サーフ・ワックス・アメリカ
デッドマン・スティル・リヴ・イン・ホープ
1
ハスキィは、夜の空が好きだ。
そして、とびきり好きなのが空母の空だった。陸上基地で見るそれよりも、海のど真ん中の空の方が何千倍も綺麗だと思っている。
彼のこのささやかな趣味は、誰に咎められることもなく、出撃のない日は毎日のようになされているものだった。
ハスキィは、この日課をしている最中、ほんのすこしだけ感傷的な気分になってしまう。
彼が吐いた紫煙と同じように、夜の暗闇に一瞬だけその白を主張したかと思えば瞬く間に溶け込んでしまう、その程度の。
彼は今まで自分が見上げたあの空に、どれくらいの時間いたのか、もう覚えていない。額面上の作戦飛行時間は300時間を超えていたが、実際に戦闘をしたのは10回にも満たなかったように思う。どちらにせよ、そんなものに実感も意味もない、と考えていた。
アイランドの鉄扉が重々しく開く音がしたので、ハスキィは振り返って目を凝らした。
甲板に出てきた男が近づいてくる。
彼は痩身ながら筋肉質で、まるで試合前にしっかりと減量し終わったボクサのようだった。
ハスキィは、なんの躊躇いもなく半分すら吸っていない煙草を投げ捨てた。
「クリフ」
ボクサ風の男の名前を呼ぶ。
しかし、ハスキィの思った通りに、彼は何も答えなかった。
ドーベルマンは寡黙な男だった。趣味はハモニカとトレーニングで、ヒマな時はいつもそのどちらかをしていた。そのせいで、この空母という帝国の中で、彼はまさに一匹狼だった。
そういったことは別として、ハスキィはこの男のことを快く思っている。
だからハスキィは、煙草を嫌う彼の前では吸わない。彼が煙草を嫌う理由を、ハスキィは知らなかった。はじめにはその理由を聞こうと思っていたが、ハスキィにとって、そんなことはもうどうでも良くなっていた。
ドーベルマンはハスキィの横に座って、ハモニカを演奏し始めた。
いつもとは違う曲を流しているような気もするが、ハスキィは音楽についてなんの見識もなかったし、ドーベルマンのそれ以外に興味もなかった。
ハモニカの音色は止まない。
やがてハスキィは、煙草が吸いたくなってきて、喫いかけの煙草を捨てたのを少し後悔した。ポケットに手を突っ込んだあたりで、ハスキィはその欲望をぐっとこらえて仰向けに寝転がった。
満天の星が彼の瞳に映り込む。
そうやって、しばらくハスキィは隣のハモニカ吹きの演奏に、ぼんやりと意識を預けていたが、急にぴたりと止んだ。
「来たぞ」
ドーベルマンは言った。
耳をすませると、微かにだが鉄板の階段を軍靴が乱暴に叩く音が聞こえる。
鉄の扉が軋む。
「遅かったな」そのままの姿勢でハスキィが言った。
「悪りぃな、立て込んでてよ」
マラミュートの声だった。
「どうせギャンブルだろう? 勝ったか?」
「まぁな。それより、スキップジャックの調子は?」
マラミュートは腕まくりして、二人の間にしゃがみ込む。
ハスキィはマラミュートの言葉でようやく自分のやるべきことを思い出した。
煙草を吸っているうちに忘れてしまったようだ、とハスキィは思った。
「今から見るよ。でも、そう言ったことは整備士に任せたほうが色々綺麗だ」
「違いない。だが、あれは俺らの飛行機だよ、アル」
「リックならそういうと思ったよ。まぁ、もとからそうするつもりだったし」
ハスキィは立ち上がると、服の埃を少し払った。
「そりゃ良かった」マラミュートは口を歪める。「明日までになんとかなってりゃ俺は文句は言わねえ」
「パイロットにさせるなよ、まったく」
ハスキィは悪態をつきつつも、思わず口を歪める。そして、ぐっと伸びをしながら、アイランドへ向かうことにした。
「ドーベルマン、一曲頼めるか?」
ハスキィが聞こえたのはそこまでだった。それから先のことは、鉄扉の軋みと厚みとが全てを遮ってしまった。
空母の内部は複雑で、迷路のようだ。大抵船というのはそういうもので、三次元的で、複雑で、巨大だ。そして、軍艦になれば、その煩雑さはさらに加速する。戦うことが目的だからだ。どうしてこんなものが浮いていられるのか、ハスキィにはわからない。ただ、空に上がった後に、まるで小舟みたいに小さくなっていく空母を見るのは好きだった。
上段の格納庫への出入り口がある階までハスキィが降りた時、廊下の壁に持たれて水兵と世話話をしていたデイビッド・レーマンに呼び止められた。
「よお。何しにいくんだ?」
「道具を借りようと思ってね」
「そうか。ついでに何人か貸そうか?」
