三十九話「混乱のるつぼ・三」
紅緋さんの部屋には電灯がなかった。入って来た襖の向かいが濡れ縁になっており、障子の向こうからうっすらと弱い日の光が指し込む。思えば、前回は速攻で気絶したので、紅緋さんの部屋をちゃんと見るのは初めてだが……暗い。いや、天気が曇りの所為もあるだろうけど、この部屋、暗いです!
そんな薄暗い部屋の主は、高そうな赤いちりめんの座布団に座って、くすくす笑って私を見ている。
ぶきみだ。
「義姉上、どうしたんです。そんな鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして」
「……いえ。紅緋、さん、機嫌よさそうだなって」
「分かりますか? 昨日の見世物、とても面白かったみたいですから」
紅緋さんがふんわりと微笑んで、「もっとも」とくすりとまた笑った。
「みんな殺気だってるけど。……人間の癖に鬱金の瞳を持つ、鬼無の使い手。まるで兄が刀を譲った「鬼殺し」のようだと言う鬼も居ます」
金の瞳の、鬼無の使い手。……黎のことだ。それに、当たり前のように紅緋さんは、「鬼」という言葉を使った。私にはもう隠す気はないってこと、だよね。紅緋さんは、邪気なく赤い瞳を細めて、あれ?と首を傾げた。
「鬼ってなんですかって聞かないんですか? 義姉上」
「……びっくりして、聞けなかっただけです」
「あはは、ほんとかなあ? ふふふ。でも、うん。僕もびっくりしてるんですよ。義姉上の弟が、鬼殺しだったことも、東子が鬼無を彼に渡したことも」
うんうんと頷いて、紅緋さんが笑う。鈴を鳴らしたような軽やかな笑い声に、なんだか少し怖くなってくる。紅緋さん、こんな風に笑い上戸だっけ? いや実は笑い上戸だっていう隠し玉は無きにしも非ずだけどもっ。
でも、鬼殺しって初めて聞く名称だ。千年の恋歌で明かされる「千年前」の――紅花が、封印された時のことは、実はあまり多くない。メインはあくまで「千年後」の今。
千年の恋歌って、紅花さんを救えるか救えないかが分水嶺なのに、紅花さんのことがあまり分からないんだよね。紅緋さんも、彼の目的や行動は幾度となく主人公をバッドエンドに導いてくれるけど、こう日常的な部分というものはほとんど見えてこなかった。
好きなものが兄上、嫌いなものは主人公、無関心はその他……くらいだよ!私が知ってるのっ。
うん。まあ紅緋さんの素の部分?を知っていても、紅花さんの過去を知っていたとしても、今、ほとんど役に立たなかっただろうけども! 何せ私の弟が鬼殺しで、それを思い出させたのが同じ転生仲間だった東子ちゃんだからね。
鬼殺し、鬼殺し……かぁ。
「鬼っていうのは、不思議な力を持っている……って解釈であってますか?
それでその、あの刀の持ち主?である黎は、鬼の不思議な力を抑制できる……?」
「大ざっぱですが、間違ってませんよ。
僕たちと義姉上は、違う「いきもの」です」
じっと深紅の瞳を見る。もちろん私ごときが紅緋さんの感情を読めるとは思わないが、なにかしらの波は掴めるといいな。
「でも、義姉上はすでにいろいろとご存知じゃないんですか?
弟……黎くんに対して、「その刀は大事なものだ」って言っていたのに」
毒の塗られたナイフを突きつけるように、ニコッと紅緋さんが笑った。そうですよね、体育館にはいっぱい鬼の皆さん居ましたしね。山吹様もばっちり聞いていましたよね、一部始終。
「だってあの刀は、神社のものでしょう? 奉納されているご神刀……かと思っていたんですけど」
「別に神刀の類じゃありませんよ。あれはどちらかというと妖刀だ」
吐き捨てるように言って、紅緋さんの顔に思いっきりつまらないという文字が張り付く。よかった……決定的なこと、言わなくてよかった……。安堵で体がへたり込みそうになるけど、しゃんと背筋を伸ばす。
少しだけど、会話の糸口と味方になってくれそうなひとが分かって来たかもしれない。
多分、私と東子ちゃんの関係はばれていない。バレていたら、もっとそこを突っ込まれそうだし、私と東子ちゃんが直接会ったのって、初回や昨日?も含めると四回だけだ。それが幸いしているのかも?
でも、私……蘇芳くんには、東子ちゃんのこと名前で呼んじゃったんだよね。だけどそこを突っ込まれないということは、おそらく蘇芳くんが、黙ってくれているのだろう。もう君はなんて友情に厚い男なんだ。厚すぎてちょっぴり目から出る汁がしょっぱいです!
