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レインコートの殺人鬼

作者: 西禄屋斗

 雨だ。


 仕事帰り、駅のホームに降り立った私は、暗い空から落ちてくる無数の雨粒を見上げながら、今朝の天気予報を恨めしく思った。


 出がけにチェックしたテレビ番組の気象予報士は、今日一日、何とか保ちそうだと言っていたのに、梅雨前線が予想以上に早く北上したのか、雨は小雨どころか本降りになってしまっている。天気予報をすっかり鵜呑みにしていた私は、折り畳み傘さえ持っていなかった。


 改札口を出ると、いつも閑散としているタクシー乗り場には、このときとばかりに長蛇の列が出来ていた。皆、私同様に傘を持って来なかったクチだろう。


 乗車待ちの行列とは反対に、駅前へとやって来るタクシーは(まば)らで、一台が客を乗せて行くと、また一台がようやく到着するといった具合だ。これでは列の後ろに並んでも、自分の順番が回って来るのは一時間以上かかりそうだった。


 とりあえず私は、駅から二十メートルと離れていないコンビニへ駆け込み、安価なビニール傘を購入した。ほんのわずかな距離を走っただけでも、ストッキングを履いた私の脚はびしょびしょだ。私はベソをかきたくなった。


 駅から一人暮らしをしている私のマンションまで、徒歩だと二十分ほど掛かる。もう毎日のように往復しているので、それくらい歩くのは──日頃の運動不足解消も兼ねて──、特に苦でもないのだけれど、さすがに雨の中となると嫌気が差す。


 しかも最近この辺りでは、物騒な事件が起きていて、それが余計に私の気を滅入らせた。


 物騒な事件──それは若い女性ばかりを狙った連続通り魔殺人のことだ。


 いずれも一人暮らしの女性ばかりを帰宅途中に狙い、すでに六名が犠牲になっている。必ず雨の日の夜に犯行が行われるため、“レインコートの殺人鬼” という名がマスコミによってつけられていた。


 そんな名前がつけられたのも、犯人がレインコート姿で女性を襲っているらしいと分かったからだ。何でも、四人目の女性が犠牲になったとき、たまたま近くを取材中だったタブロイド紙の記者がおり、悲鳴を聞きつけて駆けつけると、被害者が死に際に『レインコート』と言い残しのだという。


 今、世間は、そのセンセーショナルな事件の話題で持ち切りだった。


 通り魔が出没するのは、私が住んでいるマンションから、そう遠くないところに集中している。しかも今日は生憎あいにくの雨。ひょっとしたら通り魔と出くわしはしないか、私は不安に駆られた。


 しかし、いつまでもこうして駅前で立ち尽くしているわけにもいかない。残念ながら雨はとても止みそうにないし、タクシーにだっていつ乗れるか。私は意を決して、自宅マンションへ急ぐことにした。


 最初のうちは駅から近いこともあって、同じような方向へ帰る人の姿が多く、いつもの帰宅風景と変わらなかった。


 だが、次第に駅前の繁華街から閑静な住宅街へと入ると、人々はそれぞれの家へと分かれて行き、私だけが取り残されていくような心細さを味わう。


 とうとう、私の横を一台の車が追い越して行ったのを最後に、急に辺りがシンと静まり返った。


 毎日通い慣れているはずの道が、見知らぬ場所のように思えた。


 普段、こんなに静かだっただろうか。


 こんなに外灯の明かりがぼんやりと頼りなく、暗かっただろうか。


 こんなにも駅とマンションとの距離があっただろうか。


 すでにパンプスの中はずぶ濡れで、一歩踏み出すたびに不快感が伴う。ブラウスも肌に張りつき、スカートも脚にまとわりつくようだ。


 ――もうイヤだ。早く帰って、温かいお風呂に浸かりたい。


 私は歩く速度を早めた。


 そんな気持ちに反して、傘を差していても雨に濡れた身体は水を含んだように重く、動きが遅く感じられた。いくらもがいても、自分の身体ではないみたいだ。


 時折、誰かに付けられていやしないかと、私は何度も後ろを振り返った。そんな不安とは裏腹に、私の後ろにはネコ一匹いない。見えるのは降り続く雨ばかりだ。自分でも気づかないうちに、ビニール傘を握る手には力がこもっていた。


