気づいた頃にはいつも手遅れで
「私はここで記録しておりますので」
パソコンを開く尚書省の省員へ頷き、歩を進めた。
石畳に差し込むわずかな光が空中の埃をちらちらと反射している。
重い鉄扉の内側は外の温かさを遮断し、肌寒く感じた。
柵の向こうで背中を曲げ俯いていたローガンは足音に気がついたのだろう。こちらを仰ぎ見ると、肩を跳ねさせ恐れるように上半身を引いた。
「……ここは寒いですね。お身体は大丈夫ですか」
「……ドクターリーフ…」
ローガンの白い顔が更に青白くなっていく。
あの夜から三日経っているせいか、思っていたよりも落ち着いた心で彼の顔を見ることができた。
片膝をつき、柵の間から角ばった肩に触れた。
「……王子は無事ですよ。後遺症もありません……ドクターローガン」
「ぶ、無事、……ああ、……よかった…よかったぁ……!」
両手で顔を覆い、弱々しい悲鳴を上げるように呻くと、かぶりを振った。
「っ、ドクター、など…!もう、私は…」
資格がない、と項垂れ、彼は頭を石畳に擦り付けた。
「も、申し訳ありません……!申し訳ありません‼私のせいで、あなたのお立場が、」
「それは何とかなりました。ライリー王のご配慮で、城付きの役は解かれませんでしたし、責任を追求されることもありませんでした」
「……そ、ですか…」
助手の起こした事件の責任を問われ、医師免許の剥奪もあり得た。もしかしたら共謀を疑われ、ローガンと一緒に牢に入れられる覚悟もしていた。
実際、審議会では少なくともシュナイダー家の城への立ち入りを今後一切禁止する案に賛同する声が目立った。
しかし、王はその案には頷かず、代わりに彼は俺にローガンの聴取を命じた。
教皇は反対したが、尚書省の省員が立ち会い、聴取の全会話を記録する事を条件に今回の聴取が実行されることとなった。
顔を上げたローガンの目は安堵の色を映していた。今の彼の様子と先日の行動の矛盾に眉をひそめる。
なぜローガンは王子を刺したのだろう?
王子への恨み?だが、ローガンから王子への不満を聞いたことは王子が産まれて十五年、一度もない。それに王子が無事だと知り、心底安心した様子はとても演技には見えなかった。
俺を陥れたかった?その可能性も考えた。
しかし日頃の自分への彼の態度と、今の心から安心したような表情でその考えも薄れた。
そうなると、動機がますます分からなくなる。
「……なぜ、あんな事を?まず、なぜ王子のカルテを書き換えたのです?」
大体の顛末は王妃から話を聞き終えたライリー王から伝えられたので知っていた。
でも、ローガンの口からもきちんと聞きたかった。
何年も彼と働いていたというのにまったく気が付かなかった使えない上司の取るに足らない責任感なのかもしれない。
「……王妃がゲイリー様を出産されてすぐに、血液型が分かったら王妃へ一番に伝えるよう申されました。はっきり断定できるのに四年はかかるとお伝えしますと、では、しばらく私がゲイリー様付きの医者になるようにと命ぜられました。……おかしいとは、思ったのです。ですが、王家付きになることは全ての医者にとって憧れで、誉です。たった四年だけの任ですが、シュナイダー家でない医者にこれほどの機会は二度と巡ってこないだろうと思いました」
王家専属の医者は国一番の医者。国中の医者すべてを較べ、測ったわけでもないのに世間はそう受け取るらしい。
それが実力に関係のない世襲制であったとしても。
ゲイリー様付きの医者になってから、ローガンを見る周りの目は明らかに変わった。
だが、彼自身はそれを鼻にかけ高慢に振る舞うことも、怠惰になることもなかった。
そんな所を好ましいと思っていた。
そうか、彼の中にも大半の医者と同じようにそういう野心があったのだ。
「ゲイリー様が四歳になられて、血液検査をいたしました。結果は、J…。……王と王妃はE型。あり得ない結果でした。王妃がなぜゲイリー様の血液型をあんなにも知りたがったのか、そこで合点がいきました。王妃は王以外の誰かと……関係をもっていたのだと」
そのお相手までは知りませんでしたが。とローガンは過去を掘り起こすように石畳の溝から目を離さず続けた。
「……まず、言われていた通りに王妃にお伝えしました。すると王妃は、私の望む限りの報酬を渡すので、黙っていてほしいと、そう仰られました。その時は、お断りしたのです。血液型を偽るなど、医療行為の上で最もあってはならないことだと、学生でも分かることですから……」
「………その時は?その後、何があったのです?」
「あの方は、こう仰られました。では、これからも王子付きの医者の役を与えるならばどうだ?と。私が引退する時まで、約束するから…と」
「………そんな嘘がいつまでも通用するはずがない…」
「そうなのです。少し考えれば分かることなのです。私は輝かしい称号に目がくらみ、その話を受け入れました」
