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泣き虫少女と無神経少年  作者: 柳 晴日
第4章
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叩けないドア


楝色のワンピースと麦わら帽子を身に付けた少女はじわじわと滲む汗をハンカチで拭いながら、セントラル通りを向こうへ行っては戻り、また行っては戻りを繰り返していた。

おろしたての真っ白なパンプスの皮がまだ固く、少女の踵を痛め付けていた。

コツ、とさ迷っていたパンプスがやっと止まり、少女はシュナイダー家の屋敷を見上げる。


「.....誰だろう?」


ローレンツの通う中学校には夏休みなどと言うものはない。

街のほとんどの学生が夏を謳歌している中、彼はいつも通り学校で授業を受け、参考書を片手に帰路を歩いていた。

自分の家を見上げている少女に気がついた彼は首を傾げつつ歩を進めた。


麦わら帽子で遮られていてよく見えないが、整った鼻筋にすっきりと薄い唇が可愛らしい。

気後れでもしたかのように立ち去ろうとする少女がぱっとこちらを見た。


夏の暑さなど感じさせない、清廉でいて清々しい美しさを持つ少女だった。哀愁を含んだ瞳が彼を捉え、小さく見開かれた。

その瞳の中に映ったローレンツはじっとこちらを見つめている。


一拍おいて、ローレンツはおや、と記憶を探り始めた。その少女に見覚えがあったのだ。

洋食屋の香りが鼻の奥から蘇り、鼻腔をくすぐった。

ローレンツに懐かしい感覚が沸き起こり、思わず手を振った。


「アリ!アリじゃないか!」


麦わら帽子を抑えつつ顔を上げた少女は思いがけず再会したローレンツの姿に目をみはり、はにかみを浮かべた。


「ローレンツ!?大きくなったわねえ!」

「あははっ!そうだろう?アリが小さいや。いつぶりだろう?三年ぶりくらい?」

「四年ぶりよ」

「わあ、本当に久しぶりだ!」

「ええ!」


微笑みを浮かべ頷く彼女をぎらぎらと射す日差しから避けるために屋敷の影となる場所に導き、ローレンツは「うちに何か用事でもあったの?」と首を傾げ、次に「あっそうか」と見当のついた様子でにんまり笑った。


「兄さんに会いに来たんだ!?」

「....う、ん。ええ、そう」


アリーチェの歯切れ悪い返事に気付かないローレンツは「へえー、そっかぁー」と声を弾ませ、眩しい太陽を見上げた。


「さすが兄さんだなぁ。アリは知ってる?もう聞いてるかな?兄さん、高校生なのにもう大学で実習受けてるんだよ!あ、やっぱり聞いてないんだ。しょうがないなぁー兄さんったら。なんでこんな事になってるのかって言うとね、兄さんきっと自分からは言わないだろうから僕が言っちゃおう!高校で癒しの力を治療に使う基礎知識を学べるらしいんだけど、授業を見学に来ていた大学の先生が兄さんの力を見て、大学での実習を勧めたんだって!すごいよね!前例のない、特例中の特例だよ!」


アリの瞳にさっと影が射した。ローレンツは自慢の兄の話ができる喜びに舞い上がり、さらに話を続けた。


「実習を受けながら、家では大学で習う範囲の勉強を進めてるんだ」

「もう大学生の勉強をしているの?」

「うん!これがまた凄いんだけど、例の教授に大学の生徒が受ける試験を一緒に受けろって言われてるんだって。パスしたら大学の単位をくれるらしくって、大学入ってからは単位よりも技術を磨く方に専念できるようにっていう配慮らしいんだよね」

