八話「もろもろとの遭遇・二」
お腹を鳴らしたその子は、無言で私を見る。見るけど、スカートの端を掴む手は、微かに震えているくらい弱弱しい。
「え、ええと。私、今何も持ってないんだけど……」
がくり。
彼は顔を伏せた。する、とスカートから手が離れる。逃げるのならきっと今だ。
なにせ、彼は攻略キャラなのだ。できることなら、あまり関わり合いになりたくないし、そもそも、夕方に飴を持った白鷺ちゃんがここを通るのである。
放っておいて問題ない。だけど、だけどさ!
お腹が減るのって、めっちゃくちゃ切ないよね……朝ご飯を抜くだけでふらふらするよね。ご飯って、大事だよね! 朝食を食べ損ね、あまつさえ昼食代もお弁当もなかった時の高校時代のある一ページが蘇る。あの時は、友達に拝み倒して五百円借りたんだっけなぁ。でもその日購買は昼しか空いてなくて――ああ。思い出すだけでお腹が減ってきた。
「そこ、寮だから、なにか食べ物貰ってきます。あと、水も」
私の言葉に、ふるふると彼は弱弱しく首を振った。
そこまでしてほしくないということではない。彼は、誰かに自分の痕跡を残すことを恐れているのだ。だから、接触するなら少人数がいい。できるだけ、何も知らなさそうな人間なら尚いい。あとご飯が美味しければ、言うことなし。彼は、そんな食いしん坊行き倒れ事情系キャラなのだ。
「ジュース、自販機で買ってきます。それなら、いいですか?」
彼は、首を振らなかった。がくーと項垂れたままである。もうその力もないのかもしれない。お腹を減らした者の、胸の痛くなる姿だ。私は見捨てようとしていたことも忘れて、ぎゅっと胸が痛くなった。
いや、見捨てようとしていた私は悪だ。なんという巨悪! こんな、こんなのってひどいし……!
「待っててください。すぐになにか持ってきますから」
返事はもちろんなかった。走って寮の中に戻り、しゃがみながら移動することで、寮母さんの目を欺く。ふふふ、私ったら忍びの素質あるんじゃないだろうか。……なんて調子には乗らない。私は、脇役の分をわきまえるのだ。
頷きながらリビング横の自販機で、スポーツ飲料と携帯お菓子があったので、それを買う。
財布の中身は、残金565円と勾玉の欠片になってしまった。
さっきとは別の意味で切ない気分になりながら、またしゃがみ移動し、倒れ伏したままの彼に手渡すと、うつ伏せのまま、まずはお菓子から食べた。
あ、やっぱり咽ている。
ペットボトルのキャップを開けて手渡すと、彼はじっとそれを見た後、ちょみと一口飲んだ。
「!」
ぱっと彼の目が輝いた。こくこく。こくこく。
ほんとうにちょびり、ちょびりとスポーツ飲料水が減っていく。そして、お菓子は素早く減っていく。私は、そんな彼の様子をじーっと見守ってしまっていた。
決して、彼がご飯を食べている様子に感激していたわけではない。お腹にモノを入れられる至福を眺めていたわけではない。
そろり。一歩、離れる。彼は、お菓子に夢中だ。
そろり。三歩、離れる。彼は、ドリンクに夢中だ。
そのまま、五歩六歩と離れて、私は、さっと壁に張り付いた。
このまま駆け出してしまおうかと思ったけれど、あげたお菓子では足りなくて行き倒れアゲインは困る。
気づかれないように、そろそろと彼の倒れていた方に視線を向けた。
「……」
彼は食べ終わり、飲み終わると、お菓子の袋をキチンと四角に畳み、ペットボトルのキャップを閉めて地面に置いた。
それから、よいしょと身体を起こし、きょろきょろと辺りを見回している。
一回、ぐるり。二回目、ぐるり。三回目、ぐるりと見回して、ちょっと頭を下げた。
私はその一挙一動を、じじーいっと眺めてしまっていた。
なにあれ。可愛い。ハムスターみたい。ぐるぐるしてる! 子犬でもいい!
