報いと眼差し
祭りの喧騒が、遠ざかっていく。
足音を消すように、少年は人混みの裏を走っていた。
通りの壁と壁の隙間。崩れた祠の裏手。荷置き場の影、誰もが見逃す“抜け道”を、少年は正確に選び、迷いなく抜けてゆく。
この道は、少年だけのものだった。
誰に教わったわけでもない。ただ生きるために、身体で覚えた。
人々が香と踊りに浮かれる《風廻市場》を背に、
少年は影の濃いスラム街、赤塵区へと帰ってきた。
崩れかけた塀の陰に腰を下ろす。腰布の下から汗がにじみ、喉が渇く。鼓動は速く、体温は上がっていた。
「……はぁ、……ふぅ……」
数度の深呼吸ののち、ようやく息が落ち着く。
懐から先ほどの騒動で手に入れた革袋を取り出し、布を広げて中身をあらためる。
銀貨が三枚。
銅貨が十五枚。
そして――もう一つ。
「……なんだ、これ」
小さなペンダントが、布の上に転がっていた。
金属の色はくすんでいて、金ではない。
だが手に取ってみると、ずしりと重みがある。
表面には緻密な意匠――風紋のような円輪の中に、鳥の様な横顔が刻まれている。
その下には二本の剣が交差しており、片方は美しく整った儀礼剣、もう一方は刃が欠け、実戦に削られたような短剣だった。
(模様……? いや、これ……)
どこかの一族の紋か、商隊の記章か。少年には、その意味までは分からない。だが、ただの飾りにしては装飾が凝りすぎていた。
首飾りというより、“証”のようなもの。
何かを示すもの。
あるいは、誰かの所属を――。
(……高く売れるかもな)
少年はそうつぶやくと、銀貨と銅貨を袋へ戻した。
身を潜めるようにして壁にもたれながら、
財布の中身を思い返す。
今日の稼ぎは悪くない。
銀貨三枚あれば、干し肉と水は数日分。ペンダントも売れば更に食べ物と水を買えるだろう。
「今日は運が良いぜ…」
少年はそうつぶやきながら、ペンダントを一度見つめ直す。
そして、他の金と一緒にはせず、懐の奥――布帯の裏に別にして包み、肌に近い場所へと滑り込ませた。
赤塵区には、品の価値を“見抜ける”男がいた。
まともな看板もない、名もなき狭い部屋で、物の来歴や価値を判断し、時に売り、時に買い、時に消す――
少年のような境遇の者には、数少ない「売れる相手」だった。
立ち上がった少年は、崩れかけた壁を一度振り返ってから、その男の元へ向かって歩き出す。
雑音の多い通りを避けて、細い抜け道へと足を踏み入れる。曲がりくねった狭い通路、瓦礫と布切れ、すれ違う人もほとんどいないような影の道。
だが、その途中――
「……チッ」
進んだ先と、振り返った背後。
二人の男が、路地の前後を塞ぐように立っていた。
見るなり、少年は顔をしかめた。
「おいおい、よぉ」
「どこ行くんだよ? こんな細いとこ通ってさあ」
二人の男は、どちらもガラの悪い笑みを浮かべていた。
着ているものは赤塵区のよくあるぼろ布だが、目つきと距離の詰め方がただ者ではない。
少年を見下ろすようにして、じり、と一歩ずつ近づいてくる。
「……チッ、うっせぇな。寝床に帰るだけだよ」
少年は眉をしかめ、悪態を吐いた。
だが、声にはわずかに警戒が滲んでいた。
「へぇ~? 寝床ぉ? そんなに急いでか?」
「おいおい、嘘つくんじゃねぇよ。なぁ、なんか隠してんだろ?」
片方の男が、にやにや笑いながら口元をぬぐった。
もう一人は、何も言わず、ただ視線だけで少年を射抜いてくる。
空気が変わった。
そこにあるのは、祭りの喧騒から外れた赤塵区特有の、ひやりとした“狭い世界”の掟だった。
「なぁ、どうせ今日もスリでもやってたんだろ?」
一人が肩をすくめ、口元に意地の悪い笑みを浮かべる。
もう一人はじりと前に出て、少年を見下ろすように立った。
「なーんも隠してねぇって顔じゃねぇな? なぁ、いつものように出せよ、財布」
少年は少しだけ後ずさりしながら、表情を曇らせる。
「……今日は、何もねぇよ。スカだった。祭りで狙ったけど、外したんだ」
言葉はまっすぐだったが、声にはどこか張りがなかった。
過去に何度も繰り返してきた、無駄なやりとり。結果の見えている拒絶。それでもただでは言いなりにならないと小さな抵抗として嘘を付く。
