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期待

必死に生きないと死ぬと思った。

死んでしまう、と。


柚木は荷物を纏めていた。

ワンルームなので、荷物はそう多く無い。

ベッドや本棚は捨てた。冷蔵庫、洗濯機、炊飯器も。

あるのは、傍らに置いたボストンバッグの中身だけ。二、三日分の着替えと通帳、現金。

洗面用具はどこかのコンビ二で買う予定にしていた。


(息苦しい。吐きそうだ。死ぬ。死にたい。死ねばいいのに)

その思いを突き詰めたら、この行動に出ていた。


鍵の引き渡しを終えて、今日の寝床はどこにしようか、と数年暮らした部屋を後にした。


平日の昼間なので誰とも合わないだろうという柚木の目論見はあっさり崩れた。

最寄り駅で電車を待っていると、柚木は急に声を掛けられた。

「あれ、柚木さん?」

声の主は柚木と同じ会社の男性社員だった。

「わ、鈴木さん……。外回りってこの辺まで来るんでしたっけ」

柚木はとっさの対応に"外向き"の言葉を作り損ねた。本来なら「外回りですか? お疲れ様です」なのだ。

「たまにね」

「そうなんですか……。あの.……」

「いやー、辞められて良かったね! 元気そうでよかったよ!」

「えっ、はい。えっと、鈴木さんの方はどうですか?」

「どうって、いつも通りだよー。もー、忙しくて、俺も止めたい! なんちゃって」

「あはは、鈴木さんが辞めたら」

柚木が言いかけたところで、電車がドッと滑り込んできた。

「あ、俺、各停なんだよね。柚木さんは?」

「私は、これです」

「そっか、じゃーまたね」

鈴木はヒラヒラと軽く手を振り、爽やかな笑顔で柚木を見送った。彼は会話が好きで、誰にでも明るく接する人物だった。柚木も会釈を返す。


(「またね」か。もう二度とそれは無いのに)


柚木の行く当てはない。「取り敢えず気が済むまで、貯金が尽きるまで遠くに行きたい」それだけでの行動だった。行き当たりばったりで放浪の旅だ。その結果、死のうと生きようとどうでもよかった。

柚木は取り敢えず、都心に向かった。電車を乗り継いで一時間程で着いた。

都心に向かう事に特に意味はない。ただ、ここからならどこへでも行けると思ったからだ。

(ここは平日でも賑やかで人が多くて良い、自分が目立たない)

人ごみの中を、サクサク歩きながら柚木はそう思った。

大き目のボストンバッグも全く目立たない。この辺りには、当たり前にそんな人は沢山いた。

歩きながらスマホで今日の宿を探すと、ちょうどいいビジネスホテルを見つけた。

ここで少し頭を冷やすことにした。

しかし、柚木は薄々、自分がどこに行きたいか気付いていた。それは平日ではダメだった。


「お帰りなさい」

「ただいま」

数日後の土曜日、柚木は実家に帰っていた。

「急にごめんね、お母さん」

「いいって、いいって。出張お疲れ様〜。メール貰ってから色々用意したけど、あんた、このどら焼き好きだったよね。お茶にしよっか」

もちろん、出張は嘘だった。

柚木は派遣の事務員。出張の書類手続きはよくしていたが、出張なんてしたことはなかった。

柚木の母はそこを特に気に留めなかった。というか、専業主婦が長く、あまり仕事について詳しくなかった。柚木が「お茶汲み係」ではなく、役職もあるキチンとした仕事をしている、ぐらいのぼんやりした認識だった。


「あんた、こっちには何日いるの?」

「うーん、明日には帰るかな。普通に月曜は仕事あるし」

「やだねぇ、もっとゆっくりしてけばいいのに。ホント、早くいい人見つけなね」

「お母さんこそ、やだねぇ。私がそういうの向いてないって知ってるくせに」

「そりゃね、あんたのことはよーっく知ってるよ。高校でも短大でも、浮いた話一つもない大人しい子だったからねぇ。でも、いい歳になったんだから、自然にそういう風になるもんだろ」

「頑張ってはいるんだけどねー」

柚木は大げさに後頭部に右手を当てて困った顔をしてへらっと笑った。


(自然にって何? そういう風ってどんな風に?)


