【第11話】ズレた世界
山を降りるころには、空気の匂いが変わっていた。
雪と岩の冷たい匂いは消え、湿った土と人の営みの匂いが混じり始める。
文明の匂いだ。
レイは歩きながら、無意識に肩へ手をやった。包帯の下が、じくりと疼く。
「……治りが遅いですね」
「回復魔法はかけたはずなんだが」
「普通なら、もう塞がっているはずです」
セレナが覗き込む。
「回復薬も利きが悪そうですね。薬の浸透も悪い」
クレインが小さく唸った。
「あいつの攻撃は、ただの斬撃じゃないのかもな」
包帯の隙間から、傷の縁がわずかに白く変色しているのが見えた。
レイは黙って腕を下ろした。何かが残っている。そんな感覚だった。
麓から半日ほど街道を進んだ先に、その街はあった。
ロマールの影響下にある交易街、カラン。
山越えの商人と、港へ向かう荷馬車が交差する場所だ。
門前で簡単な入域確認が行われる。
クレインとノーランが前に出て、顔を見せた。
門番の視線が、ふとセレナで止まった。
一瞬だけ、目を見開く。そして、姿勢を正した。
「……ご苦労様です」
その声は妙に丁寧だった。書類も確認せず、門を開ける。
レイは足を止めかけた。
セレナは何も言わず、柔らかく微笑むだけだった。
「何をやったんだ?」
「さあ?」
街の中心から少し外れた場所に、ノーランの家はあった。
石造りの二階建て。窓辺に干された布が風に揺れている。
「お前、奥さんいたのか」
レイが言うと、ノーランは肩をすくめた。
「いたら悪いの? なんでそんな意外そうな顔するかな」
扉が開き、穏やかな目をした女性が顔を出した。
「今日はお客さんが多いわね」
「成り行きでね。簡単な食事の用意をお願い」
「わかったわ」
湯気の立つ茶を前に、ノーランが腕を組む。
「なんで追われてるんだい?」
「……俺は巻き込まれただけだ」
エミルがすぐに続ける。
「申し訳ないが、あまり深くは聞かないでほしい」
ノーランは一瞬だけ二人を見比べ、軽く肩をすくめた。
「そうか。まあ事情は人それぞれだよね」
少し間を置いて、続ける。
「この街からロマーレ行きの汽車が出てる。そこから港へ出て、マルカク大陸へ渡ったらどうかな」
「そうする」
レイは即答した。
「今日はもう日が暮れる。泊まっていくといい」
「助かる」
食卓の空気が少し和らぐ。ノーランが湯飲みを置いた。
「そういえば、前に旅をしていたって言ってたね」
「ああ。トトラド草をめぐってな。魔王教を追い――」
ノーランが首をかしげる。
「トトラド草?」
レイは顔を上げた。
「知らないのか? 魔王教は」
「俺は知ってるぜ」
クレインが口を挟む。
「人を操るとかいう、やべえ草だろ」
セレナが微かに笑う。
「詳しいですね」
「俺も誘われたんだよ。"魔王教"とかいう連中にな」
「なぜ行かなかったの?」
「あの時は雪割りの花の群生地を見つけててな。遊んで暮らせてた。危ない橋を渡る必要はなかった」
「ああ、あの頃か。今日は見つからなかったけどね」
「そう何度もうまくいくかよ。あれは奇跡みたいなもんだ」
軽口が交わされる中、レイの胸の奥は冷えたままだった。
「魔王教はどうなったんだ?」
「あんたが潰したって聞いたぜ。万能勇者」
沈黙。クレインはあっさりと言った。
「十年ぐらい前にな。それにしてはあんた若いな」
「そんな馬鹿な。旅をしたのは数ヶ月前のはずだ」
レイの声が、わずかに硬くなる。
「俺に言われてもな」
クレインは肩をすくめた。
レイは黙り込んだ。
手元のスープに、揺れる自分の顔が映っている。若い顔だ。
かつて肩を並べたはずの男は、自分を覚えていない。
旅の記憶は、つい先日のことのように鮮明だ。
それでもこの世界では、十年が過ぎている。
明らかにおかしい。
ならば、ここにいる自分は何者だ。
思考はそこで止まった。答えは出ない。
ただ一つ確かなのは、ここが自分の知っている世界ではない、ということだけだった。
翌朝。レイは窓の外を見た。
守るもののある家。平穏な朝。
自分たちが長居すれば、それは壊れる。
「……行こう」
別れ際。
「世話になったな」
「ありがとうございました」
ノーランは笑った。
「久々に刺激があって楽しかったよ。家族があるから俺はいけないが、クレインをよろしくな」
「……ついてこなくてもいいのに」
セレナが小さく呟く。
「まあそういうなって、役に立つからよ」
家族。守る場所。
リズやカイルは、どうしているだろう。
この世界の時間軸で考えれば、十年分の月日が流れているはずだ。
それが何を意味するのか、まだ考えたくなかった。
遠くで汽笛が鳴った。ロマール行きの汽車が、白い煙を上げて待っている。
何かがズレた世界で、彼らは次の土地へと向かう