 やがて、見慣れた公園が見えて来た。


 ここまで来れば、およそ二百メートル先の国道は交通量が多いし、それを歩道橋で越えれば、じきに私の住むマンションだ。どうやら何事もなく帰れそうだ、と私はホッと胸を撫で下ろしかけた。


 ところが次の瞬間、その公園から急に飛び出す人影があった。私は思わずギョッとし、立ち止まってしまう。


 現れたのは臙脂えんじ色のレインコートだった。その人物は私の方へ小走りで駆け寄って来る。


「ひっ──!」


 私の悲鳴は声にならなかった。それほど突然のことで、驚いたのである。


 レインコートの人物は私の前で立ち止まった。私は何をされるのかと傘を固く握りしめたが、相手は予想に反して軽く会釈をしてきた。


「驚かせてすみません。タクシーを拾いたいので、そこの国道までご一緒させてもらえませんか?」


 それは凶悪な通り魔の声ではなく、若い男性の声だった。フードを被った男の顔を覗くと、無精ヒゲを長く伸ばしているが、まだ二十代後半か三十前後くらいだろうか。目元は人懐っこそうな印象を受けた。


 ふと、私は不思議な感じを受けた。初対面のはずなのに、何処かで会っているような気がする。いったい、何処で。


 しかし、見た目で人を判断してはいけない。この男性が本当に危険な人物ではないのか、まだ分からないではないか。


 この男はどれだけの時間、雨の中にいたのだろう。臙脂えんじ色のレインコートは水に浸けたみたいにびしょ濡れだった。両手はポケットに突っ込んだまま。どうして、こんなところにいて、私に声など掛けてきたのか。


 男はさらに喋った。


「いやぁ、このひどい雨でしょ? 傘がなくて困っていたんですよ。タクシーを拾うまで、中に入れていただけると有難いのですけど」


 私は怪しんだ。


 確かに、男は傘も持たずにずぶ濡れだが、しっかりとレインコートを着込んでいるではないか。それに待っていたのが国道ではなく、わざわざタクシーなど通りそうもない公園でというのも釈然としない。男の話は警戒心を持った女性に近づくための作り事ではないだろうか。


