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万能勇者、敗北。そして二度目の人生は最弱から  作者: 虚無しお
第1部4章:狂乱のエルレン
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【第30話】エルレン理想郷


 ――ついに、この時が来た。


 エルレンは静かになった。

 街角の喧騒は残っている。笑い声も、馬車の音も、子どものはしゃぎ声も。

 だがそれらはすべて、「予定通りの賑わい」になった。


 人は、苦痛では縛れない。

 恐怖は反抗を生む。飢えは恨みを育てる。

 だが――快楽と理想は違う。満たされた者は、抗う理由を失う。


 トラヴィスは高台の上で、広場を見下ろしていた。


 エルレン。マルカク大陸でも一、二を争う大都市。

 表向きは自治と評議会の街――だが今や、その仕組みさえも彼の掌の上にある。


 洗脳は完了した。「柱」の準備も整っている。


 ――トトラド村にも存在した、あの禍々しい柱。

 黒い石のようで、木のようでもあり、表面には血管じみた筋が脈打っている。

 近づくだけで吐き気がするような圧があった。


 今日は、その完成を示すためのテスト日だ。


「政策発表」の名目で、街の重役や評議員、富裕層の代表者たちを集めた。彼らはすでに"馴染んでいる"。トトラド草の流行、若返りの噂、記録の改ざん、選挙の誘導。何もかもが滑らかに進んだ。


 だがトラヴィスは凝り性だ。

 どれほど完成に近づいても、最後の一片の欠けが気になる。

 「完璧」と呼べる形に、どうしても仕上げたかった。


 洗脳済みの彼らに、柱を通して"エキス"を吸わせる。

 そうすれば、仮に意識を取り戻しても――身体は命令に従う。


 心が抵抗しても、肉が服従する。

 それは最も美しい従順だ。


「遮断の魔法は万全だろうな?」


 背後に立つ白衣の男へ、視線も向けずに問う。


「抜かりなく」


 クレインは短く答えた。いつものように、感情を外側に出さない。


 広場に群衆が集まっていく。儀式などと呼ぶつもりはない。

 そう呼べば人は警戒する。だからこれは「発表」だ。

 明るい言葉で包んだ、未来への宣言――その皮を被せる。


 トラヴィスはゆっくりと息を吐き、口角を上げた。


「さあ――見せてやろう」


 柱の周囲に立つ者たちの目は、どこか虚ろだ。

 だが眠気ではない。

 心地よい夢の中にいる者の目だった。


「まずは、幸福から始めよう」


 柱の脈がひときわ強く打つ。

 広場の中央に立つ一人の男が、びくりと肩を震わせた。


「君だ」


 名を呼ばれたわけでもない。

 だが男は、自分が"選ばれた"のだと直感した。


「今から君は、特別だ」


 その言葉が落ちた瞬間、男の瞳が輝いた。

 胸が焼けるように熱い。涙がこぼれるほど、幸福だった。


 ――自分は、選ばれた存在だ。


 ざわめきが起きる。だが次の瞬間、群衆が一斉に拍手を始めた。

 まるで合図を待っていたかのように。


「英雄だ」「彼が我らを導く」「素晴らしい!」


 男の呼吸が荒くなる。自分が称えられている。認められている。

 ずっと欲しかったものが、今ここにある。


「……俺が、導く」


 震える声が、やがて確信に変わる。


「俺が、この街を正す!」


 トラヴィスは微笑んだ。恐怖ではない。命令でもない。

 彼は"自分で"そう言ったのだ。


「いいだろう。では示せ」


 男は群衆へ向き直り、叫び続ける。

 言葉は次第に過激になり、選民思想へと傾いていく。


「愚かな者は従え! 選ばれた者だけが価値を持つ!」


 陶酔。万能感。自分が世界の中心に立った錯覚。


 トラヴィスが、静かに問う。


「君を特別にしたのは、誰だ?」


 男の動きが止まる。振り返り、涙を浮かべる。


「あなた様だ……!」


 その場に膝をつき、深々と頭を下げる。

 群衆もまた、同じように跪き始めた。


 ――完成だ。


 トラヴィスは満足げに目を細める。


 だが。


 広場の一角で、少年の声が響いた。


「目を覚ませ!」


 鋭く、甘い空気を切り裂く声だった。

 男の瞳が揺れる。万能感にひびが入る。


「……え?」


 拍手が止まり、ざわめきが広がる。恍惚が、剥がれ落ちていく。


 男の顔が蒼白になった。自分が何を言ったのか、理解してしまった。

 さきほどまで神だった男が、今は群衆の視線に押し潰されている。

 膝から、崩れ落ちた。


「……違う、俺は……」


 柱の脈が乱れた。トラヴィスの表情が、わずかに歪む。


 ――おかしい。今、何をしている。なぜ、こんな場所に?


 空気が揺らぐ。甘い膜に、針穴が開く。


 トラヴィスの口元から笑みが消えた。

 箱庭に、たった一つの異物が入り込んだような不快感だった。


「……誰だ」


 そのとき、群衆の中をかき分けて、一団が前へ進み出た。

 人々が道を開ける。無意識に避けている。

 そこに、今までの空気とは異なる"現実"が混じっていた。


 先頭に立つのは――レイだった。


「遊びはもう終わりだ、トラヴィス!」


 声が広場に響き渡り、甘い空気を切り裂いた。


 トラヴィスは、わずかに目を細める。


(……なるほど)


 欠けた一片。完璧を汚す異物。自分の"作品"に、触れてはいけない指紋を残す存在。


 ――面白い。


 怒りより先に、興味が来た。そして次の瞬間、表情を整える。

 清廉な改革派の仮面を、習慣のように被り直す。


「……これはこれは。随分と騒がしい"政策発表"になってしまったようだね」


 だが声の奥には、冷たい確信があった。


 この街は、すでに落ちている。堕ちた理想は、簡単には戻らない。


 ――さあ。

 君たちは、どこまで壊せる?

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