閑話「緑の青」
鬼というのは、誇り高い一族だ。
人と似て非なるもの。
人に寄り添いながらも、決して同じではないもの。
厳格な祖父は、幼い頃から縹に言い続けた。
驕ってはいけない。人より優れていると。
妬んではいけない。人の自由さを。
そして、怠ってはいけない。
人と、わかりあう術を模索することを。
「……ふう」
生徒会室に最後まで残っていた縹は明かりを消し、生徒会室の鍵を閉めた。
今日も一日が終わった。二年と少し繰り返してきた動作を終えて、縹はまっすぐに職員室に向かった。
夕暮れ時を過ぎた校舎は、廊下の明かりがついているとはいえ薄暗く、体育館の方向からは、熱心な部活の活気にあふれた声が聞こえてくる。――ありふれた毎日だ、と思う。
「三年の新橋です。生徒会室の鍵を返却にきました」
そう断ってから入って縹はぐるりと室内を見回した。壮年の教師が一人。そして案の定、彼も残っていた。縹が入学したのと同時に入ってきた若い男性の教師は、縹の祖父がごり押しして学園に入れた「人間」の教師である。
祖父から頼まれたことでもあるが、縹自身もこれまで「鬼」の教師しか居なかった中に、とうとつに放り込まれた若い人間の教師が気になっていた。熱心に机に向かう教師の側に、縹はそっと歩み寄り、教師の手が止まったタイミングで話しかけた。
「羽鳥先生、お疲れさまです」
縹の言葉に羽鳥がぱちくりと瞬いた後、縹の方を見て目を丸くした。
「新橋くんは相変わらず、気配を消すのがうまいね」
「……そうですか?」
「うん。あ、気に障ったならごめんね。新橋くんもお疲れ様」
羽鳥が眉をさげてへにゃりと笑う。縹は瞬いた。今まで生きてきた中で逆のことは言われたことがあっても、「気配が薄い」と言われたことはない。けれど、そういえばこの間人間の少女にも驚かれたな、と思いだし、縹は一つ頷いた。目の前の羽鳥は、ぽりぽりと頬を掻く。
「いやあ、もうすぐ体育祭だから、生徒会も大変だね」
「生徒会役員たちががんばってくれていますから、自分は楽をさせてもらっています」
「またまた。
一番早くに来て、一番遅くに帰る。なかなかできることじゃないよ」
微笑む教師に新橋もつられて小さく笑った。この教師も笑顔が増えたと思う。
赴任したての頃は、廊下を歩く時でも、椅子に座るときでもガチガチで、職員室の雰囲気に慣れないんだ、と自分よりだいぶ年下の縹に泣き出しそうな顔で言っていたのに。
「結野先生もそう思いますよねー」
もう一人残っていた壮年の教師に、羽鳥は明るく声をかけた。かけられた結野は、顔を上げて縹と羽鳥を見る。
「……まあな。
ほら、羽鳥。無駄口たたいてる暇があったら、とっとと終わらせて帰れ」
「はーい」
「返事は短く」
「はいっ」
まるで生徒と教師。いや、祖父と孫のようなやりとりである。
――この結野も、黄の山吹に連なる鬼の一族で、人間の羽鳥が紅緋学園の教師になることに当初は真っ向から反対していた。
だけど、羽鳥にほだされて、いや危なっかしい彼をお人好しである結野が放っておけなくて――といったところだろうか、今ではこんな感じである。
「結野先生、羽鳥先生、そろそろ、失礼します」
「あ、うん。気をつけてねー」
「ああ」
二人の教師にしっかりと頭を下げて、縹は歩きだした。
廊下は明るい職員室とは違い程良く暗かった。しかし、やや疲れはあるものの縹の心は軽かった。
羽鳥がなじんでいる様を見る度に実感する。――人と、鬼は分かりあうことができるのだ。祖父の言っていたことに、間違いはないのだと。
寮への道を歩いているとき、ふと縹は体育館を見た。体育館はまだ明りがついており、それが縹の記憶を刺激した。
そういえばと思い出した。そういえば、入学式からすぐの日。あの後ろで、うずくまっている女子生徒が居た。顔は見えなかったけれど、人間だと言うことはわかった。それから、おそらく一年生で――彼女は元気になっただろうか。
体育館から目をそらし、縹は再び寮を目指して歩きだした。
――元気になっているといい。
寮につく頃には、さっぱりと忘れてしまっていたが、縹はそう思った。