【第31話】王子帰還
アリアは、焦っていた。
窓の外で、見慣れない旗が風に鳴る。白地に金の紋章――イシュタリア聖教会。
ここはセントヴェナ王城のはずだった。だが、廊下を行き交う兵の鎧は、どれも知らないものばかりだ。
ここ数日で、すべてが変わった。
外出は禁止。扉の前には見張り。
――事実上の軟禁。
(母上と……弟は)
思考がそちらに向くたび、胸の奥がじわりと冷える。無事かどうかもわからない。
そのとき――扉が、音もなく開いた。
反射的に身構える。
「カシウス?」
飛び込んできたのは、見慣れた青年騎士だった。
「アリア様、時間がありません」
息を潜め、廊下を一瞥してから、声を落とす。
「城はすでにイシュタリアの手に落ちています」
「……え?」
「トラヴィスという男が、今の支配者です」
アリアは目を細めた。
「トラヴィス……ロマールの?」
「ええ。ですが今は、イシュタリアの後ろ盾を得ているようです」
噂はあった。だが、ここまでとは思わなかった。
王城が――こんなにも簡単に。
「このままでは、アリア様も洗脳されます」
「それは、さすがに嫌ね」
窓の外へ視線をやる。高い城壁。見張りの兵。そして、あの旗。
「でも、この城を出てどうするの?」
「城内に不満を持つ者たちが、密かに集まっています」
「……なるほど」
アリアは小さく笑った。
「私を担いでクーデター? エミルならともかく」
「エミル様も、ロマールへ逃げ延びたと」
その一言で、状況がつながる。
「私をダシにして、エミルを担ぐつもりね」
「そういうわけでは……」
困惑するカシウスを見て、アリアは肩をすくめた。
「いいわ。乗ってあげる」
「アリア様?」
「このまま飼われるくらいなら――」
旗をもう一度だけ見て、静かに言った。
「人形になるより、外で戦った方がましよ」
城を抜けるのは、拍子抜けするほど簡単だった。
ベイクの街を越え、さらに南へ。夜の森は湿った土の匂いが濃く、足音を吸い込んでいく。
やがて、小さな小屋が見えた。
「ここが?」
「簡易拠点の入り口です」
カシウスが扉に手をかけた、その瞬間――
「――動くな」
声と同時に、周囲を兵が囲んだ。
槍の穂先が一斉に向く。月光が鈍く反射する。
その中から、一人の男が歩み出た。
「……あなた」
見覚えがあった。
「こんなに素直に案内してくれるとは。助かりました」
ジーク。セントヴェナの騎士だった男。
「イシュタリアに仕えたの?」
「私はセントヴェナの騎士ですよ」
皮肉な笑み。
「城へお戻りください。今なら罪には問われません」
「そう」
アリアは淡々と返す。
「断るわ」
次の瞬間、カシウスが剣を抜いた。
鋼がぶつかる。火花が散る。
だが、数が違う。押されていくのがはっきりと分かる。
「あなた、こんなに強かったのね」
「これがイシュタル様の力ですよ」
ジークの笑みは、どこか歪んでいた。
「……そう」
アリアは静かに呟く。
「セントヴェナの騎士は、どこへ行ったのかしら」
――その瞬間。
横から、鋭い刃が走る。
薙刀。
ジークの剣を弾き、軌道を断ち切る。
「……!」
現れたのは、異国の装束をまとった女。
その背後から、もう一人。
「遅くなりました、姉上」
アリアの目が見開かれる。
「……エミル」
少年は、軽く笑った。
「さあ、さっさと助けて恩を売りましょう」
隣では、黒髪の少女がくすくすと笑う。
「ジーク! 姉様に剣を向けるのか」
エミルの声が鋭く響く。
ジークは振り返り、涼しい顔で言った。
「城に戻れば何もしませんよ。あなたもどうです?」
「騎士の風上にも置けませんね」
リリィが静かに言う。
「落ちこぼれに言われる筋合いはない」
ジークが吐き捨てた瞬間――
「どこを見ている。相手は私だ」
薙刀が閃く。
ミユキの一撃。そこにイユの支援が重なる。
連携が、隙を削る。
防ぐたびに追い込まれ、ジークの表情に初めて焦りが浮かんだ。
その間に、セレナとクレインが動く。
気づけば、兵は一人、また一人と崩れ落ちていた。
音もなく、鮮やかに。
残ったのは――ジークだけ。
「……予想外だな」
短く呟き、踵を返す。
その背は、闇に溶けた。
「ジーク……」
アリアは、その名を静かに口にした