それと、あとなんだろう。
紅緋さん。鬼無の話題は嫌がるくせに、鬼無の使い手である黎と、黎に鬼無を与えた東子ちゃんのことは面白がっている、気がする。
これで、えーとこれを踏まえて! 今の私の立場・鬼殺しの家族&鬼を知っちゃった一般人&嫌われ者をふーまーえて……。
「紅緋さん。弟や東子さん、……私たち家族はどうなるんでしょうか?」
「どうなる、とは?」
「弟は、鬼のひとたちを切りました。東子さんは、弟にそれを唆していたように思えます。
あなたは……紅緋学園の学園長であるあなたは、鬼を率いる立場にあるのではと推察します」
必死で深紅の目を見る。なんかこの訴えかけ、今日?昨日?蘇芳くんにもやろうとした気がする。つうじろー! 私は意思を通すぞ、通じろー!
けれどまじまじと私の顔を見た、紅緋さんはあろうことか。
「ふっふふ……あははは! あっははは!」
大笑いした。
「あ、あねうえは、ひょ、ひょっとして、僕に頼んで、るんですか!? ど、どうにか、ふふっ、してほしいと?」
「……まだ遠まわしに確認しただけですけど、いちおう……」
「僕が、義姉上のために、ふはっ、動くわけ、ふふ……ないじゃないですか!」
お腹に手を当てて、ふんわり癒し系美少年が大笑いする。
いやね? 分かってたよ。断られることは分かってたよ。転生仲間は居なくなったけど、私には、まだゲーム知識があるからね!? だけど、それはこれからの伏線というかっ。交渉の前段階というかっ。あれですか、柄にもないことをするなというやつですか、神様仏様、紅花様!
「今、何が起こっているのか私はよく分かりません。それでも、大事な家族が……あ、ぶない目にあっているってことだけは、分かる……から」
スカートの端をぎゅっと握りしめる。私、先走ってない? もっとちゃんと状況がつかめるまで、待った方がよくないかな? そもそも、差しだそうとしているのは勾玉の欠片で、相手は絶対に渡しちゃいけない紅緋さんだよ?
ぐる、ぐる、ぐる。
分からない。何が正しいのか分からない。
どうして? どうして、黎が鬼殺しなんて呼ばれてるの。どうして、東子ちゃんは、黎に鬼無を渡したの。夏休みが終わったら、一緒に世界を救おうって約束、してくれたのに。
なにが嘘なんだろう。どこまでが、本当なんだろう?
二人は、いったい何をするの。私は、いったい、これからどうすれば――。
「私は、……もしも私の家族に、危険が降りかかるなら、出来る限りのことをしたいです」
推測も、交渉もあったもんじゃない。むき出しのままの感情に、紅緋さんは、ついっとそっぽを向いた。
「僕の家族を助けてくれる人は、誰も居なかったですよ」
ぽつん。
呟いた紅緋さんの言葉は、嫌味っぽかったけれど嫌味の響きではなかった。
家族。――紅花さん。紅緋さんの家族は、紅花さんだけだ。破滅的な思考も、狂気的な振る舞いも、ぜんぶ、紅花さんしか頭にないからで。
だから、ちょっと思ったこともある。
紅花さんを助けられるかもって言えば、紅緋さんはもっとも頼もしい味方になってくれるんじゃないかなって。
でも、千年の恋歌はそこまで甘いゲームじゃなかった。否、紅緋さんの孤独は、底が見えないほど深かった。
蘇芳くんルートで、紅緋さんが味方してくれる時があるんだよね。で、選択肢次第では、ハッピーエンドルートの時に、一緒に兄を取り戻そうと言ってくれる。蘇芳くんのハッピーエンドルートは、王道だけどちょっと複雑で山吹様や他の鬼たちとは敵対しているので、紅緋さんは救いの手のように見えるのだ。
けれど、違う。二つの勾玉を託して紅緋さんを、封印された紅花さんの元へと送り出すと、直後。地震が起こる。なにかあったのかと駆けつけた主人公と蘇芳くんが見たものは……勾玉を砕き、紅花さんの封印を解き放った紅緋さんの姿だった。
呆然とする二人に向けて、紅緋さんは笑いかける。
『兄上は、もう死んだんですよ。それに、なあんにも変わっていないのに、また兄上にこの地獄で生きろと言うんですか?』
紅緋さんの時間は、千年前に止まっているのだ。紅花さんが封印され、残った鬼の旗頭として担ぎ上げられた、その時に。
だから、紅緋さんは頼れない。1%でなくて100%、世界崩壊エンドに持って行ってくれる紅緋さんに、話を持ち掛けることを私も東子ちゃんも考えた事すらなかった。
でも、今は違う。私がたびたびこの世界に感じていた違和感。それをこの世界がゲームだと言った、東子ちゃんがより決定的にしてくれた。
ここはゲームの通りの「世界」かも知れない。だけど、自分たちの行動で、起こる「出来事」を変えられる世界だと。
それなら、――私が、紅緋さんを説得できるっていう目も、あるかもしれない。
「私は、よく、分からないですけど……。
いる、と思います」
「義姉上ですか?」
バカにしたように即座に聞かれて眉を八の字にする。ここで「うん」と頷けるほど、私は図太くない。どっちかというと潜在敵だと思うよ私は!
