涙の流し方さえ
父の跡を継いでから十年以上城に出入りしているが、書庫室に入るのは初めてだった。
王の書斎を辞し、陰鬱な気持ちで廊下を進んでいると普段は閉じられている扉が開いていることに気がついた。
特に何を思うでもなく隙間から中を覗いた瞬間、懐かしい匂いに鼻の奥がじん、と滲み、紙とインクの匂いに誘われるように中へ進む。
天上まである棚にぎっしり並べられた本の列が部屋の最奥まで続いている。子供の頃に通っていたプランタン図書館程ではないが、どれほどの蔵書を保管しているのだろうか。広い部屋を埋め尽くさんばかりの本の量に驚いた。
「まるで図書館だ…すごいな」
ふらふらと夢心地の足取りで柔らかな絨毯を踏みしめ、ずらりと並ぶ本の背表紙を眺めていく。
手に取るでもなく、じっと見つめていると王の書斎を出る時に零された彼の言葉が頼んでもいないのに思い出される。足の運びが止まった。
「……あなたといると、自分の情けなさが突きつけられるようで、辛くなる…。リーフ殿、どうか友人として、私の気持ちを少しでも良いから……分かると、言ってはくれないだろうか」
何も返せずに呆然と扉の前に立ち尽くす医者にライリー王は「…いや、すまない。……忘れてくれ」と寂しそうに微笑んだ。
なぜいつも、側に感じられていたはずの人が離れていってしまうのだろう。
大切にしたいと思っていたはずの人を苦しめてしまうのは…俺に何かが欠けているからなのだろうか。
父の言葉がまるで待ち構えていた矢のように鋭く背中を刺す。
「お前のような人間は、周りを不幸にする」
そんな事はないと、父の言葉を否定したかった。
人が自分の側にいないのは、なぜかいつも人を遠くに感じるのは、ただ、皆が俺について何か捉え違いをしているせいなのだと。
リーフ・シュナイダーという人間をそのまま見ようとせず、家の肩書や「イースト・サンライズ国一の医者」なんて、着色されたフィルターを通して見ているからなのだ、と。
自分で思う以上の周囲からの過大評価は、勝手に周囲が囃し立てているだけだ。
だから弟や父が周囲の言う虚像と比べ傷つく必要はないし、ローガンは……俺の事を良く見過ぎていた。
俺は確かに、医者として働く素質を持っているのだろう。
だけど、医療以外ではてんで駄目なことを自身で知っている。
甘いものはすっかり依存してしまってやめられないし、運動だって得意じゃない。女性の扱いだって、いつまでたっても苦手だ。
いつか歳を取り、あるいは怪我や病気を負い、医者を辞めなければならなくなった時、俺に残るものは多くない。
俺からしたら、柔らかい物腰のローレンツが羨ましいし、誰とでも仲良くなれるジャクソンや後輩に慕われていたハオランやドクターロランのようには、どうやったって、なれない。
何よりも、彼等には大事な人がいる。
そしてその人達も彼等を想っている。
努力だけで得られるものではない、俺からしたら手の届かない、それでも焦がれる存在を彼等はすでに持っている。
最初は親しくなれそうだと思った相手でも、少し経つ頃にはいつの間にか壁が造られていて、探りながら関わるような関係の築き方しか分からなくなった俺に、それがどれ程羨ましいか。
ローレンツに父親、そしてローガン…ライリー様。皆、俺と一緒にいると苦しいと、そう言った。
友人として、過ちを止めたくて言った言葉がライリー様を傷つけてしまったのか。
拒絶したように受け取ったのだろうか?
気持ちが分かると言えば、良かったのだろうか。たとえ本心でなくても。
窓を打つ雨に目を向ける。
ぬかるんだ土を踏んだようにぐにゃりと床が沈む感覚がした。
もしかしたら本当に俺が、俺の存在や言葉が人を苦しめているとしたら…。
そうだとして、そうだったとして。
でも、それなら俺はどうしたらいいのか。
何を、どう直したら一人じゃなくなるのか。
「……分からないんだ…」
胸の中心にぽっかりと穴が開く。そこを虚しい風が通っていった。
俺はもう、誰かと心を通わせることはできないのだろうか。
俺にはできないのだろうか。
人が離れていく理由も、俺を羨ましいという、その気持ちも、理解できない俺には。
「……恵まれてる?羨ましいって?」
苛立ちをこらえきれず吐き出した。
優れているとか、劣っているとか、俯瞰して見てみれば些細なことで、一人一人が、自分にできることを一生懸命やればそれでいいじゃないか。どうしてそれだけじゃだめなんだ?
