第二話 第一の殺人
これを見ても、ピンと来るものはない。確かに、部分部分では理解できるところもあるのだが、全部がわかったわけではないのだ。
俺は頭を掻いた。
「う~ん、何かわかるかと思ったけど、よくわかんねえや」
「おいおいしっかりしてくれよ。これじゃあ何のためにお前を呼んだんだか、わかんねえじゃねえか」
「そうは言われてもなあ」
困り果てて、うんうん唸っていると、背後から突然
「よお、英介じゃねえか」
と声がした。
振り返ってみると、いつの間にか長身痩躯な男がそこに立っていた。
「竜雄兄さん。久しぶりだね」
「葬儀の時は丁度、海外出張中だったからね。ようやく一段落ついて、急いで戻ってきたんだよ。それで、彼は?」
「ああ、大学の友達の末田くんだよ。暗号の謎を解いてもらおうと思って連れてきたんだ」
「そういう事か。僕は英介の兄の竜雄。よろしく」
竜雄は俺に手を差し伸べた。意図を察してその手を握ると、腕の力はその身体つきよりよっぽどがっしりとして、力強かった。
竜雄は俺と挨拶を交わすと、英介に向き直った。
「そういや、お前はこういうの苦手そうだもんな」
「兄さんはもう読んだの?」
「実を言うとな、もう解けちまったんだよ。この謎」
意地悪そうな笑みを浮かべる竜雄。俺と英介はぽかんと口を開いたまま、暫く呆けたように一言も発せなかった。
「おいおい、謎が解けたって? ほんとかよ?」
その静寂を打ち破って、無精ひげを生やした、いかつい中年男が突然部屋に入ってきた。
「ああ、嘘じゃないさ。ひょっこりでてきたところ、申し訳ないがね。まあ、勘当されて、今の今まで顔も見せなかった誰かさんには、関係ない話だと思うけど」
「あんだと、てめえ」
凄みのある声で、男は竜雄を威嚇する。背は彼よりも幾分か低いが、服の上から見ても鍛えられた身体であることははっきりとわかる。
二人の間にぴりぴりとした緊張が走り、窓も全開の部屋だというのに空気が重苦しく、こうしたいざこざには関わりたくない部外者の俺としては、今にもそこから逃げ出したくなった。
しかし、竜雄は引こうとしない。これでもかと蔑んだ目を男に注いでいる。更には英介までもが、竜雄に加勢して男を睨み付けるので、流石に分が悪いと思ったのか、
「まあいいさ。大金を手に入れるのは俺なんだからな」
とやけに自信満々に捨て台詞を吐いて、男は部屋を出ていった。
「あの人が、さっき言ってた勘当された息子?」
俺はまだ近くに彼がいるかもしれないと、無意識に小声になっていた。
英介は男のほうをなおも睨みながら、苛立った口調で言った。
「ああ、節田春彦。苗字も違うし、本当に今まで一度も顔を合わせたこともないくらい、疎遠になっていたのに、葬儀の日に突然現れて、俺にも相続する権利があるって」
「法律上は、勘当された血縁者にも相続する権利はあるんだよ。勿論、遺言状に相続しない旨が明記されてあれば話は別なんだが、お前のお祖父さんは知ってか知らずか、それを遺してはいなかったようだからね」
「へえ、詳しいね、君」
竜雄は感心したように頷いた。
「彼はこういう妙なことには詳しいんだ」
「妙で悪かったな」
俺は英介に嫌味たらしくそう言った。
「それはともかく、正直、どうしてあの抜け目のない祖父が、あの人に相続する余地を与えたのかは疑問だね。祖父にとっては一応は息子なんだろうが、こっちとしては、見も知らない人間がいきなりやってきて、うちの財産を持っていこうとしているようにしか見えないから、当然気分のいいもんじゃない」
竜雄は急に難しい顔つきになって、腕を組んだ。
金の集まるところ、人の様々な感情が渦巻く。互いの思惑が交錯し、軋轢を生んで、諍いが起こる。人間の醜さをこれでもかと集合させたようなものだ。
俺はこの時初めて、自分の家が金持ちじゃなくてよかったと思った。
「ところで兄さん。本当に解いたの?」