だがこの二人が引き下がることなど、一度もなかった。
「……ふぅん。そっかぁ」
男の笑みがほんの少しだけ鋭くなった。
次の瞬間、拳が飛んできた。
何の前触れもなく、腹部を抉るように打ち込まれた。
「カハッ…!」
息が止まり、膝が崩れる。
少年はそのまま地面に倒れ込み、吐き気とめまいが同時に襲いかかる。
その拍子に、懐から革袋が転がり落ちた。
「やっぱあるじゃねぇか。嘘つきやがって」
男の声が低く、苛立ちを隠さなかった。
倒れ込んだ少年の顔に、次の拳が叩き込まれる。
砂が舞い、唇が切れ、視界がぐらついた。
さらにもう一発、横腹を蹴られた。
栄養失調気味の身体は軽く浮いて飛ばされ路地の壁に当たり、痛みが骨に響いた。
少年はうめきながらも、声を上げなかった。
そんなことに意味はないと、知っていたからだ。
「ほんっと、口だけは達者だな」
地面に伏せた少年の髪を乱暴に掴み、顔を持ち上げながら、男は冷たく吐き捨てる。
もう一人の男が革袋を拾い上げ、中身を確認した。
「銀が三枚、銅が十五。上出来じゃねぇか。俺たちにも分け前が来るってもんだ」
「よぉ、ちゃんと感謝しろよ? お前みたいなちびが持ってても危ねぇだけなんだからよ」
革袋はすぐさま男の腰へと収められる。
まるで元から自分の物だったかのような手つきで。
「じゃあな、嘘つき小僧」
二人は振り返ることなく、笑いながら路地の奥へと消えていった。
残された少年は、地面にうずくまりながら、唇の内側を噛みしめる。
味は鉄と砂。
悔しさは、すぐには消えてくれなかった。
男たちの足音が完全に消えるまで、少年は地面から動かなかった。
身体を丸め、痛む腹と背中を抱えるようにして、ひたすら静かに時間が過ぎるのを待つ。赤塵区では、声を上げた者から潰れる。それを知っている少年は、呻きすら飲み込んで、ただ、風の音と土の感触に耐えていた。
やがて、喉奥に詰まっていた息が吐き出され、呼吸が戻る。腕に力を込め、よろよろと身体を起こしながら、吐き捨てるように呟いた。
「……クソったれ共が……今に見てろよ、マジで……」
唇の端に滲んだ血を拭うと、少年は膝をつき、ゆっくりと立ち上がる。
目の奥にまだ怒りの光を残しながらも、足元はふらついていた。
そして、ふと気づく。
「……あった、こっちは……」
懐の奥、布帯の裏。
そこに隠していたペンダントは、無事だった。
奪われた革袋とは別にしておいたおかげで、あの二人に気づかれることなく済んだ。
布越しに確かめるその感触は、冷たく、確かな重みがあった。
(……これが残ってりゃ、まだどうにかなる)
わずかに息を整え、歩き出そうとしたとき――
「……っ」
横腹に、鈍い痛みが走った。
蹴られた箇所がじくじくと疼き、身体の重心がぐらつく。
(……ちっ、無理だな。今日は……)
質屋へ行く気力は、すでに削がれていた。
無理をすれば、またどこかで同じ目に遭うだけだと、本能が告げていた。
少年は薄暗い路地を見上げ、ため息をひとつつくと、向きを変え、彼の唯一安堵できる場所である寝床へと目指し歩き出す。
暫くの間、よろよろとした足取りで進み続け、少年は路地を抜けた。
赤塵区の歪んだ建物の影、瓦礫と泥の間を抜けるその姿は、まるで風に押されるように頼りなかった。
彼の“寝床”は、崩れかけた古い建物の二階だった。階段の一部は抜けかけ、壁の半分以上は砕けて風通しが良すぎるほど。
それでも、赤塵区の中ではまだ“屋根がある”だけ、恵まれている部類に入る。
少年は軋む木板を踏んで床を渡り、部屋の隅に積み上げられたボロ布へと身を投げ出した。
市場の廃棄場や道端で拾ってきた、油の染みた布やかすかにまだ匂いの残るシーツ。
それらを何枚も重ね、なんとか身体の下に敷き、風を避けるようにして積んだ“寝床”。
背中に布のざらつきと埃が染み込む。
少年は片手で、懐のペンダントをそっと押さえる。
奪われなかった唯一の“成果”。
それが今日、自分の尊厳をかろうじて繋ぎとめていた。
「……ちくしょう」
呟く声は小さく、寝床の布に吸い込まれていった。
昼間の熱気がまだ部屋にこもっている。
太陽は高く、騒がしい祭りの声が遠くからわずかに届いていた。
