冷凍パスタの女
「お花見弁当のおかず、どれが一番おいしかった?」
と息子に聞くと、「パスタかなぁ~」となおざりに返事が返ってきた。
うーん、やっぱりか……と、私はうなだれる。
早起きして気合を入れて作った唐揚げも、可愛くラッピングしたサンドイッチも彼の琴線には触れなかったようだ。顔には出さずに落胆する。
主婦歴は年々長くなるのに一向に上達しない料理の腕では、進化し続ける最近の冷凍パスタに勝てる気がしない。
息子は、数ある屋台の中から、なぜそれを気に入ったのかわからない不気味なおたふくのお面を「1つだけ! 1つだけだから!」と選んで買った。
大爆笑している小学生男子を横目に、なんでこんな風に大きくなっちゃったのかなーと昔を思い出して遠い目になる。
赤ちゃんのころは、おいち、おいちってお母さんのご飯を一生懸命手づかみで食べてくれていたのに。
そんな昔話をすると怒るようになってしまった、いまや立派な少年だ。
「おーい、急いで帰るぞ~。駐車場、すごい渋滞だ」
「待って、お父さーん! これ見てー!」
大きなランチセットを持って先をずんずん歩く夫の後ろ姿に追いつこうと、今年10歳になる息子が駆けていく。
拡大縮小したみたいな二人の背中を追いながら、私はわざとゆっくり、頭上を覆う雲のような満開の桜の枝を見渡した。
まったく、男たちは情緒がない。
でも、それがいかにも夫とその遺伝子を引き継ぐ子らしくて、私は10年前と変わらない桜に微笑みかけるのだ。
***
「奈緒ちゃんさ」
付き合っていたころ、夫は私のことをそう呼んだ。男性からちゃんづけされることに慣れなくて、初めはどぎまぎしたものだ。
それがいつしか当たり前になった大学4年の春。
私たちは長すぎる就職活動にやっとゴールを見つけつつあって、久しぶりに仲間内で集まり、桜の下で宴会を開いた。
「最終面接、どうだった?」
恋人であっても、就活の結果というのはなかなかナイーブな問題で、私たちはお互いにできるだけその話題を避けてきた。
どちらかが決まってしまえば、嫉妬や焦りでだめになる。
そうやって別れたカップルを何人も見てきた。就職氷河期と言われる世代だ、付き合っている二人ともが同時にうまくいく、というのは稀な話で、私たちはそんな中、何とかお互いを気遣ってやってこれたのだと思う。
彼があの日、ついにそんな話題を出したのは、酒の席で気が緩んだのと、桜にそそのかされたのだと私は思っている。
日本人というのは、白く霞がかった空と交じる薄紅の花弁をみると、そのめでたい雰囲気に乗せられて、何か特別なことが起こりそうだと錯覚してしまうようだから。
「……落ちちゃった」
私は嘘偽りなく言って、ビールをあおった。花冷えの午後、キンと冷えたビールは体を芯から凍えさせる。何か胃があたたまりそうなものを口にしたくて、自分の弁当を開ける。
「また冷凍パスタ?」
「……だって、料理できないんだもん……。知ってるでしょ」
1人暮らしをしても、レシピサイトを見ても、できないものはできない。その代わり、私は掃除や片付けが得意だった。遊びに来た友達がいつも「モデルルームみたい!」と興奮するほどには。なのでこの欠点も、このときはそれほど気にしていなかった。冷凍パスタ、美味しいし。
「まぁ、……最近のヤツ、ヤバイしな。たらことかあさりとかマジもんの旨さ?」
なんとなく歯切れの悪い返事。何か言いたいことがあるのかなと、話の続きを待ってビールにちびちび口をつける。
「……あのさ、俺、東京の会社に決まったんだわ」
「そうなんだ。おめでとう」
「お、おん」
彼は手に持ったビールの空き缶を手持ち無沙汰にくるくると回して、何かを言いあぐねているようだった。
「奈緒ちゃんさ、……東京、興味ある?」
