四十二話「みんな、自分勝手・3」
左手には蘇芳くん。右手には深緑くん。
……という並びは一瞬だった。蘇芳くんが襖の縁をくぐると、深緑くんがスッと私から離れる。咄嗟に彼の忍装束の端を掴むと、深緑くんは避けなかった。私の横で、置物のように直立する。
「……よう。……っと」
片手を上げた蘇芳くんが、私の顔を見て顔をしかめる。あ、うんうん。今の私、ちょっとヒドイ恰好してるもんね。ちょっと待ってね、今服を整えますから!
しかし、私の手はぴくりとも動かず、口はぽっかりと開いてしまっていた。
「……」
「……卯月? 大丈夫か」
大丈夫ではない。
世紀末の大ピンチ、断崖絶壁に追い込まれたこんな時だけれど、どうしても突っ込みたい。
和装である。蘇芳くんの着物である。
着物に羽織、緩く止められた帯。全体的な色はくすんだ赤。蘇芳の家の色だ。
学ランの時は一匹狼アウトローな感じがどうしても漂う蘇芳くんだが、和装だとやんちゃな若様に見えた。
つまりなにかと言いますと、ひぇっ……かっこいい!眼に福が、福がやってくるぅ……!
「着物、初メテ見タ」
「あー……。普段は着ない。洋装のほうが便利だしな」
なんでカタコトなんだと首を捻る蘇芳くんに、そだねーと返す。やばい、なんだか頭がくらくらする。今日は気絶したり、頭を打ったりいろいろあったもんね。そろそろ休みたいね。
――いやいや、その前に! 私にはやるべきことがあるのですよ!
蘇芳くんと声を上げる前に、蘇芳くんを見上げる。深紅より浅い、茜色の瞳が輝いていた。部屋に差し込むだいだい色の光もあいまって、和装というだけではなく、蘇芳くん自身がいつもと違った雰囲気に見える。
ああ、もう夕方なんだ。違う。蘇芳くん、カッコイイよなぁ。って違う。ああもう、夕方――。
「卯月」
「……なに、かな?」
「俺の目を、見ろ」
「――!」
反射的に目を瞑ったけれど、もう遅かった。喜怒哀楽。すべての感情を隠した、蘇芳くんの声が響く。
「卯月サヨリ。俺の、目を……見ろ」
目、開けなくちゃ。違う。目を閉じておかなくちゃ。いや、いや……。
ゆっくりと瞼が開いていく。瘧にかかったように全身が震えた。
呼吸が荒い。砂漠で水を失くしてしまったかのように、喉が渇いて、乾いて、仕方ない。
「あ……うぅ……」
畳の上に座り込む私の前に、蘇芳くんは跪いた。そうすると蘇芳くんの目が近づく。
逃げないと。震える手を動かして、畳に触る。深緑くんは何もしない。蘇芳くんはまだ何も言わない。それなら、今のうちに――。
あ。
声を出したつもりが、ひゅっと空気が通っただけだった。手が、足が、畳に張り付いたように動かない。
「お前は、――俺が好きだ」
え? と聞き返す前に、蘇芳くんが続ける。
「好き、だろ」
胸の内がかき乱される。好き? 私は蘇芳くんを好きだ。好意を持っている。大事な友人だと思っている。好きだ。好き、よね? うん、好きなのは間違いない。
不意の混乱が、逆に私を冷静にしていく。
――うん。これ、魅了だ。おまけに、勾玉なし、一般人、五色の鬼――あっ、これ私詰んでない?
と思うものの、不思議と焦りの気持ちが少ない。
だって、私は知っている。ゲーム知識と実感で、分かっている。
蘇芳くんが、自発的に魅了を使うはずがない。これは、紅緋さんの意図だ。
考えろ、私。
この状況を――ええと。深緑くんを見上げる。微動だにしない。蘇芳くんを見る。赤い目が輝いていらっしゃる
――この、状況、どうするの?
早速思考放棄しかけた頭を、無闇に動かす。ええと、まずはここから逃げられない。体も動かせない。動かせるのは口だけ。この前提だと……どう考えても、口先しかない。
私は、少し視線を下げた。これくらいはできるようだ。もっともこのささやかな抵抗にどれだけ効果があるか分からないが、なるべく目を合わせないようにすることに越したことはない。
「好き、だよ。友人と思ってる。でもいきなりどうしたの? ……なにか、理由があるの?」
言いながら、蘇芳くんの手に手を伸ばす。深緑くんが隣にいる以上、不審な動きはできない。けど、こうすれば少なくとも蘇芳くん側から、なにかアクションがもらえるはず。
ぐっと、手首が掴まれた。自分で伸ばした手なのに、思わず手を引きよせる。
……熱い。蘇芳くんの手は、火傷するんじゃないかと思うほどに熱かった。
「違う。……違う、だろ」
蘇芳くんの指先が、頬に触れる。え? 声をあげようとしたけれど、上がらない。あれ?
体を動かそうと思っても、動かない。ちりっと頭の隅で、警鐘が鳴った。それなのに、私
はやっぱり、蛇に睨まれた蛙のように動けない。
「――卯月サヨリは、俺に、恋をしている」
「は……」
ぶわっと額に脂汗がにじんだ。
「なにをいってるのか、ぜんぜん、分かんない。私――」
「卯月。見ろ」
首が、動いた。私の目が、朱い瞳を見る。
朱い瞳が、私を見る。
夕暮れ。彼岸花。ルビー。赤い、赤い、赤い、朱い瞳。
恋。
恋ってなんだっけ?