「......凄い....けど、大変そうね」

「そりゃね。高校の試験と大学の試験対策を並行してやんなきゃいけないし、大学の実習にも出てるしね。父さんと母さんは大喜びだけど」


「兄さんと話す機会は減っちゃった」


ローレンツは真っ青な空に唇を突きだした。

反対に俯いているアリは「....一生懸命、頑張ってるのよね」と、口角をわずかに上げた。


「アリ!踵が.....靴擦れかい?」


アリの踵周りの皮膚が赤いのに気がついたローレンツは慌てて屈み、少女の血の滲んだ踵を覆うパンプスの皮に触れた。


「そっか....兄さんの為にお洒落してきたんだね。兄さんが羨ましいや。大丈夫だよ、アリ。このくらいなら、僕でも治せるからね」


顔を上げたローレンツはアリがハンカチを目元にあてているのに冷や汗を流した。


「そ、そんなに痛いの!?す、すすすぐに治すから泣かないで.....!!」

「.....ええ。お願い」


『ヒーリング・ワーム』


兄のものとそっくりな形をした言身をそっと患部に近づけ、言望葉を唱えると淡い緑の光が踵を包んだ。

痛みが引いていく足に視線を落としていたアリは懐かしい光の色に胸を締め付けられ、今度はローレンツに見られないよう、そっと涙を拭った。


アリを乗せたバスが坂に沈みきるまで見送り、ローレンツは地面に置いたままだった鞄の底に付いた汚れを手ではたき落とす。


「.....兄さんじゃ、敵わないよ....」





玄関が開く音が聞こえたので、ローレンツはシャープペンシルをノートの上に置いた。

一階に下り、兄の部屋の扉をノックしたが、返事がない。


「兄さん?」


声をかけても何の反応も返ってこず、ローレンツは扉を開けてみることにした。


「兄さん、ちょっといい?今日アリが家の前に.....」


ローレンツは実習のレポートを読み込むリーフの集中力に圧倒されてしまい、それ以上声をかけることができなかった。

リーフの周りだけ音が消えたように、紙を捲る音のみが響く。

飢えた獣のごとく、リーフは知識の泉をむさぼるように飲み込んでいる。


そっと扉を閉め、弟はため息をついた。


「......天才、か....」


非凡な言望葉の力だけじゃなく、兄には優れた頭脳とそれに慢心しない向上心、並外れた知識欲と鋼の自制心が兼ね備えられていた。

月日が過ぎていくのに比例して、周囲のリーフに対する評価はどんどん上がっていく。

シュナイダー家期待の跡取りとして。

優れた人格者として。


追いかけても追いかけても、兄の背中は遥か遠く。


以前は自慢の兄だったのに。

最近は、なぜかこうした兄の人より優れた面に遭遇する度に、息苦しくなる。

尊敬している、大好きだから、こそ。


結局のところ、ローレンツは忙しく動き回るリーフを捕まえてアリーチェの事を伝えることができなかった。






悶々としたしこりが彼の心の奥にすっかり住み着いた頃、季節は冬に移り変わっていた。


夕食時、ローレンツはそわそわと落ち着きなく教科書から視線をちらちらと外し母親の様子を伺っていた。


「あの、お母さん....」

「教科書」


切れるような勢いで放たれた言葉に押し付けられるように彼は教科書へ顔を向けたが、震える喉を締め付け、勇気を振り絞った。


「首席を取りました」


ローレンツの中学校の成績はこれまで二位留まりだったが、三年の冬期試験でやっと首席になることができた。

毎日、毎日遊びもせずにこつこつと積み重ねてきた努力がようやく実ったことを両親に知ってほしかったのだ。


母はワイングラスをくるくると回し、匂いをかぐ仕草をした。


「......最低限」

「.....?」

「ようやく最低限の課題を達成したと言えるでしょうね。あなたは高校、大学を卒業するまで首席を維持しなさい。最低限の質を保ちさえすれば、他はもう期待しないわ。あとはリーフがやってくれるもの」

