名も無き砂粒
空は焼け、空気は渇ききっていた。
風は骨を鳴らしながら吹き抜け、その背に、死と砂と古い祈りの名残を運んでゆく。
ここは《ゼルハ=ラ=ムーン大砂海》。
遥か昔、神々がこの地を見限り、空へ去ったとされる荒廃の大地。
焼けた赤土と干からびた砂丘が幾重にも連なるこの地には、それでもなお人が住み、祈り、旅し、生き続けている。
砂嵐が道を消し、日射が命を奪うこの地において、わずかに残された“点”――それが都市だ。
そのひとつにして、最も活気と混沌に満ちた交易都市がある。
大砂海の中央付近、かつての神殿航路と地下水脈が交差する地点に築かれた都市――その名は《サンドレア》。
風を読み、風を売り、風を運ぶ者たちが交錯する街。
神々が去った後も、商人と盗賊と放浪者がこの地に集う理由はただひとつ。
“風”こそが、この世界をつなぐ道だからだ。
サンドレアには三つの明確な区画が存在する。
まず《真白区》。
都市を支配する上層貴族や高位神官、精霊使いの家系が住まう白壁の高地街。
白く塗られた石造の屋敷、護符で満ちた門、兵によって守られた居住地は、精霊すら入り込みを拒むかのように沈黙している。
そして対極にあるのが《赤塵区》。
崩れかけた石と布で築かれた、無法のスラム。
孤児、浮浪者、失業兵、魔術に手を焼かれた者、身元を持たぬ者たちが身を寄せ合って生きる、乾ききった“穴”のような区画。
そこには法律も祈りもなく、あるのは腹の虫の音と、握りこぶしの重みだけ。
最後に、都市の心臓部、《風廻市場》がある。
風を辿ってこの街に辿り着いた東西南北の商人たちが、布、香、薬、獣、精霊符、遺物までも並べて声を張る。
市民階級の住まいと露店が軒を連ね、各地の言語が飛び交い、取引と噂と詩が入り混じるこの場こそ、サンドレアという都市の“生”そのものである。
そんなサンドレアだが、今日はいつも以上に活気と熱に満ち溢れていた。
理由は至極簡単――祭りの日だからだ。
この大砂海において、風は神の意志であり、精霊のささやきであり、運命を運ぶものとされる。
水はその運命を育て、命を潤し、風を鎮める“贈り物”と信じられている。
そのふたつに感謝を捧げる年に一度の大祭――それが《ナム=サールの贈り日》である。
神々が去った後も、この祭りだけは絶えることなく続けられてきた。
貴族たちは神殿での祈祷と儀式に身を正し、商人たちは香と供物を競い、市民たちは水場で歌い踊り、空へ放つ祈りの旗に願いを託す。
そしてそれは、赤塵区の人々――スラムの住人とて変わらぬことだった。
華やかな衣装や香水、祈祷の声こそないが、この日だけはパンが少し増え、余った干し肉が投げ込まれ、水瓶の中身がほんの少し、きれいな水になる。
何より、祭りの日は監視の目が緩む。
衛兵の数が減り、富める者たちが浮かれた足取りで市場を歩く。
それは、スラムに生きる者にとっての「狩り日」でもあった。
そしてその日、一人の少年が、例年通り仕事の準備をしていた――
顔に布を巻き、痩せた体を布の下に隠し、雑踏のなかへ、音もなく、忍ぶように溶け込んでいく。
少年には、名前がなかった。
生まれた時から、誰の子かもわからなかった。記録も、印も、名付ける者すらおらず、ただ赤塵区の裏路地で、布くずのように泣いていたのを誰かが見た――という話が唯一の“出生伝承”だった。
誰が拾ったかも分からず、育てた者も長くは生きなかった。それでも、少年は死ななかった。死ねなかった。
名前がなければ呼ばれない。呼ばれなければ忘れられる。
忘れられても、生き延びる術を覚えれば、生きてはいける。
生きるためには、奪うしかなかった。
食べ物がなければ盗み、喉が渇けば他人の壺からすくい、風避けの布がなければ、物干しから盗んで逃げた。
優しさも、道理も、誠実さも、
赤塵区では“飢えよりも先に死ぬ。
だから、少年は盗んだ。
騙した。押し退けた。
それが悪いことだとは、知っている。けれど、それより先に“生きねばならない”ことを知っていた。
そのために、小さな手を動かし、足を鍛え、目を鍛え、耳を鍛えた。
人の重心、財布の位置、警備の交代時間、商人の癖、衛兵の視線――
そんなことを考える前に、体が勝手に動くようになっていた。
少年にとって、サンドレアはただの狩場だった。
名も無き獣が、今日も風の流れを読む。
生きるために。
通りの端、崩れた石段の影に身を伏せながら、少年は市場の中心を見渡していた。
風が香と煙を巻き上げ、人々の声が折り重なって耳を打つ。
屋台の布がはためき、踊り子たちの鈴の音が乾いた空気に混ざって流れていた。
その賑わいの中で、少年の眼は冷たかった。
(あの太った男は…動きが鈍いが、衣の縫い目が擦れてる。あれは金が無いやつの癖だ)
(あっちの商人は護衛が二人ついてる…剣も札も本物だ。下手に近づけば指が飛ぶ)
(女の手元…財布を握ってる。手の甲に日焼けが無い。金持ちだが警戒心がある…無理だな)
今日の風は、微妙だった。
人が多すぎて隙が読めない。
だが、祭りの日は、誰もが浮かれる。浮かれるということは、隙を作るということだ。
(……ん?)