「あ、そうそう! 高校のとき仲良かったアオイちゃん。今里帰りしてるんだよ! タイミング良かったね!」

「え、アオイちゃんが?」

「そうなの〜〜。前に、アオイちゃん結婚して東京に引っ越したよーって言ったじゃない? で、今度は赤ちゃん産まれるんだって〜」

柚木の母はキャッキャっとはしゃいだ。

「へえー! 迷惑じゃなければ会いに行ってみようかな」

柚木はここで初めて、どら焼きに手を付けた。


連絡すると、約束はあっさり決まった。流石に今日は無理だったので、明日のお昼だ。出発前に寄っていく……という形になった。

昔から、柚木は引っ込み思案で気が弱い、典型的な大人しい子だった。

友達も多い方ではない。

女子は小学生中学年頃から「グループ分け」が始まる。

クラスの中心になるようないつも元気で明るく可愛い女の子のグループ。

化粧を始めたりオシャレに気合を入れる、マセてる女の子のグループ。このグループは、年齢が上がるにつれギャルやヤンキーになっていくこともある。

そして、そのどちらでも無い人達のグループ。

小中高と柚木はいつでも三つ目にいた。

中学の友達とは、高校進学と同時に疎遠になってしまい自然消滅したが、高校で出来た友達アオイとは主に年賀状で繋がっていた。

唯一、柚木が親友だと思える人物だった。

高校二年のときは進路のことでお互いに相談し合ったりした。二人共、性格が似ていたので共感し合えることが多かった。


久々の実家の天井を見ながら、昔のことを思い出していた。

仲が良かったと言っても、もう十年程経っている。自分と同じ帰宅部で、髪を染めておらず、スカートも折っていないアオイはまだいるだろうか、そんな訳はないと柚木は分かっていたが、それでも。


(早く、早く、この思いを打ち消そう。そうだ消えてくれ、早く)

心が落ち着かないまま、昔使っていた布団の奥に潜った。

(ああ、この感覚は昔とおんなじだ)