「いらない。どうせ、明日には君たちがしっかりやってくれるんだろ?」
ハスキィはきっぱりと断った。このレーマンという男に貸しを作りたくなかったからだった。
「まぁな」
ハスキィはこの男のことをあまり快く思ってはいなかった。
なるべくなら話したくないし、叶うなら顔も見たくないくらいだった。しかし、レーマンの整備士という立場と、パイロットであるハスキィとは、切りようのない縁があるから、そうはいかない。
ハスキィは、そんな自分の器量の狭さに嫌気が差す。
とことん悪いやつではないとは思っている。ギャンブルも、まだ許せる。ただ……。
「どうした?」レーマンは彼の目の前で手をひらひらさせながら言った。
「いや、すまん。少し疲れてるみたいだ」
ハスキィは作り笑いをしながら言った。
「そうか。んま、じゃあな」
「あぁ、それじゃあ」
ハスキィはそう言って、足早に階段を降りて行く。
ハスキィは目的の階まで降りてから、なにかを吐き出すようにため息をついた。
レーマンは、ずるい男だ、というのがハスキィの考えだった。
それをハスキィが認識したのは、マラミュートがここでのギャンブルにはまり込んですぐのことだ。
マラミュートは一度だけハスキィをギャンブルに誘ったことがある。ハスキィはそれを丁重に、かつ幾度も断ったのだが、彼がしつこく食い下がってくるので、見るだけだと断って賭場と化した食堂までついていった。
マラミュートはレーマンとその整備士仲間の何人かとテーブルについて、ポーカーをやりだした。ハスキィは約束通りにマラミュートの後ろに座って煙草をふかしながらそのゲームを眺めていた。
マラミュートは気のいい奴だったから、しばらくしてからレーマンが周りに目配せし始めたことに気づいたとしても、その意味まではわからなかっただろう。だが、ハスキィは違う。レーマンのその仕草を不審に思ってしばらく監視していると、彼は掛け金を釣り上げるのと同時に、隣に座っていた仲間から別のトランプカードをテーブルの下で受け取ったのだ。
ハスキィはそのゲームが終わった後、それとなくマラミュートを外に連れ出して、なんとかギャンブルを、あるいはレーマンとギャンブルすることをやめるように説得したが、やはり、功を奏しなかった。
それ以降彼は一度も賭場に行ったことはない。
ハスキィは何度かわざとらしく咳をしてから歩き出し、ようやく格納庫に出ると、向かいの壁に整備士の待機所のドアが見える。
格納庫はまるで飛行機の展示場のようだった。所狭し飛行機が並べられ、それらは当然、持ち主がいた。ハスキィはこの空母に乗り組んでいる顔見知りのパイロットを頭の中で順繰りに思い浮かべてみる。
その中の何人かは、もう船には乗っておらず、彼らの乗機もここにはなかった。
やっとドアの前に辿り着いたハスキィは礼儀正しくノックして中に入った。
部屋の真ん中にはこじんまりとした丸テーブルが置いてあり、何人かの整備士がボードゲームをして遊んでいた。少し煙たい。鼻をつくのが煙草の匂いだとはっきりわかったが、ハスキィの吸っているものとは別の銘柄らしかった。
「遊んでいるところ悪いんだが、ちょっと道具を借りてもいいかな」ハスキィは先ほどの苛立ちを隠すために、出来るだけ丁寧に言った。
「あ、中尉」一番手前に座っていた男が立ち上がって、敬礼する。みたところ、彼が一番若い。ネームタグには、P.スポールと書いてあった。
「いいですよ。いつも助かってます」
「ありがとう」
「中尉もどうですか? ハルマやってるんですけど」
「いや、いいよ。そういうの、あんまり得意じゃないんだ」
ハスキィは精一杯の作り笑いをした。
「はい、どうぞ、これです」
別の男が大きな道具箱を大事そうに抱えてきた。
「ありがとう」
「それにしても中尉はどこで整備を学んだんですか? あなたの腕は間違いなくプロですよ。」
道具箱を抱えてきた男が言った。
「いや、昔とったなんとやらだよ」ハスキィは受け取りながら言う。「邪魔して悪かったね」
「お気になさらず」と、若い整備士。「もしよければ、今度別のゲームを準備しますよ。中尉が気に入りそうなやつにします」
「うん、でも、お金かけるのとかはあまりやりたくないかな」
「ああ、僕らがやってるのはシンプルな暇つぶしですよ」
彼は屈託無く笑った。ハスキィにはもうこういう顔はできない。どこかに忘れたかもしれないし、最初から知らないのかもしれなかった。
「というわけで、ギャンブルではありませんから、いつでも」
