目覚めた力
町で一番大きな灯台の中に造られた、教会の信者用の長椅子の上でいびきをかいて寝ていたオリビアがふいに目を覚ました。通路を挟んだ長椅子に腰かけて毛糸でマフラーを編んでいたディーノはそれを膝の上に起き、体を起こしたオリビアと同じ方向に視線を向けた。
「オリビア様」
「ああ。闇の言望葉使いの気配だ。図書館にいるらしい。行くぞ」
「はい」
二人は表に出ると横殴りの吹雪に眉をしかめる。
「うざったい雪だ。ディーノ!」
「分かってますよ!準備できてます!」
大型のバイクが重低音を響かせる。それには深い雪の中も進める特殊な大きなタイヤが取り付けられていた。オリビアはひらりとディーノの後ろに跨がると、差し出されたものに方眉を上げた。
「オリビア様またマフラー失くしたでしょう。途中なので少し短いですけど、使ってください。あとヘルメット、きちんと被ってくださいね」
「あ?いいよ別に」
「さあ、行きますよ!」
ドルンッと激しい音をたててバイクが突進する。びしびしと顔にぶつかる雪は鋭くオリビアの頬や額を打つ。
「いだだだだ!.....ちっ」
オリビアは大人しくヘルメットを被り、マフラーを首に巻いた。
「アミナ!自分を信じられへんなら、あんたを信じてる俺を信じろ!!」
竜の姿になって飛んでいくシオンの後ろ姿に
アミナの心は今まで感じたことのない感情が溢れていた。
「シオン.....」
胸の前で手を重ね、月を仰ぐ。月はいつも夜中、一人で喚声式を行うアミナの唯一の傍観者だった。今夜の月はなんて美しいのだろう。
はじめて名前を呼んでくれた。
友達だといってくれた。
何かが胸をトントン、と叩いて呼んでいる。
力が欲しい。
守る為の力が。
私は、シオンのために言望葉を使いたい……。
姉様に振り向いてもらう為じゃなくて。
認めてもらう為でもなくて。
私が。私がシオンを守るんだ……!
震える胸がアミナを奮い立たせる。
瞳を閉じてシオンの言葉を何度も頭の中で反芻した。
彼の言葉が心の中で繰り返される度に、心はぐんぐんと伸びやかに。今なら空も飛べそうだった。
アミナの口角が緩く上がる。
力が湧く。あなたを信じることは、とても簡単だ。
たった一人、笑って手を握ってくれる人がいてくれたなら、私はどこまでも頑張れる。
いつもの不安は微塵も感じない。
ただ、力が欲しい。
あなたのもとへ行きたいから。
隣に行かなければ。
隣じゃないと守れないから。
連れていく。
情けない過去も、嫌いな自分も。
これからの自分と一緒に。
『幾千の葉、幾千の言、月夜に祈らん』
澄んだ声が海を震わせ、水面に浮かんでいた葉がゆるりと踊った。
白い光が海を覆い尽くす。
アミナはその光景に目を見開いた。しかし、すぐにシオンを脅かす人物に視線を向ける。
彼女もこちらを見ているようだった。驚愕に染まった表情はしかし一瞬でもとの微笑を湛えた美しき女の顔になった。
シオンが口から炎を吐き、ボリスラフの意識を逸らせる。ボリスラフの素早い反撃を腹にくらいながらも、シオンは一歩も引かない。
「早く行かなきゃ....!シオンの所に!」
その時、アミナの胸から眩い光が生まれ、それは黄金の弓へと形を成した。
アミナはそれを両手で掴み、嬉しさではにかんだ。
「これが私の言身...?弓矢だ……!母様と同じ…」
アミナは生きていた頃の母の姿を想い、微笑んだ。まさかこんな時に母娘の繋がりを感じられるとは。
「アミナ!」
シオンが上からこちらに向かって飛んでくる。風圧で海面は飛沫をあげた。
「乗れ!!」
アミナは猛烈な早さで横切るシオンの尻尾に必死に捕まり、ようやく海中から脱することができた。シオンは尻尾を器用に動かし、アミナを自身の背中へと移動させる。炎の加護を受けている竜の背中は暖かく、アミナは冷えきった体をようやく温めることができた。
「それがあんたの言身か。まっすぐなあんたにぴったしやな」
「えへへ」
シオンの言葉にアミナは頬を掻き、嬉しそうに笑った。
「聖の言望葉使いか。生まれたてほやほやの小鹿ちゃんなんて相手にならないわ.....と、言いたいところだけど」
あの眩い光の量は....。
続く言葉を口の中で転がしたボリスラフは色気のある目を細めた。そして竜の背中に乗って弓を構えるアミナを見つめた。人を傷つけたことなどないのだろう娘は、眉を下げ、唇をくいしばり、弓を持つ手は震えているようだった。抜けるような白い肌、小さな鼻、愛らしい唇に丸い目。そして、夜になびく水色の髪。
