九話「疑いと鬼の瞳」
逃げ出したくなったという、あれはその場の気の迷いでした。
「え? 山吹くんと卯月さんって知り合いなの?」
すっかり砕けた口調の白鷺ちゃんが、隣の山吹様に話しかける。山吹様の隣が、蘇芳くん。白鷺ちゃんの隣が私。私と蘇芳くんで、山吹様と白鷺ちゃんをサンドしているわけですよ。
「うん。先日、偶然神社で会ったんです。ね、卯月さん」
白鷺ちゃん越しに、向けられる爽やかな笑顔に、私は仰け反りたくなった。
こわい。ドSの爽やか笑顔怖い。
その笑顔は、君のヤンデレルートを思いだすよー!やだよー!
彼のルートでのヤンデレ好きにはたまらない、耐性のない人には、よくてヤンデレに目覚めるか、もしくはトラウマを植えつけられ、半泣きでハッピーエンドをプレイしなおすらしい。
「そ、ソウデシタネ……」
引きつりながらで笑顔で返した私に、山吹様もにっこりと笑い返してくれる。それだけでぞっと背すじに悪寒が走った。今の笑顔は大丈夫な笑顔ですか? ダメな笑顔ですか?
腕をさすさすしながら、さり気なく山吹様を観察する。
山吹様のヤンデレルート――それは私のヤンデレ好きが、まだまだだということを思い知らされたものだった。拉致監禁なら基本でしょと思ってた私が甘かった。二次元って怖い。でも二次元でよかった!
言わずもがな、私はトラウマになったほうである。あれはゲーム、こっちの山吹様は関係ない。かんけいない……。
ああ、でもっ。ヤンデレルートといえば、蘇芳くん以外の三人もあれでそれで白鷺ちゃあああん!
蘇芳くん以外は、どの攻略キャラのヤンデレもあれでそれであれでした。いや蘇芳くんもアレなエンドはあったけど、本人の意思じゃなかったから……! 隠しキャラは、まあ、二人が幸せならという気分にはなれたけどもっ!
バッドエンドを迎えた時に訪れる、真っ暗闇の暗転を思い出し、心胆が勝手に寒からしめられていく。だがしかし、この記憶は必ず役に立つはずだ。白鷺ちゃんの為に。世界の、為に。あと、私のためにね!
スカートポケットの中の特性お手製メモ帳のページを脳内でめくる。
ゲームを二十週やりこんでいた私は、所謂わざと好感度の上がらない選択肢や、下がる選択肢を選ぶプレイもしていた。その――膨大な選択肢から、正解から、不正解から。「傾向」が分かる。好きなもの、嫌いな物ではない。好きそうなもの、逆に好ましく思わないもの――脳内の手帳は、山吹様のページに来た。
山吹様は、従順な子は好きだ。でも、もっと好きなのは、自分を楽しませてくれる子だ。
愉しませて、楽しませて。もっと、もっと。そして、自分の手の負えない存在を愛してしまう。そんな人なのだ。
つまり、従順であれ。多少つまらなくあれ。
これが山吹様に嫌われず好かれもしない方法なのである。
「よかった。覚えててくれてたんですね」
「は、はい」
がくがく。私は頷いた。山吹様は、笑顔を崩さない。……間違えなかったようだ。よし。
好かれなかった。でも、不快に思われなかった。うん。き、嫌われるのはさすがに嫌だしね! ゲームでは蔑みボイスも楽しく聞くことが出来たけど、現実では聞きたくないしね!
「でも入学式の後に、あそこで何してたんですか?」
急激に自分の顔色が変わったのが分かった。多分、近くの白鷺ちゃんや、今話している山吹様には気づかれる反応。
まずい。今の、反応はまずい。フォローしなければ。白鷺ちゃんも、こっちを見てる?
