序幕 2
「長々しい挨拶は嫌いなもんで、いきなりですが、カンパーイ」
幹事である健彦の音頭と共に飲み会が始まった。
時刻は18時30分。定時で仕事を終えた蒼蓮と九十九専務含む会社で同じ部署の先輩後輩一同はとある居酒屋に来ていた、つまるところの飲み会である。
これが仲のあまりよくない先輩や後輩との飲み会であったら地獄だったが本日集まったのは蒼蓮にとって仲の良いメンバーだ。
「今日は俺の奢りだからたらふく食べて飲んでくれよ」
九十九専務のその一言で一同のテンションはまだ飲み始めて間もないにも関わらず上昇する。
「流石九十九専務、そこに痺れる憧れるぅ」 「やっぱダンディーなおじさまも最高ね」 「あの糞ったれ課長とは大違いですね」
等々様々な言を発し、飲み会は楽しく開催された。
普段はあまりお酒を飲まない蒼蓮もその場の楽しげな雰囲気に呑まれてついついお酒がすすんでしまう。
「おいおい、蒼蓮ってあんま酒強くないだろ? 大丈夫かよ」
同期に心配されるも時既に遅く、蒼蓮は酔い潰れていた。卓に突っ伏した彼は眠ってしまった様だ。
「仕事の時は頼り甲斐があるけど酒飲みは頼りないわね、相変わらず」
「この調子じゃ、蒼蓮は二次会無理だな」
「私、家近いから送っていくわよ」
彼女は蒼蓮と同期の三崎 麗華。高校の時からの仲で面倒見が良い姉御肌の女性だ。
飲み会の場から一足早く発った麗華は蒼蓮に肩を貸して彼の家を目指す。幸いなことに飲み屋から蒼蓮の家までは徒歩で10分程の距離だ。
「ぎもぢわるぃ」
「世話が焼けるわね、ふふっ」
近場の公園のベンチに蒼蓮を座らせて近くの自販機で水を買う麗華は笑みを浮かべていた。麗華は昔から蒼蓮の事が好きだった。最近、彼女が出来たと聞き、ショックを受けていたがやはり、未だに好意を捨てきれずにいる。
ふと、背後に気配があるのを麗華は感じた。
「蒼蓮? 駄目じゃない、ベンチで待ってなきゃ」
そして、振り向く麗華に鈍器が振り下ろされる。鈍く響いた音は誰かに届く事もなく、人気が無い暗がりの公園で気付く者など誰もいない。乾いた地面に血がジワリと染みていく。
その光景を上から眺める女はブツブツと呪詛を呟き麗華を睨みつけていた。
人は無知であればあるほど冷酷に、残虐になれる。けれど知ってしまったならば人は躊躇を覚える、情を抱く。
女にとって、彼以外の人間は知る対象にはなり得ない、故に。
「彼に近づくからこうなるんですよ」
恐ろしいまでに冷めた声を吐き捨て、女は粛々と宵闇へと姿を消した。
○○○○○
微睡む意識に打ち克ち重たい瞼を無理矢理こじ開け蒼蓮は目を醒ます。頭の痛みに苛まれ、近くにあった水の入ったボトルを一気に飲みほす。徐々に意識が覚醒してきたのか昨晩の事を思い出した。
「はぁ、やらかしたな。みんなに謝ろう」
酒を飲んだ所までは覚えていた、その後は全く覚えていない。きっと麗華辺りが家まで送ってくれたんだろうと予想を立てた蒼蓮は「今日はなんか奢ってやろう」そう思いながら温もり残るベッドから出る。
手早く身支度を済ませてリビングに出ると鼻歌が迎え入れてくれた。鼻歌の主である真白はエプロン姿でキッチンに立ち、何かの料理を作っている。
「おはよう」
「おはようございます蒼くん。 テーブルに朝食、準備してありますよ」
今朝の朝食はスクランブルエッグの乗ったトーストと味噌汁だ。正直な所、蒼蓮はあまり食欲が無かったがせっかく彼女が作ってくれた料理を粗末にするのは男として駄目だと思った。
「頂きます」
朝は余裕を持ちたいからいつも早起きをするのだが、今朝は遅く起きたせいで朝食を手早く済ませる。その間も真白はキッチンで何かを切っていた、ミンチにしているのだろうか。
少し気になり視線をチラチラと向けるとその視線に真白は気づき笑みを浮かべた。
「腐った肉が沢山あったので、家の庭の肥料にしようかなって。あぁ、でも、こんな卑しい肉片じゃ、庭の方が可哀想ですね。ねえ、薄汚い泥棒猫さん」