「似ている.....」
ボリスラフは呟くと、一筋の涙を落とした。それを見たアミナは驚き、腕の動きを止めた。距離はみるみる近づき、刹那、二人は見つめ合う。ボリスラフの唇が動き、アミナは驚愕の表情を浮かべた。
「アミナ!今や!!」
シオンの声ではっと気付いたアミナは慌てて弓を構え直した。しかし、そこには黒い花びらが舞い落ちるのみ。ボリスラフはいつの間にか姿を消していたのだった。
「くそ!逃がしたか....」
シオンが人の姿に戻り、地面に散らばる花びらを睨み付けている。アミナは呆然と橋の先を見つめていた。
どうしてあの人が.....。
記憶の中でボリスラフの先程の声が蘇る。濡れたような美しい黒髪が舞う中で赤い唇が切なく震えた。
「ユリ....」
彼女は確かに呼んだのだ。
アミナの母親の名前を。
「逃げられたか」
背後から聞こえた声にアミナとシオンは驚いて振り返る。そこにはマフラーに顔を埋めたオリビアが立っていた。シオンが素早くアミナを背に庇いオリビアの前に立ちはだかった。オリビアはふっと鼻で笑い、シオンの肩を思いきりよく地面に倒した。
「ぐぬ!」
「そんな負傷した体で私とやる気か?なめるな」
「くそっ.....」
シオンは本当に体に力が入らないようで、オリビアを睨むことしかできない。アミナは慌ててシオンに肩を貸そうと屈むが、オリビアに「おい」と呼ばれ、中途半端な姿勢で彼女へ返事をした。
「は、はい」
「やはりお前だったな。仮面を外したのは」
オリビアは真っ直ぐにアミナの瞳を見る。アミナは彼女の視線にたじろぎ、視線をさ迷わせた。
「そ、うなんでしょうか....?自分ではよく....。喚声式も、さっき初めて成功したので....」
「今までお前が喚声式で成功しなかったのは、極端な自己肯定感の低さが原因だろう」
「自己、肯定感?」
オリビアは頷き、アミナの胸に自身の拳を当てた。
「言望葉は心を原動力としている。それを心力と我々は呼んでいるが、心に力が無い状態だと素質はあっても言望葉に還元することができない。まあ、そんなとこだろう」
オリビアが話すのをアミナは頷きながら聞いていた。
確かに、私は今まで喚声式をする時はいつも「今回も無理だ」と思いながらやっていた所があったかもしれない……。そういえば....。五歳の頃、母様を亡くしてから姉様と会う度に「庶民の出の母親の娘に高貴な聖の言望葉など備わっているわけがありません」「あなたに私と同じ力があるはずない」「絶対に無理ですよ」と何度も言われてきたから、自分でもそうなんだと思っていたのかもしれない。たぶん、無意識に。だって姉様の澄んだ綺麗な声で発せられる言葉は説得力があったから。
「さて」
オリビアは拳を解き、自身の腰に添えた。
「お前≪アストライア≫に登録しろ」
「せん!!!」
シオンが地面に肘を付いて吠えた。オリビアは「なんでお前が答えるんだ」と鬱陶しそうにシオンを見た。シオンは「ぐぎぎ」となんとか上半身を起こすと、アミナに向かう。
「そんな組織に入ったら、自由がなくなる!闇の言望葉使いが出たら強制的に戦いの場に行かなあかんくなる!そんなんあかん!!」
「お前は黙ってろ」
「ぐえっ!」
オリビアはシオンの背中を思いきり踏み、地面に沈めた。片足をシオンの背中に乗せたままの姿勢でオリビアは再びアミナを振り返る。
「≪アストライア≫は人手不足なんだよ。拒否権はな」
「登録します」
アミナの顔を見たオリビアはおや、と片眉を上げた。先程までおどおどと頼りなく、目も合わなかった少女は、水色の瞳で真っ直ぐオリビアと視線を合わせていた。シオンが信じられないというように声を上げた。
「なに言うとんのや!?分かってないやろ、俺はアミナにそんなとこ入ってほしゅうない!そんな、自由のない組織.....!」
「そんなことないぞ?まあ確かに闇の言望葉が出たら強制招集だが、報酬も出るし、ただ聖の言望葉使いとして管理されてるだけで実力があれば割りと自由に動ける」
「あんたは黙っとれ!!」
「いいの。シオン」
アミナはそっとシオンの傍に膝を付き、彼の体を支えた。オリビアはシオンの背中から足を外し、二人の動向を観察することにした。
「いいって、よくないやろ!」
「私、ずっと思ってたの。シオンみたいに闇の言望葉使いに狙われる竜族は他にもいるんじゃないかなって」
