間話「赤み帯びる黄」
――ずっと昔から、言い聞かせられてきたことがある。
「……はい、ありがとう」
山吹朽葉はにっこりして女子生徒からプリントの山を受け取った。
もうすぐ体育祭。その体育祭プログラムの各組の草稿を受け取るのが、朽葉の今の役目だ。――もっとも、こういうのは生徒会の仕事であるのだが、教師に頼まれてしまったら優等生で通っている朽葉は引き受けるしかない。
「あ、あの、それじゃあ、失礼しますっ」
「うん、またよろしくね」
朽葉は気前よく手を振って彼女を見送った。まじめそうな可愛い子だった。
ああいう子はあまり付き合ったことがない。だから少しの興味はあるが、まじめで純情可憐な人間の女子生徒を弄ぶ気はない。面白そうではあるが、人間相手はいろいろと面倒だ。プリントの概要をざっと確認してチェックシートに書き込む。
「……」
朽葉はぐるりとボールペンを回した。
放課後の生徒会室は静かだ。主たる生徒会長は、職員室に呼び出されて不在。
副会長は体育祭実行委員たちと打ち合わせで、書記や会計はいまだに姿を見せない。
――やる気がないのは困るなあ。
朽葉は、もう一回ペンを回した。
もっとも新橋会長が生徒会室に居るときには、書記や会計の姿も見るから、もしかしたら彼女たちは、彼の取り巻きもしくは追っかけなのかもしれない。
生真面目そうな生徒会長の顔を思い出し、朽葉は小さく笑った。きっとこのことを知ったら、新橋会長は怒るだろうに。
そして、遠からず、彼は知ることになるだろうに。ああ、まったく――つまらない、な。
なにか面白いことと考えかけて、その行為自体に飽き飽きする。
「……はあ」
目を伏せて、小さく息を吐いたその時、生徒会室の扉が開いた。ちらりと見えた黒と青に、朽葉は笑顔になった。――入ってきたのは、新橋生徒会長。彼は生徒会室の椅子に座って、プリントの山と向かう朽葉の姿に瞬いた。
「一年の山吹くんか?」
「はい。会長、各組のプログラムの草稿、集めておきました」
立ち上がってプリントを指す。縹は、それだけですべてを察したのか苦い顔になった。
「すまない、ありがとう」
「いいえ、お役に立てたのなら幸いです」
「ああ」
縹はそっけなく聞こえる声で頷いて、足早に朽葉の側までくると、朽葉のまとめたプリントにざっと目を通した。
「いい仕事だ」
「……いえ、まだまだです」
「そんなことはない。見やすいように学年ごとに分けられているし、
一度、書類の内容を見てくれたんだろう?
問題がありそうなプリントがより分けられている」
ざっと見ただけで分かるらしい。表情を柔らかくした縹に、朽葉は微笑んだ。
「ほんとに大したことはしてないですよ。でも先輩にそう言っていただけるなんて光栄です。……それじゃあ、僕はこれで」
「ああ、助かった。……来年の生徒会は、君がきてくれれば安泰だな」
縹は柔らかい笑みを浮かべた。青い瞳に映るのは、「人が面倒だと思う仕事でもしっかりとやる」優等生への信頼だ。朽葉は控えめに目を伏せ、「ありがとうございます」と謙虚に微笑み、生徒会室を後にした。
今回の件で、新橋の朽葉に対する評価はあがっただろう。
前生徒会長からの後押しは、一年で生徒会入りを目指すなら、紅緋においては必須と言える。それが、青の新橋からのなら尚更だ。
誰も居ない廊下で、朽葉は小さく笑った。
「……うまくいったな」
額に手を当てて、ほんのすこしだけ安堵の混じった息をつく。四月から、じわじわと生徒会役員に近づいていたが、なかなかの難攻不落の要塞だった。
副会長は、清廉潔白な新橋会長に心酔していて、毛色の違う――中等部時から女関係が派手な朽葉を毛嫌いしていた。書記と会計も多かれ少なかれ、会長に惚れ込んでおり――
……朽葉は、金の眼を閉じて密やかに笑った。
魅了は何も、永続的にかければいいというものではない。
そして何も、自分への好意を掻き立てるものに利用するだけではない。
「……うまくいってよかった」
さっきとは少しだけ違う言葉をつぶやいた後、放課後から鳴りっぱなしの携帯電話を手に取る。画面を確認してから、朽葉は屋上への階段を上った。三階の生徒会室から、屋上へは五分もかからない。屋上への扉を開いて、辺りに誰もいないことを確認してから、朽葉は通話ボタンを押した。
「――母さん、うん。ごめんね」
「ああ、大丈夫。いまのところ全部、うまくいってるから」
「心配しないで。僕は山吹の一族」
「大丈夫だよ……蘇芳には負けないから」
ぼそぼそとした、ヒステリックな声に、彼女の望む言葉をかけ続ける。
ほんとうね、
ほんとうね
勝つの。負けちゃだめ。だめよ。
繰り返される異常な言葉に、山吹朽葉は笑って答える。
朽葉の母は狂っている。なにがあったかは知らないが、とにかく狂っている。そんな母を朽葉は可哀相だと思うので、言うことを聞いてあげていた。生徒会長になれと言われればそのための根回しをし、蘇芳に成績で負けるなと言われれば、その通りになるように努力してきた。
「大丈夫、僕は勝つよ」
それだけ言って、朽葉は通話を切る。またすぐに母親からの電話がかかってきたが、朽葉は手慣れた様子で携帯電話の電源を落とした。