目の端に、何かが引っかかった。
(あいつ…)
屋台の焼き串を片手に、足を止めて笑っていたのは、背の低い女だった。
赤い腰布に、軽そうな外套。腰には何やら金属の管――だが、剣でも槍でもない。
護衛はいない。連れもいない様に見える。財布は腰にぶら下げたまま、完全に無防備。
目は笑っていて、耳に挿した羽飾りが、風に揺れていた。
(浮かれてやがる…しかも警戒もしてねぇ。完全に祭り気分ってやつだ)
(ああいう奴は、格好の餌だ。財布の紐が緩んでることにも気づいてねえ)
(……あいつにするか)
少年はすっと、石段の影から立ち上がった。
肩をすくめて体を縮め、顔の布をもう一度きつく結び直す。
そして群衆の波へと、音もなく足を踏み出した。
人波の中をすり抜けるように進む少年の視線は、目的の一点に注がれていた。
すれ違いざま、ほんのわずかに肩をぶつける。
「わっ、ごめ…」
女が驚いて振り返るよりも早く、少年の手は腰元の革紐に触れ、ぶら下がった財布を抜き取っていた。
指先に伝わる皮の感触と、銀貨がぶつかり合う微かな重み――確かに、成功した。
(もらった…)
満足げに群衆の中へ姿を紛れさせようとした、その時だった。
「……止まれ」
大声ではない。けれど、鋭く通る低い声が少年の背に突き刺さった。
「え――」
その声に反応する間もなく、何かが背後からのしかかってきた。
強い腕が腰を掴み、肩を押さえつける。
「うぐっ……!」
少年は背中を押されるようにして地面に倒され、瞬く間に身体を押さえつけられた。
片腕を背中にねじ上げられ、熱を持った赤土の地面に頬が擦れる。
「離せって……! な、なんだよ!」
声を荒げて暴れようとするが、押さえつけている男は微動だにしなかった。
その体格は少年の倍以上。鍛え抜かれた肉体に革鎧をまとい、片目を前髪の奥に隠しながらも、もう片方の目で鋭く状況を見据えている。
押さえ方に迷いも躊躇もない――完全に“慣れている”動きだった。
「ちょっと!? どうしたの、いきなり――」
背後から声がかかる。焼き串を手にした小柄な女が、驚いた様子で駆け寄ってくる。
男は彼女の顔も見ず、少年の手から財布を取り返しつつ淡々とした口調で言った。
「……祭りで浮かれて財布を腰にぶら下げたままだ。お前、さっきスられたぞ」
「え? えっ!? えぇぇぇっ!? ま、マジで!? ない、財布がない!?」
腰を探った女が、目を丸くする。
その様子を横目に、少年はなおも身をよじらせる。
「放せよ……痛ってぇだろ、やめろって!」
だが、男はまるで風にでも触れたような反応しか見せない。
「動くな」
その一言に、少年の動きが一瞬止まる。
喉の奥で唾を飲み込み、次の一手を探るように、じっと地面を見つめるしかなかった。
「……さて」
少年を押さえつけたまま、大柄な男は静かに息を吐き、ちらりと通りの端に目をやった。
衛兵の姿を探しているようだった。
「このまま衛兵に突き出すか。手間ではあるが、放っておくわけにもいかんな」
少年は地面に押さえつけられたまま、その言葉を聞いた。
(衛兵か……)
だが、その瞳に焦りの色はなかった。
むしろ、どこか白けたような、冷めた諦観が浮かんでいた。
(どうせ重罪ってわけじゃねぇし。スられたのも元は“落ち度”扱いだ。サンドレアじゃよくある話だろ)
(鞭打ちか、下手すりゃ労働刑か……そんなの、スラムじゃ朝飯前だ)