「...........」

「勉強に集中して」


言い残し、母は席を外した。


手放しで喜ぶとか、褒められるとか、期待していたわけじゃない。

そんな願望とはずいぶん前に折り合いをつけていたはずだ。

胃が、痛い。


ローレンツはぱたぱたと皿に落ちる涙が自分のものだと思えなかった。


ローレンツにとって両親の言葉や言動が彼にとってのすべてであった。

母の言葉がどれほど胸を抉ろうと、そのことに疑問を抱く選択肢を彼は持ち合わせていない。


ローレンツは指を動かし、隣の席へのばす。


握り返してくれるはずの手は、今や遠く。

兄の部屋の扉をノックし、話を聞いてもらえばいいのだ。

幼かった頃のように、助けを求めれば。

もう、できない。

したくない。

代わりにむなしい孤独が彼の手を包んだ。






「雪か!まいったなぁ....傘を持ってきてないや....はぁ...」


大粒の雪だ。家に着くまでにはびっしょり濡れてしまうだろう。

仕方ないか、と覚悟を決めて校舎を出ると予想通り、雪は遠慮なく頭に、肩にどしどし落ちてくる。

げんなりしていると、さっと明るいオレンジの傘が差し出され、雪が遮られた。


「え!?アリ!?」


傘の持ち主はアリーチェだった。

なぜここにいるんだろう?ローレンツは予期せぬ再会に喜び、どぎまぎと少女を見つめた。

大判の真っ白なマフラーが白茶の髪を柔らかく盛り上げ、雪の中鼻を赤くしてこちらを見上げる彼女はとても愛らしい。

アリーチェは「突然来てごめんなさい。あの、渡したいものがあって」と肩掛け鞄からリボンの飾りが付いた包みを取り出した。


「この前はありがとう」

「......僕、何かしたっけ?」


まったく心当たりがない。

アリーチェはバツの悪そうに笑った。


「そうよね。あの、ずいぶん前に家の前で会ったでしょ?その時に靴擦れを治してくれて....」

「あ.....あ、うん?それは覚えてるけど」


ローレンツはアリーチェが着ていたワンピースの色まで鮮明に覚えていたが、なぜ今礼を言われているのだろう。ぽかんと少女を見つめた。


「すぐにお礼を言いに行こうと思っていたんだけど.....整理が追い付かなくて、こんな遅くなっちゃったの。あの時は、本当にありがとう」

「そんな気にしなくていいのに。あれくらい...。そっか、わざわざありがとう」


整理ってなんだろう?不思議に思ったが、デリカシーのない男だと思われるのも嫌だったので、ローレンツは詮索しなかった。

包みを受け取り、アリーチェの傘を代わりに持つ。

それにしても、どれくらい待ってくれていたのだろう?寒かっただろうに。

そういえば、少し歩いた所にカフェがあったっけ。


「ね、アリ。もし良かったら、あったかいものでも飲まない?近くにカフェがあるんだ」

「いいわね。ホットチョコレートが飲みたいわ」

「いいね。僕は何にしようかなぁ」


誘ったことに他意はなかった。

ローレンツは包みを持ち上げ、「クッキーかな?」と鼻をひくつかせた。

アリーチェはおかしそうにローレンツの肩を軽く叩いた。


「やだ、もう!ふふ!そう、クッキーよ」

「作ったのかい?」

「ええ。お菓子得意なの。ローレンツも甘いものが好きだったでしょう?」


なんてことなく微笑む少女の言葉はローレンツのしくしくと痛めていた心をほっこりと真綿でくるんだ。


「うん。ありがとう」

「お礼を伝えに来たのに、お礼を言われちゃったわ」

「ふふ」



その後も二人は何度か偶然会うことが重なり、そのうちに偶然ではなく約束を交わして会うようになっていった。

誰かの存在によそよそしく離れていた二人の肩は重なり合うのがまるで当然だったかのように、時間をかけてゆっくりと近づいていった。





そして、三年後。

周囲の予想よりも早く、兄は歴代最年少の若さで医者となった。





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