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カペルマイスターの仕事


 最初の頃、うっかり寝坊して朝食を食べられなかったことがある。子どもたちに、朝はどうしたの? と聞かれて、腹痛で…などと適当に答えたけれど、気が付いたら時間をすっかりワープして寝過ごしていた。

 もちろん、食堂へ行かなければ食事を取り置いてもらえることなんてないのだから昼まで食事はできない。

 子どもたちの手本にならないといけないのに、こういうのは良くない。子どもたちは起床も仕度もきちんとしているのに。指導側のぼくが寝坊しているなんて。

 子どもたちには生活指導の教師が付いていて起床から食事、生活全般へのサポートがある。それを考慮するとしても。入ったばかり、一年目の子でもこのタイムスケジュールにきちんと順応してしっかりやっている。朝から友達同士で楽しそう。それに比べてぼくは…。

 食事時になると少年も青年も住み込みの職員も、ほぼ全員の寮生がこの食堂に集うのでなかなか壮観。

 ぼくも気持ちを引き締めていこう。早くこの新生活に慣れてしっかりやっていかなくては。



 さて、午前中。朝食後、子どもたちには学校がある。身支度を済ませるとそれぞれの教室へ向かう。寄宿制のいいところは、全てがそこで済むところ。宿舎のすぐ隣に学校があり、学校と放課後のタイムスケジュールもパターン化されている。時間ごとにすることが決められているので規則正しく行動できるから、ここに子どもを入れたい親の意向も分かる気がする。

 ここにいる生徒は皆、優秀で聞き分けが良い。入団できるのは歌うことが好きな子。そして、こういう生活ができるくらいの協調性を持っているかどうかの性格も密かに審査されて合格が決まる。

 身内がこの団体出身、というパターンは結構多い。我が家も父がここ出身で、その息子である兄も自然な流れでここに来た。そしてなぜか、今さらぼくもここへやって来て…ぼくはまだ現在順応中。

 学業は少人数制。演奏旅行の時間を確保するため他の学校に比べると学習のペースは大変早い。一年分の学習量を十か月に濃縮してマスターすれば、二ヶ月間を演奏活動に充てられる。

 一クラスの人数が一桁の少人数なので、そんなハイペースで学ぶべきことを詰め込むとしても全く問題はないらしい。各教科の教師も優秀な人を選抜しているようなので教育環境はとても良いのだろう。



 彼らが学業に勤しんでいる間に我々職員は今後の予定やプログラムの検討をしたり、各関係先との事務的なやり取り、指導方法や先の見通しを話し合ったりする。決まったプログラムについては楽譜の準備と自分がするべき伴奏の準備、曲の理解と子どもたちに指導する際どのように進めていくかの検討も。

 理事、事務はさらに資金的な仕事もあって、これがどうにも悩ましいようだけれど、ぼくは直接関わらないのでそこはどうにか。伝統を守るために、遠回しなのか直接的なのかよくわからないけれど、より良い彼らの歌声を作ることに貢献して協力できれば。と、まだそれが全然できていないぼくは給料泥棒だろうか。


 今日は音楽監督であるシュリーマン先生ともう一つのグループのカペルマイスターであるアルベルトとぼくの三人でイベントに向けた打ち合わせをする。近々、小規模なオーケストラを付けて当合唱団らしい数曲を披露するコンサートがあるらしい。ぼくにとってはここに来て初めての行事。

 子どもの頃からそういう機会に恵まれ舞台に立てるなんてうらやましい。やっぱり、ぼくもあの頃、この学校に入れたら良かった。


 今日からそのイベントのために二隊合同で縦割りの練習をする、とのこと。

 ぼくはソプラノ、アルベルトがアルトを指導する。まずはパート練習から。そういう話になった。

 その打ち合わせで聞かれた。ぼくはこの仕事に慣れたのかどうか。

 大丈夫、と一言答えたけれど、そう聞かれるということは、やはり心配されているのかな…。

 本当は仕事にも生活にもまだ全然慣れていなくて、コレペティの時とは勝手も違うし生徒の年齢も性質も違う。曲も違うし、そもそも練習の仕方自体が全く違う。実は彼らへの指導が全然上手くできなくて悩んでいる。どうしたらいいのかわからなくてもがいている、とは、近しい先輩カペルマイスターにはとても言えなかった。