少年は、薄くて頼りない一枚の布を身体にかぶせると、目を閉じた。
(……少し寝る。体力が戻ったら……質屋に、行こう)
目の奥に痛みが残る。
腹も、まだじんじんと鈍く痛んだ。
けれど、今は眠るしかない。
動けるようになるまで、回復するまで。
そうして、赤塵に沈む午後の光の中、少年はゆっくりと意識を落としていった。
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少年が赤塵区の寝床へと辿り着いた、そのわずか少し前。ひとりの男が、風に吹かれるように静かに歩いていた。
ザイール系――獣の耳と尾、鋭い目を持つ亜人種。
その男は、周囲の雑音とはまるで無関係に、ただ黙々と、ひとつの気配を追っていた。
地面には足跡も端から見れば残っていない。
それでも男は、確かに“道”を読んでいた。
地面に残された微かな重みの差、擦れた布の糸くず、壁に寄りかかるようについた掌の跡、瓦礫の位置の微妙な変化――
それら全てが、少年が通った“痕跡”となり、男はそれらを見落とす事は無い。
焦りはない。
(団長は、取り返せとは言わなかった)
男は歩きながら、静かに思考する。
(“追え”とだけ。それはつまり、財布には興味が無いということだ。…ならば俺の仕事は、やつが“どこへ帰るか”を知ること)
風が動く。
その流れを感じながら、男は通りの奥に視線を移す。
やがて、崩れかけた塀の陰――そこで足跡が止まっていた。
(ここで、一度止まったな)
少年の痕跡である僅かな地面の跡の間隔が詰まり、重心が下がっている。
呼吸を整え、気配を抑えた“息の抜き所”。
そして、今までの感覚よりも狭い感覚で痕跡が続いている。どうやらここから歩き出したようだ。
追いながら、男は別の気配に気づく。
すぐ先、別の路地の分岐で、複数の足跡が交差していた。
踏みしめられた土の圧力が不自然に重く、乱れている。
片方が小さく、軽い。もう片方は二人分、やや広めで重く、靴底の形状が不揃いだ。
(ここで……捕まった)
少年の足跡が急に崩れ、左右にばらけている。
そのすぐ傍に、小さな血の染みと潰れた布くずが落ちていた。
(囲まれて、殴られた……)
そこから数歩先、足跡が再び続く。
しかし、今度は不規則に揺れており、明らかに脚か何かを庇うような跛行が見られる。
男は無言で立ち止まり、一度だけ目を閉じる。
(……痛めたまま、歩き続けてる)
尾が静かに揺れた。
この先にあるのは、赤塵区の中でも“壁付きの影”と呼ばれる崩れた居住跡。
隠れ住むにはちょうどいい、影と風の通り場。
男は進む。
獣のような気配を帯びて、だが足音もなく。
“どこへ帰るか”――その答えが、すぐそこにある。
足取りは、次第に目的地へと確信を深めていた。
追っていた気配は、ある地点で不意に途絶えていた。
その先にあったのは、崩れかけた古い二階建ての建物。
壁は剥がれ、窓は落ち、瓦礫が積もっている。
それでも、わずかに残った階段の形と、踏まれた跡が、この廃墟に“人が通っている”ことを示していた。
ザイール系の男は、目を細める。
風の音に紛れ、物音ひとつ立てずに建物へと近づいた。
獣のような身のこなしで足を滑り込ませ、崩れかけた床板を踏むこともなく、ひと息に二階へと上がる。
布の重なり、乾いた食屑、窓辺に置かれた空の水瓶。
そして――その奥、布の下に潜り、丸まるようにして横たわる小さな影。
(……ここだ)
少年は気づいていない。
深い眠りに落ちているか、痛みに意識を持っていかれているのだろう。
男は部屋の中を静かに見回した。
拾い集めた布、片隅に縛られた干し草の束、地面に刻まれた火の跡。
隅の板の裏には、小さな隠し溝――かつて誰かが隠し物をしていたような跡も見て取れる。
寝床は粗末だが、工夫の跡がある。
ここに、しばらく住んでいるということ。
男はそれだけを確認すると、音もなく身を翻した。
再び階段を降り、外へ出る。
振り返りもしない。ただ、獣のように風と共に、影へと消えていった。
(……一度団長に報告するか)
声は出さず、思考だけが宙に残る。
獲物の居場所は確保した。
次に動くのは、命を与えた者――団長の番だ。