思わずローガンの俯いた顔から視線を反らした。
「あなたからすれば、くだらない事でしょうね……」
「…くだらないとは、思いません……」
「でも、理解できないでしょう?」
「………」
沈黙は肯定を表していた。ローガンは眉を寄せ薄く笑った。
「初めから手に入れている人には、無い者の渇望など想像もできないでしょう。……あなたは私の憧れでした。天賦の言望葉の力、秀でた頭脳、人を惹き付ける人格に恵まれた環境……。ドクターハオランの代わりに、あなたの側にいられることになって嬉しかった。……ですが、あなたと共にする時間が長くなるほど、痛いくらいに実感しました。ドクターハオランはあなたの相棒で、私は助手止まり。彼との差、あなたとの差。あなた達のようになるには、何が足りない?……全てだ。私は平凡で、どこまで、どれほど努力しても、平凡なまま。自分の存在価値の心許なさに押しつぶされそうでした。あの方の提案は、この苦しみから逃れられる蜘蛛の糸に思えたのです」
ローガンはでも私は、と唇を噛んだ。
「事の重大さに耐えきれず、断りに行きました」
ローガンへ目を向けると、彼もこちらを見つめていた。
「断ったはずなのです……!」
ローガンの顔は苦痛に歪んでいた。
その時、あの晩に見た彼の頬の赤い痣のようなものが今はないことに気がついた。
「それでは、なぜ」
「それが、分からないのです。断りに行った後の記憶がないのです…、いつの間にか、私は改竄後のカルテを手にしていました。何度も、何度も書き直そうとしても、その時だけ意識がなくなってしまう」
「……」
「あの日も、そうでした。王子の診察を終えた後からずっと意識が曖昧で……なぜか、王子を刺さなくてはならない、たくさんの血を流させなければならないと、駆り立てられました……そして、」
あの悲劇が起こってしまった。
ローガンの話を鵜呑みにすることはできなかった。本人の意思ではなく、まるで操られていたとでも言うような。
本人でさえ曖昧な話をどうやって証明できる?
こちらを見る顔は不安で曇っていた。
彼自身さえも、この話を信じてもらえる根拠のない、おかしな話だと認識しているようだった。
……でも、だったら、なぜ話した?
下手な作り話だと、一蹴されても文句の言えない内容をなぜあえて、口にした?真実だから?
これが嘘を付いている人間のできる表情なのだろうか…?
…分からない……少し、一人で考えたい。
「……信じられないでしょう?」
「…ドクターローガン」
「やめてください‼ドクターなど、呼ばないでください‼」
耳を両手で塞ぎ叫んだローガンの大声は固く冷たい石壁に跳ね返され、反響した。
刺激しないよう、努めて冷静を装い、彼へ声をかける。
「私は、あなたの話を信じたい…。……ゲイリー様が無事だと知った時のあなたは、間違いなく、医者なのだと思ったから…」
彼はふっと笑った。なぜかは分からなかった。
「あなたはやはり私を責めないのですね」
「……?」
どういう意味だ?真意を探ろうと彼の顔を見つめるが、ローガンの瞳には戸惑ったようにこちらを見る男が映るのみだった。
「もし、ドクターハオランが私と同じことをしたなら、あなたはどうしたでしょうか?……責めないのは、期待をしていないから。あなたは他人に期待したことがないでしょう?だから、部下が人を殺しかけたというのに冷静でいられるのです。……私はそれが、いつも寂しかった」
そんなことはない。そう言いたかったが、喉がつかえて声にならなかった。
「時間です。ご退出を」
返す言葉を見つけられないまま立ち上がる。ローガンはこちらを見上げ、「……あなたは優しい人だと思っていた…でも、それは虚像だ。他人に関心がないから、そう見えるだけ…。願望も、欲もないままシュナイダー家の医者として生きるあなたはまるで操り人形です。あなたには、焦がれるほど欲しいものなど、ないでしょうね」と呟いた。
今の俺はきっと、無表情になっている。
暴れそうになる感情を身体の奥の奥に抑えつけ、ゆっくりと瞬きをした。
「……ありますよ」
子供の頃に読んだ小説の描写に今も憧れている。
大好きな人達と囲むあたたかい食卓。
俺には、それは想像することも難しいほど、遠い。
「きっと、叶わないけど」
ローガンはわずかに瞳を揺らした。
鉄扉の閉まる音を背中で受け、廊下を進み地上階へ続く階段を目指す。
心が重い。ローガンが俺の事をあんな風に思っていたなんて。
「…虚像に人形…か」
いつだって自分の心に従って生きてきた。
必要な努力もしてきた。
けれど、他人からはそうは見えないらしい。
恵まれた環境と才能…自覚はある。
だからこそ、人の為に役立てられないかと思うのに。努力してきたはずなのに。
「結局のところ、俺はひとりだ」
何が俺と人との間を隔てているのだろう?