むしろ、牢の中で食い扶持が出る分、マシとも言える。
少年――名もないスラムの子にとって、法律は守るためのものではなく、“どう折れるか”を読むためのルールだった。
(捕まったのは面倒だけど何日か飯が出るなら、別にいい)
そんなふうに考えていたその時――
「もういい、立たせてやれ」
不意に割って入る声がした。
大声ではない。だが、よく通る低音で、押しつけがましさのない指示だった。
男が顔を上げる。通りの向こうから、風に外套をなびかせた男が歩いてくる。
長身で、日焼けした肌と精悍な輪郭。
腰には一本の長い刀を帯び、無駄のない動きで歩いてくるその姿には、誰にも真似できない風格があった。
「こいつは俺が見る。……手を緩めろ」
押さえつけていた男は一瞬だけ沈黙したのち、少年から手を放す。
腕を解放された少年は、砂まみれの地面に手をつき、ゆっくりと体を起こした。
だが、立ち上がろうとはしなかった。
目の前に立つ男の、妙に静かな存在感が、足を動かす気力を奪っていた。
その男は、少年と同じ高さまでしゃがむと、余計な言葉を挟まず問いかけた。
「名前は?」
少年は数秒の沈黙のあと、鼻を鳴らすように息を吐き、ぼそりと答えた。
「……そんなもん、ねぇよ」
男の表情は変わらなかった。
わずかに目を細めると、こんなことを言った。
「スリの腕は悪くない。音も、気配も、歩幅さえ計算してた。……どこで学んだ?」
少年は顔を背けた。だが、それが見透かされていることに気づくと、低く言い返す。
「……誰にも教わってねぇ。勝手に、覚えた」
男の口元が、かすかに緩んだ気がした。
「……そうか。独学で、そこまでの技術をものにしたのか」
男の声は、先ほどよりわずかに低くなっていた。
感情を表に出さないその表情の奥に、何かを評価する静かな光が宿っている。
「見事なものだ。誰かの指導を受けていたなら、間違いなく仕上がっていた。いや……むしろ、その勘と動きは、教えられずに身につけたからこその野生か」
男は一拍、言葉を切った。
そのまま、少しだけ顔を上げ、遠くを見た。
「……だが、それだけの腕を持っていて、ただのスラムの孤児というのは――」
その瞬間だった。
(今だ――!)
少年の目が、ほんのわずかに揺れた。
男の意識がわずかに遠のいた、ほんの一瞬の隙を見逃さなかった。
布の下、腰に巻きつけていた帯の内側から、小さな陶器玉を抜き取る。
乾いた感触を確認し、即座に握り締めた手を地面へ叩きつけた。
パシュッ――!
鈍い音とともに、白い煙が勢いよく噴き出した。
煙は乾いた地面と熱気に乗って瞬時に広がり、あたりの視界を覆い尽くす。
「っ……!?」
「な、なにっ!? なにこの煙!? 見えないんだけど!?」
驚いたような女の声が煙の中から聞こえる。
焼き串を手にしたまま後ずさり、思わず顔を覆っていた。
「煙幕……だと!?」
先程まで押さえつけていた男も目を細め、動こうとするが、視界の確保に一瞬遅れる。
視界を奪われた隙に、少年の体は地を這うように動いた。
(あいつの……腰!)
先ほど自分を押さえつけていた男の腰。
そこに吊るされていた革袋に手を伸ばし、音もなく引き抜く。
中には銀の音――満足いく重さ。
(よし……!)
次の瞬間、少年の姿は煙の中から飛び出し、群衆の中へとすべり込んだ。
まるで風に溶けるように。
音も気配も、すべてを置いて――。