暇な神
気がつくと蒼蓮は何もない白い空間にいた。隔てる壁の無いこの素朴な空間は海の様に広大でそれ以外に何も感想が出ないくらい酷く殺風景な空間だ。
ふと、体に違和感を覚える。
(あれ、俺の体)
体に力が入らない。四肢を動かそうにも上手く力が伝達しない為か微動だにしない。そもそも重さを、質量を感じないし質感が欠落している異常事態に蒼蓮は気付く。
「やぁ、目が醒めたんだね」
聞いた覚えのある声が蒼蓮の頭蓋に響く。男のような、女のような、子供のような、大人のような、酷く曖昧で中性的な声だ。何処で聞いた声なのか思い出せないでいる蒼蓮に言い得て気持ち悪い感覚が付き纏う。
「まだ混乱してるみたいだね。 まあ仕方ないよね、あんな死に方したら」
死という言葉に呼応する様に、蒼蓮の心は乱れる。直後、忌まわしい記憶がフラッシュバックし激しい頭痛に苛まれた蒼蓮は全てを思い出した。
「うん、思い出したみたいで何より。 それじゃあ自己紹介をしようかな。僕の名前は暇な神。一応は至高存在者で君達の世界に於ける唯一神ゼウスと同格って覚えてくれたら幸いだな」
荒唐無稽な話に蒼蓮は固まる。神なんて超常の存在を信じた事なんて一度たりとも無いしこれからも信じる気は無かった。だが、この異様な雰囲気の空間と正体不明の声は蒼蓮の固定観念を壊すには充分だった。
(一つ聞いても?)
「一つと言わずに幾らでも。僕は暇を持て余しているからね、じゃんじゃん聞いておくれよ」
(俺は死んだんですか?)
「うん。君の肉体は今頃ミンチになってるだろうねー。 いやー、中々面白い死に様だったよ。君はきっと不幸の星の下に生まれたんだね」
記憶の擦り合わせを行い、間違いの無い事が分かった。ビルの屋上から転落して、地面に叩きつけられ、そして蒼蓮は死んだ。痴情のもつれと言う下らない、あまりに幼稚な理由で。
(じゃあ、もしかしてここは死後の世界?)
「いんや、違うよ。ここは僕の.........まあVIPルームみたいなものさ。 君の魄が地に帰す前に魄をこの空間に吸い寄せたんだ。いやー、大変だったよ、魂と魄のどちらかが欠けたら人間の自我は霧散しちゃうからね」
蒼蓮が説明の意味を理解するのにしばしの沈黙が流れた。言動そのものは理解出来なくも無いのだがオティオーススと呼ばれる至高存在者の行動理念、動機を全く見出せない。蒼蓮は考える。何故、この神は自分をこの空間に捉えたのか、何故、自分が対象になったのか。
あらゆる状況を分析し、問題の認識を行い、解決策に至ろうとするのはある種の職業病なのかもしれない、そしてそれは死後も適用されるらしい。
「神の行動理念は複雑怪奇、けれども僕の場合は快楽至上主義だからね、面白ければそれでいいのさ。 君には面白い結末を見せて貰ったからね、そのお礼だよ、お・れ・い☆」
流石神と言うべきか、考えている事を全て見透かされた蒼蓮は畏怖の念を持って神の存在を再認識する。そして隠し事の類は通用しない事を悟った。
(真白はあの後、どうなりましたか)
「あぁ、彼女ね。落ちる直前に君の身体を抱きしめて一緒に死んだよ。彼女程、愛に盲目で他を顧みず、悍ましい程に渇愛なのは神以外には知らないね。まるで恋の復讐者アンテロスが神懸かりしたみたいで面白かったよ」
神にそこまで言わしめる真白はやはり異常、だったのだろうと蒼蓮は認識を改める。もっと早くに気付けていればこんな結末にはならず、麗華も生きていた、そんな未来が有り得たかもしれない、そう思うと後悔が止めどなく溢れる。
