平行線は交わらない
「洋食屋の娘だったな。家格は合わんが、外見と話し方はまず及第点....ローレンツの相手にはあのくらいの娘で、まあ、良いだろう。ああ、お前の相手には口を出すがな。ちゃんとした家柄の娘と結婚するんだぞ、お前は。跡継ぎだからな」
「.....結婚に家柄など....今はそんな時代ではないですよ。院長」
「時代、時代と最近の若者はそう言うがな。そういう輩も権力の前では誰もが口を閉ざす。そういうものだ。....式場は[導きの灯台]?ああ、あの孤児院もどきの教会か。はっ!大方向こうの家に合わせたのだろう。くだらん」
父は結婚式の招待状をゴミ箱に捨て、ジレのポケットからライターを取りだし葉巻に火を付けた。煙のツンとした匂いが鼻を刺激した。
「行かないのですか?」
「時間の無駄だ」
「ローレンツは、あなたに祝福してほしいんですよ」
「庶民の中に混ざれと?想像したくもない」
父は煙を吐き出し、左目を細めた。ゴミ箱の底に落ちた招待状が悲しげに顔を背けたように見えた。
「そんなことより、ずいぶんと続いているようだな?勉強会とやらは」
「ええ。まあ。熱心な方が多くいらっしゃいますから」
「ふっ....人心掌握も得意だったとはな」
「......は?」
何を言っているんだ?
父のまとわりつくような探る暗い視線に驚き、つい顎を引いた。
「あれほどやる気のなかったロランも今では医者の鑑のように真面目に働いている」
「ドクターロラン?」
なぜここでロランさんが出てくるのだろう?
「どんな技を使った?」
「技?普通に話をしていただけですが。勉強会も、私がお誘いしたので仕方なく足を向けてくれただけだと思いますが……」
カンナとの一件以降、先入観を持つ前に、まずは話を聴いてみたいと思うようになった俺は、カフェのテラス席で新聞を開き仕事をサボっていたドクターロランと話をしてみることにした。
すると想像もしていなかった事実を知ることになる。
「やあ。ドクターリーフ。おはよう。.....ん?....ああ、新聞かい?そう。朝夕と毎日欠かさず読んでいるよ。いや、僕が見ているのはここさ」
そう言い、彼は事件に関する情報提供のページを指した。
「僕には娘がいるんだが....五年前に妻と娘が二人でスーパーに買い物に行った時、妻がちょっと目を離した隙にいなくなってしまってね....。娘がお菓子を一つに絞れなくて、迷っていたから、特売品のバゲットを取りに行ったんだって。お菓子売り場との距離はほんの四メートルほど。パン売り場からはお菓子売り場が見える。でも、ちょっと背中を向けたその間に、いなくなってしまったんだよ。はは、そうなんだよ。まさかスーパーで行方不明になるなんてね」
よく見るとドクターロランの顔は不健康に青白く、濃い隈が浮いていた。
「防犯カメラには二十代から三十代前半くらいの男が娘と手を繋いで店を出ていくのが映っていた。それから娘は見つかっていない」
妻は心を病んでしまい、家で一日中ぼうっとしている。僕が話しかけても、「ごめんなさい」としか言ってくれないんだ、と片頬をほんのわずか持ち上げた。
笑い方を忘れてしまったように、ぎこちない仕草だった。
「.....眠れない。眠れないよ。ベッドに横になり、目を閉じると娘が泣き叫ぶんだ。パパ助けて!って、聞こえるんだよ。注意力が散漫になっている自覚はあるんだ。.....分かっているよ。君がずいぶんとフォローしてくれていること。すまないね....患者の為にも、僕は辞めた方が良いんだろうなぁ」
顔をうつ向け、項垂れる彼の肩に手を置いた。
「え?今度の休みに?導きの灯台に?なぜ?」
ぽかんと目を丸くする彼にいいから、行ってみるといい、と強くすすめた。
彼等ならきっとロランさんの力になってくれるだろう。
しばらくして見慣れないアドレスからメールが届いた。差出人はすぐにピンときた。
"うちはカウンセリングルームじゃねえ"
「はは!」
目付きの悪い昔馴染みが眉をしかめている姿を想像して笑いが込み上げた。
「そうか、ジャクソン携帯持ったんだ....それはそうか。.......もう大人なんだよな」
口許を緩めながら、カチカチとボタンを打ち込み、送信した。
"よろしくな"
導きの灯台を訪れ、ぼんやりと席に座っていたロランさんに司祭が話しかけ、ゆっくりと時間をかけて彼の話を聴いてくれたらしい。
その後、ロランさんは時おり教会へ司祭を訪ねていくようになり、最近は奥さんの手を引いて教会の裏庭を散歩する姿を見かけるようになった、と意外とまめな所のあるジャクソンは逐一メールで教えてくれた。
ロランさんの習慣は変わらない。
朝と夕方には必ず新聞に目を通している。
目の下の隈は相変わらずだが、たまに深く眠れる夜があるという。
「......君はよくそんなものを食べられるね」
「そんなものとはなんですか。れっきとした食べ物でしょう」
カフェのテラス席で新聞を開いていた彼の席に自分の朝食を置いた。トレーをちらと見やったロランさんは喉に手をやり、ブラックコーヒーを口に運ぶ。
ハオランと同じ反応にもしや自分の味覚がおかしいのかと疑いそうになったが、いいやそんなはずはない。甘いものは格別なのだ。