「そっか、じゃあ、次は参加するよ」
ハスキィは踵を返す。
待機所から出ると、気持ちはぐっと楽になった。まるで敵地に乗り込んだみたいな、そんな気分だった。だが、あの整備士たちは悪いやつらではない。
レーマンの居城だからだろうか。あそこにはいつも奴がいて、踏ん反り返っているからだろうか……。
ハスキィは頭を振って、別のこと、つまりスキップジャックに意識を集中させる。
愛機は格納庫の隅で窮屈そうに翼を畳まれていた。動かないようにロープで床に縛られていて、飛行機としては最悪の気分だろう。
いつもの癖で煙草を取り出したが、ここが禁煙であることに気づいて舌打ちする。
彼らの愛機は、単発機とは思えない大きさの、それに、二階建てバスに無理やり翼をくくりつけたような不恰好な飛行機だった。このスキップジャックは、我が空母に先行配備されたもので、雷撃から急降下爆撃まで行える最新型であった。操縦性は変わっていないし、以前の型式では45度のダイブが限界だったはずなのに、どうやってそういった機能を付加できたのか、ハスキィは疑問に思っていた。
一方、この機体を一番気に入ったのはマラミュートで、彼はこの機体にスキップジャックというあだ名までつけて可愛がっている。
ハスキィはこの名前を全く気に入っていなかった。理由は非常に単純明快で、コメツキムシにも、カツオにも似ていなかったからだった。
ハスキィはマラミュートのネーミングセンスの無さに口もとを緩めながら懐中時計を取り出し、確認する。
整備の時間はまだたっぷりある。
2
翌朝になって、今月7度目の偵察命令が出た。いままでの偵察飛行では、一度も敵機や敵艦隊と遭遇していなかった。
時刻通りの朝食の後、歯を磨いているときに集合をかけられたので、ハスキィがブリーフィングルームに到着した最後のクルーだった。
「揃ったな」
ハスキィが席に着くなり、壇上に立つ男が言った。戦闘機隊を率いるダグラス・クライン少佐だった。
大尉は歴戦の猛者で、パイロットの中では老人の部類だった。大抵は、時間が経つにつれて感覚がマヒしてくる。待機中にもぼうっとしている時間が長くなってくる。そして、それをみんなが認識できるようになると、いつのまにかその爺さんはいなくなっている。つまり、死んだか、下ろされたか、そのどちらかだった。
その点、この男はある意味では異常とすら言えた。誰も、彼がパイロットでない瞬間を見たことはないと噂されているのをハスキィは知っている。
このベテランが他のパイロットに恐れられていたもう一つの理由は、彼の厳格さだった。それこそが、この男の強さの全てだった。厳格な統制に基づく空戦機動で、僚機の勝手な真似は許さなかった。彼の部隊では全ての機体が同じ機動をとり、同じ敵機を狙う。奇襲をかけられて一時散開したとしても、驚くほどの素早さで隊を立て直し、各個撃破すると言われていた。そして、その戦術は「クラインの一群れ」とあだ名されている。
「先遣隊の駆逐艦ピアノ・マンと空母コスタ・デル・ソルの偵察隊の情報によると、ここいらにどうやら敵の艦隊が紛れ込んだらしい。規模はそこまで大きくないと聞いている」と、少佐が切り出した。
「しかし、ブライトサイドの攻撃隊は奴らを取り逃がしてしまった。だからこそ我々にお鉢が回ってきたんだ。我々の空母からは戦闘機8機を含む計12機が出撃し、管制の誘導を受けながらこの地点まで移動することになる。我々が偵察兼第一波だが、もしもの話だが、好条件で仕掛けられるならそのまま獲物を頂くことにしよう」
少佐はニヤリと笑った。
先遣隊は、ブライトサイド、モーニング・アフター、コスタ・デル・ソル、ハンバーガー・レディ、そしてクラフティの計5隻の最新鋭護衛空母を擁し、10隻程度の駆逐艦がその護衛につく、比較的小規模の艦隊である。ピアノ・マンはおそらくその駆逐艦の一隻で、先行して索敵に当たらせていたのだろう。ハスキィは先遣隊の正式名称を思い出せはしなかったが、彼らとこちらの艦隊はほぼ同規模なことは覚えている。即ち、まだ我々も本隊と合流してはいない。
少佐の考えが自分にも理解できた、とハスキィは思う。
きっと我々の艦隊、もしくはそのずっと上の参謀たちは、この戦闘での消耗を恐れているのだ。この航海の目的は、海峡付近で他の艦隊と合流して、そのまま敵の大艦隊と決戦を演じることだった。つまり、数には数を、という至ってシンプルな作戦であり、それだけに規模もとてつもなく大きなものになる。
