間話「信じるもの」
「桧皮は、どんなことがあろうとも山吹の方々をお助けしなければならない」
ようやく正座をできるようになった三歳の娘に、桧皮家当主である父は、厳めしい顔つきのまま続けた。
「何故だか分かるか、砂姫」
「……や、山吹のかたがたに、ごおんが、あるからですわっ」
砂姫は、笑うということを考えたこともなさそうな父親を、青い瞳で必死に見上げながら言った。それこそ生まれてきた時から、砂姫は懇々と「山吹家への御恩」の話を聞かされてきた。恩という言葉の意味はいまだ分かっていないけれど、父がこの厳めしい顔のまま何度も言うのだから、きっと大切なものなのだろう。
大切なものは、大事にしないと。
けれど、砂姫の予想を裏切って、父はもう一度聞いた。
「では、山吹の方がお前に居なくなれと言われたらどうする」
「……あの、ええと」
「そなたの母や父を、斬るようにいったらどうする?」
「お、おとうさま……なにいっているのか、わ、わかりません……っ」
俯いて、青い瞳に涙を溜めた小さな娘に、父親は口を真一文字に結んでから、しかしはっきりとした声で言った。
「そう言われても、……従うのだ。
砂姫、なぜだかわかるか?」
砂姫はすぐに答えられず、強く唇を噛みしめた。
どうして父はこんなことをいきなり言うのだろう? あの優しい方が、砂姫に居なくなれと言い、あまつさえ両親を斬れ……などというはずがないのに。
――でも、おとうさまは、むだなことを言わない。
ならば、一見非道で、現実見のない言葉でも意味があるのだ。けれど、いくら考えても、砂姫の頭は父の望んでいる答えを出せそうにない。
一分、二分が過ぎ……十分。その待つには短くない間、父はじっと砂姫の答えを待っていた。いっそ答えを急かしてくれるのならば、わかりませんと素直に言えただろう。けれど、静まり返った室内に響く時計の音は砂姫の答えを急かす。
「ごおんの、ため……ですか……?」
結局、最初の答えと同じものを返した娘に、父親は怒りも、失望した顔も見せなかった。ただ、彼も最初と同じく厳めしい顔つきだ。
「砂姫。それが、我らの役目だからだ。
いついかなるときも、例えどんなことであろうと……山吹の方々の助けになる。
それが、黄の山吹が傘下、黄の桧皮の務め」
砂姫は分からないいくつかの単語が、すらすらと出てくる。それでも必死に飲み込もうと、目と耳を最大限に働かせ父の言葉を聞きとる。
分からないことは後で調べる。砂姫は、父に分からないと質問することはほんとんどなかった。
そんな娘を、淋しさを含んだ鬱金の瞳で見やっていた父は、娘が自分の言葉をしっかりと覚えきった後に、また口を開いた。
「だが、「どうして役目を果たすのか」という理由は、自分で見つけなくてはいけない。
恩でもいい、役目だからでもいい、理由などないでも構わない。ただ、必ず見つけなさい。――お前だけの、理由を」
そう言って、父が少しだけ厳めしい顔つきを崩した気がした。ずっと寄っていた眉がほぐれ、眉間の皺が緩んで、口元に……かすかに笑みが浮かんでいる気がする。
でも、かすかな緩みはすぐに消えて、いつものように父は砂姫に「山吹から桧皮が受けた御恩の数々」を語り出した。
父の言葉は、長い間、砂姫にはよくわからないものだった。
なぜなら、山吹の方々を助けるという役目は、「理由」などなくてもできるものだからだ。
今も、いつも砂姫を見ればきゃんきゃんと吠える山吹家の長女・小麦を池から引っ張りだし、その間に使用人に風呂を沸かし、着替えを用意してくるように手配したところであった。
「なによ……なんで、みんなあたしじゃなくてアンタの言うこと聞くのよ……っ」