いや、蘇芳くんに話しかけている。大丈夫。
「お参りですよ。昨日も言いましたけど」
「そっか、そうでしたね」
何事もないように言った私に、山吹様の金の瞳が柔らかく細まる。危機は、脱したかな?
ああ、もうほんとにひやひやした。これから山吹様に近づかないでおこう。ひやひやと、あとキリキリする。ゲームの選択肢の傾向から、その人を把握する。なんて画面の向こうではむしろ楽しんでやってたのに、なんか今は泣きそうなんですけど! どんだけメンタル弱いの、わた――
ちりちりと、ポケットが熱くなる。
これ、だめだ。危ない。熱い。頭がガンガンする。
山吹様の金色の瞳、綺麗だなあ。じっと見つめられるとなんか勘違いしてしまう。さすがイケメン。アイドルやれそう。そうそう、話さなくちゃ。
なにを? 今、やまぶきさまが、きいた……やだ! これ、嫌だ。
だって、これ、これ、は、魅了、だ――!
「朽葉!」
蘇芳くんの大きな声に、金の瞳から目を逸らして私は息をついた。あ、いや違う。息が吸えた。ああ、膝が笑っている。体も、震えて……だって、あ、はは。うん。
私、馬鹿になってるんじゃないか、馬鹿なんじゃないか。
ゲームでは何の注釈もなかった。エンディングの為のただの入手アイテムだ。
だけど、私の持っている「勾玉の欠片」はとても大きな意味を持っている。
主人公の勾玉は、主人公の前世の女性が持っていたもの。ある鬼の魂の欠片といっても過言ではないもの。そして女性の心といっていいもの。
そして、もうひとつ。三つに割れた私が持っているものも、その鬼の魂の欠片。いや、「心の欠片」といってもいいもの。
鬼の名は、紅花。読みは、くれない。全ての鬼の祖である、いずれ世界を滅ぼす鬼の名だ。
というか、あ、そうだ。そうだよ。そうだー!
私が重大な物を盗んだと気づかれたなら、その日のうちに新橋会長に討ち入りされるか、食い倒れ系男子深緑くんに、部屋を荒らされている。
そのどちらもなかった。
なぜなら、「勾玉の欠片」をあそこに隠したのは主人公の前世。彼女しか隠し物については知らない。加えて、私は犯行現場を見られたわけではないのだ。
山吹様は、まだ私を疑っているだけ。なんか様子がおかしかったし、場所が場所だったから、不審に思っているだけ、なのだろう。
だって、勾玉の欠片について、「わかる」のは、正確に把握できるのは、今は紅花を除き一人しか居ない。他は、ルートが進んだ蘇芳くんならありうるけど。ああ、そういえば、蘇芳くんには、記憶もちの疑いが……!!
ちらりと蘇芳くんを見る。彼は、厳しい目で山吹様を見ていた。
蘇芳くんは、魅了が嫌いだ。だから、それで怒ったのかもしれない。けれど、どこのものとも知らない馬の骨が、愛した人に送ったものを盗んだと知れば、真っ先に怒るのは彼だ。間違いない。……蘇芳くんの怒りは、そういう怒りに見えなかった。さいわいな、ことに。
「朽葉。こいつは一般生徒だ。……それは分かってるよな?」
睨みつける蘇芳くんに、山吹様は眉を下げた。
おろおろと白鷺ちゃんが二人と、それから私を見ている。すっかりと私たちは、廊下の真ん中で立ち止まっていた。