敵艦隊との正面衝突は損耗の面から避けたい。しかし、出来るだけ削ってはおきたい、といったところだろうか。
「私が戦闘機隊を率いる。爆撃機隊の指揮はアラン・ハスキィ中尉だ。質問は?」
「少佐」ハスキィは手を上げた。「残りの3機はお決まりでしょうか?」
「いや、中尉に任せよう。なるべく腕利きのやつを連れていくといい」
少しの間の後に、少佐は口を開いた。
「他にはないようだな。では、戦闘機隊のクルーは解散後すぐに私のところに来てくれ。簡易伝達がある。以上だ。解散」
その場にいた全員が立ち上がり、敬礼する。
ーー老人でなく、でも若すぎない奴らをメインにしよう。二年めくらいの、一番慣れてきている奴らだ。一人だけ若い奴を連れてくのも良い。自信を持って飛んでいる奴、例えば去年入隊したばかりのブラウンなんかは、任せられる。そうだ、それが良い。自分とリッチー、それからホールがいれば、多少ルーキィが危なくても上手くカバーできるはずだーーハスキィは心の中で整理した。
三ヶ月ほど前に飛行隊を任せられたことは、ハスキィにとって非常に煩わしいものであった。たとえこの中で一番空を飛んだ人間だからと言って、それが飛行隊を率いるに相応しい人間であるかはまた別のことだ、と考えている。
しかし、彼はその雑多で厄介な事柄を、自分のルーチンとして組み込むことに成功していた。つまり、前ほどは煩わしく感じていない。
ブリーフィングが終わったその瞬間から、この部屋の様子は先ほどとは全く変わっていた。いうならば戦闘態勢に入っており、あたりが活気に満ちていたが、それはどこか厳かなものだ。
クライン少佐は、先ほどまで、おそらく戦闘機隊のパイロットたちに何事かを指示していたが、それが終わると、全くブレのない姿勢でハスキィに近づいてきた。
「中尉。よろしく頼む。私は君の腕を買っている」
「ありがとうございます」
「敵に最大限の打撃を与えようなんて思うな」
「分かっています」
少佐が片眉を上げた。
「どでかい作戦が控えていますから、あまり派手なドンパチはしたくないだろうと思いまして」
その言葉に少佐は満足そうに頷いて、彼が持っていた資料を一部ハスキィに手渡す。
「これを読んでおいてくれ」
ハスキィの敬礼にクライン少佐も敬礼を返すと、先ほどと同じぴしっとした姿勢のまま、ブリーフィングルームを出て行ってしまった。
もらった資料に一通り目を通してから、彼は飛行隊のメンバーを呼び集める。トラブルが起こることもなく、ハスキィの思い通りに編成を組むことができた。
「グレッグ、気負いすぎるなよ」
ハスキィは念を押した。ここ二週間ほど偵察隊から外されていたせいか、グレッグ・ホールは気合が入りすぎていたように見えたからだった。
「わかってる」
彼の顔は興奮で赤くなっていた。ハスキィには無い兆候だった。
「隊長さんよ、いつ頃出発するんだい?」
聞き慣れた声に振り向くと、マラミュートとドーベルマンが座っていた。
「そうだった。出撃は3時間後だ。会敵予想時刻はその1時間半後。出撃の30分前までに機体を飛ばす準備ができていれば問題ない。上がってからはきちんと誘導するから心配するな」
彼は集まったパイロットたちに向かって言った。
「質問は?」
「今回の目標は、敵の空母ですか?」
ブラウンが言った。
「ブリーフィングの通り、それはまだわからない。大物過ぎたら四機じゃ手に負えないだろう。あまり気負わないことだ」と、ハスキィ。「皆も覚えておいてほしい。気負わず、団結して、必要ならば戦闘機隊を頼れば良い。いいな?」
わかりました、とパイロットたちが声を揃えた。
ハスキィたちはそこで解散した。パイロットたちが各々やりたいことをやりに行く。場合によっては、それが最後になることもあろう。
「隊長らしくなってきたじゃねぇか、アル」
「そんなことはない。まだまだだ」
「さて、クリフ、お前はどうする?」
マラミュートはドーベルマンを見て言った。
「ハモニカ」
「だろうな。アルは?」
「スキップジャックを見に行くよ。どうせリックはギャンブルだろ?」
「まぁな」マラミュートは立ち上がり、ぐっと背伸びをした。「今のうちにバカスカ勝ってやるぜ!」
ハスキィは苦笑いをした。彼は煙草を一本取り出して、その場で吸い始める。
「俺はひとまずここで一服してからいくよ」
「おう。んじゃな」
そうしてブリーフィング・ルームから二人が出て行くと、途端に痺れるような静寂が訪れた。