「そうだ、ロランさん。今夜二十一時から二時間ほど、勉強会があるんです。もしご都合がよろしかったら、いらっしゃいませんか?」
「ああ、勉強会してるんだったね。聞いたことがあるよ。........考えておくよ」
大事なのは彼の気持ちを社会から切り離さないことだと思っていたから、幾度か勉強会に誘いはしていたが、彼は一度も参加したことがなかった。
それならそれで良いんだ。
彼を気にしている人間が職場にもいるのだと知ってもらえていれば。
予想に反して、その日、彼は勉強会に姿を現した。
彼は部屋の一番後ろ、端の席で背中を丸め両手を膝の間に挟んだ姿勢でじっと俺達の癒しの言望葉を練習する姿やいくつかの事例について意見出しをしている様子を何も言わず眺めていた。
勉強会が終わり、去ろうとするロランさんの背中を呼び止めた。
「ロランさん、来てくださったんですね」
彼はこちらを向くと「お邪魔させてもらったよ。誘ってくれてありがとう」と静かに言った。その様子は、なにかを抑え込んでいるように見えた。
「若い医者ばかりじゃないんだね」
「ええ、先輩方も何名かいらっしゃってます。やはり年の功、経験の長さからの知識は敵いません。勉強させてもらってますよ」
「うん、若者も、中年も、老人も、良い刺激を受けているようだね。....いい、すごく、よかった。..........なんだか、久しぶりに.......」
ロランさんは言葉を続けず、曖昧に、ぎこちなく口角を上げた。
「.......じゃあ、僕は帰るよ。また明日」
「....ええ」
彼は軽く頭を下げ、部屋を出ていった。
夜の病棟は静かだ。廊下を進み、階段を下る足音が聞こえる。
俺は駆け出し、階段の途中にいるロランさんを呼んだ。
「ロランさん!」
「....?リーフくん?」
消灯されている暗い階段の踊り場で驚いたようにこちらを振り返った彼を真っ白な月が照らしている。
「もし、良かったらまた来てください」
「.........ああ、......そうだね...来れそうだったら。......」
彼の声は沈んでいた。
「少し、だけでも、駄目なんでしょうか?」
「.....?」
「楽しいと、思う瞬間が、あってもいいんじゃないでしょうか?わずかだけ、ほんの少しだけでも」
「.........」
彼の四角い眼鏡の向こう側はよく見えない。
「あなたが生きようとすることを、許してくれないでしょうか?.....少し、だけでも、」
俺はきっと、彼の苦しみを想像することはできても芯に理解することはできないだろう。
けれどこれだけは伝えたかった。
せめて微笑むくらい、せめて楽しいと少し思うくらい、二十四時間とある一日の中で、三百六十五日という長い一年の中で、数秒だけでも、たったの一瞬だけでも。
「..........」
ロランさんはしばらく俺を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「.........ありがとう」
穏やかな声だった。
すぐに前を向き、階段を下っていってしまったから見間違えたのかもしれないけれど、彼の顎から滴が伝い落ちていたように見えた。
それから、ロランさんは何回かに一度勉強会に顔を出すようになった。
回を重ねるごとに徐々に積極的な姿勢を他の参加者に見せるようになり、鋭い指摘で同僚達を唸らせる。
朝と夕方にカフェのテラスで新聞を読む習慣は変わらない。
ぼんやりと俯くことも。
しかし、診察室に在席する時間は以前よりも長くなり、患者の容態を親身に診る様子を見かけるようになった。
ミスは徐々に減っていき、患者からぜひドクターロランをと指名する声も増えていっているらしい。
事情を知ったカンナは罪悪感からか落ち込んでいたが、ドクターロランと仕事を続けていくうちに優秀な医者の姿に尊敬の眼差しを向けるようになっていった。
本来、彼は院内でトップクラスの実力のある優れた医者だったのだ。
「話をしていただけ、ねえ。お前は良くも悪くも影響力があるからな.....自覚がないとは言わないだろう?」
父親の言い様は妙に含みを感じさせるものだった。
「.....どういう」
「現在、この病院内でこの私とドクターリーフの二つの派閥が生まれているのを知っているか」
「.......いえ、知りませんでした。なぜそんな動きが?」
「......ふっ。白々しいな」
父が息を吸うと口に咥えられた葉巻の先が赤くなった。
「私を院長の座から引き摺り下ろし、代わりにお前を推す声が広がっている」
「.....そんな、なぜ」
「なぜ、なぜって?本当に分からないのか?」
「.....私は確かに、この病院を継ぐつもりではおりましたが、派閥など、考えたこともありません」
「どうとでも言える」
「父さん?」
鬱陶しそうに目を細め、父は片頬を持ち上げた。信じられる人間は己だけだとでも言いたげな暗い瞳だ。
「お前が頑張れば頑張るほど、闇が深まり、被害を被る人間がいる。ローレンツもその被害者の一人だ。.....お前のような人間は、周りを不幸にする.....」
「......なぜここでローレンツが出てくるのですか」
「....ふっ」
俺が周りを不幸にする?
