冬の一日
アラジンのストーブに乗せられた薬缶から、湯気が立つ。
寒い時期に訪れる客は、一様にその前で足を温めながらオーダーを告げる。
「ミルクティーと、何か」
睦美ちゃんが笑いながらメニューを差し出すのを、カウンターに座って見ていた。
本当は時々、一緒に映画に行ったり食事に出たりしたいと思う。
たまに取る有休や振り休は、「ハーモニー」の定休日に合わせるんだけれど、二人でパジャマのままゴロゴロして、DVD見ながらピザ齧って、なんていう休日も欲しいわけさ。
でも、それを言ったら生真面目な睦美ちゃんは悩む。
睦美ちゃんが頑張ってる以上、俺はそれを応援するしかない。
俺が一緒にいたかったのは、そういう人だから。
土曜日の午後早い時間、毎週のように訪れる年配の夫婦は、奥さんが車椅子だ。
「まったく歩けないわけでもないんだけどね、ここまではちょっと難しくて」
サンドウィッチを一皿分け合って、ゆっくり紅茶を飲んで、公園経由で帰るらしい。
年季が入ってあちこち角が取れて、「夫婦」の部分だけが残ってる、そんな感じ。
いいね、ああいうの。
窓際に座って公園を眺める夫婦のオーダーを取る。
「今日は、ケーキをもらおうかしら。この人の誕生日だから」
奥さんが晴れやかに笑う。
「おめでとうございます。おいくつなんですか?」
「七十七。喜寿だよ、もう」
「見えませんね。ふたりともお若いし、仲が良くて羨ましいです」
「子供がいないからね。そっちの苦労がなかったから」
旦那さんがさらりと言い、奥さんが頷く。
「私たちはお互いしか頼るものがないの。だから、仲違いなんかできないのよ」
「高度成長期の人たちだからね、奥さんは寂しかったって言ってたわ。子供もいなくて、旦那さんは忙しくて」
カップを棚に納めながら、睦美ちゃんが言う。
「若い時に楽しめなかった結婚生活を、今やり直してるんだって言ってた」
睦美ちゃんがカウンター越しに見ているのは、公園の冬木立だ。
春になれば、丈の低いレンギョウやユキヤナギが咲く道は、今は枯れたように見える細い枝。
「これで早死にしてたら奥さんに申し訳なくて、あの世で頭が上がんない、なんて言ってた。優しい旦那さんだな。いいね、ああいう年配の夫婦」
俺も、今日旦那さんに聞いた科白をそのまま伝える。
お客の噂話でも、共通の話題を持てることが嬉しい。
「私も今死んだら、あの世で誠司君に頭が上がんないな。私だけが自分の好きなことしてて」
睦美ちゃんは上目遣いに笑いながら、そんなことを言う。
不満を言い当てられたみたいで、ぎくっとする。
口に出さなくても、俺が内心で望んでいる「休日は俺だけの睦美ちゃん」ができないことを、一番気に病んでいるのは睦美ちゃん本人だ。
外に風が出てきたみたいだ。こんなに寒くては、公園を散歩する人はいない。
だけど営業中の札が出ている限り、店の中にいるのは「ハーモニーの睦美さん」だ。
「桜の季節になる前に、休みを合わせて温泉にでも行こうか?」
「週末、休めるの?」
「私がオーナーだもん。陽気が良くなってお客さんが多くなるとちょっと無理だけど」
夕方の客の引いた店の中、早仕舞いの準備をして睦美ちゃんはカーテンを引く。
ガラス越しの風の音が聞こえる。
「せっかく一緒に暮らしてて、あの人との生活は寂しいだけだった、なんて思われたら困るもの、ね」
一緒にいたくて、あれこれ画策したのは俺だ。そうなると今度は別の物が欲しくなる。
人間の欲って言うのは、どうしようもない。
「看板、もう仕舞うから」
外に出て振り返った冬木立の中に、強い風が吹く。
あんな日も、いつか来るのかも知れない。
火を落とした店の中で待つ、睦美ちゃんを見る。
今死んだら、あの世で頭が上がらないのはやっぱり俺だ。
大事にしてもらってるのに、店の掃除をするくらいしかできないんだから。
せめて睦美ちゃんが強い風の中に立った時には、根元の風除けくらいにはなろう。
そうすれば春に花が咲いた時に、一番にその花を見ることができるだろ。
「温泉、どこに行こうか」
睦美ちゃんに声をかけて、店の中に戻る。
俺に気を遣って休みを取ってくれるんなら、それを楽しいものにするのは俺の役割だから。
客が薄い時期に、一日だけ睦美ちゃんを借ります。
店に引っ込めた「『cafe Harmony』 OPEN」の看板に、頭を下げてみた。
睦美ちゃんから俺がもらっている物ほど、俺から睦美ちゃんに渡せる物があるのかどうか、未だに自信がない。
年季が入って角が取れる頃、俺たちは「いいね、ああいうの」って見てもらえる夫婦になってるだろうか?
これからまだまだ長いことかけて、ふたりで作っていく物が満足のいくものでありますように。
店の灯を落として、居住区に戻る。
まだ一年にも満たない生活、これからも続く。
fin.