俺から人が離れていくのは、俺のせいなのか?
前髪を掻き、「今はそれどころじゃない」と吐き捨てた。
ローガンの証言について考えなくては。
王妃の証言とローガンの証言は途中まで一致していた。
出産の時のやりとりから王子の血液型が判明し、王妃へ伝える所までが共通部分だ。
だが、王妃はローガンは金を受け取る代わりに黙る事を受け入れたと証言した。
王子を刺したのは王妃が金を出し惜しみするようになった腹いせではないか、と。
十分な給料を貰っており、金に不自由していなかったはずのローガンが金を受け取れなくなった怒りから王子を狙ったという王妃の話は信じがたい。
しかしローガンの話よりは現実味があるのかもしれない。
だが、確かにこちらはおかしな話だが、彼の証言を全否定するのは早計だと思う。
よく考える必要がある。
「…記憶が抜ける、か。まるで操られているような言い方だ。それに、頬の模様」
痣のように見えたが、見間違いだったのだろうか?
「いや、それにしてはくっきりとした赤だった」
あの夜の光景を思い返す。
ローガンの頬の赤い痣。
「花のような模様の…」
花。赤い痣。
どこかで聞いたことがあるような、あるいは、書物で見かけたか?
ジャクソンの声が耳奥で笑った。
俺をおどかそうと子供らしい高い声で「夕方が危ないんだぜ」と実際遭遇したこともないのに、知ったように彼は顎を反らした。
「闇の言望葉使いは夕日に落ちる人々の影にまぎれてやってくるんだ。そして、手下にする呪いをかける。呪いにかかった奴には……赤い花の痣が刻まれてしまうんだ」
自転車を押す俺の後を追ってわざわざこんな事を言いに来たのか、と呆れたが、夕闇の中ペダルを漕ぐ足がいつもより速くなった事が悔しくて、次の日とっておきの怖い話をジャクソンに聞かせてやった。
懐かしい記憶に口角が上がりかけ、待てよ、もしかして、と足を止めた。
ローガンは闇の呪いをかけられていた?
彼の近くに闇の言望葉使いがいたのか?
アストライアに捕まらずに、どこかに潜んでいる?
石壁の廊下は冷え冷えとしていて、やけに静かだ。
顔を上げ、ローガンの言葉を反芻する。
“王妃にお伝えしました”
“すると王妃は”
“あの方は、こう仰られました”
生じた違和感を逃してはならない気がして顎に手をやり口の中で「あの方」と繰り返した。
「王妃」と「あの方」は同一人物だと思っていたが、もしかしてローガンはあえて使い分けたのではないか。
登場人物はローガンと王妃だけではない。
そうだとしたら。
「……あの方、って…誰だ…?」
ローガンにもう一度話を聞いてみなければ。
踵を返し走った。
牢屋の前では城騎士が見張りをしていた。
「尚書省の方はまだ中にいますか?」
「はい。まだ出てきていませんね」
「ありがとう」
扉を開くと、省員はすでにいなかった。
城騎士は目を丸くし首を傾げた。
「あれ?いない?いや、確かに出てないはずなのに…」
騎士と目を合わせ、お互いの戸惑いを確認し、明かりの少ない石畳を進んだ。
中に入り目にした光景に驚愕した。
ローガンが口から血を流して倒れている。
「ローガン⁉」
何があった?先程の省員がローガンに何かしたのか?
ローガンの頬に赤い痣が浮かび上がっていた。
やっぱり、花の模様だった。
「ローガン!今鍵を開けてもらうから、待ってろ!お願いします!開けてください‼」
「は、はい!」
騎士は急いで腰に提げている鍵を取り出した。
「……いいんです。何も、しないで、ドクターリーフ……」
「いいわけないだろ!何か飲まされたのか⁉」
ふっと彼は笑った。
鍵が開くと中へ駆け込み、彼の横へ膝を付いた。
「これは呪いです…医療でも、癒やしの言望葉でもどうにもできない…聖の使い手だけですよ、呪いを解けるのは…」
「呪い…やっぱり、闇の使い手があなたに呪いをかけたんですか!?」
「呪いって…」
騎士の戸惑う声が後ろで聞こえた。
「聖の言望葉使いを呼んでください‼至急、アストライアへ連絡を‼」
「へ、え、は、はい!」
騎士が廊下へ顔を突き出し、同僚へ大声で伝える。
ローガンは霞んだ視界を天井へ向け、俺の名を呼んだ。
「おもい、だしたんです。あの日、そう、あの方は私に闇の言望葉をかけたのです」
「誰なんですか、それは」
ローガンが唇を動かそうとした瞬間、電気が走ったように身体が痙攣し、大量の血を吐き出した。
彼の長い腕が力なく石畳に投げ出され、血が俺のズボンの繊維に染み込んでいく。
「…ロー…ガン…」
閉ざされた唇は二度と開かれることはなかった。
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