「違います。……紅緋さんは、味方だと、思います」
「違いますよ。僕は、味方なんかじゃない」
きっぱり言い切って、ついで紅緋さんは猫撫で声を上げた。
「義姉上、僕の機嫌をとろうなんていったいあなたは何がしたいんですか?
そんなことしなくても、義姉上には、今、ちょっと同情しているんです。
だって、……何もわからない内に家族に裏切られたんですから」
うらぎ……? ええとこれっぽっちも思ってないけど、黎のことかな。
「だから、できるだけのことはしてあげたいと思っていますよ。
義姉上の今のご両親も、僕が保護しています」
「ほ、ほんとう、ですか」
「嘘はつきません。――紅緋の名に誓って」
正直その宣誓には何度となくゲーム中で泣かされましたけど! でも、今は信じておくっ。お父さんと、お母さん……よかったぁ……。
「鬼のことは忘れて貰いますけど、
人間の世に帰してあげてもいいかなって思ってるんです」
まじですか。ほんとうですか。七割くらいは信じていいですかっ。私が目を爛々と輝かせたのが分かったのだろう。紅緋さんは口元に指の先で隠して、くすりと笑った。
「僕の使用人と一緒に逃亡しているあなたの弟は、そうはいきませんけど」
「デスヨネ!」
力強く頷く。そしてやった! どうやって聞き出したものかと思っていた、黎と東子ちゃん情報ゲット!!
「それを踏まえてお聞きします。
義姉上。
あなたの、本当の目的は……なんですか?」
薄暗い室内で、赤い瞳に燐光が灯る。綺麗だなあと悠長なことは言ってられないんだけど、綺麗だ。
私の目的。目的、かあ。
「父を、母を、弟を……家族を、守ることです」
それから。大きく息を吸う。心臓が、ドキドキしている。手に汗が、滲む。
「世界を、守ることです」
赤い瞳が、大きく見開かれる。私は、懐から勾玉の欠片を取り出して、真正面から紅緋さんを見据えた。
「紅緋さんの持っている勾玉と、私の持っている勾玉の欠片で、
あなたのお兄さんを助ける。
それで私は、世界を守りたい。……そう、思っています」
「――ああ、確かに。その方法も、あったんですね。
身体と、心……。その欠片から兄上の気配がしていたから、もしかしてとは思っていたけど」
ぼうっと夢見るような表情で、紅緋さんが勾玉の欠片を見つめる。これは、うまくいってるのかな? いってないと困る。私は切り札を切ってしまった。あんな大騒動を起こしてしまった黎と東子ちゃんを無事に連れ戻し、世界も守る方法なんて私の頭ではこれしか考えられない。
兄を取引材料にして、弟と世界の一挙両得。……我ながら下衆だね、私!
「義姉上は、思ったよりいろいろ知ってるんですね。なかなかの役者ぶりで、すっかり騙されましたよ。
でも、そっかぁ……ふふ」
「もし、紅花さんになにかあったら紅緋さんが守ってあげればいいんじゃないですか?
私も、微力ながら、手伝いますしっ」
「うーん、そうですか……ふふっ。それも、いいですね」
そう言って、紅緋さんはちょっとだけ笑った。最初の頃の面白がっている笑い方とも、私への大笑いとも、含むような笑い方とも違う。
困ったような、はにかむような。そんな笑い方だった。
「あの、だったら……」
「だけど、僕ね」
紅緋さんがそっと自分の胸の上に手を当てる。さす。さす。何度か胸元を擦って、紅緋さんはふんわりと笑った。
「兄上の勾玉…… たべちゃったんですよ。
あれは勾玉という形はあるけど、力の塊だから……もう僕の力の一部に、なっちゃったんだよね」
ごめんね、義姉上。
そう言って紅緋さんは小首を傾げた。