話を元に戻そうと、英介が尋ねる。竜雄もそれで厳しい顔つきが若干緩んだ。
「ああ、割と単純な暗号だったよ」
「教えてくんない?」
「いやあ、実の弟とは言えそりゃ無理だね。まだ確かめには行ってないんだ。先を越されたらたまったもんじゃないからね」
「ちぇ」
英介は口を尖らせ、俺を責めるように横目で睨み付けた。俺は肩を竦めて、視線を逸らした。
*
その日の夜、寝間着は英介のものを借りて、部屋に敷かれた布団の上で、遺言状の謎を考えていた。
しかし、既に竜雄にその謎は解かれてしまっている。今頃彼は、隠された宝を探しに行っているところだろう。
考えても考えても、そのことばかりが頭に浮かんで、なかなか集中できなかった。
そうは言っても、おおよその見当はついた。やはりシンプルな換字式暗号だ。
しかし……。これは調べてみないとわかりそうにない。
俺は横になった状態で、スマホを弄り始めたのだが、結局疲れもあってか、そのまま眠り込んでしまい、光子に起こされた時には、すっかり朝日が一帯を照らしていた。
「ああ、松下さん。どうも、おはようございます」
「それどころではありません。大変なんですよ」
寝ぼけてピントの合わない目で、必死に彼女の顔を見てみると、どうやらかなり切羽詰っている状態のようで、その息は乱れて顔も火照っている。走ってここまでやってきたようだ。
「一体どうかしたんですか?」
身体を起こしながら訊く。すると彼女は、何度も声を詰まらせながら、必死の思いでこう言った。
「た、竜雄様が、亡くなったんです」
俺は一瞬間、彼女の言葉を理解できず、もう一度聞き直した。しかし、彼女は同じことを繰り返すばかり。他のことを話す時間的余裕も、精神的余裕もないようだった。
「とにかく、急いでこちらに来てください」
有無を言わさず、俺を引っ張って連れていった先は、家の裏側にある山の中だった。鬱蒼とした木々のお陰で、日差しは葉の隙間から零れてくるだけだ。
「どこまで行くんですか?」
道なき道を、迷うことなく進む光子。
やっと目が覚めてきて、頭の靄も晴れてすっきりとしてきた。だいぶ家から離れたところまで来たような気がする。
「あそこです」
彼女は唐突に指を差した。その先に、既に起きてやってきていた、英介と春彦、そしてもう一人、見知らぬ男が立っていた。恐らくは彼が長男の一也だろう。
寝間着姿でいるのは俺だけで、気恥ずかしい気分になりつつ、
「竜雄さんはどこに?」
とその間に入っていく。
「あそこ」
英介が指差した先は、丁度谷になっていて、まだ暗いその底のほうに、見覚えのある服を着た男が倒れていた。
松下が言っていた通り、それは昨日見た格好のままの竜雄であった。
彼は倒れこんだまま、ピクリとも動く気配がない。さらに、近くの岩には、黒いしみのようなものがべっとりと付いている。
血だ。
近くに降りて確かめるまでもなく、死んでいるのは、ほぼ明らかだった。
「警察に連絡はしたんですか?」
「もうとっくにしたよ。今ここに向かってるところだ。全く、ツイてねえよな」
吐き捨てるようにして、春彦が竜雄を見下ろした。
「事故……ですか?」
誰にともなく尋ねると、光子が否定した。
「それはないと思います。竜雄様は、それは注意深い人で、常に慎重でいらっしゃいました。そんな方が、それも昔からよく知っているこの場所で、誤って足を滑らせて落ちるなんて、考えられません」
「松下さんの言う通りだ」
彼女に付け足したのは、英介だった。
「ここにはそこにも立て看板があるし、目印になるような祠が近くにもある。谷に気が付かないはずもない」
辺りを見回すと、確かにそこかしこに立て看板が設置されており、朽ち果ててボロボロになった祠もあった。
「つまり……、あんたらの言う事が正しければ、これは殺人だってことだな」
意地悪げに春彦が言うと、その場の空気は緊迫し、俺たちは互いにちらちらと目を見合わせて、相手の反応を窺うようにして押し黙っていた。