみがえる。

 自分以外で、そんな歳になって実際におねしょをしてしまう現実を初めて見た。ぼくの心はあの頃に戻っていて、あの年齢でおねしょをしてしまった時の悲しみが心の奥底にしまい込んで隠し続けていたはずなのに、ぼくの心一面に再現されて…。


 大急ぎで、だけどなるべく音を立てないよう静かにシーツを替えて濡れてしまった洗濯物を回収する。

 とりあえず洗濯物はぼくの部屋に持っていくか…。

 証拠を隠せば彼がこのことで他のメンバーに馬鹿にされることはないのではないかな。


「もう大丈夫だよ。何ともない。体調は大丈夫?」

「はい…」

「この洗濯物はぼくが持っていくよ。きれいにして君たちが学校にいる間に誰にも知られないように元に戻しておく」

「先生…」

「うん?」

「ありがとうございます…」

「こんなの朝飯前だよ」

「ぼく…どうしてこんなことになったのかわからない…」

「そうだよね…。そんなつもりはなかったんだよね」

「はい…」

「そんなに気にするのも良くないかもしれないから、考えすぎずにね」

「はい…」

「もう今後は大丈夫だと思うけど…もしまたそういうことになったら…手伝うからぼくに言いに来ていいからね」

「ありがとうございます…」

「ラファエル君。大丈夫?」

「はい…」

「まあ、だけど…こんなことがあったら…元気出ない、か…」

「ぼく…もう…。家に帰りたいです…」

「ん? こんなことがあったから心細くなっちゃった? 家に帰りたい?」

「あ、でも…。その…大丈夫…です…」

「いや、いいんだよ。それは、普通で自然の感情だよね。そうか…。家族に会いたい?」

「はい…」

「ここの生活はつらい?」

「いえ、そういうことはないんですけど…」

「ええと、わかった。こんなことがあったらつらくて悲しいのもわかるし、家族に会いたいのも当然。ちょっと…ホームシックになっちゃってるのかな…。今度ゆっくり話をしようか。今のところはとりあえず…このまま起床時刻を待とう。もう、大丈夫だから。ぼくがここにいると不自然だから、一旦行くね」

「はい…。先生、ありがとう…」


 彼の寝部屋を後にして考える。

 皆、平気そうな顔をしているけれど、やっぱり、ホームシックってあるのかな…。

 ぼくが子どもの頃にはそれが大きな不安で、だからぼくはそういう生活を選択しなかった。

 しかし実際にそういう生活を始めてしまえば気にならないのかな、と元気な子どもたちを見て思ったりしていたけれど…。この年齢の子どもたちは皆、大人ぶったり、でもやっぱりその本性は子どもだったり…。そのあたりの見極めが難しくてぼくは手こずっている。

 そういえばラファエルは実家が遠いとかで週末も寄宿舎にいる。この出来事は寂しさのせいなのか、それとも偶然何かのバランスが崩れて失敗してしまっただけなのか。



 彼からあずかった洗濯物。これ、どうしようかな…。

 ひとまず第一のミッション、他のメンバーに気付かれずに寝床の修復をする、はどうにか完了。

 第二のミッションは洗濯物の処理、だな。

 ここにはクリーニングサービスもあって、だけどこういう状態の洗濯物をそのまま出すのも申し訳なさすぎるし、そもそもこれを渡すということは、失敗しました、と告白することになる。

