序幕 3
しばらくの月日が流れた。光崎麗華の行方は依然として知れず会社の雰囲気は未だに重い。
あれから蒼蓮は真白と会っていない、否、合わない様にしている。スマホの通知もオフにして彼女との連絡はしばらくしていない。家に来られても鍵を開けないようにしている。
彼が今抱いているのは純粋な恐怖だ。彼女は狂気に染まっている、何かが欠落している。その事に気付いてしまってからは怖くて仕方がなかった。遅すぎたのだ、もっと早く彼女の本質を理解していれば何かが変わったかもしれない。
浮かれていた頃の愚かな自分を責めないではいられない。
「ちょっと休憩してきます」
いつもは九十九専務と一緒に一服するのだが今は誰かと一緒にいる気にはなれなかった蒼蓮は、休憩する旨を伝えると影をひく足取りでオフィスを抜け出した。
いつもの会社の屋上で缶コーヒー片手に物思いに耽る。 きっとこの事件を起こしたのは―――。 決めつけは良くないとわかっているがそう思わずにはいられない、けれど直接問うなんて恐ろしくて蒼蓮の内には終わりの見えない自問自答の円環が渦巻いていた。
ここの所、蒼蓮は毎日このような事を考え続けている。
「はぁ、駄目だな」
この屋上には一部だけ柵の無い場所がある。安全上問題があるが蒼蓮はこの事を会社に告げておらず柵は無いままだ。
柵のない縁に腰をかけて下を見下ろす。流石にビルだけあってかなり高さだ。
ここから下の景色を見る事で自分の悩みなんてちっぽけなものだと思い込む、それが蒼蓮の悩み解消方法だった。
だが今は、街を歩く小さな人々を見ても悩みが霧散する事は無かった。
「やっと.........見つけた」
耳に纏わりつくような、粘性を帯びた声に呼応して血の気が一気に引いていく。 だってその声は.........。
○○○○○
九十九専務は悩んでいた。行方不明になった光崎麗華の事、元気の無い蒼蓮の事、なんと声を掛ければいいか分からないでいた。
「駄目だな俺は、こんなんじゃ上司失格だよな」
九十九専務は屋上で休憩中の蒼蓮の元に向かおうとした、その時だった。
「すみません。如月蒼蓮君はいますか」
オフィスの扉が開けられて、そこに立っていたのは美しい女性だった。目尻の下がった柔和な瞳、穏やかな声音と清廉な佇まいは一般人とは隔絶された美を秘めて、さらけ出している。その姿には見覚えがあった。以前、蒼蓮が写真で見せた。
「もしかして、蒼蓮の彼女かい」
「はい。本日はいきなり職場に訪れる無礼お許しください。今朝、お弁当を準備したのですが彼、忘れていたみたいで」
最近、心此処に在らずな蒼蓮は何かと仕事上でのミスが多い。得心がいった九十九専務は蒼蓮の席を案内する。
「あの、蒼くんは何処に」
「蒼くん? ああ、蒼蓮は休憩中だよ。それとな、あいつの事、頼むよ。今が一番辛い時期なんだ、寄り添ってやってくれ」
「それは、はい。えぇ、えぇ、勿論です。では、失礼致しました」
礼儀正しく退室する彼女を見届けると九十九は安心する。あんなに素晴らしい彼女がいるなら蒼蓮は大丈夫だろうと、自分が余計なお節介を焼く必要は無いだろう、と。
○○○○○
想像を絶する浮遊感が体を襲う。
舗装されたアスファルトの路面が近づく中で、瞼の裏の暗幕に焼きついた光景を思い出す。
背後から、唐突に気配を感じて底冷えする声がした。次の瞬間、何かに押されて、蒼蓮は転落した。
(あぁ、痛いのは嫌だな)
今まで見下ろしていた人々が近づく中で、重力に逆らい上を見上げるのは無意識下での行動だった。地面が近づく度に死が迫るのが分かるから現実逃避したかったのだろうか。
だが、現実逃避した先にも恐怖があった。
誰かが自分の後を追従してきている。それは長い黒髪をなびかせて歪な笑みを浮かべていた。狂気を灯す虚ろな瞳は大きく見開かれこちらを見つめている。 そして歪んだ口元が動く。
別に読唇術を身につけていた訳じゃないがソレとは長い付き合いだったせいか何を言ったのか理解できてしまった。
>>>>>>>>これでずっと一緒だね<<<<<<<<<
こんな状況でも悪寒は感じるらしい。思わず視線を下に向けるもそこには鮮明な死が目に見えて迫るだけだ。数秒先のひしゃげた自己の肢体を想像する。
(どうして………こんな)
でも、これで良かったのかもしれない。あらゆるしがらみを断ち、楽になりたかったから。
ーーどうせ死ぬならさ、僕の世界においで
何か、声が聞こえた気がしたが今更どうでもいい。
僅かな意識を手放し、思考する事を放棄した。
読んでいただきありがとうございます。