うん、それは恋だ。ただの恋。誰かを想う愛しいという心だ。私も恋くらいしたことあるよ、花の女子大生でしたもの。報われたか報われなかったかで言うともまあお察しなんですけど、あっ胸が痛い。
でも、それなら新しい恋をすればいいよね。そう、たとえば、目の前に居るこのひと、とか――。
さーっと血の気が引いていく。
まずい。まずい。まずい。
心臓がバクバクする。落ち着かなくちゃ。まだ対抗できている。息を吸う。落ち着こう。息を吐く。
……それで、ええと。そうだ、説得!
「……な、なんでこんなことするか分からないけど、理由があるんだよね?」
「……」
「わ、私にあなたを好きにさせて、どうするの? な、なんか、蘇芳くんにメリットある? それとも、まさか、い、いたずら? そ、そーいうの、ちょっと悲しいんですけど!」
「お前、さ。強いよな」
「は、い?」
「……お前が強いから、俺は……
どうしようも、なくなる」
無機質で淡々としていた声が、炎で炙られたように焦げ付いた。でもそれはほんの束の間のことだった。
「卯月サヨリは、俺が好きだ」
「……が、う……!」
「……俺も、お前が好きだ。……愛してる」
「――嘘!」
赤い瞳が、仄かに光を帯びる。赤い燐光。色持ちの鬼が本気で、魅了を使った時に起こる現象だ。口を滑らかにするためじゃない。勘違いを誘発させるだけじゃない。
思い込まされる。
彼の言ったことが、本当のことだと確信してしまう。
「だから、神無月が来る前に、俺とお前は契りを交わす」
ぽかんと口を開けた私の滑稽な顔から目を逸らさずに、蘇芳くんは私の手をとって小指を繋いだ。左手の小指と、右手の小指で、指切り、げんまん……。
「わ、私とあなたが……結婚、するってこと?」
「これに、お前はなんの疑問も持たないし……」
「ねえ、ちょっとまっ――」
「お前が井上東子と企んでいたこと。そして文化祭が終わってから、今までの記憶を失う。……お前は、劇が終わったあと、紅緋様に呼ばれてここに来たんだ。疲れて眠って……目が覚めたら、――俺の部下が居るから。彼らの言うことに従うんだ」
「……」
どうして。なんで。もしかして、全部、バレ――。
ぱちん。扇が閉まった。次にすっと襖が閉まる。かちん。ぱちん。ぱちん。かちん……。いろんなものが、頭の中で閉まっていく。
まって。
まって、まって、まって……!
私、まだなにもやれてな……!
ぷっつん。
最後に意識のブレーカーが、落とされた。
少女の体から力が抜けて、自分に倒れ込んでくる。柔らかな体を抱きとめて、茜は強く唇を噛みしめた。瞳が熱い。色持ちの魅了の力が強いとはいえ、誰かの記憶や想いまで思うままに「惹きつける」のは初めてだった。
自然と上がっていた息を整える茜の後ろから、澄んだ少年の声がかけられる。
「終わった?」
鬼の総領。唯一の純血。千年を生きる鬼……紅緋の声だ。腹の底でうずまく煮えたぎるとぐろを悟られないように、茜は口を開く前に一呼吸分置かねばならなかった。
「……ああ。命じられた、通りに」
「義姉上は頑固だから、大変だったでしょう?」
「……ま。そう、ですね」
「ふふふ。世界なんて気にしなくていいのにね。大事な家族が無事だったなら、それでいいじゃない?」
鈴が鳴るような軽やかな声で笑いながら、憎悪と蔑みが混じった視線が蘇芳の背に降る。
自分たちの神に等しいものが、どうしてこう一人の少女に執着するのか。蘇芳には少しも分からない。卯月サヨリは、ちょっとクセはあるが、家族思いの普通の人間だ。彼女の弟だって、紅緋の敵ではないだろう。
ただ。
「……結婚させる必要、があったんすよね」
「うんうん。義姉上とその家族の命は、弟の所為で風前の灯だからね。何もせずに放っておいたら、明日にでも家族みんなの首が家の前に並ぶかもしれない。だから、誰かが、庇護下にいれてあげないと……ね?」
だったらなんで、好きだと思わせる必要があった。
だったらどうして、記憶を消す必要があった。
説明すれば、サヨリは聞き分けただろう。それくらい彼女は素直で、自分を信頼してくれていただろうと自負している。ほとぼりが冷めるまで蘇芳の家で匿って、神無月の頃にでも家族と共に帰してやればいい。弟については茜の一存では決められないが、できる限りのことはするつもりだった。
……つい先ほどまでは。
その疑問を茜が口をする前に、……紅緋が口にした。
「契りを交わすなら、お互い好きあっているものでしょう。腹立たしいけれど兄上もそうだったし。記憶を消したのは、好き勝手してほしくないのもあるけど、不安な思いもこれ以上させたくないから……なんて言ったら、義姉上はびっくりしそうですね」
控えめに、華やかに。夕暮れの闇の中で、鬼が笑った。
「義姉上。お久しぶりに、ようこそ。……鬼の世界へ」