 ぼくがしたことにしてあげる? いや、それはさすがに…。


 ぼくは洗濯物を鞄に丸めて詰め込んで走り出していた。

 ランニングついでに実家に寄る。母が朝食の支度をしていてこんな時刻にぼくが訪ねてきたことに驚いている。

「あら、マックス。こんな早くからどうしたの?」

「ごめん、こんな早朝に…。ちょっと、頼み事があって」

「こんな朝にやって来て、頼み事?」

「うん…。これ、洗濯してもらえないかな」

「洗濯? どうして宿舎でしないの?」

「いや、それが…。秘密にしておきたい洗濯物で」

「秘密にしておきたい洗濯物って…まさかあなた…。宿舎に女性を連れ込んだり…」

「まさか。そんなことするわけない。そんなことをしたら一発で解雇だよ」

「気を付けなさい。せっかくいい仕事が見つかったんだから」

「わかってる。そんな心配はしないでいいから」

「それなら一体何なの?」

「実はこれ、おねしょをしてしまった洗濯物で…。あ、ぼくじゃないよ。ぼくの生徒が…」

「それでどうしてそれを私が洗濯するの? 宿舎で洗濯できるんでしょ?」

「向こうに渡すとおねしょしたって他の人に知られてしまうから。隠してあげたいんだよね」

「ああ、そういうこと。わかった。事情はわかったけれど、それでいいのかしら。あなたはカペルマイスターなのに、どうしてそんなことをしているの?」

「ああ、うん…。まあ、そうだよね…」

「あなたがしたんじゃないの?」

「違うって…」

「だって、あなたはつい最近までおねしょしていたんだから」

「つい最近って…。もう、治ってかなり経つじゃない…」

「あら、最後の失敗なんて、ついこの間よね?」

「この間っていつよ。一番最後に失敗してからもう何年経ってる?」

「最近よ。あの時あなた、何歳だった? あんなに大きくなったのにおねしょなんかして」

「もうその話はやめてくれる?」

「事実よね」

「事実かもしれないけど…。朝からお母さんとそんな話はしたくない」

「あなたは本当に、いつまでも、ね」

「わかった。ごめん。謝るからもう言わないで。そんなことを思い出すと…今日だってこれから仕事なのに…。子どもたちの前に立てなくなる…」

「マックス」

「うん?」

「それでいいのよ」

「なにが?」

「よく覚えておきなさい。あなたは偉くなんかないの。カペルマイスターだとか言って子どもたちの前で威張り散らしているのかもしれないけれど、あなたはついこの間までおねしょしていたような、そんな人間なのよ」

「偉そうになんかしないし威張ってもいないよ。わかってる。謙虚に、でしょ? 本当にわかってる。ちゃんと彼らを尊重しているよ。優しく楽しく。音楽っていうのはそういうものだからね。とにかく…この洗濯物…。お願い、この通り」

「はいはい、わかった。それはやっておいてあげる。だけどあなた、子どもたちとは上手くやってるの?」

「うん、まあね…。みんなすごくいい子で優秀で。出来が悪いのはぼくの方…」

「あら、自信ないの? どうなの、新しい仕事は?」

「うん、まあ…。まだ、いろいろと試行錯誤しているところ」

「そう。マックス。あなたは優秀なのよ。子どもたちと上手くいっているのだったら大丈夫。心配ないからそのまま続けなさい。しばらく経たないとわからないこともあるから」

「そうなのかな…。まあ、とりあえず、このまま試行錯誤を続けるよ」

「そうね。がんばって。せっかくだからここで朝食、食べていったら?」

「いや、向こうに戻るよ」

「そしたら、これ、持って行きなさい」

「なに?」

 母にホームメイドの焼き菓子を渡された。母はまだこういうことをしていたのか。懐かしい。母は昔からいつも、お菓子を作っていた。

 親に会うと大体いつも、何かしらのお土産を渡される。お菓子なんかもらっても…。

 でもきっと、母が渡したいのはお菓子ではなく、その奥にある気持ちなのだろう。

 どうということはない、いつもの、普段のやり取りだけれど、実家の懐かしい雰囲気に心乱されつつもほっとするのはぼくでもそうなのだから、親元を離れて寄宿生活を送る彼らが寂しいと思うのは自然なこと。人によって寂しさの度合いが違って、全く問題ない子もいれば、不安が強い子もいる。

 もっと子どもたち一人一人をよく見なくては、と思う。

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