ハスキィは、マラミュートやドーベルマンのような趣味は持ち合わせていなかった。そういった点では、彼らのことを羨ましく思う。否、ずっと昔から、ハスキィは彼らのことを羨ましく思っている。マラミュートも、ドーベルマンも、自分だけの何かを持っている。マラミュートは人望のある男だった。彼は人気者で、他の者を惹きつける何かがあった。それはおそらく、天性のものだ。一方で、ドーベルマンは、ハスキィの知る限り、もっとも誠実な男だった。
彼は、ハスキィたちと一緒になる前までは戦闘機乗りだった。同じ飛行隊のエレメントの相棒がある日、その終わりを感じ取ったのか、ドーベルマンに形見を託した。冗談だったかもしれないが、できれば自分の死体を家族に返して欲しいと頼んだ。そして、相棒の予想は的中した。その日の戦闘は5分にも及ぶ異例の長時間にわたり行われた。その戦闘で、ドーベルマンは相棒共々撃墜され、敵地のど真ん中に不時着を余儀なくされた。しかし、彼は負傷していたにもかかわらず、あの鬱蒼としたジャングルの中で、相棒の死体を探し出し、死体を担いで最寄りの味方基地まで傷だらけで戻ってきたというのだ。
彼の度胸と誠実さたるや。
だからこそ、彼は一匹狼でいられる。彼に対する信頼がそうさせるのだ。クリフ・ドーベルマンの、真夜中にシャワーを浴びるという習慣がことさら悪く言われないのも、不思議だが誠実な男であるという評価がそうさせるのだろう。
そんな素晴らしい能力は、ハスキィにはない。自分こそがいちばんの厄介者だ、とハスキィは思う。ハスキィが欲しいのは、経験に基づく知見や、上官の評価などではなくて、誰も真似できないような有能さだった。
気づけば煙草は根本の方までしか残っていなかったので、近くの灰皿でそれをもみ消した。
部屋を出ると、そこは昨夜とは異なり非常に騒がしい。出撃前だから当然だった。何度も人にぶつかりそうになるからハスキィは端を歩くことにしたし、普段はブリッジにしかいないような将校にも何故だか遭遇した。狭い艦内にこれだけの人がいたのかと、ハスキィはそれだけで苛立ちが募った。
格納庫に到着すると、メカニック達が各機体の最終チェックに取り掛かっていた。
「やぁ。手伝いに来たのか?」
愛機の向こう側からレーマンに声をかけられた。スキップジャックの大きな図体のせいで、ハスキィは、声をかけられるまで点検をしていた、あるいはそれを仕切っていたのが彼だったことに全く気づかなかった。
「まぁね。なにかやることはある?」と、ハスキィ。
「いや、こっちに任せてくれ。お前にそこまでやってもらったら俺たちの立つ瀬がなくなる。だから頼むよ」
レーマンはそう言って、スキップジャックに取り付いている整備士に何事か指示をした。
「そうか。じゃあ任せる」
「おうよ。ついでにピカピカに磨いておくぜ」
「ありがとう」
内心苛立ちを感じながらも、ハスキィは笑顔を取り繕う。
「そういえばだけど」ハスキィは深呼吸した。「俺が一度だけ君たちの賭け事に顔を出したのは覚えてる?」
「あー」レーマンは目を右上に向けた。
「だいぶ前のことだな。そんなこともあった気がする」
「ああいうイカサマはやめてくれ」ハスキィは言った。
レーマンはしばらくの沈黙のあと、口を開いた。
「お前、よく見破ったな。今まで一度も見破られたことはなかったのに」
レーマンはそう言うと、スキップジャックのカウリングをくぐり、ハスキィに近づいてきた。
「パイロットが鷹の目ってのは、本当なんだな」
そう言ったレーマンは、見下した表情をしていた。少なくとも、ハスキィにはそう見える。
「だからどうした?」
「まぁ、そうカッカするなって。悪かったよ。あとでマラミュートに謝ればいいのか?」
「なんだと?」
「それがお望みなんだろ?」
「このペテン師め!」ハスキィは語気を強めた。
「いつ謝れと言った? 俺はケチなイカサマをやめろと言ったんだ!」
ハスキィがレーマンを睨みつけると、彼は戸惑った様子で目を逸らした。
「それは……」
レーマンは口ごもったまま、返事をしない。翼の上にいる整備士がその様子を不思議そうに眺めていたので、ハスキィは思わず舌打ちする。
「次やったらただじゃおかないぞ。ぶちのめしてやる。いいからさっさと整備に戻ってくれ」
レーマンは何度も頷いて、わかりやすい作り笑いをする。
「機体のことは任せてくれ……俺が完璧に仕上げるからさ」
ハスキィはレーマンの顔に唾を吐きかけでもしてやろうと思ったが、急に馬鹿馬鹿しくなって、ため息をついた。スキップジャックの整備が再開したのを確認してから、格納庫を出る。