いやいやまてまて。いけない、いけないったらいけない。
ぶんぶんと首を横に振る。今のハムスター映像を追い出すんだ私。我に返るんだ、私。
もう心配することは無さそうだし、このままそっと授業に戻ろう。大丈夫そうだし、さあ、逃げよう。
そう思ったとき、くい、と今度は服の袖が引っ張られた。びっくりして振り返る。
そこには、もちろん彼が――そろそろ名前で、呼ぼう。深緑千歳くんが居た。
彼は、私の服の袖から手を離すと、私に向かって合掌した。もとい、ごちそうさました。
「ど、どういたしまして……あの、」
「……」
深緑くんは、小さく首を傾げる。
「ご、ゴミは、ゴミ箱に捨ててくださいね!」
それが私の捨て台詞だった。
行き倒れ系男子深緑くんに捨て台詞を置き土産にした後、私は全力で教室へと戻った。
携帯を開いて時間を確かめる暇などない。
確実に、私は遅刻している。故に、一分一秒一刹那でも早く、教室に戻らなくてはいけないのだ。……のだが、疑問が頭をよぎる。
校内案内イベント。
紅緋学園高等部の主要施設を案内してもらうという趣旨のイベントなのだが、普通の校内案内とは少し趣が違う。
人間が入ってはいけない場所と入っていい場所。
所謂、鬼のテリトリーとそうでない場所をそれとなく教えてくれるイベントなんだよね。
例えば生徒会室は人間もOKだけど、音楽準備室は人間立ち入り禁止とか。
もちろん大っぴらに人間だの鬼だの言うのではなく、「ここはガラの悪い内部生が多いから近づかない方がいい」とか、「ここは生徒立ち入り禁止」とかそういう感じで。
ちなみに内部っていうのは小学校から紅緋学園に通っている生徒のことで、ほとんど鬼である(学園経営の孤児院や、知らずに入学しちゃった人間も居るらしいけどね)。
ゲームプレイ中では既読スキップばっかりしてたけど、このイベントは人間にはとても大切だ。
鬼はとにかく人間を「下」に見ている。鬼自体が序列をとても気にするからその所為もあるんだろうけど、下の人間がルール違反とか縄張りに勝手に入るとどんな理由があろうとも、イラッとするらしいんだよね。
一回鬼のテリトリーに入っただけで、苛めや暴力の対象になる可能性もあるって新橋会長が言うイベントあるくらいだし。
だけど、人間はそんなこと知らない。鬼たちも人間に自分の正体を明かすような真似はしない。まるで薄氷の上に成り立つ関係だ。
――こんなこと、お互いに意味あるのかな。特に理不尽な目に遭いがちな人間側に意味があるのかな。
……って思うけど、この関係の維持に涙ぐましい努力を払っているのも、鬼側なのだ。
その筆頭が、新橋縹会長率いる生徒会。ちなみに新橋会長は、実力や人気もそうだが鬼の一族でも屈指の力を持つ「色持ち」の一族なので、紅緋学園で会長に逆らえる鬼はそうは居ない。会長の他にも「色持ち」である山吹様とかも生徒会に居るしね。ちなみに彼は後の生徒会副会長だ。
ほんっと色持ちって、鬼の中で最上級の家だから。ここが「人間との共生」を選ぶなら、他の鬼はよっぽどのことがない限り従っちゃうから……この学園が成り立ってるわけで。
話がいろいろズレた。
そう。とにかく、私はどこに行けばいいのか分からないのだ。
何せ、二週目は既読スキップしまくりだったから……。
「とりあえず教室に戻ろう」
ため息とともに出た結論にちょっとばかり落ち込む。
この行きあたりばっかり感。どうにかしたい。「色持ち」にも四鬼も会ってしまうし。
蘇芳茜。山吹朽葉。新橋縹。深緑千歳。
攻略キャラは、全員「色持ち」なのだ。
――あと会ってないのは、隠しキャラの紫だけだよ……
下足場を通り過ぎて、私は自分のクラスの前にそろりと近寄った。案の定、誰も居ない。置いていかれている。と思ったら。私のクラスの前には、美少女が立っていた。あと、金髪。それから鈍色の髪の、美青年二人。
「あっ。卯月さん! よかった、まだみんな行ったばかりだよ」
白鷺ちゃんが、こちらにパタパタと走ってくる。それはいい。可愛い。凄く嬉しい。
その後ろで、蘇芳くんが、白鷺ちゃんと(ここ重要)私の様子を、右手で首の裏をさすりながら、呆れたように見ている。それはいい。
「茜、来ましたよ。よかったですね、小百合さん」
そう言って山吹朽葉様は、女神もかくやという微笑を白鷺ちゃんに向けた。
白鷺ちゃんは、山吹様に向かって「はい」と嬉しそうに言う。
これは、よくない。絶対、よくない!
私の精神衛生上にも、別クラスという観点からも、というか、白鷺ちゃんの、名前、名前!
わ、私でもまだ呼んでないのに……!!
「山吹くんも、蘇芳くんも、二人とも卯月さんのこと心配してくれてたんだよ」
優しいねって笑う白鷺ちゃんに、私はさっきとは別の意味でこの場から逃げ出したくなっていた。