そんなに肉を冷蔵庫に入れていただろうかと蒼蓮は疑問に思ったが二日酔いのせいで思考が上手く働かず、あまり深く考えずにその日は会社に出社した。そういえばいつからだろうか、彼女が家に平然と居るようになったのは。
「おはようございます」
オフィスに入ると重い雰囲気がフロアに浸透しているのを感じた。普段の喧騒はなりを潜め、まるで通夜の様に物静かな状況に不安を覚えた蒼蓮は理由を探るべく健彦あたりに話を聞こうと自分のデスクに座った時だった。
「おい、蒼蓮! あの後、麗華はどうしたんだ」
九十九専務が険しい顔で問いただしてくる。肩に手を置く力は常より遥かに強く問題の深刻性が浮き彫りになる。蒼蓮には何の事だかさっぱりわからず呆然とするしかなかった。
「あぁ、すまねぇ。少し取り乱したみたいだ。いいか蒼蓮、落ち着いて聞けよ」
九十九専務の表情は神妙な顔つきに変わり、自然、背筋を正す。何か良からぬ事なのは間違いなさそうだ。
「三崎麗華が行方不明になった」
その日から、蒼蓮の人生は狂い始めた。
○○○○○
三崎麗華の行方不明から一ヶ月が過ぎた。未だに彼女の手掛かりは見つからない。ニュースでも取り上げられたが目撃情報の一つもなかった。
麗華は一体どこにいるのか、その事ばかりに気を取られる蒼蓮は仕事、私生活共にに全く身が入らない日々が続いていた。
「どうしたんですか、蒼くん」
休日の家でボーッと何か考え事をしている蒼蓮に真白が話しかける。
「まだ同期が見つからなくてさ」
蒼蓮の声音はいつもより幾分トーンが低い。彼はたらればを考えていた。
もしも自分が酔い潰れていなければ、と。
自責の念は日に日に重みを増して彼を苛む。
「どーでもいいじゃないですか、そんな些細な事」
ゾッとする程無機質な声に蒼蓮は思わず真白の方へ振り向く。彼女はニコッと微笑んでいたが眼底には底知れぬモノが垣間見えた気がした。その瞬間から、蒼蓮にとって真白の笑顔は歪なものだと感じるようになった。
「な、なんだよその言い方! 麗華は昔からの幼馴染みなんだぞ、それをどうでもいいって.........どうでもいい訳ないだろ!」
今までの自責の念を晴らすかの様に蒼蓮は怒鳴り声を上げる。何かの聞き間違いだったのかも知れない、けれど、内から溢れる感情を彼は抑えられなかった。
怒鳴り終えた後で彼はハッとした。これではただの八つ当たりではないかと。冷静になって自分の愚かさに気付く。
「ふふっ。やっと、私を見てくれましたね。今までは心ここに在らずでしたからね、嬉しいです、えぇ、とっても」
彼女は怒鳴られたにも関わらず微笑みを浮かべていた。普段であれば可愛いと思うのだろうが今は恐ろしさを感じる。なんて空虚な微笑みなのだろうと。
そして真白は蒼蓮の耳元で告げる。
「蒼くんは私だけを見ていればいいんです。貴方の憎しみも、悲しみも、喜びも、全て私のモノなんです。それを奪うものは誰であれ私が消してあげますから、だから、ね? 私だけを見て」
偏執的で盲目な愛を嘯く真白の柔らかな声音は、言葉は、酷く薄っぺらで偽り飾り立てられた醜悪なものに感じられた。一度抱いた猜疑心は決して消えない。
真白の行動は全て歪で、破綻していて、狂気染みている様に思えて蒼蓮は身の内が底冷えする様な感覚に襲われる。そして彼女の言動はある事を示唆している事に気付いてしまった。
「か、帰ってくれ!」
思わず蒼蓮は真白を突き放す。驚く程に軽い彼女の体は壁にぶつかる。
「また………きますね」
酷薄な笑みを浮かべる真白が部屋から出て行くのを確認してドアを施錠する。二重に鍵を掛け、チェーンも掛けた。ベランダも全て施錠しカーテンを閉める。
「何なんだよ、何なんだよ一体」
一人嗚咽を漏らす彼は何が起きたのか理解出来ずにいた。いや、理解はしているのだ。彼女の言葉を鑑みるにまず間違いないと。
だが、今までの彼女を知っているだけにとても現実を全て容認する事は出来なかった。
願わくばこれが夢でありますように。そう思わずにはいられなかった。
読んでいただきありがとうございます。