「無駄な夢想に馳せるのは人間の無駄な原理の一つだよね。 彼女と出会った時点で君の人生の帰結すべき場所はすでに固定されていたんだよ。 それは全て最悪の結末に辿り着く。例外無く、ね」
真白に出会った時点で幸福な未来などあり得ないと、そう神に断言されてこれまでの生は無意味なものだったと理解する。
次の新たな人生ではより良い人生に、少なくともヤンデレな女性とは関わらない人生を送りたいと蒼蓮は心底思った。
「それでだ。君、僕の世界に来ないかい? まだ完成して数千年程度の世界だけど面白い世界だよ。魔法があって色んな種族がいて広大な世界は探求するにはあまりに広く不思議に満ちている、そんな世界に君を転移させてあげるよ」
目があったのなら輝いていたのだろう。
魔法や色んな種族なんかはフィクションの世界にしか存在しないと思っていたが実在すると知り僅かばかりの高揚感を覚える。唐突なのにはもう慣れていた。神の存在を容認した時点で蒼蓮の固定観念は破壊されていたのだから。
(なんで俺なんかを選んだんですか)
「だから言ったじゃないか。面白い悲劇を見せてくれたささやかなお礼だって。君は神の善意を信じて新たな生を謳歌すればいいのさ」
特に断る理由は無いし魔法などのファンタジー要素は蒼蓮が好きとする所だ。願っても無い提案を蒼蓮は受け入れた。不安はあったが好奇心、高揚感が負の感情に勝った結果だ。
「うんうん、重畳だ。 ある程度の基本的な知識は転移時に君の記憶領域に植え付けておくよ。 それから種族は……まあお楽しみだよね。 他に質問はあるかな」
(肉体とかはどうなるんですか)
「再生した器に君の魂魄を定着させておくよ。その方が君も馴染みやすいだろうしね。他に聞きたい事はあるかな」
(いえ、特には。あ、最後に一つ。 ありがとうございます)
「うん、礼節を弁える人間は好きだよ。それじゃあ、君の新たな生が有益であり、僕を愉しませてくれるよう期待しているよ」
惨憺たる結末を辿った人生に決別をした蒼蓮は、次の生が意味のある、きっと充足した人生になると信じて意識を消失した。
「さて。 君は凄いね、魂魄の状態にも関わらず彼への偏執的な愛が伝播してくるよ。ああ、そんなに怒りを露わにしないでおくれよ、怖いなぁ」
蒼蓮の魂魄が異世界へ転移するのと同時に新たな黒い魂魄がこの空間に現れた。それはこの白い空間にあってあまりに異質、禍々しいとも言えるものだ。
(彼を何処へやった。私の憑拠を何処に。殺す、お前を殺して私も彼の所に)
「物騒だねぇ。安心しなよ、君も彼と同じ世界に転移させるから。あぁ、愉しみでならないよ、君と彼があの世界でどんな物語を紡いでくれるのか」
オティオーススの声に感情が宿る。それは愉悦、それは慈愛、それは期待。暇な神が、自分を満足させるかもしれないと、そう思ったのだ。
「君がこれから行く世界は日本とは比べ物にならない程に自由だ。殺しなんて日常茶飯事、君には御誂え向きだろ」
それまで荒ぶっていた黒い魂魄は落ち着きを取り戻す。 神は一概にこう述べているのだと捉えたからだ。
(邪魔な存在は殺せばいい、彼を存分に愛していい、あぁ、なんて素敵な世界)
「うん、満足してくれたみたいだね。 それじゃあ君も転移してもらうけど何か質問はあるかな」
(いいえ、彼さえいれば私はいいのです。もしも貴方が嘘をついていたのであれば、私は神であろうと呪い、冒涜し、地を這わせるつもりですので)
「怖いねぇ。そうならない事を祈ってるよ」
黒い魂魄も蒼蓮の時と同様に温かな光に包まれてこの場から消失した。