シオンが動きを止めてアミナを凝視する。アミナはまっすぐな瞳でシオンを見ていた。
「まさか、あんた....」
「……私、シオンと会うまで竜族の人達がどんな日々を過ごしているかなんて、考えもしなかった。それが今はすごく恥ずかしい。…シオンと出会って、それがもう私には他人事に思えない。だって、その中にはシオンの家族もいるかもしれない」
シオンは猫のような大きな目をさらに大きくさせてアミナの声を聞いていた。彼女の声は落ち着いていた。早朝の涼しい風のような声は爽やかにシオンの心をさらっていく。
「……だから私、守りたいの。闇の言望葉使いに対抗できる力を持っているなら、……私....、戦うって、正直よく分からない。でも、シオンの現実に私も関わりたいの。シオンが何か悩んでるの、なんとなく、分かってる。私も一緒に、悩みたいの.....それができるなら、管理されることなんか、大した問題じゃないって、思うんだ」
「一緒、に........?」
はにかむアミナをシオンは呆然と見つめていた。その時、アミナの体がぶるりと震えた。
「へっちょ」
シオンの肩の力が脱力する。
「なんやそのくしゃみ」
「へ、へへへ....。落ち着いたら、なんか、さ、さささ、寒い.....!」
真冬に海の中に落ち、濡れた体をそのままにしていたのだ。アミナの体はとうに限界を迎えていた。ブルブルと顔を白くさせて震えるアミナの唇は紫になっていた。シオンは「お、おいっ」とアミナを抱き締めた。竜族の体から暖がとれると、アミナの強ばった体はぐにゃりと力が抜け、地面に座り込んでしまった。
「シオンあったかい…ねむ、い…...」
「アミナ!?」
慌ててアミナの体を支えるシオンに「おい」とオリビアは腕を組んで声をかける。
「明日教会に来い」
「は!?」
オリビアはそれだけを言い残すとさっさと背を向けて街の方に橋を渡って行ってしまった。彼女は「ただの弱い娘かと思ったが...あなたに似たのかな」と少し口角を上げて夜空を眺めた。いつの間にか雪は止み、満天の星空がそこにはあった。
シオンはアミナを背中に背負い、図書館への道を急いでいた。自身の傷の痛みで少しふらつくが、アミナを早く温かい場所へ連れて行かなければと、まだ眠る夜の街を走り続けた。
「はっ、....はっ」
温かい場所と考えた時に、一番最初に浮かんだのが図書館だったことに彼は気がついて、唇を引き結んだ。目的の場所が近くなるごとに表情は暗くなる。向こうから夜の中を走ってくる人影が見えた。二人を見つけたアイリスとルカは、血だらけのシオンと背中におぶられているアミナを見て血相を変えて走りよった。ルカはシオンの背中でぐったりと眠るアミナを彼の代わりに抱き上げると、「シオン、歩けるか?」と問いかける。シオンはルカから視線をそらし、下を向いて頷いた。アイリスはそんな彼の肩に手を添え「よく帰ってきたわね」と肩を優しく撫でた。シオンは唇を引き結び、何も言えなかった。
図書館に着くとアイリスは急いでアミナを温かいお湯の張ってある風呂場に運んで行った。行き場なくリビングに佇むシオンに声をかけたのは、今彼が一番会うのを恐れていた人物だった。
……どんな表情をしているやろうか。
またアミナを危ない目に遭わせた。
今度はここまで侵入させた。
厄介やと、思うたやろなぁ。
「座りなさい」
リーフに促されるまま、暖炉の前に置かれた椅子に座るシオンはリーフの顔を見ることができないでいた。
「教会のオリビアとディーノが来てくれてのう。こちらに来た闇の言望葉使いはディーノが拘束して城に連れて行ったのじゃ」
「ほら」とルカがシオンの肩に毛布を掛ける。シオンは肩にそっと掛けられた温かい毛布に唇を噛んだ。震える指で毛布を掴み、喉を震わせた。
「また、俺のせい、で....、悪かっ...」
「……シオン?」
嗚咽混じりの声にルカが驚き、シオンの顔を覗く。その表情にルカははっと目を開いた。眉を寄せ、暖炉のゆらゆらと揺れる火を写しているシオンの瞳に水分が浸食していく。嗚咽をこらえて、シオンは拳を握り締めた。
「........、...、すまんかった……!……けど、だけどっ、」
「……お、俺、.......ここに、いたい....っ」
痙攣する喉から絞り出した声は弱々しかった。ずっと胸の奥に抑え続けてきた本音は一度口にすると自分がどれ程それを願っていたのかを自覚させた。ついに決壊してしまった涙の防波堤。シオンの頬を滴が伝っていく。毛布に顔を埋める彼の肩をリーフはそっと抱き寄せた。