 早速午後から実際にパート練習。一旦全員を集めて話をする。これからイベントがあること、曲目、今後のスケジュール。

 それから全員でウォーミングアップの発声。

 ここの子どもたちは本当に優秀で、楽譜を渡して練習し始めるときちんとできるし真面目だし、よく躾けられていて感心する。

 それでもぼくがつまらない注意をしたり話がつい長くなったりすると隣同士でしゃべりだしたり集中が途切れたりすることはある。それはこちらの進め方の問題なのかもしれない。やり方はまだまだ試行錯誤中。


 少年達は皆本当に良い子たちで、合唱団の日課や伝統さえよくわかっていない新人教師のぼくに全面的に協力してくれる。そんな彼らの思いやりに触れるたびに「優しいな」と思う。けれど、思っているだけではだめで、もっと効率的に、技術的にもその質を保ちさらにそれを向上させないといけない。それを頭で分かっていながらしかし、現実彼らを前にするとぼくはまだ全然舵の取り方がわかっていない。

 どちらへ向かえばいいのやら、何となくできるようになっているからいいかな、と、そのまま進もうとするとレッスン終了後に大先輩シュリーマン先生から曖昧なまま進めるのはよくない、時には徹底的に。それが我が合唱団の歌声の特徴でもある。などと注意を受ける。

 それなら、と、じっくりやっていると全然進められず、アルベルトがそろそろ全体で合わせて合同で練習しないか、と声を掛けてきた時にこちらはまだ半分しかできていなかった。まだそこまでしかできていない、と言ったぼくに対して彼は苛立ちを露にする。

「こんなに時間をかけてお前は何をしていたんだ。時間を無駄にするな」と、生徒には決して言わないようなきつい口調で注意をされる。

 でも、シュリーマン先生は曖昧なところを残さず時間をかけて徹底的に、と言ったから…。なんて、そんなことを先輩カペルマイスターにはもちろん言えず。



 ようやく全体で合わせて練習し始めると、ぼくが担当した子どもたちの音は揺れ、不安定な様相を見せ始める。

 アルベルトは眉間にしわを寄せてぼくを睨みつけてからソプラノだけでやってみるように、とぼくの生徒に指示を出す。

 ぼくが指導したはずのソプラノの子たちは結局ここでまた一から指導され、ぼくの今までの時間は一体何だったのだろう、と自分の仕事の至らなさに落ち込む。

 何よりも子どもたちにとても申し訳なかった。ぼくのせいで注意を受け、同じような練習をまたさせられて。不甲斐ない自分に嫌気が差す。

 子どもたちは素直に言われた通りに歌っているし、しかも、アルベルトのアドバイスがある度にその歌声はこの合唱団らしさを増してどんどん良くなっている。彼らの音は次第に揺らぐこともなくなり自信も付けていく。これか。安定した我が合唱団「らしい」歌声。

 ぼくはあんなに時間をかけて、こんなに優秀な子たちに何もしてあげられず、何も作れなかった。



 練習が終わると皆一斉に部屋を出ていく。ぼくもここを出て一旦自分の部屋へ戻ろうとしたところでアルベルトに声をかけられる。

「マックス。明日はどうする?」

「明日ですか?」

「君は何日も、何時間も、彼らとどうやって過ごしていたんだ」

「すみません…。音を取って、安定させたつもりだったのですが…」

「どうしてもっと音程を固められないのか疑問だよ」

「すみません」

「他の音が入るともちろん最初は音が揺れるのはいつものことだけど、あれはひどすぎる。子どもには子ども向けの指導方法がある。わかってる? 君はコレペティの経験があるんだよな?」