ーー今のあれは明らかにレーマンに対する八つ当たりだった。自分に対する苛立ちを奴にぶつけているだけだ。たしかに彼はペテン師かも知れなかった。だが、これでは俺は赤ん坊だ。自分の気持ちすらコントロールできない。まるでフラットスピンに入ったみたいだ。甲板にでも行って潮風を吸い込んで煙草でも吸おう。気分転換だ。
ハスキィは階段を乱暴に駆け上がりながらそう思った。
甲板に出て、水兵たちが駆け回るなかで、息を整える。
そして、煙草を吸おうとボックスを取り出して中を見たら、そこに煙草は一本も残っていなかった。
3
数時間後には、ハスキィは愛機とともにデッキにいた。そして、自分の部下であるパイロット達に簡易的な事務連絡をしてから、ようやくコクピットに潜り込むことができた。若い整備士が翼の上に登って彼の下まで来て、ぴかぴかに磨かれた飛行帽と手袋を装着するのを手伝ってくれる。それから操縦席に正しく座り込むと、塗料や航空燃料の絡み合った不思議な匂いがハスキィの鼻をついた。ラダーペダルやスティックを操作して、それをコクピットから乗り出して目で確認しながら具合を確かめる。
「ハスキィ!」マラミュートが叫んだ。彼は爆撃手兼無線士だから、ハスキィのすぐ後ろに座っていた。「こちらは準備万端だ。いつでもいいぜ!」
「オーケー、じゃ、今回も素晴らしい空の旅と洒落込もうか」
「あぁ、安全運転でたのむぜ」
マラミュートがおどけた声で言った。
1人の水兵が駆け寄ってきて、戦闘機隊の全機が無事に上空で集合したことが通達された。
「時間だ」
ハスキィは若い整備士に合図して、エンジンを始動させる。けたたましい音とともに、エンジンが何度か咳き込んだのを確認して、スロットルレバーを押し込むと、けたたましい音が鳴り響く。それからもう一度スロットルを絞る。
ハスキィは後ろにいる僚機たちを確認した。皆エンジンの始動が終わったようで、彼らの飛行機も今か今かと発進を待ち望んでいるようにみえる。
フライトデッキクルーが発進の合図を出した。
ハスキィはもう一度スロットルを押し込み、ブレーキを外す。
すると機体は滑走を始める。やがて翼が空気をとらえはじめて、尾部が浮かび始める。もう少しだけ飛ぶのは我慢する。
十分に速度を得て、機体は自然に持ち上がる。
発艦した。
スキップジャックは緩やかに上昇する。
「ソングバード?」
クライン少佐の声がした。無線機の調子を確かめている。
「こちらソングバード、感度良好」
マラミュートが答えた。
機体を、空母を中心とする緩やかな旋回に移し他の機が昇ってくるのを待つ。全機が揃ってから密集隊形を組んで、緩やかな上昇旋回に移った。雲が途切れ途切れに浮かんでいて、それよりも少しだけ高いところで、クライン少佐の一群れがハスキィ達を待っている。
上昇旋回を終えてようやく戦闘機の編隊に合流することができた。ハスキィは自分の隊をエシュロン・フォーメーションに組み直す。直掩に少佐が、カバーにはバートン大尉がつくことになったらしい。真横を通り過ぎる一機にはしっかりと飛行隊長のマークが描き込まれていた。
計器盤に目を落とし、時刻を確認する。まだ会敵予想時刻までかなり時間があった。
管制室に針路を確認し、修正する。
ハスキィは空を見渡した。
ブラウンは4番機だった。しっかりと編隊を守って飛んでおり、その様子は他の僚機とも変わりがないようにみえる。きっと、もう少し実戦経験を積めば良いパイロットになれる、そんな気がした。
ハスキィは自分の初陣を思い返してみる。はっきり言って、ブラウンのような冷静な飛び方ができたのかすら、わからなかった。自分がしっかりと追随できているのかの確認で精一杯だった。敵の恐怖に震えながら操縦桿を握り続け、隊長の後ろについていく。あの時の隊長は、ハスキィの数倍は優しい男だった。飛行中に何回か励ましの言葉をくれた。だが、あの時の隊員は、今やハスキィしかいない。隊長とハスキィ以外は、みんな初陣で堕ちていった。
隊長はそのあと勲章をもらって後方勤務になった。敵艦に損傷を与えたからだった。
彼がいたから俺はまだ生きているのだし、多分教え方も上手かったのだろう、とハスキィは取り止めもなく思う。
その次にハスキィの部隊の隊長になった男は、比較的若手だった。その時の部隊再編で、ハスキィ以外はみんな入れ替わってしまったので、やけに寂しかったのを覚えている。たしかに二人目の隊長はエリートだったが、偵察任務中に部隊ごと未帰還になってしまった。