濡れそぼった体を抱きしめて、小麦がぶるぶると震える。まだ暖かい日もあるが、例年だとそろそろ雪がちらつき始める頃だ。おそらく小麦は相当寒いのだろう。けれど、小麦は真っ青な唇を噛みしめて、ミニタオルを差しだした砂姫の手を叩いた。弾みでタオルが地面に落ちて、なぜだか小麦が、まるで自分が叩かれたかのようにびくっと震えた。
「山吹様、それはわたしの指示に従うことが、山吹様の為になると、みなさんお思いになったからですわ」
「ふ、ふんっ……! なによ! なによ! 山吹様、山吹様って……あ、あたしのことなんて、ちっとも、心配、なんか、してないくせに……!」
小麦の体の震えが、ますます酷くなる。早く体を温めなければ、いくら色持ちの山吹の鬼とはいえ、命に関わるかもしれない。
「山吹様、」
「やめてよっ! お兄様、おにいさまぁ!」
「――小麦!」
その時、屋敷の方から聞こえてきた声は、常とはまるで違った。いつも涼しげで優しい声が、驚き、焦れて、苦しそうに名前を呼ぶ。声の主は、あっという間に濡れ縁から駆け下りて、濡れ鼠の妹をためらいなく抱きしめた。
「小麦、どうしたの。こんなに濡れて、いやその前に体を温めないと、」
「おにいさま、おにいさま……!!」
小麦が、安心したようにぎゅうっと兄である朽葉に抱きつく。しかしそれは兄も濡れ鼠にしてしまう所業だと途中で気付いたのか、慌ててパッと両手を離した妹を、兄は大丈夫だよと耳元でささやいて抱きしめた。
その光景に、息が止まる。山吹家の長女・小麦は、毎日のように大なり小なり問題を起こす。それは、小麦の遊び相手として毎日のように山吹邸を訪れている砂姫が、解決できるような小さなことから、今回のように砂姫が気付いた時には、小麦が足を滑らせて池に落ちていた……ということまで様々だ。
――先に助けに来たのはわたしなのに。
いつも、いつも。トラブルを起こす小麦を助けていた。出会ってすぐのうちは、小麦は素っ気なくも礼を言ってくれたように思う。だが、いつの頃からか、小麦は砂姫の手を拒むようになり、追い詰められた時は兄である朽葉を呼ぶようになった。
どうしてなのか分からなかった。兄妹は仲が良かったから、やはり兄に助けてもらいたいのだろうと当たり前のように考えていた。
けれど違う。砂姫は二人と立っている「場所」が違ったのだ。
例えるのなら、二人が居る場所は坂の下だ。砂姫は、坂の上から、坂の下で困っている小麦に、ごろごろと必要な物資を転がしていたに過ぎない。
だけど、朽葉は坂を駆け下りて、小麦の元に行った。
「桧皮様、風呂と着替えの用意が整ったのですが……」
「え、ええ。申し訳ないのだけれど、追加で、朽葉様の御着替えも用意して頂戴」
「承知しました」
使用人と砂姫の会話に気づいたのだろう。朽葉が、少し離れた位置に居る砂姫と使用人を見る。一瞬、探るように細められた金の目は、けれどすぐに柔らかく細められ……。
「ありがとうございます、桧皮さん」
と、山吹朽葉は、いつものように優しく、柔らかく言った。
それから少しだけ、砂姫は小麦との接し方を変えた。小麦が困っていたら、問題の解決は後回しにして、まず何を於いても駆けつける。抱きしめることはできないけれど、小麦の口からちゃんと事の理由を聞くようにした。そして普段から、小麦のことを苗字ではなく名前で呼んだ。「こ、小麦様」と初めて呼んだ時は、目を丸くするだけだった小麦も、呼び続けているうちに慣れたようで、「なによ?」とつんっと返事をしてくれるようになった。
最初のうちは、餌の中身を疑う猫のように訝しげだった小麦も、少しずつ、砂姫を頼ってくれるようになった。そうすると不思議なことに、もっと小麦を助けたい、役に立ちたい……と砂姫が思うのだ。