「ですね。すみません、茜」
「……次しようとしたら、叔母上に伝える」
「それは勘弁して欲しいですね」
山吹様が、微苦笑した。ほんとうに困ったような顔である。
そんな山吹様の珍しい顔に、蘇芳くんは「だったらするな」とぶっきらぼうに言った。蘇芳くんは、友達思いのいい奴なのだ。
「えっと、みんな。早く行こう!」
二人の不穏な空気を打ち破ろうとか、白鷺ちゃんがみんなを急かした。
そういえば、蘇芳くんと山吹様の指示に従い、先行くクラスメイトのみんなを追いかけていたのだった。ちなみに蘇芳くんと山吹様は、さりげなく「不良の溜まり場」とか「教師以外立ち入り禁止」とか言って、近づいてはいけないポイントを教えてくれている。うんうん、君らいいやつだな。
でも、蘇芳くんと山吹様がいくら遅れようとも、先生は注意して終わりだろう。
彼らは、色持ちの次期当主……だし。時計を見る。まだ九時半だった。時間が進むのが、とても遅く感じる。
「そ、そうだね。早くしないと歓迎会はじまっちゃう」
私は白鷺ちゃんに追従した。笑顔だったと思う。勾玉の欠片はさっさと、白鷺ちゃんに返してしまおう。蘇芳くんにお礼を言うのはまずいかな。山吹様に謝るくらいならいいかも――。
その後、気まずい雰囲気のままクラスメイトたちと合流して、予測したとおりほとんどお咎め無しで、私たちはクラスメイトと一緒に、校舎内を回った。
新入生歓迎会も、楽しかった。
会長の歓迎の言葉に、吹奏楽部の演奏、それから部活紹介。剣道部や弓道部、陸上部、サッカー部といった、基本的なものから、天文部、科学研究会、歴史部とかちょっとマニアックな部もあった。そして、最後は、新橋会長が締めて、お昼の後は、教科書販売会。
私は、すっかりお昼の存在を忘れていた。お昼を一緒に食べる。白鷺ちゃんと仲良くなるチャンスだ。
だけど、白鷺ちゃんは引く手数多で、新入生歓迎会が終わった途端、クラスメイトや他クラスの生徒に囲まれる。朝の心配は杞憂だったことが判明した。隣に座っていた蘇芳くんは蘇芳くんで、ちょっと遠巻きにされているけれど、これは致し方ない。
んん? なんかこういうイベント、あった気がする。大勢に囲まれて困っている主人公を見かねて、蘇芳くんが連れ出してくれるのだ。
……あはは、変な心配する必要なかったなぁ。白鷺ちゃんも、蘇芳くんも、大丈夫なのだ。
だから私は、体育館裏で両手を地面につき、膝をつく――まさに土下座、の一歩手前な態勢となった。
「もうダメだ……」
目が潤んでくる。なんかもうダメだった。
攻略情報を利用したことは後悔していない。欠片を持っているのがばれたら身の破滅だし、家族の身も危険だ。誰に疑われたって、仕方ない。攻略情報を利用して、立ち回らないとやろうとしていることはなんにもできやしない。勾玉の欠片を集めるって決めた時から、ちゃんと……覚悟していたかなあ私。そんな覚悟、してなかったかな。
でも、山吹様に魅了使われたからってなんだ。
あれ、バッドエンドの信頼度足りないときに、自白用に使わされる手法だったとか、それがなんだ。
だめだ~~っ。やっぱりキツイ!