父が何を言っているのかまったく理解できなかった。
ローレンツ....なぜ招待状を俺に送らなかったのか、いや、ただ送り忘れただけだろう。
そうに決まっている。
「....父とお前は、よく似ている。周囲に鈍感な所もそっくりだ。傑出した才能に人は寄り付かず、結局あの人は独りで死んでいった....お前もそうなるだろう」
「父さん、今日は調子が悪いのでは?また日を改めて伺いましょうか」
「お前には理解できないだろうな....恵まれなかった側の思いなど」
「............」
外へ向けた父の顔が窓に映る。夜の中に佇む彼の視線はもう息子の言葉を聞いてはいなかった。
「とは言っても、私の定年はまだ先だ。.....五年後、お前は私の後を継げ。今から周囲に公言しておけば騒がしいのも収まるだろう」
「と、父さん?なぜそうなるのですか?本当に派閥ができているとして、では、なぜ不満を持たれているのか、原因を聞いてみませんか?」
「聞いてどうする?私は自分のやり方を変える
つもりはない」
「ですが、一緒に働いている仲間ではありませんか」
「仲間?....違う、この病院を回す歯車だ」
「.......それでは、あなたも独りではないですか?」
「私は父とは違う。私は、自分で独りを選んだ」
「..........」
「まさか息子とも比べられるとはな....」
三月の夜はまだ冷える。歩道の端には先週の始めに積もった雪が残っていた。
院長室を後にし、不安に駆られ何年ぶりかの実家へ足を進めていた。
弟の顔を見たかった。
招待状を送り忘れたのだろうと思うが、もしかしたら他に理由があったのかもしれない。
もしアリの事で俺に気遣って送らなかったのだとしたら、そんなこと気にするなと言いたい。
そして、おめでとうと直接伝えたかった。
前方のレストランの扉が開き、店前の階段を女性が降りている。
ヒールか、危なっかしいな、と横目で捉え思っていたら女性の足が滑った。
「あぶなっ…!」
転びそうになったのを反射で支えた。
女性も反射で俺の腕を掴み、のけ反った姿勢の彼女と前屈みになった俺の視線が合い、同時に目を見開いた。
「.......アリ...」
「...リー....フ...?」
俺達はお互いの瞳を覗き、実感を持って理解した。
あの頃の恋心は俺の、彼女の中にわずかも残っていないこと。
もう決して、同じ時間に同じ景色を見ることなどないであろうこと。
かつての二人は思い出の一ページとして綴じられ、すでに次の章が進んでいたこと。
彼女は俺の腕から手を離し手摺を掴むと体勢を整え微笑んだ。
「久しぶりね」
「ああ、久しぶりだね。ローレンツと結婚するんだって?おめでとう」
はにかみ、頷いた彼女は綺麗だった。
「ありがとう。ふふ、もう招待状届いていたのね。まさか弟と結婚するなんて思いもしなかったでしょう?」
「驚いたよ!まさか弟の結婚相手が君だったなんて!.....でも、納得もしたよ。君も、ローレンツもとても優しいから、きっと幸せな家庭を築くんだろうなって」
「....ありがとう。あなたのお父さんはあまり興味をもってくれなかったみたいだけど」
「.......それは、俺が代わりに謝るよ。そうだ、招待状なんだけど、俺の所にはまだ届いてないんだよ」
「あら?そうなの?ローレンツが出したと言っていたけれど」
アリはきょとんと目を丸くした。
「これから届くのかしらね?」
「兄さんには送ってないよ」
店の扉の前に立つローレンツは階段の下にいる俺を見下ろしていた。
やけに冷たく感じる眼差しが父のものと重なり、胸が嫌に騒いだ。
ご覧いただき、ありがとうございます!
もし気に入って頂けましたらブックマークや感想頂けますととてと嬉しいです!