喚声式
深夜、街は眠り、降り積もる雪を白く照らす月が冬の空に鎮座した時分。
深く眠るアミナの部屋のベランダに何者かが佇んでいた。
コツン、コツン。という窓を叩く音でアミナはぼんやりと夢から覚めた。まだ夢見心地で体をゆっくりと起き上がらせ、コツン、コツン、コツン、 と音の発生源を耳を澄ませて探す。
窓の向こうのベランダに人影を見つけ、ようやくアミナははっきりと目を覚ました。
「......ひっ...」
驚きで体が瞬時に強ばり、ベランダの影を凝視したまま、アミナは恐怖で動けなくなった。
ベランダを叩く音が止んだかと思えば、次にほのかな光が窓と人影を照らした。
そこに現れた人物にアミナは息を呑む。
「オ、オリビアさん....!?」
「まったく、寒かっただろうが。さっさと開けないか」
「す、すみません.......」
深夜いきなりベランダから少女の部屋を訪問するという非常識な行動を取っているのはオリビアだというのに、その横柄な態度にアミナはつい謝ってしまう。
勝手に石油ストーブを点けて暖をとるオリビアにアミナは当たり前の疑問を口にした。
「あ、あの.....どうして、ここに....?」
「おお。これをしようと思ってな」
オリビアは腰に提げていた小ぶりの皮鞄から小さめのスープ皿と水の入った小瓶、一枚の葉を取り出し、机の上に並べた。それらを見てアミナはオリビアが何をしに来たのかを理解した。
「喚声式....」
オリビアは頷き、自分よりも背の低いアミナを見下ろした。
「ああ。昼間は邪魔されてできなかったからな」
「でも」とアミナはもごもごと言う。
「許可は....」
「いいんだよ。バレなきゃ。ほら、うるさい奴らが起きてしまう。さっさとやるぞ」
「バレとるで」
いつの間にかシオンが扉を開けて立っていた。
「なんだ少年、お前やるなあ」
オリビアは焦るどころかシオンに感心していた。
「竜族は耳と鼻がええからな」
「なるほどな。じゃあ、お前も一緒に見守ろう」
「見守るかい!あんたええ加減にせえよ....力づくで追い出してもええんやで?」
「ほう?お前が?」
雲行きの怪しくなってきた会話にアミナは青ざめた。あわあわと慌てながら二人の間に割ってはいる。
「シ、シオンっ。喚声式、私やるよっ」
「あ?」
眉に深い皺を刻むシオンに怖じ気づきそうになるが、「私、月が出てる夜は毎晩やってたの。だから、回数が一回増えることぐらい、なんでもないんだ....」とアミナは眉を下げて笑った。
「あんたよく分かってないやろ!俺がなんでこいつの前で喚声式やらせたくないか」
「?」
アミナはシオンの言わんとすることが何か汲み取れず、首を傾げた。
どうしてシオンはこんなに反対するんだろう....?
私にとっては喚声式は毎回同じ結果の、少しのがっかりをもたらすだけのもの。
「本人が良いと言っているんだ。ならお前が口出しする権利はないな」
オリビアはスープ皿に小瓶の水を注ぐと、緑の葉を一枚そこに浮かべた。オリビアに手渡され、アミナはそっとベランダに出る。
「おい!」
シオンが慌てて止めようとベランダに向かうが、オリビアの腕がそれを阻んだ。
「放せや!」
「力付くで放せばいいだろう?」
「……くそっ!」
「竜族の男は紳士的なのだな?お前が女に弱いことは、今日…いや日付変わったから昨日か。テーブルに穴を開けたのをアイリスにこっぴどく叱られている所を見て分かっている」
「ええ加減にせえよ!マジでどかすで!俺が傷つけたないのは一人だけや!!」
「……ほーう?私を傷つけて、嫌われたくないのも一人だけ、とか?」
「にやにやすな!」
シオンは手の平で転がされている。
アミナはなんだか大丈夫そうな二人にほっとして、ではさっさと終わらせてしまおうと儀式に意識を集中させた。
喚声式のやり方は簡単だ。
何かしらの入れ物に水を張り、一枚の葉をそこに浮かべる。水の中に月が映るようにして決められている言葉を言えばいい。
そして水の色が変われば言望葉使いの素質あり。色が変わらなければ素質なしということになる。
「聖の言望葉なら水は白色に変わるはずだ」
オリビアはシオンを羽交い締めにしながらそっと呟いた。
