【第19話】贖罪のあと
目を覚ましたとき、空はひび割れていた。
「……寝すぎたか」
エミルはゆっくりと身を起こす。
先ほどまでの心地よい陽光はなく、代わりに空間そのものが軋む音が響いていた。
まるで世界が、内側から悲鳴を上げているようだった。
少し歩くと、崩れかけた広場の向こうにリリィの姿が見えた。
「私のお好み焼きとパンケーキがぁ……」
「リリィ」
「あれ、エミル様? え? 私はお好み焼きで……あれ? さっきまで食べても太らなかったのに……」
「行くぞ」
「どこに行くんですか、待ってくださいよ!」
足元が揺れる。地面に亀裂が走り、遠くで建物が崩れ落ちる。
甘く完璧だったはずの世界が、内側から崩れていく。
砂糖細工の街が、溶けるように崩落していく。
その中心に、セレナは立っていた。
「……これで、いいのよね」
目の前には、黒く裂けた空間。
底の見えない虚無の裂け目が、静かに、けれど確実に広がっている。
セレナはそれを見つめたまま、一歩、踏み出した。
「待て! セレナ!」
振り返る。
「エミル様……私は、ここで死んだ方がいいと思います」
「そんなことはない!」
エミルは駆け寄る。
「私がいると、エミル様の迷惑になりますよ。別の世界とはいえ、私は人を騙して、殺してきました。最初に会ったときだって、幻影を使って騙したじゃないですか」
「こっちだって打算だ!」
エミルはセレナの手を掴む。
「今この状況で、ついてくる味方は是が非でも欲しい。暗殺や諜報が得意ならなおさらだ。喉から手が出るほど欲しい戦力だ」
「危ないです、エミル様!」
リリィが慌ててエミルの腰にしがみつく。
裂け目から吹き出す風が、三人の体を煽る。髪が乱れ、足元が揺れる。
「こっちに来てからは、誰も殺していないだろう。少なくとも、罪のない者は」
エミルはまっすぐにセレナを見た。ぶれない目だった。
「一度死んで、それでもここに立っているなら、それはやり直せということだ。禊は済んだ。改めて——僕に力を貸してくれないか」
セレナの瞳が揺れた。
揺れて、揺れて、それからゆっくりと細くなった。
「……ずるいですね」
かすかに、笑う。
「わかりました。その代わり、後悔しないでくださいよ」
「しない」
その瞬間、世界が完全に割れた。
空が砕け、光が崩れ、理想の街並みが塵のように散っていく。
積み上げられた完璧な嘘が、一息で消えていく。
闇の奥から、雲のように薄い影が浮かび上がった。
「封印ハ解ケタ。助カッタ」
虚無神。感情の抜け落ちた声が、空間に染み込むように響く。
「恩ニ着ル。この礼ハ、イズレ」
「いいってことよ、お安い御用だ!」
どこかでカイルの声がした。
「斬ったのは俺だがな」
虚無神の輪郭が、ゆっくりと闇へ溶けていく。
波紋が消えるみたいに、静かに。
残された空間で、カイルは自分の腕を見た。
いつの間にか、灰色の腕輪がはめられている。冷たい金属が、かすかに脈打っていた。
生きているみたいに。
「ユイ三人衆は何をやってたんだ?」
「すんでのところで弾かれて、助けに行けませんでした」
ユイが肩を落とす。
「それでアワアワしてたってか?」
「元の世界に連れていきませんよ?」
カイムが冷たい声で言う。
「……すいません」
崩れた石畳の上に、三人の姿があった。
エミルはセレナの手をしっかりと握ったまま動かない。
その隣で、リリィがエミルの腰にしがみついた姿勢のまま、静かに目を閉じている。
理想の夢から現実へ引き戻されたばかりの身体は、まだ重いのだろう。無理もない。
セレナの指先が、わずかに動いた。
生きている。
カイルは小さく息を吐いた。緊張が、少しだけほどけた気がした。
「……さて」
カイルが顔を上げる。
「ここからが本番だ」
「ああ」
エミルもゆっくりと起き上がる。
「レイを助けに行かないとな」
崩壊した理想の残骸が、風に散っていく。その向こうで、次の戦いが静かに待っていた。