「さてさて、今日は来客が多いなぁ。ねえ、星の如く輝く者。星乙女アストライアー」
白い空間に歪みができ、そこから現れたのは檻に囚われた見目麗しい女性だった。
純白の羽は天使を連想させ、整った顔立ちは傾国の美女と言われても差し支えのない類だ。艶麗さも併せ持つ女神の様に神々しい女性は檻を掴み一点を睨む。
「流石に神クラスをこの空間に吸い込むのは骨が折れたよ」
「貴方ですね。地球の転生輪廻を乱す悪神は。ゼウス神の名代として貴方を放逐する訳にはいきません」
「籠の中の鳥が小煩く囀るなよ。あんな耄碌した老神、この僕が恐れるとでも思っているなら滑稽也や神の操り人形よ」
淀みのない原初の怒りが、この白い空間を煉獄へと変容させる。まるで意思を持つような這う雷がアストライアーの囚われている檻を襲う。彼女は苦悶の表情を浮かべながらも一点を睨み続ける。
「やれやれ、そんなに熱視線を浴びせられたら姿を見せない訳にはいかないな」
アストライアーが睨む空間が軋みをあげ、揺らめき、ボロボロと崩れてそこから妖異な出で立ちの中性的な人物が顕れた。捉えどころの無い美しさは、底知れぬ不気味さを内包しており、艶やかな曲線美は見るものを虜にし、破滅に追いやる危うさを秘めている。
「やれやれ、せっかく姿を見せたんだから何か感想は無いのかい。 まあ、その雷は神の神格を奪う、謂わば神殺しの雷鞭だ。さぞや辛いだろうね」
オティオーススが指でラップ音を鳴らすと雷ごと檻が消滅し、アストライアーが力無く地に堕ちる。美しかった翼は所々が痛々しく焼け爛れている。
「さて、君の処遇だけど………なんだ、まだ反抗する余力を残してたんだ」
アストライアーは忌むべき対象を捉え、睨む。"正義の粛眼" アストライアーの持つ権能の1つであり神眼の一種だ。その効果は彼女が悪だと認識した者を粛清する。消滅させたり著しく能力を低下させたりと悪の大きさによりその効果は変わってくる。故に正義の女神に主観は不要であり公平でなければならない。
「な―――。 貴方は悪神の筈、なのに何故」
「正義の粛眼、ね。確かに恐ろしい神眼だけど、ここは僕の空間だよ。この場において僕は死なない。そもそも正義の粛眼じゃ、僕の悪意は推し量れない」
神の微笑みがアストライアーに向けられる。その微笑みは相手の心を砕き、抗う事の無意味さを知らしめるには充分だった。愉しげに唇を綻ばせる暇な神は嬉々として告げる。
「大人しくなったね。 さて、君の処遇だけど」
オティオーススは邪悪な笑みを浮かべる。その笑みは幼子の様に純粋であるが同時に恐ろしい気配を漂わせる表裏の笑顔だった。
「君も彼等と同じ世界で踊ってもらおうかな。僕だって善良な心くらいはあるさ、雀の涙程度には神格を残してあげるよ」
アストライアーは絶望する。ゼウス神より賜った任務を遂行できず、あまつさえ神格を奪われ、他の世界に飛ばされる。何よりこの強大な悪を野放しにする、その事が正義の女神たるアストライアーにとってこの上なく苦痛だった。けれど、全てを諦めた訳ではなかった、命があるのならまた挑めばいいのだから。
「いくらでも挑んできなよ。その悉くを僕は捻り潰すよ。 それじゃ、楽しい異世界生活を送ってきなよ」
オティオーススがそう告げるとアストライアーは光に覆われてこの場から消えた。
「新たな役者が3名。あぁ、楽しみだなぁ。僕の世界で君達はどんな風に踊り狂うんだろうね」
愉しげな声が、何もない空間に響き続けた。
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