オリビアの言葉に苦笑いを浮かべたアミナは頭上に輝く月が入るように皿をそっと動かした。
水の中に三日月がぷかりと浮かび、小さな夜空がアミナの手の中でたゆたう。
そして、唱える。
『幾千の葉と幾千の言を月夜に祈らん』
皿をじっと見るオリビアは時間が経つにつれ、唇を尖らせていく。
「......本当に使えないのか」
手元には先ほどと何も変わった様子のない水があった。
アミナはそれに申し訳なさそうに笑った。
「っもうええやろ!!」
バッと勢いよくオリビアを振りほどくと、シオンはアミナを背に庇った。オリビアを睨み付ける瞳には怒りが燃えていた。
「シオン?」
アミナはぽかんと彼の後頭部を見つめた。
シオンに振りほどかれて、少しよろけたオリビアはすぐに体勢を整えた。そしてそのまま二人を横切り、ベランダの手摺に立つ。
「騒がせたな。悪かった。だがお前の仮面が外れた原因を調べる必要がある。また近いうちに来るから茶菓子の用意をよろしく」
顔だけをこちらに向けてオリビアは偉そうに言い放つと、手摺を蹴って地面に着地した。
振り返ることなく歩いていく女の背中をアミナとシオンは呆然と見送った。
「........びっくりしたね」
アミナは空気を変えるつもりでシオンに笑いかけた。しかしシオンはオリビアの去った暗闇を睨み付けたままだ。困ったアミナは「....えっと...」と言葉を探す。
「シオンの仮面を外したのは私じゃないのにね?聖の言望葉なんて.......ねえ?」
「あんたや」
いつの間にかこちらを見ていた紫の瞳にはアミナには計れない感情が漂っていた。
「俺の仮面を外したのはあんたや」
「.....え?......いや、それはないよ…。だって、さっきシオンも見たでしょ?水は変わらなかったじゃない」
「なんで変わらんかったかは分からん。でも…」
シオンは言葉を切り、悔しげに小さく呟いた。
「あんな顔させたなかった」
「……え?」
最後の声はよく聞き取れず、アミナは首を傾げた。シオンは「なんでもないわ!」と勢いよくアミナの髪をくしゃくしゃにする。
それに悲鳴を上げるアミナには結局シオンがなぜオリビアに怒りを抱いていたのか、喚声式をさせたがらなかったのかは分からずじまいだった。
アミナとシオンが寝静まった頃、アイリスは寝巻にしている長袖のワンピースに厚手のカーディガンを羽織り、リーフの部屋の扉を叩いた。
椅子に座り、向かい合って話すリーフとアイリスの表情は深刻だ。
アイリスは頭に拳をやりため息をついた。
「……すみません。熟睡してしまっていたようで、何か話し声がすると思い、急いで向かったのですが、アミナの部屋に着いたのは喚声式を終えた後でした。元騎士とはいえ……恥です」
リーフは首を振った。
「お主の責任ではない。喚声式では素質なしじゃったんじゃな?」
「はい」
アイリスは頷く。リーフは口髭に指を添えた。
「アミナには言望葉が使えない……それが儂らの認識じゃった。しかし、シオンの仮面が外れた時の話を聞くと、もしやとも思える」
「アミナが聖の言望葉使いである可能性…」
アミナが切に願っていた力がもうその手にあるかもしれないのだ。喜ばしいことなのかもしれない。しかし、リーフとアイリスの瞳は複雑な色を抱いていた。
「もし聖の言望葉の力があったら、≪アストライア≫に登録しなければいけないのでしょうか……」
アイリスが顎に手をやり、懸念を口にする。リーフは「それもあるが、もう一つある」と膝に置いた手に力を込めた。
「もしかしたら、城に連れ戻されるかもしれん。言望葉が使えないというだけで、家族を切り捨てた非道な者の元に……」
アイリスは唇を噛む。
本気でアミナの身を心配する元騎士に元書庫番は微笑みを向けた。
「まだ何も分からんが……。じゃが、本当に大切なのはアミナの気持ちじゃ。儂らはあの子が己の道を選んで行けるよう、最善を尽くそう」
アイリスはその言葉に、やはりこの人についてきて良かったと心から思えた。
「……はい」
雪も止んだ夜明け前。
それぞれの思いはあれど、誰のことも待つこともなく朝は訪れたのだった。
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