あのエンドでは、山吹様は主人公のことなんてちっとも信じてなくて、どんな選択肢選んでも、言葉を重ねても、魅了して喋らせたことの方を信じた。
それが、主人公の体感では一時間。実際の時間では十分程度の間、続く。これまで、築いてきた信頼や好意はなんだったのだろう。そう思わせるバッドエンドだった。
それに、蘇芳くんのことだってそうだ。彼が魅了を嫌う理由が明かされる過程は、とても辛いものだ。彼の父親は、母親に恋をした。けれど、母親は別に好きな人が居たのだ。
蘇芳くんの父親は彼女に魅了をかけた。色持ちの魅了は、とくに強力だ。蘇芳くんの母親は、蘇芳君の父親に恋をした。
そして蘇芳くんが生まれた。ここまではありきたりな話。鬼の中では、ないとは言いきれない話だ。だけど、蘇芳くんの母親の魅了は解けた。かつての好きな人――恋人が、蘇芳くんの母親を迎えに来たのだ。
しかしそのとき、母親は蘇芳くんを身ごもっていた。臨月だったそうだ。彼女は絶叫し、倒れた。目が覚めたときには、全ての記憶を失っていたらしい。
ちなみに、とても性質の悪いことに、蘇芳くんが父親と同じルートを辿るエンドもある。
これは、蘇芳くんのルートを進んだ先の「主人公」しか……白鷺ちゃんしか、知らないことだ。
私は知らないはずのことなのだ。いま、誰も――知らない、ことなのだ。なんで、私こんなこと知っているんだろうなあ……。いや知らなくちゃ困るんだけどねっ。
「どうした?」
ふいに、天から声が降ってきた。え? 何事? きょろきょろと辺りを見回すけれど、辺りには誰も居ない。
「なにか辛いことがあったのか」
優しい声だった。なんかこの声、どっかで聞き覚えがある気がする。
低くて、ちよっと甘めで。穏やかに読経でも読んで欲しい声――。どこだったかな。誰、だったかなあ。ぱっと思い出せないけど、優しい人だな。土下座半歩前の体勢の女子に話しかけてくれるなんて。姿は見えないけれど、優しくていい人だ。
「……ちょっと、自己嫌悪で」
「嫌なことがあったのか」
声は、責めていなかった。優しかった。目が、ふたたび潤んでくるのが分かる。
「じ、実は、人付き合いに悩んでいて」
「ああ」
「それから、いろいろ、なんか、いろいろしなくちゃいけなくて……」
迂闊に世界を救うとかは言えない。
私はまだ自分の身が可愛いし、家族に迷惑はかけられない。わかんないけど、かけたくない。絶対に。なんにも、知らないけれど……。
「頑張っているんだな」
「っ、まだまだ全然です……!!」
天使だ。天使が居る。堪えていた涙が零れそうな気配にぐっと唇を噛み締めて、私は身体を奮わせた。
うわああ。このままじゃ泣き喚くよ。もうすぐ二十歳なのに。いや、まだ高校生だけど! ぴちぴちの十五歳の身体ですけどー! そういえば今って身体も顔も十五の私で、懐かしいけどちょっとホラーだよね。我が身のホラーを省みると、涙が引っ込んできた。天使さん(仮)は黙っている。
もう行ってしまうのかもしれない。
「あのっ……!
ありがとうございました。声をかけていただいて、とっっても嬉しかったです」
とりあえず、精一杯の感謝を伝える。ありがとう天使さん。ほんとうにありがとう。
だけど涙は見られたくないので、俯くのは突っ込まないで下さい。天使さんに引かれる要素はひとつでも減らしたい。いや、涙で引くことはないかもしれないけれど、天使さんだし。でも一応ね!
「いや。俺はいつでも、君を応援している。だからその、……がんばれ」
応援の言葉は、少しだけ小さかった。それを言うかどうかを、迷ったように感じられた。
だけど、がんばれって。何にも知らないのに。分かってないのに。
へへ、温かいなぁ。これが天使の真心ってやつかぁ。この天使さん、私の涙腺に狙いを定めてやがる……。ちくしょーもってけドロボー!
「はいっ。これからも精一杯がんばります!」
私は深々と頭を下げた。天使さんの声は聞こえなかった。
がさがさという音がしたから、もしかしたら立ち去ったのかもしれない。
そして。
うん。
……うん。
頭から血の気が引いていく。
体育館裏。
姿を現さない誰か。
なにより、あの聞き覚えのある声。
『常に考え、学び、喜び、楽しんで。
これからの三年間を、有意義なものにして欲しい』
『以上、生徒会長、新橋縹。
……あらためてようこそ。紅緋学園高等部へ』
さっきの新橋会長、じゃないかああああ――っ。
私は、さっきと違う意味で、土下座した。
耐え切れず零れてきた、涙がしょっぱいです……。