その後だ。ドーベルマンとマラミュートに出会ったのは。
思い出せば、マラミュートはあの時、離婚したばかりだった。出会って二言目にそれを言い出して、ハスキィは面食らってしまったのでよく覚えている。そして、ドーベルマンは今と変わらず寡黙な奴だった。
二人は昔から変わらない。
ーーそもそも、俺は変わりたいのだろうか。
ハスキィは自問自答する。いつまで経っても答えは出ない。
ふと我に返ったハスキィは時計と地図、それから方位を照らし合わせながら、現在位置を確認する。
左下方に地図通りの島嶼があることを確認して、彼はずいぶん長い間物思いにふけっていたな、と思った。敵艦隊との遭遇予測地点までもうすぐだった。
「ソングバードよりスクールジョッキーへ、予測地点にもうすぐ到着します」
「こちらでも確認している。各機、警戒を怠るなよ。もういつ敵機が出てもおかしくない」
少佐が言った。ハスキィは細やかに振動する操縦桿をしっかりと握り直す。
「マラミュート、無線を編隊へ」
「了解」
「ソングバードより各機へ、セイフティを外せ。味方機を撃つなよ。撃つ前にしっかり確認しろ。みんな、落ち着いて飛ぼう」
ハスキィは無線が切り替わったのを確認してから言った。
部下達の返答が聞こえる。
もし艦隊がここに存在しているなら敵機はもう上がっている可能性があったが、それでも対空警戒は戦闘機隊にすべて任せた方が良いと判断して、ハスキィは海に浮かんでいるはずの敵艦隊を探すために少しだけ左にバンクをする。
たしかに海は広いが、雲が海を切り取るからその分視界が遮られていた。こう言ったとき、艦隊は雲の下に隠れていたりする。
「ハスキィ、敵艦隊が発見された。ここから方位185に80km」
五分ほど索敵を続けていたところで、マラミュートが言った。
「ニアミスだな」
「燃料は?」
「どれだけ下手に飛ばしても帰りまで十分持つ。少佐に連絡してくれ。他の部隊は?」
「リトル・オーパスの索敵機が戦闘に入っている。先遣隊の五隻と我らがスウィート・ドリームも攻撃隊を発進させた。だが当然、俺たちが早く着く」
「よし」
ハスキィは機体を大きく旋回させる。
「こちらソングバードより各機へ、これから大物狩りの時間だ。燃料が不安なら申し出ろ。のやり方をうっかり忘れたやつはいないだろうな?」
「ボス、そりゃあんたが一番心配だよ。もう耄碌してそうだからな!」
リッチーが茶化して言った。ハスキィは笑い声こそ出さないものの、思わずにやけてしまう。
「言ってろ! ブラウン、落ち着いて行くんだ。しっかりとリッチーについていけよ!」
「はい、隊長!」
機首を方位185へ向ける。スロットルを少しだけ絞る。
すると、左翼側で少佐機がすっとスキップジャックを追い抜いて、翼を二、三振った。どうやら、ついてきてくれるらしい。
「スクールジョッキー、燃料は?」
「全機十二分にある。最後までお供しようじゃないか」
「それは頼もしい」
そこからは、ラジオの雑音しか耳に入らない。
ハスキィは深呼吸した。いるかわからない敵より、いることがわかっている敵の方が気が楽だった。
だが、どうしても時計の針の進みが遅い。
「なぁ」
ハスキィは思わず口を開いた。
「どうした?」と、マラミュート。
「俺はお前らと組めて良かったと思ってるよ」
「どういう風の吹き回しだ?」
「いや、なんとなくさ」
「ふぅん、まぁ、お前らしくねぇな。空に上がったら、そういうことは言わねぇタイプだと思ってたが」
「そうだな、もしかしたら、怖いのかもしれない」
「なんだ、いつものことじゃないか。怖いくらいがちょうどいいんだよ。パイロットはみんな、恐怖を知ってるんだろ?」
「そうだった」
「まぁ、ちょうど単調なフライトに飽きてきたところだ」マラミュートは言った。「ついさっき小耳に挟んだんだが、レーマンがギャンブルで俺にイカサマしてたんだってな?」
ハスキィはぎくりとした。
「どこでそれを?」
「出撃前に、スポールが金の代わりに口を滑らせてな。お前が見破ったそうじゃねえか。そういうこたぁはやくいえよ! 一発ぶん殴れたのによぉ!」
無線を通って少し金属質になった笑い声が聞こえた。
「戻ってからでも遅くない」ドーベルマンが言った。
「三発は食らわしてやろう」
「お前と、アルと、俺でか?」
「そうだ」
「いいねぇ、ずるはいけねえってわからせてやらなきゃな!」
マラミュートは威勢良く言った。
「言わない方が良かったかもしれない」と、ハスキィ。