なぜ矛先を俺に向けるんだ。
俺を羨ましいと言って、集団の中から見つめる数多の瞳に教えてやりたい。
何が恵まれているものか。この寂しさが、虚しさが分かるのか。
俺は今、こんなにも孤独なのに。
「ねえ、泣いてるの?」
突然高い声が室内に響き、肩を揺らした。いつの間にこの部屋に入っていたのか、十歳前後ほどに見える女の子が俺を見上げていた。
「…いえ。…えっと…?」
一見すると少年のような短い髪をしている少女に見覚えははなく、さっと身なりを伺った。真っ白なワンピースは高級そうだが、急いで用意されたかのようにサイズが合っておらず、余裕のある襟ぐりは今にも肩から落ちそうで、ふわりとした裾が床に付いてしまっている。
「丁寧な喋り方なんて必要ないよ。貴族の子じゃないし。見て分かるでしょ?このみっともない格好」
そう言って少女はワンピースの裾を鬱陶しそうに持ち上げた。
「ねえ、お腹すいた」
「え?」
少女は両手で俺の手を引き、「なにか食べさせてよ」と仰いだ。
「君、ご両親は?迷ったのかな?連れて行ってあげるから名前を教えて」
「親はいないよ。それに迷子でもない。暇だから探検してただけ。あの人、おいしいものいっぱい用意してくれるって言ったのに、こーんな小さいおにぎりしかくれなかったんだよ!信じられないよ!」
親はいない、と言う言葉にぎょっとするが、何か言葉にする前に立て続けに言われてしまい、閉口した。
第一印象はよく喋る子だな。それと、明るい声だ、と思った。鮮やかな表情を乗せた丸い目が可愛らしい。
「そ、っか……。えっと、君はどうしてここに?」
今日はイベントもない。一般の子が城内に入るのを門兵が許可することはないだろう。
しかし貴族の子供でもない、客人の連れてきた子であったとしても、もう少し着るものに気を使うのではないか。
この子供の正体に検討が全くつかない。首をひねった。
「だから、連れてこられたの!調査があるから待ってろって、終わったらこじいんって所に連れて行くって。そこに行けばたくさん食べれるって保証もないよね?だから今食べたいの!何か食べさせてよ!」
「調査……アストライアか」
なるほど、ローガンに接触した闇の使い手の調査を請け負ったアストライアから派遣された隊員が連れて来た子か。
でも、どういう事情があってこの子は城に連れて来られ、サイズの合わない服を着て、孤児院に連れて行かれるのだろう?
やっと一つ謎が解けたところで、新たな疑問が沸いてくる。
「調査の間待つように言われたのかい?」
「うん。ねえ、どっちに食べるもの買える場所があるの?」
ぐいぐいと手を引っ張る力が分かれ道の前で止まった。考えている間に書庫室から連れ出されてしまっていた。
「ここにはないよ。君、孤児院に入るの?」
「じゃあどこならあるの!」
「話を聞こうよ」
困ったな。今日はこれから病院に戻り、事務仕事を片付ける予定だったのだ。
しかし下から主張する腹の音に頭を抱えた。
ずいぶんとお腹を空かせているみたいだ。
「……食べられる所はここを出て、近くの病院の敷地内にあるんだけど、君と一緒に来た人に伝えないと。心配かけてしまうだろう?」
「そうかもね。じゃ、早く伝えて早く行こ!」
「う、うん……」
まあ、いいか…。自分も仕事の前に甘いものでも口に入れよう。
胸に空いた空虚な穴を何かで覆いたい。
このまま晒していては、この空洞は広がっていき、いずれ呑み込まれてしまうのではないか。そんな焦燥が足を動かし、少女の後を追わせた。
ご覧頂きありがとうございます!
もし気に入って頂けましたらブックマークや感想頂けますと、大変嬉しいとです!
よろしくお願いいたします!