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ランク外冒険者がゆく  作者: 小馬鳥
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さらば天秤、黄昏に散る

当面の間は毎日15時に更新していきたいと思っています。

何かと拙いかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。

 天秤大輔(てんびんだいすけ)は久しぶりに流れ星を見たその日、二十二年の短い生涯を終えた。

 西の空が青藍から橙色を経て、一際鮮やかな朱色へと染まる、素敵な黄昏どきだった。


――


 人の世はまさに禍福倚伏(かふくいふく)だ。程度の差こそあれ誰しもその人生において、浮き沈みというものを経験する。多くの場合、運の良いときは気分が良くなり調子も出てくるが、反対に運の悪いときには気分が滅入り、心も重くなる。そうした波を乗り越えつつ日々を過ごしていくことがすなわち、生きていくということなのではないだろうか。

 しかし世の中には、何事にも例外というものが存在する。広い世界の中には、いついかなるときも、周囲の人々よりも運が悪いという残念な人間もいるのだ。そうした人間たちを取り巻く環境には、慈悲など存在しない。それは幼い子供による容赦のない陰湿ないじめのように、逃げ場をなくしつつ渦中にある人間を追いやり、そうした人らを失意のどん底へと突き落とす。彼らは好きでその境地に甘んじているわけではない。ただそこから逃げ出そうとしても、最悪が彼らを追いかけてくるだけなのだ。

 そんなあまりにも可愛そうな人たちの中でも、天秤大輔は最もひどい部類だった。彼のとある一日を例に、どういった生活を彼が送っていたのかを見てみたいと思う。


 朝起きるときに目覚まし時計が壊れていることはあたりまえなので、当然目覚ましはふたつ用意してある。その内のひとつはやはり壊れていたのか、三時を少し過ぎたところで止まっていた。もしかするとだが、ずっと先送りにしてきた有給を、やっとの思いで取得したのかも知れない。天秤からすれば運の良いことにひとつはきちんと機能してくれたので、予定していた起床時間に目を覚ますことができた。

 洗面台に行くと、いつもの冴えない顔がこちらを伺っている。前髪が目元をかなりの部分隠しているが、それが自信のなさをよく表していた。寝癖なのかくせっ毛なのか判然としない髪型で、頬はこけており、ここ何日かまともに寝食していない不摂生さをありありと感じさせる。彼はその場所がどうしても好きになれず、いつも手早く最小限の用事だけを済ませて立ち去ることにしていた。


 その後家を出るまで特に問題は発生せず、今日は運が良いと気分良く玄関のドアを開けた天秤だったが、アパートを出る所で、黒猫がさっと彼の右うしろから左前へと横切って行った。直後に切れる、彼の靴紐。その程度のことはまだ彼にとって予想の範疇なので、鞄に忍ばせていた予備の靴紐を手早く通し、慌てることなく駅までの土手道を歩いていく。川沿いにある彼のアパートは、少し歩けばバス停も利用できる。バスに乗れば駅までは二十分ほどの距離だ。しかし彼がバスに乗ることはない。人は過去から学ぶものなのだ。


 そうして天秤が駅に着くと、電車は人身事故で止まっているという。それはそうだろう、と彼は思う。ここまで何事もなさ過ぎて、むしろ不安になってきた頃だったから少し安心していた。結局電車は定刻よりも十数分遅れで出発し、彼をきちんと目的の駅まで運んでくれた。そして到着した駅からまた二十分強かけて会社までの道のりを歩いて行き、彼は定時の一時間半と少しまえに出社することに成功した。記録的な快挙である。

 エレベーターを避けて階段で、四階にある会社のフロアに上がり、ドアノブを慎重に回す。以前彼の手でそれが壊されたとき、彼は予想外の手痛い出費を強いられたことを昨日のことのように思い出す。今日は製造時に想定された機能を果たしたドアノブに、彼は心の中で称賛を惜しまなかった。オフィスに入ってすぐスイッチを入れた蛍光灯はすべて点き、PCも問題なく起動し、クライアントからの苦情や督促、さらには社長が愛人へ向けて送ったつもりが社員全員へ誤送信してしまったという類のメールは届いていなかった。


 この時点で、天秤は明らかにおかしいと感じていた。あまりにも平穏に過ぎる、と。彼のこの疑念は、会議で用意すべき資料のコピーを主任に手渡した際、「ありがとう」と言われたことで確信に変わった。その後も彼は何のトラブルにも巻き込まれず、先輩から定時で帰ってよいとの言葉をもらって茫然自失する。現実にそれが実行に移された、まだ明るい帰り道を行きつつ、彼はそれまでの人生を振り返っていた。

 あまり運が良いほうではなかったけれど、もう少し楽しいことも経験してみたかった。やってみたいが時間がなかったことも、まだまだあった。贅沢を言い出せばきりがないが、せめて誰かと友人なりなんなり、そういった親密な関係を築いてみたかった、と。

 そうした観念ともいえる彼の雑念を払うようにして、土手道から見えるやけに綺麗な夕焼けが、その思考の大半を奪い去っていった。映画の一幕のように綺麗なマジックアワーに心奪われていると、視界の中心辺りから上端の方へと、橙色の中空から濃藍に染まりつつあった天頂へと向けて、何かが通り過ぎていくのが見える。


「流れ星…」


 それは幾筋もの光の矢だった。流星群の到来などニュースで言っていたっけ? と天秤は思い返したが、久しくニュースなど見る時間がなかったことを頭の片隅に思い出す。しかしそんなことがすぐにどうでも良くなるほどの圧倒的な光景に見とれていると、急に彼の視界の下方から橙色の暖かみが消え、冷たく伸し掛かるような黒が覆い被さってくる。

 流れ星が見えなくなってしまった、という残念な思いが、彼がその人生で考えた最後のことだった。


 こうして天秤はその日、拳大ほどの隕石に的確に心臓を撃ち抜かれ、仰向けに倒れて即死した。

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