「んなこたぁねぇ。我慢できねぇタチのお前にしちゃあよく耐えたよ」
「それは……」ハスキィは口ごもる。
「……バカ正直とも言う。俺は気に入っている」と、ドーベルマン。
「そうだな。俺も気に入ってるんだぜ、アル」
「それは長所じゃない。俺は……」
「はぁ? 一体何を言いだしてんだお前は?」マラミュートが大きな声でハスキィの言葉を遮った。
「お前が俺たちの能力とやらを気に入ってるように、俺たちもお前の性格を気に入ってんだ。文句はねぇだろ?」
ハスキィから笑みが溢れる。
「お前らもバカだなぁ」
「だろ? お前と一緒だぜ、俺たちはよ。お前と一緒なんだ」
ハスキィはゴーグルを外して、涙を拭く。
「……ありがとう」
4
雲間を抜けるとすぐに敵艦隊を発見することができた。大小あわせて30はいた。航跡からして、ハスキィ達が真後ろから追い縋った形だった。
戦闘はすでに初まっており、あちこちに対空砲火の爆発が見える。
「ソングバードより各機へ、敵艦隊発見! 直掩隊に注意!」
ハスキィが言う。
「こちらスクールジョッキー、確認した」
少佐の機体が少しだけ右にバンクした。スロットルを開いたのだ。機体が加速していく。凄まじい加速だった。どうあがいてもスキップジャックでは出せない。
「各機、増槽離せ!」
少佐がそう言うと、目の前を行く4機からドロップタンクが同時に放たれる。
「ヒュー!見たか今の!」と、リッチー。
「後で少佐にファンレターでも書いてやれ!」と、ハスキィ。
少佐たちが敵機と戦闘に入る。どうやら、左下方にいる空母の直掩隊のようだ。
「こちらソングバード、真下にいるボートを狩る」
ハスキィは、太陽と敵艦の直線上にくるまで機体を直進させる。
「各機、我に続け! 急降下爆撃を敢行する!」
マラミュートから投弾コントロールを引き継ぐ。高度を確認し、機体をハーフ・ロールさせ、下降に入れる。
海が視界全てを埋める。
空母の甲板はひろく、どこに投弾しても命中させられそうな気さえする。
ラジエータフラップを閉じ、速度が十分に出たのを確認してからダイブブレーキを展開。
空母が照準内に収まるように機体の向きを微調整する。
対空砲火が始まった。視界の端で砲弾が炸裂し、ハスキィは冷や汗をかく。
マスクを外した。
息苦しい。
凄まじい速さで高度計が回っている。
可能な限り近づかなければならない。
炸裂する対空砲弾が自分に当たらないことを祈って、ひたすら我慢する。
距離が3000を切ったところで、一段と弾幕が増す。
投下。
ハスキィは思い切り操縦桿を引いた。Gで視界がなくなっていくのを感じながらダイブブレーキを閉じる。引く力を緩め、緩上昇に入ったのを確認してからスロットルレバーを押し込む。
「やったぞ!」
無線越しの声だ。誰かわからない。ブラウンだろうか?
「おい、当たったか! クリフ!」
ハスキィは叫んだ。
「見えてる、命中だ!」
ドーベルマンが普段から想像できないほど興奮した声で叫んだ。
ハスキィは機体をバンクさせながら後方を見渡す。たしかに、空母は黒煙をもうもうとあげていた。
ハスキィは前方を見渡す。護衛のクライン少佐がお出迎えに来てくれているはずだからだ。
だが、空にはどこにも少佐は見当たらない。ハスキィは、酸素マスクを口に当て、クライン少佐に連絡を取ろうとする。
「アル! ブレイクだ!」
ドーベルマンの声に、ハスキィは反射的に操縦桿を倒す。敵機を確認する暇はない。
機体をロールさせて、今度は思い切り操縦桿を思い切り引いた。
上を見上げる。
敵機がチカチカと機関砲を乱射しながら突入してくる。
何発か当たったかもしれない。曳光弾が掠めていったのが視界の端に移る。
「くそ、スクールジョッキー、追い払ってくれ!」
ハスキィは叫んだ。しばし待ったが、返事がない。
「ファスト・カー! バートン大尉! 頼む!」
ハスキィは必死に機体を振り回しながら叫んだ。もはや味方などどこにいるのかすらわからない。
「リック! 無線がいかれたのか!? 誰か!!」
フラップを下げ、機体を降下旋回に入れる。
誰からも返事がないことに恐怖する。
孤独だ。
同時に、スキップジャックにつきまとう敵機に対して激しい怒りと絶望、それから屈辱を感じる。
敵機はすんなりと真後ろに入ってきた。
「ここまでくれば、生きてようが死んでようが知るもんか!」
ハスキィは叫ぶ。
「もう関係ないぞ! リックも、クリフも、いやと言おうがなんだろうが絶対に故郷へ返してやるからな! いいか、絶対にだ!」