まがいもの
イースト・サンライズ国の王子ゲイリー・スターチスにとって教皇ジークバルトの講義の時間を表すならば、退屈の二文字に尽きるだろう。
彼は教本を広げるジークバルドを横目でちらと一瞥すると、つまらないのだと言いたげに思い切り欠伸をした。
「ふあーあ」
それでも王家に継ぐ権力を持つ教皇が直々に城へ訪れるという事実が王族にのみ与えられた特権なのだと、自身を取り巻く環境に満足の笑みを浮かべる。
壁に掛けられた姿見に映る自身の姿をぼんやりと眺めた。
瞳の色は両親が持つ海色ではなく、冷えた印象の灰色の瞳。髪だけは母と同じ黒い色をしている。
欲を言えば父の夜明けの群青のような髪色の方が良かったが、こればかりは仕方がない。
例え瞳の色が両親どちらにも似ていなくとも、自分が王族ということに変わりはないのだから。
自分の行く道は下々によって整備されている。己を阻む障害は下々が勝手に排除してくれる。
口を開けば誰もが頷き、恭しく頭を垂れる。
当たり前なのだ。王家以外の者は皆王家を支える為にのみ存在しているのだから。
自分を見上げる下々の媚びた眼差し。
不満を漏らせば気を失わんばかりに震え青ざめる使用人!
王家であること。それが彼の自尊心を甘く満たし続けていた。
生まれてから十五年、そしてこれからも、ずっと。
ゲイリーは信じて疑わなかった。
「“血統”が正しく継がれていなかった場合、その子はどうなるでしょう?そうですね…例えば、架空として一つの公爵家を挙げましょうか」
つまらなそうに腕を組み、椅子の背もたれに頭をだらしなく預けた姿勢でいるゲイリーへジークバルトは軽く微笑んだ。
「その子の父親は本家の血筋だが、母親は従姉妹…つまり分家の生まれ。これが虚構であったら?実は分家の母親と庶民の男が不義理を結び、その子供は本当はその間に生まれた子供であった。さてこの場合、果たして公爵家の正当な後継者となれますでしょうか?」
「ならない」
つまらなそうにゲイリーは天井を見上げた。
「何故でしょう?」
「血は絶対だ。貴族とは高潔なもの。浅ましい血が混ざることは一滴たりとも許されん。しかも分家など、王族の血を薄めた下位互換だろう。そこに庶民の血が混ざったら、ソレは一体何になる?もはや王族からは程遠い、ただの庶民だろう」
「素晴らしいお考えです。国の先導者はゲイリー様のように、強い思想を持たねばなりません」
ゲイリーはジークバルドに首を傾け薄い笑みを向けた。
「私は先導者にはならない。王を継いだら、ただ王座で奉仕を受けるのみだ。働くのは……手足となるのは働く必要のある者達だろう。私は何もしない。国の最高位に在るものが、なぜ下々の為に己を使わなければならん?」
ジークバルドは頷いた。
「ゲイリー様の仰る事、その一つ一つが私の胸を打ちます、このジークバルド、王子の安寧の為に一生を捧げましょう」
左胸を手で抑え、頭を下げる教皇の姿にゲイリーの胸の奥で甘い蜜がじんわりと広がる。
国中の信仰者にアストライアの連中、修行者達が揃って畏まる聖人が唯一へりくだる相手とは、この私!この私なのだ!
ゲイリーは口元に手をやり、うっとりと双眸を細めさせた。
リーフは年に一度の定期健康診断の為に城を訪れていた。
王と后の診察を終え、次に城で働く者達の診断を始める準備を与えられた部屋で行っていた。
「すみません、もう少し待っていただけますか?」
リーフが扉の外へ申し訳なさそうに顔を出すと、廊下にいる使用人達は「いいんですよ。時間より早く来てしまったのは私達なんですから」と朗らかに手を振った。
国一番の医者に身体の健康状態をしっかり診てもらえる機会とあって、不調を感じている者もそうでない者も各々の仕事の合間を縫って部屋の前に列を成す。
これまでのシュナイダー家の医師は皆、王族のみしか診察しなかった。しかし、リーフに代わってからは城の従者達も対象に含めた。
診察鞄の中身を取り出し、机の上に必要な道具を整えている医者を覗き見る使用人達は本当に有り難いことだと感謝の念を眼差しに宿していた。
「お、遅くなりました。ドクターリーフ。私も手伝います」
リーフの助手のローガンだ。顔の輪郭がほっそりと長く、二メートル近くもの長身を持つ彼の身体も吹けば飛びそうに細い。
「ゲイリー王子のご体調はお変わりありませんでした?」
ローガンはゲイリーの診察を担当している。
それには理由があった。
ゲイリー王子の出産日の当日、急患が病院に運び込まれた。複雑かつ繊細を極める癒やしの言望葉の扱いを要求される治療が必要だった。