「いなさい。いつまでも」
シオンは毛布から少し顔を上げた。老人はいつもと変わらない、優しい黄緑の瞳で温かく微笑んでいた。
「そうだよ。馬鹿だなぁ、お前」
ルカの明るい声がシオンの心を掬い上げる。
「…、……、ルカに言われたないわ……っ」
「あっお前なぁ」
唇を尖らせるルカの稲穂の瞳は優しかった。
リーフの包帯の巻かれた手がシオンの頭を優しく撫でる。手が髪を撫でる度にシオンの心は癒されていく。はた、とシオンがリーフの動かないはずの手に気がつく。
「じ、じじい…手……」
動揺に震えるシオンの言葉に「おお」と自身の包帯の巻かれた手を上げると、リーフは「ほっほっほっ」といたずらが成功した少年のように笑った。
「……なんやねん、あんた……。……ほんまに、……もー……」
力が抜けたように笑う彼はぼたぼたと顎から落ちていく大粒の涙を毛布で隠しながら、自分の家族を想った。
じい様、父様、すまん。
一緒に仕事をして飯を食う、人間の生活も悪うない。
そう思える奴らに出会ったんや。
そして何よりも。
あいつの傍にいたい。
ここで、守りたいもんができた。
「その時」が来た時、まだどうするか、分からへん。
けど、きっと俺は......。
窓の外で朝焼けが広がる。
鳥達が白い翼を羽ばたかせて空を気持ち良くのびのびと旋回していく。
街を新しい日常へ導く早天の日射しは少年の道をも照らしたのだった。
ベッドに寝かされていたアミナはよく眠っていた。一度眩しげに目を薄く開けると、椅子に座ったシオンが上半身をアミナのベッドに預けた格好であどけない表情で眠っていた。アミナは自分の傍で眠る彼を見つけるとまどろみながらふにゃりと安心したように笑み、また夢の中へと落ちていった。
泣き虫少女と無神経少年は知った。
世界は二人の想像を遥かに越えて、広く、広く開けていることを。
見えないように妨げていたのは自分自身だったのだと。
夕方、シオンは目を覚ました。ぐっすりと眠るアミナの頬に血色が戻っているのを確認するとほっとしたように息を小さく吐いた。少女の白くて丸い額に目を細めると彼は優しい手つきで柔らかな前髪を撫でた。
彼の心には彼自身さえまだ気がついていない仄かな感情が芽生えていた。それは春を待つ蕾のように。
まだ言葉にはできない無自覚な想いは彼女を見つめる紫の瞳を柔らかな色に変えていた。
日中は晴れていた天気が夜になると怪しくなり、厚い雲が空を覆い月も星も見えない。そんな夜でも城下町セゾニエールでは灯台が淡く街を照らす。中心に位置するサンズ・ロイヤル城の執務室の装飾の凝った机で書類を片手に座っているビオラ・スターチス王女は静かな表情で目の前で話す宰相の声を聞いていた。
「教会のディーノ牧師が連れてきた二人以外にも闇の言望葉使いが侵入していたようです。オリビアの報告ですと到着した時にはすでに姿を消していたとのことですが....」
今年十九歳のビオラは歳を重ねるごとに美しく女らしくなっている。妹よりも濃い深い青色の瞳を書類に落とした。
「街の者の報告では、昨夜海の方で白い光が発生したとのこと。あの方向は図書館がありますね。まさか」
「それはあり得ません」
ビオラの果実のような唇から澄んだ声が転がる。
「あの子に力があるはずがありません。それは私が何度も確認しましたから」
宰相は顎に手をやり、少し考えると腰を折った。
「そうでしたね。いや、無作法でした。申し訳ありません。」
「いえ」
「私は今夜はもう休ませて頂きます」
「ええ」
「ビオラ様は」
「私はもう少し。仕事が残っていますので」
宰相は小さく笑うと眉を下げた。
「我が王は今夜もお楽しみのようです。ビオラ様がいなければこの国はとっくに終わっていたでしょう。では、ご無理なさりませんように」
扉の向こうに消えた宰相がいなくなると、ビオラは無意識に震えていた自分の手を片方の手で握った。一つ震える息を吐くと彼女は席を立ち、窓に手を添える。こんな夜でも柔らかい光を与える灯台を眺め、目を閉じた。
「.......、どうして、.....あの子...!」
唇を結び下を向く王女の表情は見えない。けれど彼女の背中は心細そうに、小さく震えていた。
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