翌日、アオイの実家を訪ねた。

リフォームされたらしいコンパクトな一戸建ては、柚木の知っているものとは大分変わっていた。

チャイムを押すと、柚木の記憶よりずっとおばあさんになっていたアオイの母親がニコニコと出てきた。

「まあ、まあ、いらっしゃい。久しぶりねえ、ゆっくりしてって」


リビングに案内されると、アオイがゆったりソファーに座っていた。

焦げ茶の髪を右下で一本に纏めて、ふんわりした薄ピンク色のマタニティドレスを着ている。

お腹が大きいので、座ったまま柚木に呼びかけた。

「久しぶり〜! てか、何年ぶり!? わー、ユズは変わってないな〜! でもやっぱり大人っぽくなったね! あ、それは当たり前か!」

アオイのすっかり変わった姿を見ていて、柚木はほんの少し反応が遅れた。

「わっ、アオイちゃんは……なんていうか、可愛くなったね」

「やだ〜! 可愛いなんて! もうアラサー、オバサンよ!」

柚木の高校時代の記憶と全く同じリビングのソファに座ると、アオイの母が紅茶とパウンドケーキを運んで来た。

「ゆっくりしてってね、積もる話もあるだろうし」

「お母さん、ユズは明日お仕事だからそんなゆっくりしてられないのよ。この後、新幹線で帰らなくちゃけないんだから」

「あら、そうなの? ユズちゃんも立派になったのね〜」

アオイの母は心から感心した声で言った。

「そんなことないですよ……」

「じゃあ、あとは二人でごゆっくり〜」

アオイの母は、ひらひらと手を振って別室に行った。


「メールとか年賀状とかでは話してたけど、直接は高校卒業以来か〜」

アオイが、ぐっと両手を上に伸ばしながら言った。

「そうだね。アオイちゃんは県外の短大に行っちゃってさ」

「そうそう! 懐かし〜! あの頃は二人で進路のこと悩んでてさ!」

「『大学に行きたいけど、どうしよう』ってね。学費のこととか、学力のこととか」

「『ユズは勉強できたから普通に四大目指せばいいのに』って言ったのになあ」

「あはは、でも短大も悪くなかったよ。就職も早く出来たし、実家から通えたし。四大となると一人暮らししなきゃだったから」

「まあね、学費に生活費四年分って結構かかるもんね。私は県外に出ちゃったけど」

「アオイちゃんは、そもそも外に出たかったんだもんね」

「やー、だってさー、なんか狭苦しくて。それに、一人暮らしってやっぱりしたいじゃん?.……ってあの時は思ってたんだよねー」

アオイは照れくさそうに、にへっと笑った。

「"あの時は"?」

「そう。離れてみると分かる実家のありがたみっていうのかな? 故郷の良さって言うのかな? ほんの二年間離れてただけなのに、ね」

アオイは隣県都市部の短大に進学し、卒業後地元に戻ってきたのだ。

「あんなに、『東京へ行きたい!』『遠くへ行きたい!』『こんなとこ、出たい!』って言ってのにね」

柚木はふふふっと口元を手で隠して笑った。


地元に帰ってきて小さな会社に就職したこと。そこに出入りしていた取引先の人と結婚したということ。毎年毎年、送られてくる年賀状で一年の変化を知っていた。

あるとき、年賀状が結婚式の写真になり、宛名に(旧姓)の注意書きが追加され、住所が東京になった。


「でも今は東京住みなんだね」

「そうそう、旦那の都合でね〜。ユズちゃんとは近.……くはないか」

「隣だけど、あそこは田舎だよ〜」

「ひっどっ。でもまさか、ユズが関東に就職するとはね。ちょうど入れ違いになったのも、なかなか会えなかった原因だよね」

「確かに」

「年末年始とかお盆も忙しいなんて、仕事大変なの?」

「うーん……まあ、まあ?」

「なんの仕事か分からないけど、仕事じゃない理由もあるんじゃないの〜?」

「やだ〜、なんもないって! それに、帰ってきたときもあったよ?」

「あ、そうなんだ。そしたら、その時は旦那の実家の方行ってたのかも」

「もー! うちら昔っからタイミング悪い! 短大のときもさ〜」

昔みたいなノリで話した。いい歳したアラサーと奥さんが、女子高生に戻ったみたいに。

アオイは出産、子育てへの不安も語った。不安……ではあるが、楽しみでもあると。きっとアオイの頭の中では、不動産のCMでよく見るような明るく和やかな家庭が広がっているのだろう。いや、夢なんて可能性の低いものではなくそれは実現可能なすぐ数年後の未来だと信じているような目線だ。

「ユズも何かいい話あったら、教えてね!」

「あったらね〜」


(昔とおんなじように、進路とか未来とか、お金とか能力で悩んでる。変わらない)


「あ、ごめん。そろそろ時間だから」

「そっか。じゃあ、残念だけど、またね」

アオイはお腹に手を添えながら「よいしょっと」とゆったりした動作で立ち上がった。

「あ、あ〜……よかったのに」

「いいの、いいの。少しは運動した方が、元気な赤ちゃんが生まれるんだって」


(ああ、そんな訳ない。やっぱり。いや昔から)


来た時と同じ、ボストンバッグ一つを軽く肩に抱えてアオイの家を出る。帰りに実家に寄って「またね」と母に告げると「次は」の言葉を聞く前に「はいはい」と元気に返事をした。

アオイだけじゃなく、同年代の変化のスピードに、ずっと、ずっと、ついていけていない。同い年の子が、ぐんぐん成長していく様子を、ずっと横目で見ていた。その差は歳を重ねるごとに。誰も彼もが遠い。


田舎景色の中、駅に急ぐ柚木の胸には何度か経験した後悔が残った。いや「何度も」か。

(なんで、なんで、わかってたのにいつも来ちゃうんだろうなあ。ここには誰もいないのに。ここにも)


いつからだろう。こんな風に息苦しくなったのは。全力疾走してるみたいに、息切れをしているような感覚が、二十四時間張り付いてくる。そう、今だって。

気がつけば柚木は、小走りになっていた。

(追いつかなければ、追いつかなければ。置いていかれないように、これ以上。)


いつでも、必死にしがみついていた気がする。

(何に?)