「興味? って?」
「いや、住んでみたいな、とか……」
ないわけではないけど、強い希望もない。
私は実家近くの地元中小企業を中心に面接を受けていて、いわゆる大手企業からは早々に身を引いた人間だった。誰もが憧れる大企業というのは、性格的に合わない気がして受ける気にならなかった。
縁の下の力持ちとか、言ってしまえば地味でコツコツとした仕事の方が得意だし無理せず続けられそうだ、と自己分析した結果だから、そう悲壮感漂うものでもないのだけど。
「別にいいかなぁ。人が多くて大変そうだし」
「いや、都心に住むわけじゃなくてさ。住むのは埼玉とか、そっちのほうを考えてて。通勤は電車で1時間くらいかかるけど、家賃も安いし緑も多くて子育てしやすいって話題の街で」
「へぇ……、ずいぶん詳しく調べてるんだね」
「いや、それは」
まだ進路の決まらない私と違って、現実問題として彼は将来を真剣に考えているんだろう。
偉いなぁ、すごいなぁという気持ち半分、やっぱり先に決められてしまって悔しいなぁ私はだめだなぁと思う気持ちも半分。
ほかの同期たちの結果はどうなんだろうと、桜の木の下で騒がしい連中に視線をやったときだ。
「……だから、さ。結婚」
「……え?」
「しませんか」
は? と息を飲んだ私を、強い風に吹かれた桜の花びらが包む。
「けっこん?」
「そう」
「私と?」
「そう」
空缶はとうとう彼の手でぺこんと握りつぶされて、私も彼もそれをぼうっと見つめていた。ただ桜吹雪だけが絶え間なくブルーシートに舞っている。このままいくと、淡いピンク色の花弁で二人とも埋もれてしまいそうだ。
「……私、お料理できない」
「俺、好きだけど。冷凍パスタ」
安いし、と彼は頬をかいた。
「学卒の初任給じゃ養っていけないと思うから、その、できれば奈緒ちゃんにも働いてほしいなとは思うけど……」
「……今から、間に合うかな」
「え、受けんの?」
「……、東京の企業なんて調べてないよ」
「パートとかじゃ、嫌?」
嫌じゃないけど、と口を閉ざす。まさか、そんな、自分がいかにも『主婦』な未来を想像したことはなかった。こんなことなら、東京の企業も受けておけばよかったのかしら。でも、たとえ受かっても転勤とかがある職種だったら困ってしまうし。でも、まさか結婚、なんて。
「私で、いいの」
冷凍パスタが得意料理の女でも?
「うん」
言葉少なく、彼は首肯した。そろそろ同期たちがこちらに戻ってくる気配がして、お互いそわそわと周りを見渡す。彼は視線を合わせないまま、早口に言った。
「奈緒ちゃんは、俺じゃ嫌かな」
私は激しく首を振った。
彼のことが好きだ。就職活動なんかに負けたくなくて、ずっと彼といられるようにと、こまごまと神経を使った冬が、終わりを告げる。先にゴールしたのは彼だったけど、そこに私を連れて行ってくれるという。
「そっかぁ……はぁ、よかった」
大げさにため息をついて、彼は空を見上げた。その横顔が、酔っ払いとは違った赤みがさしているのを見て、私はプロポーズの言葉をじわじわ実感する。
風が吹くごとに、桜が降って来る。
結婚式のフラワーシャワーみたい、と夢見がちに思って、私は熱い頬を押さえた。
***
「おかぁさぁん! おーそーいっ」
おかめお面の少年が、坂の上で力いっぱい叫んでいる。その頭の上を、薄紅の花弁がひらひら、ひらひらと後から後から舞い落ちてくる。
私たちはもう桜に祝福されたものね、と、眩しそうに少年と桜を見る夫に語りかける。
「……そうだったなぁ」
今頃になって気もそぞろになってしまった夫の手から、空になった弁当箱を奪い取って。
相変わらず料理の苦手な私は、大切な二人のために、またすぐにやってくる今晩の夕飯を苦心して考えることにした。