「どうか助けると思って。お願いしますよ」


 男はさらに懇願し、私に近づこうとした。私は身を固くして、男から離れようとする。一瞬、男の顔つきが変わったような気がした。


 そのとき──


「どうされました?」


 突然、強烈な光が私と男の顔に当てられ、目が眩んだ。懐中電灯の光だ。


 光が下へ向けられると、白い雨合羽あまがっぱを着た警察官がやって来るのが見えた。


 警ら中と思われる警察官は私たちを見て、男女の揉め事かと踏んだらしい。今度は男の方にだけ懐中電灯の光を当てる。


「何かありましたか?」


 やはり三十前後の警察官は男の方を油断なく窺いながら、震える私に尋ねた。


 私は何か言おうと思ったが、歯がガチガチと当たるばかりで、唇は貝のように閉じられたまま。目の前にいる男への恐怖からだ。


 現れた警察官に対し、男は明らかに狼狽した様子だった。後ろへ下がるようにして、私と警察官から離れようとする。


「オレはただ、彼女の傘に入れてもらおうと思って……」


「何だって?」


「お、オレは何もしていない! オレは彼女に声を掛けただけだ!」


「詳しい話は交番で聞きましょうか」


「くっ──!」


 職務質問をされると思った男は、急に背を向けて逃げ出した。


 警察官は、「待て!」と鋭い警告を発し、男を追いかけようとした。ところが、相手の足は陸上の短距離選手みたいに速い。


 五十メートルも追跡しないうちに差はあっという間に開き、警察官は途中で諦めてしまった。苦々しい表情で、私のところへ戻って来る。


「あの男性は知り合いですか?」


 違います、と私は首を振った。


 この警察官が通りかかってくれなければ、今頃、どうなっていたことか。私は安心した拍子に力が抜けてしまい、その場にしゃがみ込みそうになった。


 そんな私に対し、警察官は優しく声を掛けてくれた。


「もう大丈夫です。私が家までお送りしましょうか。最近、この辺では物騒な事件が続いていますからね」


「あ、ありがとうございます」


 警察官の好意に私は甘えることにした。実際、あんなことがあったあとで、一人で帰ることなど出来なかっただろう。それに、いつあの男が戻って来るか分からない。


 公園からは何のトラブルもなく、無事にマンションまで辿り着くことが出来た。


 それにしても、あの男はいったい何者だったのだろう。本当にタクシーを拾うまでの間、傘に入れて欲しかっただけなのだろうか。それとも──


 今夜のところは何事も起きずに済んだが、もし、あの男が “レインコートの殺人鬼” ならば、今後も私を付け狙うかも知れない。一応、警察に相談した方がいいだろうか、と私はあれこれ考えていた。


「それでは本官はこれで」


 私を助けてくれた警察官は、マンションの入口で敬礼し、その場から立ち去ろうとした。私はそれを呼び止める。


「あの……よかったら、上がっていきませんか? タオルと温かいコーヒーくらいしかお出しできませんが、助けていただいたお礼に」


 すると警察官は相好を崩した。


「それは有難いですね。正直、この雨には参っていたんです」


 職務中だから、と言って断るかと思ったが、やはり警察官も人間だ。


 私は命の恩人を部屋へ案内した。玄関で待っていてもらい、タオルを渡す。警察官の着た雨合羽はずぶ濡れだった。


「今、お湯を沸かしますから」


 私はコーヒーの準備に取りかかった。コーヒーを淹れ終わったら、この警察官に今後のことを相談してみよう。


 やかんでお湯を沸かしている間、私は奥の部屋に引っ込んで、電気も点けずに着替えようと思った。駅から延々歩いたせいで、ビニール傘を持っていても、全身がぐっしょりだ。私はブラウスのボタンに手をかけた。


 そんな私の背後に、気配が忍び寄るのを感じた。私はハッとして振り返る。そこには玄関で待っているはずの警察官が立っていた。


「な、何ですか!?」


 今まさに着替えようとしていたときだったので、私はムッとするよりも怯えたような声を出した。すると、暗がりの中で、あの人の良さそうな警察官の顔が険しく恐ろしいものになっているのを見て、私はすくみ上がる。


 いきなり警察官の手が伸びて、私の口を塞ごうとした。


「イヤッ!」


「こんな夜遅くに見知らぬ男を連れ込むなんて。可愛い顔をして、いつもこういうことをしているのか?」


 およそ警察官らしくない言葉に、私は必死に首を横に振った。だが、警察官はまるで信用しない。私の口を塞ぐ手に力がこもる。


「ウソをつけ! さっきの男だって、お前が誘ったんじゃないのか?」


「キャッ!」


 乱暴に突き飛ばされ、私はベッドの上に倒れ込んだ。その上に警察官の身体がのしかかってくる。ブラウスに手がかかり、一気に引きちぎられた。


「キャーッ! やめて!」


「この淫売め! このオレが懲らしめてやろう! じっくりとな!」


 警察官の変貌ぶりに、私はひどいショックを受けた。市民の安全を守ってくれるはずの警察官が、どうしてこんなことを――


 濡れた警察官の雨合羽が私の肌に触れた。そのとき、私は四人目の犠牲者が口にしたという『レインコート』という言葉を思い出す。


 ――ひょっとして彼女は、『犯人はレインコートを着た警察官』だと言いたかったのではあるまいか。


 警察官は息づかいも荒く、私に暴行しようとした。もちろん抵抗を試みたが、女の細腕では男の力に敵いっこない。私は完全に組み敷かれた。


 怯える私を見下ろしながら、警察官はまるで変質者のような表情で舌舐め擦りをした。


「お前は知らないだろうが、オレは以前から、お前のことを見ていたんだぜ。いつもオレのことなんか無視しやがって。誰のお蔭で平穏無事に暮らせていると思っているんだ? オレだよ! オレがお前を守ってやっているんじゃないか! それなのに――今日はたっぷりとオレのことを教えてやるからな!」