対応できる医者がリーフ以外にいなかった為、リーフの代わりに、経験年数も腕も確かなローガンが出産の立会いをしたのだ。
王子は無事に産まれたが、いくら代わりの者を寄越したとはいえ、手術を優先したリーフへの非難の意思を表したかったのだろう。
その日から后はローガンをゲイリーの担当医師へと任命したのだった。
ローガンは普段から青白い顔をさらに白くさせ、「え、ええ。変わりありませんでしたよ」と弱々しく答えた。
パーテーションを掴む彼の手が震えている。
リーフが「具合でも悪いのですか?」と聞くと、ローガンはおろおろと視線を泳がせた。
「へ?いっ、いいえ?いつも通り、ですよ?」
「そ、そうですか?あの、もし体調が悪いなら無理せず今日は帰っても」
「そんな!そんなこと‼できません‼」
声がひっくり返るほど動揺している助手にリーフは目を丸くした。
普段から気の弱いところのある彼ははにかんだ笑顔でひっそりと話すのが常だった。
なんだか、彼らしくない。
本当は何かあったのかもしれない。
リーフが口を開くのよりも先にローガンは聴診器を首に掛けながら、背を向けてしまった。
「ほ、ほら…今日はこれから忙しくなるんですから……ドクターハオランの代わりを、まあ私なんて、彼の代わりなんて言うにはおこがましいですが、私だって、あなたの助けになりたいんです。せっかくあなたの助手になれたのですから……お役に立たせてください」
彼が自分に強い憧れを抱いているようなのには気がついていた。
病院の勉強会の初日から参加してくれていた彼のリーフを見る瞳はきらきらと輝いていて、それは今も変わらない。
「……分かりました。でも、無理は絶対にしないでくださいね?」
「ええ。では、準備を急ぎましょう」
ひどくなるようだったらすぐに休ませよう。
リーフは廊下で待つ従者達を案内し始めたローガンの横顔が何かに脅えているような…やっぱり、どこか普段と違った様子に見えるのでこの仕事が終わったらゆっくり話を聞いてみようと決めた。
この時、すぐに話を聞くべきだったのだ。
リーフはこの日の出来事を苦い後悔と共に、何度も思い出すことになる。
最後の一人の診察が終わる頃には、時計の針はすでに夜の十時を過ぎていた。
両腕を上に伸ばし、上半身を左右にひねるとぽきぽきと肩甲骨の辺りが鳴った。
「終わったー。いやあ、今回は前回よりも希望者が多かったですね。もしかしたら次の定期診断は二日に分けた方がいいかもしれないですね」
受診者のデータを書き込んだカルテをファイルにまとめながら、ローガンへ話しかけた。
返事がないので不思議に思い顔を上げた時、彼の姿がないことに気がついた。
「あれ、」
これから部屋の端の方へ片付けておく予定だったパーテーションは手つかずで、鞄は几帳面な彼には珍しく、大きく口を開けたままだった。
「……トイレかな」
疲労の蓄積された脳はろくに働かず、まあすぐに戻ってくるだろうとリーフはあまり気にしなかった。
自分の鞄のチャックを締め、立ち上がると膝がぽき、と鳴った。
「ふー……」
二十代の頃は一日中働き通しでも余裕だったんだけどな。三十半ばを超えたあたりから疲れやすくなった気がする。
自分でこれなのだ。四歳上のローガンも今日は帰宅したらベッドへ直行なんじゃないか?
この後一緒に夕飯でもと思っていたけど、寄り道せずに帰ってもらった方が良いかもしれない。
「だっ、誰かー‼」
女性の悲痛な叫び声が部屋の窓ガラスにぶつかるように響いた。
「キャー‼誰か来てー!お、王子様が、ゲイリー様がぁ‼」
切迫した声の様子にリーフは窓へ駆け寄り、外を見回した。
「なんだ⁉どこから、」
左から右へ瞳を巡らし、はた、とある部屋のバルコニーに二つの人影が揉み合っているのが見えた。
あそこは、王子の書斎がある場所ではないか。
リーフは目を凝らす。
月のない夜だった。書斎から漏れる明かりが二人の姿をはっきりと照らした。
「っな…!」
リーフはゲイリー王子へ剣を振り上げる男の正体に驚愕し、目を見開いた。
信じられない、だの。何故、どうして、だの。
あらゆる言葉が閃光の様に脳裏を駆けたが、動揺した唇はまごまごと動くだけだった。
すんでのところで剣を避けた王子は相手へ背を向けてしまった。
男が、ローガンが、剣先をその背中へ向けた。
「やめ」
強張った指をなんとか動かして窓の鍵を下ろし、ガラスを叩き割りそうな程の強い力で上に持ち上げた。
「やめろー‼」
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