走ったはいいが、この田舎の駅だ。しばらく電車は来ない。そして行くアテもない。

とりあえず、この路線の終点まで行くかな……。そう電車を待っていたときだった。

スマホがブブブブと震えた。前の会社の同僚からのLINEだった。仕事の引き継ぎのことだ。


「あと、営業の鈴木くんから聞いたんだけど」

「なんか、いつもと様子違ったから心配だったって」


(そんなこと、気づく人いるんだ)


「って言っても、うちら派遣だし、そりゃ仕事辞めたら不安になるのが当たり前だっつーの!笑」

「ほんとだよね!笑 まあ、なんとか次の仕事探すわ〜。あ、ごめんちょっと移動するからまた!」


ため息を吐いてスマホを鞄にしまう。こういう時、柚木はスマホの電源を切れなかった。本来なら誰とも何も話したくなかっのだが、昔からの「いい子」の癖が抜けなかった。


(あーあ、全部捨てたいと思ったのにな)


追いかけないと脱落してしまう。

そういう人達を何人も見てきた。

一言も話したことがなくも、一方的に同志だと思っていたクラスメイトが、同僚が、次々に消えていく。

ある日不登校で、ある日仕事を辞めて。

明日は我が身と思うと恐怖で目をぎゅっと閉じた。


(遂に私の番か)


(「自然にそういう風になるもんだろ」か。私が分かると思って詳しく言わない。分かるけど、言ってよ。ちゃんと言ってよ。自然にって、どういうこと?)


ついて行けていないけど、ついて行けているフリをするのに必死で。

今は、素手で崖にしがみついている。そろそろ、爪が剥がれそうだ。

でも、いつでも何かに追われている気がしていたのは、それだけじゃない。

それ以外にも何か、他の何か、気を緩めたら死んでしまうような得体の知れない塊が、いつでも隣にいた。


柚木は宣言通りローカル線の終点まできていた。何もないと思いきや、JRとの接続があるためか小さいビジネスホテルが駅前にあり助かった。明日はJRに乗ってどこか行くか、とひとまず駅前をぐるりと見渡す。

誰もいない。

この地域の経済は大丈夫なのかと他人ながら心配してしまう。少なくとも、さっきまでいた自分の故郷よりも栄えているのに。

いずれ消えていく街なのだろうか、なんて思いがぼんやりとよぎる。悲しい、わびしい。少しだけ、ほんの少しだけ、あの隣の町から成長しただけなのに。それなのに。

「これから死んでいくだけなのかなあ」

なんて気持ち悪い台詞を吐いてしまうのは、それだけ気にしていなかったからだ。

誰の目も、自分の目も。

ここには自分を知る人は誰いない。そして「これから」を考える必要もない。柚木は清々しい気分で背を伸ばしホテルに向かった。


 一泊だけして、明日にはJRに乗ってどこかに行く。

 どこに行くかも明日の時刻表も調べていない。もう何も考えたくなかった。

 ビジネスホテルのシングルベッドに仰向けになった柚木はスマホを握ったまま天井をただ見ていた。


(そりゃ、これで調べればいいんだけどね)


 そのまま固まっているとスマホが数時間前みたいに震える。

「今日はありがとう! 久々に会えて楽しかったよ!」

アオイからのLINEだった。青い空と海のアイコンが別世界みたいに綺麗だと、今日も思った。

「こちらこそあり」と打っていると、「お仕事頑張ってね! ユズちゃんならできるよ!!」とメッセージがポコっと届く。

「こちらこそだよ! いいお母さんになってね!!!!」


メッセージを送り、瞼を閉じて腕で眼球を押しつぶす。スマホは握りすぎて痛い。ベッド横の小さい窓から捨てたくなって、無駄に落ち着きを取り戻して。


「あー」


(なんで、なんで捨てられないんだろうなあ。ほら、だからさ、捨てるならお前自身だって、あ、これか)


「あー」


柚木はもう一度同じ言葉で吐き捨てた。高校時代も駅での鈴木との会話も母の顔も走馬灯のように締め付けてくる。自分の子供っぽさに笑った。

驚くほど未練がない。母にも、元同僚にも、元親友にも。年相応の関係構築ができずにここまで。


(小学一年生から知ってた。ついていけない子はこっそり消えていくって)


その癖、一方的に一発逆転「褒められる」のを待っている。あの時の気持ちと変わらないままだった。

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