「はい…」

「オペラ歌手に教えていたのか?」

「はい…。生徒はほとんど大学生でしたが…。そういうこともしていました…」

「ここの仕事はそれとは違う。自覚しろよ。彼らに楽譜を渡して何も知らないところから教えていくんだ。舞台に出るために準備を整えた大人の歌手を相手にするのと、ここで子どもたちに歌わせるのでは、全てが違う。我々の相手は、まだ子どもなんだぞ」

「はい…。すみません…」

「君は何だっけ? 作曲したいって? 何でここにいるのだろうね。作曲のことは頭から追い出せよ。彼らには今しかなくて、今のメンバーは数年経ったら全員いなくなる」

「はい…」

「彼らの集中力を見ながら必要なところをしつこくやるんだよ。特に男子の場合はね」

「そうなんですか…」

「どうせ女声ばかり見ていたんだろ」

「生徒はたしかに、男女両方見てきましたが女性が多かったです…」

「君は必要なところの見極めができていない。誰に何が必要なのか、どういう練習をさせるのか。それはカペルマイスターの責任だろ。しっかりやれよ。彼らには限られた時間しかないんだぞ」

「はい…」

「女子は比較的すぐに安定する。だけど、男子っていうのはしっかり固めないとすぐにぐらつくんだよ。あの子達はまだ子どもなんだ。彼らの普段の様子を見ていたらわかるだろ? あの子達は毎日あんなに無駄にエネルギーを発散している。元気で真っ直ぐなのが少年合唱の長所ではある。だけどあの活発さのせいで毎回歌声は昨日の状態に戻ってしまう。だから何度も繰り返す。どこを繰り返すのか、どう進めていくのか。それは我々が導き出すべきことだろ? 個人個人の能力が違うことは分かってる? ここには皆歌で集まってきているけれど、難曲を演奏できる子もいれば、少し難しい楽譜を渡したら実は何もわからない子もいる。君は外国語をやったことがあるか? 例えて言うならそういうことだよ。単語しかわからない子もいれば、流暢に話ができる子もいる。その能力の差を考慮しないと上手くいかない。あと、能力が低いからといってそれがその子の歌手としての価値ではない。能力と魂はまた別物だから。君は…わかっているのだろうな。彼らの個性や才能を決して潰すな。楽譜が読めなくたって素晴らしい声を持っていて人の心を震わせる歌を歌える原石みたいな才能のある子がいる。一人一人をよく理解してそれを一つにまとめるのが我々の仕事だ。今、君はそれが全くできていない。それを自覚して即刻改めるべきだね」

「はい…」

「曖昧になっているところは徹底して、何度も繰り返して固めておかないと、次の日になったら後退しているんだぞ。君はそういうところが甘い。率直に言って全然何もできていない」

「すみません…」

「それから、時間の制限もある。考えろ。本番から逆算してその日に何をするべきか」

「はい…」

「君、歌をやったことがないんだな?」

「声楽も合唱も学びましたが…」

「その、ちょっとだけ体験したことをやった数に入れるなよ。もう少し研究した方がいい。君は全く何もできていない。あの年齢の少年に対する教え方ってものがある。彼らは優秀で楽譜を渡しておけば勝手にできるようになると思っているのかもしれないけれど、そうじゃない。コレペティの経験なんか捨てろ。彼らの能力なんか、実はその辺にいる子どもとほとんど同じだよ。それを歌わせるのが我々カペルマイスターの腕だ。しっかり指導しないとこの合唱団に通じる歴史を、その歌声のレベルを君が下げることになるんだぞ。しっかりやれよ」

「はい…。すみません…」

「明日は練習時間の前半をパート練習に充てて後半に全員で合わせる」

「はい、わかりました…」

「あ、もう時間だ。ぼくは帰るから。お疲れさま」


 彼は新婚でこの近所に住んでいる。仕事が終わるとすぐに帰宅する。新婚、か。



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