「イヤァァァァァッ!」


 そのときだった。玄関のドアから誰かが駆け込んで来る足音がしたのは。


 警察官もそれに気づいたのか、ハッと後ろを振り返る。しかし、遅かった。


「こいつ!」


 ゴッ、という鈍い音がしたかと思うと、急に警察官は白目を剥いて倒れた。私は上半身を起こす。


「あ、あなたは……」


 私を助けてくれたのは、公園で出会った臙脂えんじ色のレインコートを着た男だった。今は被っていたフードを脱ぎ、無精ヒゲ同様にクシャクシャの髪を振り乱して、肩で息継ぎをしている。


 手にはマンションの廊下から持ち出したらしい消火器があった。これで警察官を後ろから殴ったのだろう。私を襲った警察官はどうやら気絶したようだった。


「ハァ、ハァ……どうも怪しいと思ったんだ、この警官……」


「あっ――!」


 私は思い出した。この男の顔に、道理で見覚えがあるはずだ。


 名前までは憶えていないが、彼は “レインコートの殺人鬼” の最初の犠牲者となった女性の兄ではなかったか。確かテレビの取材に対し、涙ながらに妹の死を悼み、犯人をこの手で殺してやりたいと訴えていた。


 私はボタンのちぎれたブラウスの前を掻き合わせながら、彼にお礼を言った。


「あ、ありがとうございます。助けていただいて……」


 すると彼は、急に力が抜けたように、消火器をゴトンと床に落とした。


「そんな、とんでもない。こういうヤツは許せなくてね」


 彼は茫然とした様子で、倒れている警察官から私の方へ顔を向けた。


 ゴゴゴゴゴゴッ……ドドォォォォン!


 そのとき、大きな雷鳴が聞こえた。稲妻が走り、暗かった部屋の中を一瞬だけ浮かび上がらせる。


 次の瞬間、私は心臓を鷲掴みされたようにゾッとした。雷のせいじゃない。彼の目の光が尋常じゃないものに見えたからだ。


「ひとつ大きな事件が起きると、その模倣犯や便乗したクズが出て来るものさ。この警官みたいにね」


「………」


 彼はレインコートのポケットに手を入れた。公園のところで初めて会ったときと同じように。私は息を呑んだ。


「こんな雨の日は思い出すよ……妹を殺したときのことをね!」


 ポケットから取り出されたのはナイフ。それがゆっくりと私の方へ近づく。


 この男こそ、レインコートの殺人鬼――


 私は目の前にある男が握りしめたナイフを見つめたまま、気絶した警察官の腰の辺りを手探りでまさぐった。イチかバチか――


 指先が硬いものに触れる。私が探していたもの――拳銃だ。


 もっとも、普通のOLに過ぎない私に、それが扱えるかはどうかは運を天に任すしかない。映画のヒロインなら、このような場面シーンを鮮やかに切り抜けるのだろうが。


 この先に待つのは、バッドエンドか、或いはビターエンドか――


 キッチンではやかんが沸騰したことを知らせようと、ピーッと甲高い音を立てていた。まるで私の代わりに悲鳴を上げているかのように。

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[良い点] 予想通りの展開の自然さと、それをかき乱す意外性のコントラストが際立っていて面白かったです。 読者にゆだねる結末、それはないでしょうとは言わせないところまで書かれていて、うわーどっちでもあり…
[良い点] 「レインコート」というキーワードが最後まで活かされていたこと。 意外な展開と読みやすい文章で一気に惹きこまれました。 面白かったです!本当はもっと言いたい事があるのですが、ネタバレになって…
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