小麦の髪を梳りながら、砂姫は鏡台の鏡の中に居る少女の顔をそうっと窺う。小麦は、髪を梳かれると眠くなってしまうようで、今日も案の定、こっくりこっくりと舟を漕ぎかけていたのだが、ふいにぱちっと金色の目を開けて、鏡の中を見てきょとんとした。
「どうしたの、砂姫。不思議そうな顔をしちゃって」
「すこし、感慨にふけっておりましたの」
「へぇ……。なんかかっこいいわね、その言い方。こんど、お兄様に使って貰おっと」
楽しい想像を膨らませた少女が、足をブラブラ揺らして、ふんふんと軽やかな鼻歌を歌う。砂姫もちょっぴり以上に興味があったので、「どんな風だったか教えてくださいませ」と頼んでみると、小麦はにんまりと口元を緩めた。
「いいわよ。でも、砂姫だけだからね。特別なんだからっ」
スキップをするように軽やかに、でも、その言葉には彼女の大切なものをたくさん込められている。小麦と出会って、約十年。家族を除けば、もっとも長い時間を過ごした少女のくれた言葉に、砂姫の口元は、ゆるゆると笑みを描いた。
――大切なものは、大事にしないと。
幼い頃、そう自分に言ってくれたのは、誰だっただろう?
母だったかもしれないし、祖父だったかもしれない。可能性は低いが、父という選択肢もある。
この言葉を聞いた時は、絶対に忘れないようにしようと掌を握りしめて、何度も心の中で唱えた。その甲斐あってか、十六歳の今でも思い出すという行程を経ずとも、自然に砂姫の心へ浮かんでくる。でも、今になって後悔がちらりと顔を出すのだ。どうせなら、この言葉をくれた人のことも、覚えておきたかった。――その人もきっと、砂姫に大切なものをくれた人だろうから。
今はその後悔を奥に仕舞い、砂姫は記憶の中の厳めしい顔の父に向かって、語りかけた。
――お父様。わたしは、山吹の方々を必ずお助けしてみせます。……それは、わたしが、そうしたいから。
櫛を鏡台の上に置く。ことんと軽い音が耳朶を柔らかく打ち、砂姫は慣れた手つきで、ゴムで小麦の髪をツインテールにした。左右対称に整ったツインテールを、砂姫が(今日もいい出来栄えですわ)と自画自賛していると、鏡の向こうの主は、口をへの字に曲げている。
「小麦様?」
「ねえ、砂姫。明日から、砂姫とお兄様は高等部なのよね? 高等部って、別の敷地で、とても遠いのよね……」
「ええ、そうですね。離れてしまいますわね」
紅緋学園には、小等部、中等部、高等部がある。小等部、中等部までは同じ敷地内に校舎があり、体育館や実習教室など、共同で利用する機会も多い。けれど、高等部になると完全に別の敷地なのだ。おまけに高等部は全寮制で、理事長の許可が無くては、いくら山吹の御令嬢とはいえやすやすと中に入れない。
きっと寂しいのだろう……そう思って、慰めの言葉を書けようとした砂姫だったが、砂姫の推測に反して、小麦は据わった目で自分の従者を見た。
「お兄様に、近づく女が居たら砂姫が確かめて」
「はい?」
「あたしが居なくなったら、ぜったい、ぜーったい!お兄様に近づく女狐が居るに決まっているもの! ううん、女狐じゃなくてもお兄様は女の子に優しいから、カンチガイしちゃう子がいると思う! だからっ」
ぐりん!と芸術作品のごときツインテールが動き、砂姫のお腹をばしばしと叩いた。
「砂姫、お願い! 一生のおねがい~~~っ」
兄と同じ金の目が、うるうると潤んで砂姫を見上げる。砂姫は、「もちろんです」と答えてから、青い瞳と舌に親しみといたずらっ気を乗せた。
「でも、小麦様。一生のお願い、先月も聞いた気がいたしますわ」
「……小麦はまだ中学生だから、一月に一度は使っていいのっ」




